閑話休題 「ゾルタンの白いナイフ」

目次

  第1章 白いナイフ

  第2章 旅立ち

  第3章 ユーゲントヘルベルゲホーン

  第4章 ゾルタンとの出会い

  第5章 ヲインでの別れ

  第6章 冷たい風

  第7章 泥の中の夢

  第8章 たった独りの反乱

  第9章 鵺にはならず

  第10章 再会

  第11章 譲れない一線

  第12章 バージニアの白い家

 

第1章 白いナイフ

「もう何度も言ってるようにユースホステル内は禁煙ですよ。タバコを吸いたいなら外に行って吸ってください。これ以上ここでタバコを吸うなら、今夜の宿泊はお断りします」
 私はレセプションカウンターから、ホールのはじで、時々品のないカン高い笑い声を出しながらたむろしている三人のヒッピー風の男逢に、いらいらしながら何度目かの注意をした。「Dam shit.(くそくらえ)」と一人が言うと、残りの二人が何がおかしいのかと思うほど身をよじって笑いこけ、私の注意などまさに「くそくらえ」と無視してタバコを吸い続けた。
 今夜は、このユースホステルの責任者であるライトナー夫妻は不在であり、トルコから働きに来ているベテランのオーネンに管理がまかされ、新米の私は彼の補佐役であった。生憎オーネンは別棟の見回りに出ている。
 すでに消灯の時間が過ぎていたので、「さ一みんなおやすみだよ」と言ってホールの明りのスイッチを切った。すると彼らはなにか悪態をつきながら出入り口近くにある非常灯をつけた。カットなった私は、カウンターを飛び出ると、「get out here.(ここから出て行け)」と怒鳴りながら、彼らを押し退けて非常灯のスイッチを切ろうとした。「SOB.(こんちくしょうめ)」と言って、一人が私の手を押え揉み合いになった。と同時に私の体が宙に浮いた。もう一人の2メートルもあるバイキングの末裔のようなヒッピーが、後ろから私を羽交締めにしたのである。思わずドイツ語で「はなせこのやろう」と怒鳴りながら足をバタバタさせ身を振り解こうともがいた。私と揉み合ったヒッピーが、四つんばいの姿勢からゆっくりと立ち上がると、 「そんなことやっちゃいけないんだぜ」と言いながら、下品な薄笑いをうかべ、身動きが出来なくなっている私のズボンのベルトに手をかけ、そ
のフックをはずそうとした。
「Hold it.(やめろ)」あたりに立ち込めていた夕闇を切り裂くような突然の鋭い呼び声に、全員が振り返った。非常灯のわずな光の中に、ホールの中央に立ちはだかっているゾルタンの姿が浮かびあがった。ゆっくりと松明をともすように挙げた右手から、カチリと乾いた音が聞こえキラリと光るものが飛び出した。彼のあの白いナイフであった。
 その白い刃物の光よりも、ゾルタン白身から湧き上がってくるような殺気は、昧方であるはずの私の心さえ凍らせるものであった。ヒッピー達も一瞬息を飲み、わずかに羽がい締めの力がゆるんだ。無意識のうちに、私の力まかせの肘鉄が相手の脇腹にあたった。ヒッピーのウッといううなり声と同時に、彼の丸太のような腕を振りほどくと、前のめりにたたらを踏んで彼らから離れ、ゾルタンの足元に倒れ込んだ。
「You must be kidding. (冗談だろう)」 ヒッピーの一人がひきつった声で言った。ゾルタンは無言で目の上にかざすしていた右手のナイフを、ゆくりと体の真中まで下ろすと両手に握りなおし、わずかに膝を曲げ腰を落とした。彼の射るような眼差しは、その明らかな闘いの姿勢が決して冗談ではないことを示していた。瞬きさえためらうほど凍りついた、緊迫した時間が流れた。
 突然ホールの明りがつき、受付のカウンターごしに「そこでなにしてんだ。消灯時間はもう過ぎてるだぞ。」とオーネンのドイツ語なまりの英語の声が聞こえた。丁度、見回りから儒ってきたところであった。その声で、一時停止になっていたビデオの画面が再び動き出すように、ヒッピーの三人はモゾモゾと動きだし、 「お前さんは気違いだよ。ナイフで遊んじゃいけないよ、怪我するからね」と捨て台詞を残してホールを出て行った。ゾルタンはオーネンの声にも振り向かづ、微動だにせず三人の相手を見すえていたが、彼らが出て行ったドアが閉まるのを確認するように、一呼吸おいてゆっくりと中腰の姿勢から立ち上がった。ゾ/レタンが背筋を延ばすような仕草をすると、軽やかなカチリという音と共に、白いナイフはベルトから吊されている革製のケースに消えた。
「ヒロ、気をつけな。じゃまた明日、おやすみ」と言うと、ホーレに備え付けのテーブルの上に敵らばっていたノートや本をまとめ、ゾルタンは何事もなかったように自分の部屋に帰って行った。彼はそこで何か書きものをしていたのであった。
 ゾルタンの後ろ姿が長い廊下の闇の中に消えた後も、ホールの真中に立ち続けている私を見て、オーネンがカウンターから上半身を乗りだし、「ヒロ、どうしたんだい」と声をかけてきた。「いや、なんでもないんだ、もう受付の業務は終ったよね」と意昧のないことを言いながら、薄暗いホールをゆっくりと横切り、明るいオフィスに戻った。ほんの一瞬の間の事であり、血を見たわけでもなく実質的に何かが大きく変わる出来事でもなかった。それなのに、表面は冷静に振舞っているつもりながら、火のように熱いものが胸の中を駆け巡っている。オーネンは私の表情から、何かがあったことを読み取っているのは明らかであったが、部屋に入った私と無言で眼差しを交わすと、何事もなかったようにデスクに広げられている伝票の整理を続けた。長年異国の地を一人で生き抜いてきた彼の生活のポリシーであろう、有難かった。私にはその時、オーネンに話す言葉も心の余裕も見つけることが出来なかったであろう。私達は極く日序的な言葉のやり取りで一日の仕事を終えるとオフイスを出た。ほんの30分前にゾルタンが白いナイフを持って立っていた薄暗いホールの中央で、「おやすみ」と言葉を交わしてて各々の部屋に別れる時、オーネンが私の肩をポンと軽く叩き「熱いシャワーを浴びて、冷たいビールを飲むんだね」
と言った。彼は私に何があったのかは知らないが、長い人生経験から多分役に立つであろう処方せんを教えてくれたのである。
 部屋に戻るとすぐ、彼の処方を試した。それは特効薬ではなかったが、確かに心にワンクッションを置くのに役だった。たった今起こった事なのに、すでにずっと遠い昔の事か、別な世界の事のよう。に思える。全体の流れが途絶え、一コマ毎に静止画面となって脳裏に投射されては消えていく。羽交締めされて宙に浮いている姿、ゾルタンの切り裂くような声、彼の足元に倒れ込む白分、そして薄暗い光に照らし出された白いナイフ。
 何本かのビールでようやく酔いが心の火照りを上回り、浅い眠りに落ちたが、白いナイフは生き物のようにデフォルメしてその夜の夢の中を動き回った。
 それがゾルタンのナイフとの最初の邂逅であった。

第2章 旅立ち

 12月始めの寒い日、私は相変わらず刺激の乏しい人学の講義を、何故か何時になく苛立った気持ちで聴いていた。突然「このまま大学を卒葉し社会に出れば、俺の人生はこれまでの気怠い生活の延長で終わるのだろうか。何かをしなければ一一」との思いが胸を過ぎった。頭の中に、80日間世界一周のテーマ音楽が沸き上がるように聞こえてきた。
 そのメロデーは、一月程前に海夕蛎肝修に出かける友人を羽田に見送りに行った時、暗闇の中に飛行機の赤い光が消えていくの見つめていた耳に繰り返し繰り返し聞こえていたものであった。その後、ふと気がつくとそのメロデーを口ずさみながら、ぼんやりと虚空を見ていることがあった。それが何を意昧するかを取り立てて考えることもなかったが、心のどこかのスイッチがオンにされていたのであろか。
まさに発作的であった。ノートなどの持物を机の上に置いたまま、講義をしている敦授の前を無言で横切り教室を出た。みんなは私がトイレにでも行った程度にしか意に介していなかったようであるが、それ以上に私には授業を途中で抜け出すのだという感覚さえなかった。全く当てのない行動であったがリ思い付くままに九の内にあった日本交通公社の本店に行き、初めて目にする幾通りかの海外旅行のパンフレットをパラパラとめくった。一番安いヨーロッパ行きは、横浜からナホトカまで船で行き、そこから一般旅行者にも解放されたばかりのシベリア鉄道でヘルシンキまで行くルートであった。担当の若い青年に料金や日程などの事務的な質間をするうちに、この旅立ちの計画は夢のような思い付きのレベルから、急速に現実昧を帯びた姿に変わっていった。幸いにも手付金のような金を必要としなかった。ためらいはなかった。1時間程で4月1日横浜港発のバイカル号とヘルシンキまでの汽車、それに一年間オープンのマルセーユから横浜までの3等の船の予約の手続きを終えたのである。
 誰もいなくなった真っ暗な教室に戻り、ポツンと机の上に置いたままになっていた教科書とコートを手に、上野駅からの夜行列車で福島の実家に向かった。この突拍子もない計画を、なんとか父親に承諾してもらうためであった。虫がいい話しであるが、たまたま現役で人学に入ったことを理由に一年間浪人したつもりで大学を休学し、東京での一年分の生活費をこの旅行に当てさせてもらうという魂胆であった。その為には、なんとしても思い付きの話しではなく、長い間練り上げてきた計画であるかのように、父に話さなければならない。薄暗い鈍行の夜行列車の中で、旅行会社からもらった世界地図を眺めながら、一年間の旅行のスケジュールと各地で何をするかの空想のストーリーを組み立てた。その作業は、これまでずっと心に描いていた夢の計画という言い訳があながち嘘ではないかのように、地図を眺め国の名前を読む毎に、次々と具体性を持ったイメージが湧き上がってくる。福島の駅に着くまでには、白分でも意外に思うほどあっさりと膨大な旅の筋書きがほぼ完成したのである。
 なんの前触れもない突然の帰省であり、父親は「何事か?」と驚いたようであった。思いがけない一年間の遊学の話に、"なにを言い出すのか"という表情であったが、私の話を聞いてくれた。夜行列車の中で作り上げたばかりの遠大な一年間の旅行の計画を、青春の夢として長い間育んできたかのように話しているうちに、次第に白分で白分の話に興奮してきたのである。それは外国の地名が持つこ惑的な響きが、それを口に出す者を陶酔させる効果によるだけではなく、何か子供の頃から胸の中に仕舞われていた忘れ物を思い出すような作業であったからであろうか。
 二人の目の前に広げられた世界地図を指さしながら説明する私の話に、フンフンと黙って聞いていた父親が、ふと「おまえ、イギリスの北部は行かないのか。スコットランドはとても良い所らしいぞ」と言葉を挟んだ。その後の父親は、聞き役ばかりでなく、驚くほどの蘊蓄を傾けた相の手を入れ、白分も旅行の計画の中に入っているかのようであった。
 そして私の俄づくりの旅行計画の説明の後に、親父はポツリと「俺も若い頃はそんな事を考えたことがあったな」と言った。こうして私の思惑とは大いに異なり、一年間の休学とヨーロッパを中心とした世界旅行は、すんなりと父の許可を得たのである。
 1965年3月アノラックにスキーズボンの出で立ちに、日の丸をつけたリュックを背負い、私は横浜港からソビェトの運絡船「バイカル号」に乗り、ナホトカに向かった。長い長いシベリア鉄道の旅の後、私はあっさりとウラル山脈を越えヨーロッパに着いた。確たる目的のない旅であったが、大学への休暇の言い訳は、ドイツ語を学ぶということであった。
 まずハンブルグに向かったのは、外国人がドイツ語を学ぶ施設として有名なゲーデインステテユートが、その近郊の街リューベックにあり、そこに2〜3ヶ月入学しようと考えたからである。しかしひょんな切掛から、ハンブルグのユースホステルで働くことになり、またその地はゾルタンと邂近する忘れ難き場所となったのである。

第3章 ユーゲントヘルベルゲホーン

 ユーゲントヘルベルゲホーン、それはドイッ語でホーンという場所にあるユースホステルの意昧である。元々、ユースホス刊レはドイツが発生の地であり、お金のない若者がワンダーホーゲル(さまよう鳥というドイツ語)として歩いて旅行できる数だけ、ドイツ全土にユースホステルがあると言われている。ユースホステルでの管理者は、ドイツ語で母親と父親の意昧でるムッターやファーターと親しみを持って呼ばれてきたが、次第にかつての家族的な雰囲気が失われつつある。しかし、世界中のユースホステルがビジネス的になってゆく傾向の中で、ドイッでは昔からの伝統を守っているところが少なくない。
 ここは最近できたばかりの施設で、ワンダーホーゲルする若者の為のユースホステルの他に、団体で旅行する学生やスポーツクラブの宿泊を対象とするゲストハウスが併設されている。責任者のライトナー夫妻と常勤の職員に加え、季節労働者として十数人の若い従業員が、古き良き時代の家族のような雰囲気でそれらを運営していた。私が働いている間にも、フィンランドからの4名をはじめ6ヶ国からの男女12名の若者が一緒に働いていむまた宿泊するホステラーも世界中から集まり、私がホステラーとして最初に宿泊した時には、十人部屋の十人全員が違った国からの若者であった。
 私のドイツでの最初の宿がユーゲントヘルベルゲホーンであった。それは、たまたま町中にあるユースホステルが満員で、郊外の競馬場のすぐ隣りにあるこの新しいホステルを紹介されたのである。ユースホステルに着くなり受付のカウンター越しに、ライトナーさんが、「日本から来たのか?シベリアは自分も捕虜で何年もいたことがある」と話しかけ、日本のユースホステルの事情などを色々と聞いてきた。近日中に日本からの団体がゲストハウスを利用しに来ると言う。私とその団体はなんの関係もないのであるが、泊まり客が少ないこともあり、ライトナー夫人に事務を頼むと、真新しいユースホステルの中を自慢げに私を案内してくれた。どうやら、このホステルの日本からの宿泊者は私が最初のようであった。
 翌朝早く、私はヒッチハイクで隣の町のリューベックヘ向かった。リューベックは、ドイツの紙幣に書き込まれている有名な城壁に囲まれた古い歴史を有する街である。ようやく探し当てたゲーテインステテユートは、普通のアパートのような建物であった。受付の呼び鈴を押すと、農家の主帰のようなおばさんが出てきた。片言のドイツ語で「私は日本から来た学生である。ドイツ語を3ヶ月間、勉強したい」と話した。リュックを背負ったヒッチハイカーのような姿に驚いたわけではないだろうが、「オー」と大袈裟に両手を広げ、よく聞き取れないドイツ語で何かを私に説明しようとしている。私の語学力では殆ど意昧が解らない。大きな身振り手振りで一生懸命私に何かを解らせようとしているが、一向に反応がないのに業を煮やしたのか、彼女は一言、「バルデンジビッテ」と言って中に入っていった。それは、私が彼女と交わした言葉で唯一理解出来る「ちょっと待ってください。」というドイツ語であった。
 まもなく、若い女性がそのおばさんと一緒に出てきた。そして流暢な英語で「このゲ」テインステテユートは外国人のための語学の施設であり、全寮制である。世界中からの希望者がある。あらかじめ半年から一年前に申し込みをし、前金と共に手続きをする。あなたはそれをしているか。」という説明であった。「今日はじめて聞いたところである」と言うと、「今度の新しいコースは6ヶ月後に始まる。定員はほぼ埋まっているが、一人くらい可能かもしれないので申し込むか?」と聞かれた。「私は旅行中なので、6ヶ月先の予定が立たないので」と断り、「ダンケシェーン(ありがとう)」と言って握手をして別れた。さすがに、「アウフビーダゼン」というドイツ語の言葉を言うことは出来なかった。というのは、それは「また会いましょう」という意昧であったからである。6ヶ月後ということもあるが、寄宿料を含めた授業料が日本円で100万近くであり、一日1,000円前後で生活をしようとしている私には別世界の話であった。
「これから何をするか、何処に行くか」のあては全くなかった。リューベックの町中を流れるエルベ川の湖畔を、私の全財産である重いリュックを背負いながら、まさにトボトボと歩いた。色とりどりの花がたくさん咲き乱れている公園のベンチに腰をおろすと、途中で買ったビールを飲みながら「さて、これから何処に行こうか」と自分で白分に話しかけた。夢と若さだけを元手に日本を飛び出してきた、この旅そのものの危うさを手ひどく知らされたのである。胸の中から何か重昔しいものがこみ上げてきた。それが間違っても涙という形なって外に出てはいけないと、グッと飲み込むように「こんな経験をするために旅に出てきたのではないか。これでいいんだ」と低い声で眩いた。
 ビールの効果も加わったのであろうか、やがて心の重苫しい固まりがゆっくりと消えていった。同時に今まで気が付かなかった、染み入るような緑の芝生、華やかな花壇、川面をキラキヲと反射する光の洪水の美しさが目に飛び込んできた。その極色彩の景色を背景に、一対の白い蝶々がふざけ合うように絡まり合って飛んでいる。それが私にどの様な天啓を与えたのかは定かでないが、それを契機に胃の腑のあたりから、気のカが沸き上がってくるようであり、まもなく日本を旅立つた時の白分に戻りつつある事が感じられた。その日は、再びヒッチハイクでユーゲンヘルベルゲホーンに戻った。ライトナーさんは私の顔を見て、驚いた様子であった。私から簡単に事の経緯を聞くと、「これからどうするのだ?」と聞いた。「しばらくユースホステルをグルグル回って、少しドイツ語の勉強でもしようかと思っている」と答えると、「ここは新しいユースホステルなので、丁度人を探して
いるところだ。君は旅行者なので正捌こは採用出来ないが、しばらくここを手伝わないか?」と言ってくれた。正規な給料はないが、宿泊と食事が無料になるという条件であった。私には願ってもない中し出であった。好運にも私はドイツに着いた三日目から、ユーゲンドヘルベンゲホーンで働くことになったのである。
 それから一ヶ月後、私の人生に不思議な影のような影響をもたらすゾルタンと彼のナイフ
に出会うのである。

第4章 ゾルタンとの出会い

「君は、もうすでに連続三泊しているから、今夜は泊まれない規則になっているんだよ。ユースホステルを利用しているなら良く知っているだろう」人気のなくなった食堂の一角で辞書を引き引きドイッ語を勉強している私の耳に、いつも物静かなレシットがイライラしながら声高に話しているのが聞こえた。ふと振り返ってみると、その相手はゾルダンであった。
 ゾルタンはこの二ヶ月の間、何度もこのユースホステルに泊まっている。ドイツならではの規則で、ホステルの外に出ていなければならない事になっている日中には、隣の競馬場の草原で横になって本を読んだり書き物をしているゾルタンの姿をよく見かけた。夕食はみんなが三々五々ホールや食堂のテーブルを囲んで、ひとしきり白分達の旅の体験談を話したり情報を交換する賑やかになる時間が流れる。ゾルダンは、何時もその人の輸から一人外れてホールの一番奥まった隅で何か熱心に勉強をしている様子であった。私白身も、彼の宿泊の手続きを何度か受けたことがあったので、顔見知りにはなっていた。若いヒッチハイカーとはどこか運った歳の割に大人びた雰囲気があり、なんとなく興昧が惹かれる若者ではあった。
 私も夕方の仕事の終わった後で、白分の部屋よりはみんなのいるホールでドイツ語を勉強していることが多く、何度か私の近くに座っているゾルダンと顔を合わせ目で挨拶することがあった。私がドイツ語を勉強しているのを知っており、時々気の利いた単語や表現法などを教えてくれた。彼はハンガリー人であるが、ドイツ語、英語それにロシア語は、私から見れば母国語のように話し、その他にもフランス語など何カ国語を、少なくとも私の英語のレベル以上に話している。
 もう消灯の時間は過ぎていた。外は北ヨーロッパには珍しいほどの土砂降りの雨であった。レシットの言葉にゾルダンは、「今日で二日目と思っていました。もう他のホステルにはとても行けないので、今日はここに泊めてください」と主張しているようであった。
「もう君は何回もここに泊まっているから、よく知っているはずだよ。ともかく、一人を例外するとみんながそうなるから、今夜は泊まれないんだよ」すっかりドイッ風の物言いが身に付いたレシットも、どうしても規則は曲げられないと強行であった。薄暗いホールの光に照らし出されたゾルダンの横顔には、いつもの物静かな学究の徒といった雰囲気からは想像できない、苦しみに耐えに耐えているがもう少しで凶暴な野獣に変身する危うさが、すでに見え隠れしていた。二人のやり取りには「何かが起こるかもしれない」と、思わず、息を飲む緊追感が漂っていた。
 レシットは、上司のライトナーさんが帰ってくるまでに、このトラブルを終わりにしたいと思っていた。ライトナーさんが帰ってくれば、レシットの管理能力が間われるのみならず、間違いなくゾルダンはユースホステルのカードを取り上げられる。それは、これから彼はこのユースホステルのみならずドイツ中のユースホステルに泊まれなくなる事を意昧した。かつて世界中をヒッチハイクをして回った経験のあるレシットにとっては、ゾルダンはある時の自分自身であり、"ライトナーさんが来る前に、お願いだからここを出ていってくれ。"と心の中で思っていたことであろう。
 机の上いっぱいに広げていたドイツ語の本やノートを、かき集めるようにして立ち上がった私とレシットの視線が、一瞬混じり合った。レシットは正職員であるが、私は給与の代わりに部屋をもらっているだけの臨時職員であった。「ヒロ、彼にホステルカードを渡してくれないか。ともかく明日はまた泊まれるんだから。」と私に声をかけた。「OK、わかったよ。レシット、おやすみ。また明日ね」と言いながら、私はカウンター越しにゾルダンのカードを受け取り、石のように座り込んでいるゾルダンに近づいた。彼にカードを渡しながら低い声で「ゾルダン、まず外に出てくれないか? 左側の居住棟の入り口に明かりがあるから、そこで待っててくれ」と言い、職員用の通路を通って白分の部屋のある建物に向かった。部屋に戻ると、彼を泊めるためクローゼットから余分の毛布を引き出し、机の背もたれのクッションを彼の枕にしようなどと考えながら、乱雑になっている机の上やベッドを少し緒麗にしてから部屋を出た。
 ライトナー夫妻はとても優しい人達であるが、典型的なドイツ人で規則にはとてもうるさい。つい最近もドイツ人の職員がガールフレンドを白分の部屋に泊めたことがわかった時、ものすごい形相で怒りまくり、とうとう彼を首にしてしまった。私とて同様で、そんな危険は侵したくなかったが、親しくしているレシットの懇願するような目配せのサインを無視すること出来なかった。しかしそれ以上に、ゾルタンの梃子でも動かない決意がにじみ出ている後ろ姿が、彼を私の部屋に泊める羽目にしてしまったのである。
 私が細めに開けた入口のドアから、ゾルダンが身をよじってスルリと入ってきた。彼は少し雨に濡れていた。3階の私の部屋まで、一言も言葉を交わさず、足音を殺しながら階段を登った。部屋に入りラジオのスィッチを入れるとビートルズのレットイットビーが流れてきた。初めて彼が「ありがとう、ヒロ」と言った。毛布とクッションが床に置いてあるのを見て、「大丈夫、スリーピングバッグを持っているから」と、リュックから手際よく取り出し、「おやすみ」の一言で、靴だけを脱ぐとそのままの服装で寝袋にあっさりと入った。寝酒にビールでも一緒に飲んで少しは何か話しをしようと思っていたので、拍子抜けの思いで慌てて「おやすみ。洗面所はここだよ」と言った。 「わかった」とい
う意昧だろう、寝袋からそこだけ出ている彼の首がわずかに縦にゆれ、一呼吸おいて「ありがとう」の言葉がかすかに聞こえた。
 次の朝、私が目を覚ました時にはもうゾルダンの姿はなかった。机の上に、「ヒロ、ありがとう。君の親切は忘れないよ」というメモとバンホーテンのチョコレートが一枚置いてあった。簡単なメッセージであったが、なぜか私の心の巾に彼の感謝の思いが深く伝わってきた。それが私とゾルダンの、心の交流の始まりであった。ユースホステルの本来の目的が、旅行者である渡り鳥が一時、羽を休める所であり、日中は外に出て行かなければならないという規則があった。特にユースホステルの発祥の地であるドイツでは、その規則はまだ守られていた。私のユースホステルでの仕事は、そのために出入りの一番忙しい朝のカウンターの手伝いと、みんなが出て行った後に食器を洗ったり床を掃除したりすることであった。それらの仕事は通常午前中で終わり、夕方の食事の時までは私の白由な時間であった。その剛にハンブルグ大学の外国人のための語学講義を週2回受講し、週末には近所のドイツ人の小学生から一時間5マルク(約500円)でドイツ語を習っていた。また天気の良い日は競馬場の周りをジョギングしたり本を読んだり、と気ままな白由な時間であった。
 港の近くにあるもう一つのユースホステルとこのユースホステルを交互に泊まっているゾルダンは、時々、近くの公園や競馬場の周りを私と一緒に散歩することがあった。私の部屋に泊まった一件以来、お互いをドイツ語の親しい間柄に用いる代名詞の「Du、君」で呼び合うようになり、私の片言のドイツ語を直してくれたり、お亙いの旅行の話や少しながら身の上話なども話すようになった。
 ゾルダンは私より一歳年上の23歳のハンガリー人で、ブタペストの大学で医学を学んでいた。垣間みる西欧諸国の豊かさと自由な暮らしに比べ共産主義の息昔しい雰囲気、さらに将来の希望の無さに失望して、ドイツ留学の機会を利用し、母親と二人の妹が住む祖国を捨て、アメリカヘの亡命を決意したのであった。二年間のドイツ留学中に、アルバイトなどで蓄えたお金でアムステルダムから貨物船に乗り込み、大西洋を渡る計画であった。
 その然るべき時が来るまでの連絡を、なぜかここハンブルグで待っているのであった。彼と船会社の間を取り持つエイジェントがあるようで、ほとんど毎日のように郵便局に行くのは、局留めの連絡を待っているからであった。白分の人生を左右する連絡を、それもいつ着くとも解らぬ連絡を、何ヵ月も待つ生活を、私は耐えられるであろうか。それを日常生活としているのが、私が会ったときのゾルタンであった。
 私が彼の白いナイフを初めて見た、あの悪夢のようなヒッピー達との諍いの日から二ヶ月程経って、ゾルダンはハンブルグを離れてアムステルダムに向かうことになった。

第5章ヲインでの別れ

 私達の足下をゆっくりと流れるラインの川面は、ようやく訪れた春の光を踊るように跳ねるようにキラキラと反射させていた。時々、間延びしたように汽笛を鳴らしながら貨物船や旅客船が、白い光を背景にシルェットのような影を作ってゆったりと行き来している。
 川を渡る風がうなじを撫でていく。光に満ち溢れている景色の中から沸き上がってくるような風ではあるが、長く厳しかった北ヨーロッパの冬の名残が僅かながら秘められており、私は少し身震いをしてアノラックの襟を立てた。
 自嘲と愛着の入り交じった思いでボロクソワーゲンと呼んでいる古いボロボロのホルクスワーゲンで、ゾルダンをヒッチハイクのしやすいアウトバーンの入り口まで送るつもりでユースホステルを出たが、あまりに天気が良いのでもう少しもう少しと暖かい光の微笑みに誘われながら走り続けている間に、ローレライで有名なコブレンツの近くまで来てしまった。まだお昼には少し早いが何か食べようと、アウトバーンを少し外れてライン川沿いの小道に車を進めた。二時間を越えるドライブの間、私達はわずかな会話しか交わさなかった。気まずい沈黙とか別れで胸がいっぱいというのではなく、ただ私達には、特に多くを語る言葉を必要としなかったのである。
 ライン川が大きくくねる景色の良い場所に出たところで、川縁の小さな公園の路肩に車を止めた。そこから小高い丘となって川面が見下ろせる岸辺の草原まで歩き、膝ほどに伸びている草を踏みしだいて腰を下ろした。しばらくは二人とも風が髪の毛と戯れるのに任せながら、その穏やかな風景をぼんやりと眺めていた。
 ゾルダンが、リュックサックから大きな岩のような褐色のドイツパンを取り出した。
「パンとハムだけだよ」「どうもありがとう」「アップルジュースと牛乳とどちらがいい?あいにくだがビールは無いんだよ」とゾルタンは笑顔をつくって片目をつぶった。
 私が何かを食べる時いつもビールを飲むのを知っていて、からかったのである。「僕に御馳走するのに、ビールがないなんて、君は本当に僕の友達かい?」と真面目な顔をして言ってから、片目をつぶって笑い返した。「アップルジュースをもらおう」
 ゾルダンはアルコール類をまったく飲まなかった。一度、「ビールは嫌いかい?」と聞くと、「あんな美味しいもの嫌いなわけがないだろう」と素っ気無く答えた。それ以上は聞かなかったが、彼がアルコーレを飲まないのは、お金だけの理由ではなかった。ストイックな生活をしているプロのスポーツマンと同じように、アルコールが心の緊張を緩めてしまう事を恐れているのかもしれない。今の彼が生きて行くためにその緊張感がいかに必要か、側に居るだけでもひりひり感じられるのである。
 わずか三ヶ月ほどのゾルダンとの交流であったが、真剣勝負のような彼の峻烈な生き方には、何気ない生活の場面でも何度かハッとさせられることがあった。石鹸やパンなどの極日常的な物を買う時でも、彼はひとつひとつ手に取ってじっくりと眺め吟昧をしてから買うのが常であった。私が髭剃り後のクリームを買おうとした時であった。私が無造作に手にした物を見て、「ヒロ、本当にこれでいいのか、この匂いが本当に好きなのか?」と言って、体で隠すように身をかがめて、その瓶の蓋を開け、一滴を私の手のひらに落とした。思いがけないことであり、私は少し狼狽しながら「これでいいんだよ。この匂いが好きなんだよ」と早口で言った。
 一般に西欧人は、白分が何を求めているかをハッキリと定め、その中で一番良いものを選ぶ。多分、それが社会全体の切瑳琢磨になり、大袈裟に言うならば、社会全体の向上に繋がるものであろう。しかし、生きていく上の緊張感を極く些細な事にまで張り巡らしているゾルタンの姿はヨーロッパの地でも特異に見えた。
 一度だけゾルダンが煙草を吸うのを見たのは、同じユースホステルに泊まってる日本人のトシとアメリカの話をしている時であった。
トシは毛布に穴を開け首だけを出して貫頭衣のように着ており、髭は伸び放題で、持っているものも小さな手提げ鞄のようなもの一つだけであった。すでに日本を離れて三年以上になるという。まさに流れ流れて来たという表現が適切なように、私達のホステルにフラリとやって来た。たまたま私が彼の宿泊の受付をしたので、カウンター越しに、久しぶりに日本語の会話をした。「面白い格好ですね」「安くて暖かいよ」「ドイツの前はどちらでした?」「色々な所、風の向くままだから。半年くらい前まではニューヨークにいたけどね」 トシはそれから何度か泊まりに来た。「ここは静かでいいね」と言って、日中のほとんどは隣りの競馬場の芝生の中に入り、小さなハーモニカを吹いたり、座禅のような姿勢でじっと座って何か小さな本を読んでいたりしていた。時々、彼と交わす会話は、人なつっこそうな顔つきには似合わず、シニカルであり虚無的なものが多かった。
 たまたまトシとゾルダンも一緒に夕食後の一時をホールで雑談している時であった。ゾルダンがアメリカに行く予定であることを知っていたので、「ゾルダン、彼はニューヨークを良く知っているようだよ」と言って、トシを紹介した。二人とも無表情でニコリともせず、ただ目で挨拶をしただけであった。私がトシに日本語で「彼はハンガリアからの亡命者で、これからアメリカに行くところだ」と話すと、トシは少しゾルダンに興昧を示し、英語で「亡命者はアメリカが一番行きやすいけど、ひどい所だぜ。誰か知人でもいるのかい?」「今のところは誰もいないよ」「そりゃ大変なもんだ。どうやって職を探すんだね?」「それを知ってたら昔労ないよ。何か良い方法があるかね」 私はゾルダンの伯父がニューヨークに住んでおり、彼を援助してくれることになっていると聞いていたので、ゾルダンの答えは意外であった。しかし一方では、見ず知らずのトシに、そんな個人的なことを言うはずがないとも思った。「一服したいんだが、外に出ようか?」とトシが私達を促した。まだ少し明るさが残るホステルの外のピロティーで、トシは石の階段に腰を下ろし、煙草に火を付けた。トルコ葉であろうか、少し甘い香りが漂ってきた。トシはゾルダンと私にも煙草を勧めた。ゾルダンは手憤れたように、トシのライターから火を付けてもらうと、美昧しそうに深く最初の一服を吸い込んだ。それが私が見た、ゾルタンがタバコを吸う最初で最後の姿であった。
 少し離れた柱に持たれながら、煙草を手にゾルダンがトシに訪ねた。「ニューヨークでは何をしてたんだい?」「別に。マリハナを吸って、女のお尻を追っかけていたよ」「働かなかったのかい?」「働くってどういう意昧かわからないが、お給料をもらうというって意昧だったら、働かなかったね」 「それじゃあ、生活費はどうしてたんだい?」「ニューヨークってとこは何とかなる所なのさ。あんたもそれでニューヨーク行くんじゃないの」 美昧しそうに煙草を吸っていたゾルダンの動きが止まった。三分の一ほどまで吸っていた煙草を足下に捨てざまに火を踏み消すと、少し離れたベンチに座って煙草を吸っていた私に、「ヒロ、おやすみ」と言うと、トシの存在を見事にまで無視してホステルの中に入っていった。トシは何も言わずに私の顔を見てニヤリと笑った。「あれで怒るようでは先が知れてるな」と言うと、今までゾルダンと話していたことには全く関心がないかのように、私に日本の最近のニュースについて質間を始めた。
 あのゾルダンの怒りは、トシの人を食ったような受け答えだけでなく、全く価値観の違う男に、白分から話しかけ何か情報を得ようとした已の行為そのものに対するものであった。ゾルダンのもっとも忌み嫌っているタイプの生き方がトシであり、そんな生き方をするために自分の祖国を、母を、そして恋人を捨ててきたのではない、という怒りもあったのだろう。
 しかし、トシとしばらく話してる間に、日本語を母国語とする者だけが感じうる細かな言葉のニュアンスから、トシがとても優しいナイーブな心を持っていることがわかってきた。
 彼には、今の身なりとは裏腹に、経済的には豊かな家族の背景があるようであった。そんな物心の余裕ゆえ、彼は刺々しい感情や気張った気持ちになることもなく、風のように何者にも捕らわれない生活のスタイルを取ることができるのであろう。ゾルダンもかつては母国において、豊かさと余裕に裏打ちされた優しさを十分に表現できる生活をしていたのである。もしかするとゾルダンは、トシのそんな境遇さえも鋭く感じとり、押さえきれない怒りを表わしたのかもしれない。ガラス細工のような繊細な心を、意を決して鉄の鎧で覆わなければならないのがゾルダンの生き方。その辛さ、悲しみが、ほんの僅かな彼の言動から痛いように伝わってくるのである。
 ハムを挟んだパンを食べ終わると、左利きのゾルダンは、私から見ると妙な格好ながら器刷にリンゴをむき出した。私は彼の隣で、飲み残しのジュースのパックを手にぼんやりと目の前のラインのゆっくりとした流れを眺めていた。不意にウッという低く短いながら十分に鼓膜から脳髄を貫く鋭い声が聞こえた。反射的にゾルダンを振り向くと、むき終わったばかりのナイフで手のひらを刺していた。手が滑って切ったのではないことは明らかであった。左手にナイフを縦に握り、リンゴを持った右手の親指の付け恨を真っ直ぐに刺している。それは、ホステルのロビーの中央で私を救うためにキラリと光った、あの白いナイフであった。「どうしたんだ、ゾルダン」と言おうとする前に、彼と目が合った。
 彼は恥ずかしそうに微笑み、血の滲む傷口を舐めた。彼の心の中が一瞬でわかったような気がした。彼の微笑みに、私は少し堅い表惰でこっくりと頷いて答え、また視線を遠いラインの川の上に漂う雲に移した。
 ゾルダンにとって、その白いナイフは、白分の心を奮い立たせる何物かなのであろうか。
 それが彼にとってどんな意昧があるのかを、聞きはしなかったし聞くつもりもなかった。
 何故、白分の手を刺したかも同様であった。間もなく故郷のあるヨーロッパを離れアメリカに渡ることは、待ちに待った時とはいえ、彼のこれまでの人生を彩ってきた全てのものへの決別を意昧するのである。火傷した皮膚のようにナイーブな彼の心には、白いナイフの痛みが、そして流れ出る血が必要だったのであろう。
 ゾルダンが二つに割ってくれたリンゴを食べ終わると、私達は車に戻り再びアウトバーンに出た。ほどなくインターチェンジの近くのヒッチハイクのしやすそうなパーキング場に車を止めると、大きなボストンバックを持ってゾルダンが無言で車を下りた。私は車を降りずに窓越しに彼と握手をした。流れのように生きている二人が、また出会うことはもうないであろう。お互いにいくつかの思いの塊が胸の内で熱くなるのを感じながら、「ありがとう、ヒロ。また会おう」「気を付けてな、ゾルダン。また会おう」と短い言葉を交わし、私達は別れた。助走レーンから高速に入るまでの間、眩しそうに方手をひさしのように目の上に掲げながら私に小さく手を振っている彼の姿が、バックミラーの中に見えた。
 しばらくアウトバーンを走って、ふと彼と握手をした右手を見ると、親指の付け根に小さな血の固まりがこびり付いていた。あの白いナイフが付けた傷からのゾルダンの血であった。拭き取らずそのままにしていたが、その小さな凝血塊は、車がハンブルグに着くまでの間に乾いて取れたのであろう、何時の間にかどこかに消えしまっていた

第6章 冷たい風

 夏の旅行シーズンが終わり、大幅に泊まり客が少なくなると、フィンランドから働きに来ていた明るい4人の若者達が去って行き、ユーゲントヘルベルゲは急に火の消えたような静けさになった。夕暮れが早くなり、しだいに夜の時間が長くなる。 どんよりとした曇り空の日が続くことが多くなり、人々の顔つきも冬の気配を反映し、次第に表情を失っていくように見えた。 私の生活も単調さを増し、宿泊するホステラーが少なくなった分だけ午前中の仕事は早く終わってしまう。白分の部屋かホステルのホーレでドイツ語を勉強したり、少し天気が良いと人気のない競馬場に入り込み、茶色に変わりかけている草の上を走り回って汗をかいたりするのが日課であった。ドイツ語も初めの頃は、とぼしい語彙ながら短時間で日常会話ができるようになって、みんなに「日本人はやっぱり優秀だ」などと驚かれたのであるが、次第に上達のスピードが遅くなってきた。またドイツ人がほとんどになってしまったため、普通に話すみんなの会話のスピードに着いていけず、とう
とう逆に"ヒロはまだこんな事もわからないのか"と、一人会話からとり残される事も希ではなかった。
 一日がとても長く感じられる。日本からの手紙が心待ちであり、同じ手紙を何度も読むようになった。特に、日本の恋人からの手紙は、文中のちょっとした表現の中に、彼女の心の嚢を読み取れるほどに繰り返し繰り返し読んでは、「どうして早く次に手紙をくれないのだろう」と恨めしく思ったりする。夕方の誰もいない大きなホールから、寂しさに耐えきれずに白分の部屋に戻っても、スィッチを入れて明るくなった部屋にはやはり誰もいない。携帯ラジオから流れる言葉はドイツ語だけであった。無性に居ても立ってもいられない気特ちになると、夜なのにホステルを飛び出し、汗でびっしょりになるまで真っ暗な人気のない競馬場を走り回り、何本かのビールを立て続けに飲んだ。
 「白分を振り返る良い機会なのだ」などと強がりの台詞を白間白答してみるが、寂しい。
 この心に鉛を流し込んだような言い知れない寂蓼感はなんなのだろう。ホームシックというありきたりの言葉では表現できない、生きているということ自体に根ざすものではないかとさえ感じられる。人間にとって最も耐え難いものの一つは孤独である。私にもその影が僅かながらも見え始めたのかもしれない。そろそろ新しい旅に出る潮時であった。
 ゾルダンをアウトバーンまで送っていった私のボロクソワーゲンは、夏の間に多くの若いヒッチハイカーを乗せて、ヨーロッパ中を二万キロも走り回った。同乗者の若者達が必要経費としてのガソリン代を払ってくれたので、もう十分に車の元は取れた。しかしこれからヨーロッパを甫下してエジプトのポートサイドまで行き、そこから日本行きの船に乗らなければならない。その旅の資金にするため、ポンコツながらも車を売り払うことにした。
 12月の初めに、ハンブルグ大学のキャンパスに、ドイツ語と英語で"車売ります"の張り紙を貼って、車をパークしておいた。値段が200マルク(約2万円)と安かったこともあり、その日の夕方には3人から間い合わせの電話がメモしておいたホステルの番号に入ってきた。3人ともハンブルグ人学の学生であった。早速次の日の午後に、車のところで3人と会う手はずとなった。
 その日は、珍しくゲストハウスに団体が入り、午前中の仕事が何時もより長引いた上、ユースホステルから大学まで憤れない地下鉄を乗り継いで行ったこともあり、約束の時間に少し遅れてしまった。駅からの坂道を小走りに車の所まで急いで行くと、顎髭を生やし学生にしては歳を取りすぎている中年の男が立っていた。 私を見るなり、「ミスターニシダか?」と間いかけてきた。「そうだ」と答えると、さっと手を出し握手をすると、よく聞き取れない長い名前と共に、「俺がこの車を買うことにした」と言う。"車売ります"の張り紙は剥がされ、彼の足下に丸めて捨ててあった。彼が破り取ったのであろう。
「もう二人の希望者いるので、ここで会うことになっている」と言うと、 「いや三人だった。俺が断って帰ってもらった。俺が買うから心配するな」と言う。電話をしてきた三人の学生は、私に会う前に彼に追い払われたのである。腹が立ったが、車を買ってくれる相手は彼だけになってしまった。ハンブルグからの新しい旅立ちもであまり時間がない。
まず車のライトやブレーキなどの説明をし、売買の契約をしようとした。「白分のアパートで契約するから、そこまで乗って行こう。俺が運転するから車の鍵をを貸せ。」と手を出す。すでに白分の車のように振る舞う強引さに反発を感じながらも、なぜかズルズルと彼の言うなりになってしまった。
 大学から30分ほど走った彼のアパートは、立派なビルディングの一階にあった。大きな居間と二つのベッドルームがあり、家具や調度品も私の目には見栄えのするものであった。「どうだ、俺がこんな所に住んでいるとは思わなかったろう」と、白慢げに部屋の中を案内している時に、穏やかな顔立ちの若者が入ってきた。ハンブルグ大学の学生であるという彼の弟であった。兄の方は、いかにも一癖ありそうな鋭い目つきをしたベニスの商人の金貸しシャーロックを思わせる風情であったが、弟はいかにも真面目な頭の良い学生という対照的な印象であった。兄が無言で弟に向かって顎をしゃくると、砂糖がやたらに入っているうえ、カップの半分ほどもコーヒーの粉が泥のように沈んでいるトルココーヒーを持ってきてくれた。
 兄弟はレバノン人であった。歴史の中ではレバノン杉で作った船を漕ぎ出し、世界中で商売をした人達の末裔である。兄の方は早速その本領を表し、200マルクを100マルクに値切る交渉を始めた。"買ったと言って自分の家まで車と私を連れてきたのに何を今さら。"と反論したが、とうとう150マルクまで値切られてしまった。 さらに互いに売買の契約書を交換する段になると、「君の車の書類に不備がないかどうか、確かめなければならな
い。もう時間が遅いので、明日、白分が確かめておくから、それが済んでからお金を契約書と一緒に持っていく」と言いだした。「今お金がもらえないなら、このまま車で帰る」「なにかお前の車や書類に間題があるのか?」「間題があるなら売らないだろう。ともかく、150マルク払わなければ、交渉は不成立だ」「車の書類を確かめたら150マルク払うと言っているだろう。信用しないならば、この時計を預けよう。1,000マルクはするのだぞ」「そんな物はいらないよ」と、押し間答になった。すると、彼の弟が、「二人の契約書に、"お金は払っていないが明日の夕方までに払う。お金を払うのが遅れたら、一日毎に10マルクずつ違約金を払う"と書いたらどうだ?」と提案した。物静かなその弟の提案は内容には不満が残るが、彼なら信用できるだろう、という印象を与え、私はそれを呑むことにした。私はお金を手にしないままに、彼らに車を渡してしまったのである。ゾルダンが、「渡してしまったお金は戻らないよ。お金は物を買う時の最後に渡すもんだよ」と言っていた言葉を思い出した。ゾルタンの「ヒロ、お前はなんて馬鹿なことをするんだ」と言う声が聞こえるようであった。
 その日は一日中、不消化の食べ物が胃にもたれているような、スッキリしない気持ちで、あのヨルダン人が車のお金を持ってくるのを待っていた。彼が弟と二人で私のホルクスワーゲンを運転し、ようやくやってきたのはもうすっかり辺りが薄暗くなる頃であった。タイヤをきしませるキュウという音と共に車をホステルの玄関前に急停車させると、イライ
ラしながら立っている私の顔を見るなり、「書類には間題なかったが、車はあちこと修理しなければいけないので、お金がかさみすぎる。この契約はなかったことにするから車を置いていく。書類は車の中に入っている、キーは付けたままにしておくから」とまるで他人からの伝言のように言う。全く感惰が含まれていない乾いた事務的な言葉であった。
 一方の私は、怒りと戸惑いから「今さら何を言うんだ。一日車を乗り回していたじゃないか」とようやく台詞が言えたところであった。その後の言葉がドイツ語になると思うように出てこない。機関銑のようにわめきたてる相手に、片言の言葉では子供が大人に反諭しているようなものであった。見かねてか、ライトナーさんが助け船にやって来てくれた。
「ヒロ、どうした?車はうまく売れなかったのかね?」私がこれまでの経緯を掻い摘んで話すと、兄の方はライトナーさんに「車の調子を見てから買うか買わないかを決める約束になっているので、故障が多すぎるから返しに来た」と私が反論する間も与えず、都合の良い御託を長々とまくしたてた。ともかく、私はお金を貰っていない。このまま、いくら彼とやりとりをしても私が不利なことは明らかであった。もう車は戻ったのだから、早速、明日また新しい買い手を探そう、と思った。「どこかぶつけたりしてないだろうな?」
 一矢を報いるというよりは、早くこの不運なトラブルを終りにしたいという思いからの台詞であった。「白分で確かめてみろ」と、逆に彼は正当であり私の方がポンコツを売り付けたような風向きとさえなってしまった。
ライトナーさんに、「昨日の夕方から今日まで、私の車を彼らが白由に乗り回したので、もし、この間に交通運反などがあったらば、私は運転していなかったということを証人になってくれますか?」と専ねた。ライトナーさんは、彼らに、「ヒロの車を乗り回したことは事実なんだから、それを書面に書いてくれ」と強い調子で言ってくれた。兄の方がニヤリと笑って、「なんの間題もないよ」と言いながら「ミスターニシダから、彼の車を12月5日午後3時から12月6日午後3時まで借用した」とさらさらとメモ用紙に書いて私にではなくライトな一さん手渡した。とうとう、車をただで彼らに貸したことなってしまった。私にとって、物を買うことがあっても売るということはほとんど経験がない。さらにデベイトと言われる相手のミスや弱点を徹底的に突いて議論し勝ち負けを決める習慣もない。とても私の歯の立つ相手ではなかった。
 ヨルダン人の兄弟二人と薄暗の中で車を一回り見て、何か異常がないかを確かめた。「何もないよ。預かった時のままだよ。古いわりには、よく走る車だけどね。ところで、これから市内に帰るのだが、近くの駅まで送ってくれないか」と悪びれもなく言う。これほどの仕打をした上で駅まで送ってくれとは、と「良い加減にしろ」と怒鳴り返そうと、そのドイツ語を探す間隙に、彼の弟が「実は、夜のアルバイトをしているのだけれども、急いで帰らないと仕事に間に合わないので、是非、送ってくれないか?」と、私の目をじっと見つめて言った。これまでのやり取りの間も一言も言わずに、いかにも済まなそうにしていた。彼は本当に困っているようであった。彼らが居る間に車の調子を見ておくことも必要だろうと思い、車で約15分ほど離れた汽車の駅まで彼らを送ることにした。
 助手席に座り込んだ兄の方が、"ヨーロッパ中心主義のドイツで、白分のような後進国から来た者が生きていくには、いかに大変か"を、身振り手振りで私に話しかける。車の調子を見るのに神経を使っているので、フンフンと生返事をしている間に、ふとポケットに入っているぺらぺらのメモ用紙ながら昨夜取り交わした仮の契約書のことを思い出した。
 そこには、「今日までに150マルク払う。それが遅れれば一日10マルク払う」ということが書いてあるはずであった。彼のまくし立てるようなドイッ語の嵐の中ですっかり忘れていたのであった。運転しながら、それをポケットから取り出し、「こんな契約書を交わしているのにひどいじゃないか」と言うと、彼はサッとその書類を私の手から引ったくるとビリビリと彼り、車の窓を開け外に投げ捨てた。アッという間の一瞬の出来事であった。
 私は、怒鳴ることも車を止めて彼に殴りかかることもせず、車を走り続けた。相手が二人で腕力で適わないということではなく、何もかも私とはまったく違う次元でおこっている出来事のように思えたからである。振り返った私の目に、バラバラになった紙が白い蝶の群のようにパッと敵っていくのが見えた。同時に開かれた窓から冷たい風が車の中に吹き込んできた。後ろの座席に座り終始無言であった弟が私の方に身を乗りだすと「Kalte Wind,nichit bar?冷たい風だね」と囁いた。それは、吹き込んできた風が冷たいという意昧と、私の目の前で起こった事が生きていく社会の冷たさを表している、という両方に掛けた言葉であることが直感的にわかった。しかしそれは、嫌みでも皮肉でもなく、ましてや私へえの警旬めいたものではなく、彼の心の奥から泡のように湧き出てきた眩きであった。
 彼らを駅で降ろし、すでに真っ暗になった道をユースホステルに帰る車の中で、涙がとどめなく流れてきた。自分が情けないためでも、今起こった事が悔しいための涙ではない。
 心の中を彼の弟が言った冷たい風が吹き抜けて行くような、言い様のないやるせない気持ちからの涙であった。私のこれまで生まれ育った世界とはあまりに異なる。生きて行くのはそれほど冷たく、厳しい事なのか。
 ふとゾルダンのことが思い出された。それは、ゾルダンが「ヒロ、当り前じゃないか、馬鹿だな」と言う姿ではなく、ゾルダンが、吹きすさぶ冷たい風の中を、あの白いナイフをベルトにしっかりと止め、襟を立てて前かがみに歩いている姿であった。少しながら、ゾルタンの白いナイフの意昧が解ったような気がした。

第7章 泥の中の夢

 1967年4月、1年と1日の独り旅を終え、私は横浜港へ帰ってきた。福島の実家でぼんやりと数日間を過ごした後、大学へ戻ると、あの張りつめた心が何処へ行ってしまったのか、と思うほど、何事もなかったように、一年前と寸分違わない極く日常的な生活が始まった、父との約東があり。これ以上道草を喰うわけにはいかない。今までとは打って変わったピカピカの新入生のような真面目な学生となり、一番前の真中が私の常席となった。しかし、たまにあるクラスの行事やクラブのコンパでは、みんなと盛り上がり脚には羽目を外す平和な日本の学生の生活に、あっと言う間に戻ったのである。
 一年間の休学のため、私はそれまで4年間一緒だった仲間と離れ一年下の学年に組み入れられた。新しいクラスの連中とはそんな意昧で馴染みが薄いというだけではなく、白分がこの旅行中に知り合った若者達と何か違うという違和感が、どうしても払拭できなかった、大学ではほとんど今回の旅行の話はしなかった。尋ねられても、「パリのエッフェル塔には歩いて頂上まで上ったよ」とか、「スペインはワインが安くて結構美昧しいんだ」などと、ごく有り触れた受け答えだけで、ゾルダンのナイフのことやユースホステルでの深い孤狽の影を見たことなどの、心のひだに染み込んだ体験は、容易に口に出なかった。
 そんなことを話題にする雰囲気ではなかったこともあるが、たとえ話したとしても、まったく違った世界の出来事のように理解されないと思ったからであった。
長旅から帰り復学した年の暮れ、かつて私が所属していた運動部の忘年会に出席した。一年間のブランクでとてもみんなに追いつくことが出来ず、帰国早々に退部していたが、昔一緒に苦しい練習に汗を流した仲間が懐かしく参加したのである。何人かの先輩の少し堅苦しい挨拶と部の年間成績発表が終ると、たちまち席が乱れ注ぎつ注がれつの賑やかな宴会となり、気が置けない者同十の塊があちこちに出来た。私も声高に年の瀬故の来し方のよもやま話から、目の前に迫っている卒業後の行く末などを話している同期の仲間の輪に加わった。久しぶりに耳にする、運動部の学生特有の乱暴な言葉使いながらも相手を傷つけない爽やかさを含む会話は、汗とグランドの土の香りがした。私は心の通い合う仲間に取り囲まれる心地よさに酔った。
 1年間のクラブの成績や試合をめぐる出来事がひとしきり話題になった後、「西、お前羨ましいよ。みんな同じ様なことを少しは考えるんだが、なかなか思い切れないもんな」
 と一人がふと口に出し、私の旅が話しの肴になった。外国旅行が珍しい時代である。興昧を引かれ何人かが話しの輪に加わってきた。私の前に座った先輩の一人が、「西、お前は、一年間ヨーロッパで何をしていたんだ」とニコニコと話しかけてきた。「少しドイツ語を勉強しましたが、言い訳程度で、後は白由を楽しませてもらいました」と何気なく答えると、側からそれを聞いていた、もう一人の先輩が、「白由なんて格好いい言葉を使うじゃないか。要するに、乞食して回ってたんだろう」と、爬虫類の皮膚が体を這うようなねっとりとした底意地の悪い言葉で絡んできた。他人の言葉尻を捕らえては屁理屈をこね、相手の感情を害するのを楽しみとする男であった。"いつもの事"と聞き流すべきであったが、どうしても自由と乞食の言葉が針のように心に刺さってきた。少しの酔いもあったが、「乞食とはどういう意昧ですか?」と切り替えしてしまった。
 すでに押え切れない感情で白分の声が高ぶっているのがわかった。「人様の情けにすがりながら生きていくっていうことだろう。ヒッピーとか、その辺をうろついている連中は自由とかわめいているが、世の中から逃げているのさ。世の中が悪いとか何とか言いながらも、結局、世の情けにすがっているんじゃないか。お前さんも、あっちこっちでお情けをもらいながら旅行とやらをしてきたんだろう」
 私の一生で最も辛いながらも貴重な体験をした一年を乞食をしているという一言で評価されたことよりも、自分の力で一生懸命生きているゾルダンやユースホステルで会った多くの若者達を乞食と呼ぶことは許せなかった。私は我を忘れてしまった。ビールの入ったコップを床にたたきつけ、テーブル越しに彼に飛びかかった。「貴様になにがわかる」
 私の突然の行動に、停止した映画の一小間の様に周りの人達の動きが一瞬凍り付いたが、二人が床に転げ回るのを見て、折り重なるように数人が私達を引き離した。それは1分にも足りない時間であったかも知れない。私から離れるとばね仕掛のように立ち上がった彼は、真っ青になった顔を引きつらせ、ひたすら洋服についたゴミを払っていた。私は警察に逮捕された犯人が取り押さえられている様に、何人かの同僚に両手や胴体を抱きかかえられた。取り囲んだ仲間の渦は、自然に沸き上がったような「飲み直しに行こう」のシュプレヒコールと共に、奔流が流れ出るように喧燥の巷に私を連れ出した。叱る声も、慰める声も、ましてや事の顛末を訳け知ったように話す声もなかった。街を歩き肩を組み大声で歌う中で、肌の触れ合いが摩擦熱を生み出すように、暖かいものが心の氷塊を静かに解かしてくれた。有難かった。
 その後の記憶は定かでないが、新宿の繁華街を連れ回され、気が付いた時は下宿の前であった。入口のガラス戸のガタガタという音で、下宿のおばさんが起きて来た。珍しく私が泥酔して帰ってきたのを見て、驚いた様子であった。「たまにはそんな事もあるだろうよ」
 と言って、冷たい水をコップに入れて持ってきてくれた。一息にコップの水を飲み干すと、ふいに涙が流れてきた。それを見られてはいけないように、 「おばさん、有難う」と少し慌ててコップを返すなり、階段を駆け上がった。敷居にけつまずきたたらを踏んで真っ暗な白分の部屋に入ると、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。
 深い酔いの中なのに、起こったばかりの場面が冴え冴えとした記憶の断片として頭の中がぐるぐる回る。思わず「馬鹿やろう」と声に出す。しかし後悔はしていない。旅で出会った仲間達との触れ合いが敵りばめられた私の宝物のような思いでのぺ一ジに、したり顔で汚い唾を飛ばしながら落書をするような言葉をそのまま聞き逃す事は出来ない。白分の為にも、あの仲間達の為にも。
 たしかにトシは乞食の様な風袋であった。ゾルダンは泊まる家もなく2つのユースホステルを行き来していた。しかし、親の臑をかじってぬくぬくとしながら訳知った顔をしている輩とは違い、白らの意志で生きている彼らは輝いていた。そんな若者達の顔を次々と思い浮かべながら、泥のような眠りに陥た。

第8章 たった独りの反乱

 医学部の最終学年である六年生になった時に、これまで数年来行われてきたインターン闘争の伝統のように、最終学年がクラス全体の間題として、大学や病院と頻回に団交を持つようになった。始めは責任順番としてお鉢が回ってきた程度の認識であったが、次第に回を重ねるうちに本格的な取組に変わって行き、夏休みが終わった頃には、留年を賭けて授業をボイコットにするかがクラス討議されるまでにエスカレートしていった。
 私は一年間休学したため、現在の級友よりもクラブやサークルではかっては一学年上であった。そのため「さん」付けで呼ばれるように少し違った対応をされるので、できるだけ先輩風を吹かせないように気を付けていた。今回の事に関しても、多少の異諭はあってもクラス全体の意向には従わなければならない、と考えていた。しかし正直のところはあまり裕福でない我が家のことを思うと、もう一年の留年は心に重くのしかかっていた。
 クラスの討諭会には、ほぼ毎回出席した。どの大学でも同じであろうが、数人のクラス委員が全体をリードして、残りの人半はハッキリした意見を持たないのでその決定に着いて行く、という形であった。このような討諭は、強い意見を述べた者が勝つのが原則である。予想した通り、二、三の慎重論が出た以外、ほぼ全員一致で、クラスは授業ボイコットに突入することになった。授業ボイコットの間も、代表が病院あるいは大学と交渉を続け、学生は自主学習をしながら討論会を定期的に行うというのが運動方針であった。しかし、一ヶ月過ぎ、二ヶ月過ぎるうちに、クラス討論会に出てくる学生の数が段々少なくなった。そして最彼には、私を含め数人しかスケジュール通り集まらなくなった。「インターン廃止を含め、卒業後の研修システムの改革がいかに必要であるか。そして、そのためには、この運動がいかに重要であるか。」と、熱弁を奮っていたクラスのリーダー達は何処へ行ってしまったのか。尋ね回ってみると、なんとスキーに行っていたり、白分の属する運動部の練習や試合に合流していると言う。
 もともと私は、講義中心で臨床の実習が極めて不十分な日本の医学教育の現状を見るならば、インターン制度がないことは逆に私達の卒業研修には大きなマイナスになるのではないか、間題はインターン制度そのものではなく、その実行のシステムにある、と考えていた。年老いた父親を早く安心させたいと思いながらも、クラスの一員としての義務と考えみんなが良かれと思うこの運動に着いてきたのである。堪忍袋の緒が切れる音なのであろうか、プッツンという音が頭の中に響き渡った。私は怒りを込めて、もう彼らに同調する義理はない、私は独りでも授業を受け卒業すると居合わせた数人の同級生に宣言して教室を出た。
 下宿に戻ると面白がって過激な言葉を私に書かせようと集まってきた同居人達に手伝ってもらい、角材に打ち付けた大きなベニヤ板の上に画用紙を貼り付けて慣れないプラカ」ド作りをした。"私は授業料を払っている。それゆえ、授業を受ける権利がある。もし、授業を受けられないなら、私は大学を訴える"と、書いた。恥ずかしいほど単純明快な三段論法である。インターン制度云々や逆に授業ボイコットヘの批判はもう飽きおるほど聞かされおり、学生側と病院側の主張が、意昧不明の文章の羅列であちこちに張り紙されている。何故私が授業に出るかは、御託を並べるより学生の権利として主張しようと考えた訳である。
 翌日、少々即物的で刺激的すぎる台詞かなと思いながらも漸くできあがったばかりのプラカードを持って、教授会が開かれる会議室がある建物の入口の石段に座り込んだ。次々と教授運が、チヲリと私の顔と看板を交互に見ながら足早に通り過ぎていった。やがて一人の教授が立ち止まり、「そうだ、お前の言うことは正しい。ストライキをして順送りに卒業を一年延ばすだけでは何の意昧もない。医者になってしっかり意見を述べれば良いんだ。君はいつから授業に出るつもりかね」と話しかけた。 私は腰を下ろした姿勢のまま、教授のちょび髭越しに眼鏡の奥の黒目をしっかりと見据えながら、「来週の月曜から授業に出ます。是非、教授会に伝えて下さい」とお願いした。
 その日の午後、プラカードを片付けて、学生ホールで新聞を読んでいると、今回のストを指導したグループとは異なった思想団体に入っている同級生の一人が、「西さん、時間があるのなら、ちょっとお話ししたいことがあるのですが」と声をかけてきた。殆ど事務的な事しか言葉を交わしたことのないあまり親しい同級生ではなかったが、彼も私もクラスの討諭会には必ず出席していたので顔見知りではあった。クラス会では殆ど意見を述べないで、物静かと言うよりは覚めた眼差しで発言者の顔を冷ややかに見つめている姿が思い浮かぶ。どんな話しなのか見当はつかなかったが、私の行動を勇気あると評価するか軽薄と評価するかのいずれかであろうと、何の警戒心も無く二つ返事で誘いに乗った。一人でプラカードを持ってスト破りを宣言するには、私はあまりにお人好しであった。
 彼は大学の裏通りにある小さなそば屋に私を案内すると、奥まった隅に席を取り、盛り蕎麦とビールを注文した。ビールを一口飲むと、出てきた蕎麦を食べるようなうつ向き加減の姿勢から時々上目使いに私の反応を盗み見ながら、辺りをはばかるように暗い低い声でボソボソと抑揚のない文章というよりは単語の羅列のような話しが始まった。彼が私に語ったことは、今の執行部の思想的背景と各個人の誹謗であり、裏切り、密告、スパイ活動に始まり、主義主張のためなら手段を選ばずどんな卑劣なことも正当化される、まさに私の知らない魑魅もうりょうの世界の話であった。要するに、彼に取っては分派活動を始めたと見なされる私を自分達の仲間に引き入れようとする魂胆であった。彼の物言いがあまりに陰湿な響きを持っており、私は食べかけた蕎麦を吐き出すほどの嫌悪感を催した。食べ掛のまま立ち上がった私のふいの行動に狼狽した彼の「御馳走しますよ」という声を無視して、そば代をテーブルの上に置くと、後ろも振り返らず店を出た。今回の私の行動は多少刹那的に捉えられる側面もあるが、それなりにスッテプを踏んできた考察の背景があると自分で自分を納得させていたのであるが、反面みんなを不利な立場にするかも知れないという少しのためらいがあった。これで、その思いを払拭することができた。こんな連中の権力闘争の駒にされるつもりはない。たった独りでも授業に出よう。
 できるだけ早く医者になり、医療の改革は医療の現場から、自分なりのスタンスで努力していこう。不快な経験であったが、逆に気持ちの整理が出来る皮肉な結果となったのである。
 次の週の月曜日の朝、私は四谷三丁目にある下宿から大学までの約10分ほどの徒歩の道のりを何時もより時間をかけて、妨害されたらどう対応しようか、誰が出席するだろうか、など考えながらゆっくりと歩いていった。咋夜、同級生の一人から、「自分も授業に出たいが、みんながピケを張るので敦室に入れないと聞いたが一一」と電話があった。そんなことがあるはずがない。プラカードを持って一人で座り込んだ時も、あらかじめ自分の行動をいわゆる執行部と言われる連中に通告してあったが、なんの反応もなかった。その後も彼らからは何のコンタクトもない。さすればストライキそのものが先輩からの申し継ぎのようなもので断固たる意志によるものでないのだ。何かの言い訳があれば、さっさと鉾を納めて卒業したいと思っているのであろうか。奇妙であるが、ストライキの6年生以外の学年は通常どうりの授業であり、何事もない普通の大学の朝の風景なのである。通告してきた同郷生の心配をよそに、当然のことのように私は何の抵抗もなくキャンパスの中をいつもの教室に向かった。
 講義のある階段教室に何時もより早めに入ると、私と同じ病院実習グループの4人を含めて9人の学生が来ていた。みんなピケがあるというデマでだいぶ朝早くからきているという。一時限の講義が始まる九時頃に、斥侯隊のように若い医局員が覗きに来た。間もなく内科の教授が4〜5人の教室員を連れて入ってきた。「十人もいるじゃないか。よし、始めよう」と、何カ月振りかの講義が始まった。次の日には、出席者は20名を越え、次の週からは、ほぼ全員が授業に出席するようになった。こうしてストライキはまるでこの時を待っていたように、あっけないほど簡単に終ったのである。
 授業が正常化すると、みんなの関心は卒業試験に向けられ、呆れるほどあっさりとインターン闘争やストライキの話題は忘れられていった。やがて全員の卒業の身通しが立って来るにしたがい、またみんなの関心が戻ったのであろうか、私はスト彼りの張本人としてクラス全体から完全に切り放される処遇を受けるようになった。ストが失敗した言い訳が必要であったのであろう。「私達が作った堤防に穴を開けたのは、彼だ」という論調である。なにをされようが、私には、まったく負い目はなかった。そんな軟弱な心で、人生の中のこの大切な一年間をストライキという美名の元に無為に過ごすことを、何十人もの同級生に強いることは出来ない。
 年度末になって、卒業アルバム委員という同級生が済まなそうな顔をして、私にアルバム代の二万円を返してきた。私はクラス会から除名されたので、名簿にも卒業アルバムにも載せられないと言う。始めて聞く除名という言葉の響きが不快であるよりも、何喰わぬ顔で席を隣にして授業を受けている連中の心理状態が鳥肌が立つほど不快であった。しかしまたとない2万円という大金の臨時収入のお蔭で、卒業前に是非一度したいと思っていた一年前の忘年会でのトラブルで世話になったクラブの仲間にお礼の飲み会が持てたのである。その席で同級生となった後輩の一人が、「西さん、独りになって大丈夫ですか?」と心配気に聞いてきた。
 祖国も家族もなく独りで生きているゾルダンを思えば、今の白分の境遇など比べものにならない。ゾルダンに会って以来、私の行動の一つの規範として、究極の立場に置かれながら自分の力で生きていくゾルダンの姿があった。その姿にはいつも、あの白いナイフがオーバーラップするのである。

第9章 鵺にはならず

 1968年の3月、ストライキ騒ぎをした私達のクラスも全員無事に医学部を卒業した。幸か不幸かインターン制度が無くなった第一回の卒業生となったのである。これまでと違って一年間の臨床見習いの期間がなくとも、卒業と同時に国家試験を受けて医師免許を取ることが出来るのである。その国家試験なるものも、人の命を預かる職業の資格試験とはとても思えない程御座成りで、前日までクラブの練習だスキーだと飛び回っている連中が受けてもほぼ全員が合格するという代物であった。それ故国家試験を通っても医師とは名ばかりで、知識も経験も一人で患者を診るレベルにはほど遠く、従来どうり大学の医局という徒弟制度の中で見よう見まねで臨床を学ばなければならない。間題はなにも解決していないのである。
 同級生のほとんどは、ストライキの時と同様に先輩達に操を立てなければならないと言う信じがたい思考過程で、卒業後の最初の国家試験をボイコットした。医学部を卒業し国家試験をボイコットした者は、学生でも医師でもない存在となる。そんなことに無頓着で、大学病院の中では学生の如く振る舞い、外の病院では無資格なのに医師のごとく振る舞うという鵜のような身分を一年間も続けるのである。彼らとは授業ボイッコトでの経緯から袂を分けたという以上に、それはあまりにも不条理であり受け入れがたいものであった。
 彼らの行動そのものが、医師としての将来を閉じてしまう医師法違反になり兼ねないというばかりでない。あまりにも御粗末な医師としての知識と臨床経験を恥じることなく、すがるように助けを求める患者に厚顔にも対応するという無神経さに、吐き気を催すほどの嫌悪を感じたのである。
 私の父は東北の片田舎で、その地の人達の全幅の信頼を受け、病む人がいれば夜も昼もなく働いていた。休みで帰省すると、滅多にできない車の運転をしたくて父の往診を手伝った。患者に御年寄りが多かったせいもあるが、その診療のほとんどは簡単な聴診や触診の後に行うムンテラとよばれる患者さんや家族への医学的な内容の説明であった。世間話も交えたその説明は、時には一時間以上にも及ぶことがあった。ある日いつものように車の中で本を読みながら父を待っていたが、あまり運いので患家に様子を見に行くと父は患者と一緒になって眠っているのである。家族の人は「御仕事があると思いましたがあまりによく寝ているので一一」と、信頼と愛情のこもった眼差しで父を見つめながら、私に詫びたのである。そんな父の姿を子供心に医者の原型として見ている私に取って、かれらの行動は医師という職業への、さらにはそれを天職として生きている父に対する冒涜としか言い様がなく、どうしても詐し難いものであった。私は同級生がボイコットした国家試験を受け、米国で卒後研修を受けることにした。私が国家試験を受けると表明すると、周囲からの露骨な嫌がらせが始まった。それは医学教育改革という大局的な見地からではなく、私が彼らより一足先に医者になってしまうことは詐せないという個人的な感情に基づくものであった。受験者のほとんどがが合格するレベルの低い試験とは云え、万が一にも失敗するわけにはゆかない。一緒に受験する数人の仲間と運絡をとり、付け灼き刃ながらこれまでの試験間題などの情報交換をするため医学部図書館の閲覧室に集まることにした。しかし指定の時間になっても誰も現れない。少し苛々する気持ちを押えながら待つともなしに持参した教科書を気乗りがしないままパラパラとめくっていた。ふっと気が付いて顔を挙げると、世の中の不満を一人で引き受けているのだと言わんばかりに、いつも引き釣ったような顔をしている何年か上の先輩が数人のボイコット派の同級生を引き運れて、私を取り囲むように立っていた。「話しがある」「何でしょうか」「学生ホールに行こう」「人を待っていますので、すみませんがこの次にしていただけませんか」「他の連中はもう来ないよ。その事で話しがあるんだ」「みんなが来ない事情は分かりましたが、国家試験のことなら特に話をする事はありません。折角図書館に来たので少し参考書でも探していきますので失礼します」と立ち上がり、机を離れ書庫の方に向かおうとした。同級生の一人が「待てよ」と後ろから私の肩を掴んだ。振り向き様に反対側に持っていた教科書の背で、その手をしたたか打ち払った。バサリと本のぺ一ジが空気に踊う音と、叩かれた男の咽の奥に痛みと恐怖を圧し潰したような声が図書室の静寂を彼り、周囲の読書をしている人達の視線を集めた。私は無言で彼らに背を向け、もう一度止めるなら止めてみろ、と心の中で眩きながら、ことさらゆっくりと書庫に向かって歩いた。立ち並ぶ本の背表紙を眺めている間に、苛立つような心の高まりは急速に萎え、すぐに国家試験を目前ににした受験生に戻った。役立ちそうな本を何冊か選んで図書館を出た時には、すでに彼らの姿はなかった。
 国家試験の前日、試験会場への交通機関が不慣れなので早めに寝ようとしていたところに、一緒に受験の手続きをした上山から電話が入った。「西さん、明日は今年の卒業生を受験させないように試験場にピケが張られるそうです。ピケが張られる前に試験場に行こうと思うんですが一緒に行ってくれませんか」「そんな馬鹿なことはしないだろう。それに一年上の連中が受験する中から今年の卒業生だけ選び出すなんてできないだろう」「いいえ、クラスの連中が私達を見つけ出すためにピケを張るんだそうです。僕の車で今から行きませんか」まさかと思ったが、彼の車に便乗することにした。試験場で夜明かしになるので、先面具と季節外れだがダウンジャケットを持って、信濃町の駅前で上山の車を待つことになった。結果間には、真夜中に受験生が来たためアルバイトで試験場を警傭していた拓殖大学の学生を右往左往させた事、上山が試験場の椅子の上からコンクリートの床に寝ぼけて転げ落ちメガネを壊したついでに見事なたんこぶを額につくったこと意外、然たる混乱もなく国家試験は終りほぼ全員が合格した。
 このような紆余曲折の末に手にした日本の医師免許に加え、米国以外の医学部を卒業した医師が米国で医学研修をするために必要な資格試験を受けた後、米国の病院に一年目のインターンの応募する作業に取り掛かった。それは細かな内容を問う応募用紙に加え、推薦状や学業成績のコピーなど種々の書類を100近くの病院に送る膨大な労カを要するものであった。どの病院で研修出来るかは、応募者の希望する病院の順位と病院が希望する応募者の順位をコンピュータで組み合わせて決めるマッチングプログラムで決まるので、難しいところからレベルの少し低いところまで応募しておかないとマッチしない事も起こり得るからである。
 私は漸く1969年7月よりニュージャージーの病院で研修を始めることになった。新しい生活への夢に溢れた期待と同時に、すぐ川向こうのニューヨーク市に移り住んだゾルタンとの邂逅の期待も心の片隅を占めていた。

第10章 再会

 ゾルタンとラインで別れてからすでに4年の月日が経っている。年に2−3度の手紙のやり取りであるが、短い言葉の端端に懐かしさが散りばめられた心の絆をお互いに感じ合っていた。彼はニューヨークで働きながら歯学部に入る勉強をしているという。私が働くことになった病院のあるジャージー市はハドソン河を挟んでニューヨークの対岸にある。このたくまずしての結果に、ゾルタンに会えることを楽しみに思い、日本から手紙を出したが、出発の時まで返事はなかった。ニュージャージーに落ち着いてからも何度か連絡しようと思いながらも、それどころではない生活が始まった。一睡も出来ない忙しい当直が三日おきに続き、アパートを探す時間さえなく、夜中こうこうと電灯がつきっぱなしの上何本もの電話が絶えず鳴り続ける病院の当直室に3ヶ月も寝泊まりする羽目になったのである。
 体力と精神力が試されるような夜も昼もない日々が過ぎ、漸く言葉にも慣れなんとか白分の時間を捻り出す余裕が出来た頃、ゾルダンからの返信が東京の下宿から福島の実家と回り道をして送られてきた。「大学に通っているが、夜と週末はアルバイトでほとんど時間がない。エアポートには迎えに行くことが出来ないが、住所が決まったら連絡をしてくれ」
 という簡素な文面であったが、遠来の旧友との久しぶりの邂逅を待ちわびる思いがさりげなく伝わってくる彼らしい手紙であった。その日の夜、早速手紙に書かれている電話のダイヤルを回した。ゆっくりと話す少し低めのバリトンの声は、紛れもなくゾルタンであった。
 11月の末の日曜日、私達はハドソン河の底を通るチューブと呼ばれる地下鉄が終点となるニューヨークの中央駅であるポートオーソリティーのホームで会うことになった。掃き出されるように電車を降りる人混みに揉まれながら出口に向かうと、白動改札の向こう側にゾルダンの姿が見えた。若い女性と腕を組み合って立っていた。見覚えのある灰とダイモンドの主人公を思わせる縁なしの眼鏡の奥で、いつもの鋭い目は柔らかく微笑んでいる。私を見つけると、合図する様に右手を耳元までゆっくりと挙げながら近寄って来た。「元気かい?」「相変わらずだぜ」と、お互いに同じ言葉を言い合いながら軽く抱き合った。
 ガールフレンドはジャッキーと呼ばれ、アイリッシュ系で笑い顔がとてもチャーミングであった。
「ポートオーソリティーにはよく来るのかい?」とゾルタンが訪ねた。実は、働いているジャージー市からニューヨークヘの交通手段はこの地下鉄しか知らないのである。「まだ休みに何をしたらいいのかわからないんで、よく病院から地下鉄一本で来れるここにボーリングをしに来るのだけれども、部屋を借りているおばさんが、"とんでもない、とても危険な所だ。"と言うんだ」「ニューヨークは何処も同じさ。危険でないところなんて世界中にないんじゃないか。日本は知らないけども」そんなことを話しながら、三人は駅の建物から町中に出た。外はビルの谷間にも関わらずまぶしい程の日差しであった。天気が良いので日向ぼっこをしながらランチを食べよう、というジャッキーの提案でセントラルパークヘ行くことになった。人と車が無秩序に入り乱れるコンクリートジャングルを通り抜けると、青と緑の空間が突然目の前に広がった。公園の芝生の上に腰を下ろすとゾルタンが、「ヒロ、君はアメリカが初めてだろう。これがアメリカさ」と、切り取ったような青い空を縁取る摩天楼と公園の中をジョッギングやサイクリングで走っている老若男女を、まるで自分の物を白慢するように指さして言った。彼はすでにアメリカの一部になりつつあった。明るい日差しである。
 ゾルダンは、4年前にアントワープから船でニューヨークに着き、それ以来ずっとここに住んでいる。日中は大学で勉強し、夜はホテルの従業員として働いており、どこからかの奨学金を貰っているが、生活費はすべて白分で働いていると言う。週末もほとんど、何か仕事をしているようなので、「勉強する時間どころかデートもできないじゃないか」と冗談に言うと、笑いながら、「ジャッキーとは一緒に住んでいるんだよ」と答え肩を抱き寄せてその頬に軽いキスをした。ジャッキーの手を握りながら、私に話しかけるゾルダンの表情には、ドイツにいる頃のアンテナを全身に張り巡らしこちらにまでその電波がピリピリと伝わってくるあの緊迫感はなくなっていた。
 ジャッキーは看護婦で小児病院で働いていた。私が小児科医なので共通の話題が多く、しばしば専門的な話しになりゾルタンが話しの輸から外れてしまうことがあった。そんな時も、子供が母親の体の一部に何時も触れていることによって安心感を得るように・ジャッキーの指をもて遊びながらニコニコと二人の顔を交互に見つめては、思い出したように「それはすごいね」とか「それは可哀相だ」などと短い相の手を入れるだけで十分満足気であった。確かに彼は変わった。あれ狂う海を航海してきた船が漸く穏やかな入り江に錨を下ろしたようであった。
 お昼は、ジャッキーが持ってきたバスケットの中から、手品のように取り出されたハム、ソーセージ、パン、リンゴ、牛乳、そしてゾルダンが「ヒロ、これは君専用だよ」と笑いながら差し出したビールであった。赤ワインのボトルも出てきたので。「酒を飲めるほど大人になったのかい」とゾルタンをからかうと、わざと真面目顔になって運転免詐証をポケットから取り出し、白分の写真をしげしげと見つめながら「彼は少なくとも20歳は越えたようだ」と物体ぶった声で宣言するように言うとニッと笑った。白とピンクの縞模様のテーブルクロスを草の上に広げ、ピクニックのようなお昼となった。赤いワインの入ったグラスの縁に戯れるように、木洩れの日の光が白く躍っている。ジャッキーが携帯ラジオのスイッチを入れると、ビートルズが流れてきた。イェスタデイのメロデーを聞きながら、どちらからともなくゾルタンと目を合わせた。言葉はなくとも、思い浮かべている情景は同じであった。ハンブルグのユースホステルの夕暮れ。足元を光を沸き立たせて流れるヲイン河。リックを背負ってゆっくりと歩く森の小道。一日一日が重かった。いつも明日はどんな日か期待しおののいていた。そして今、輝く光の下で、緑の芝生の上に敷かれたピンクの縞のテーブルクロスに腰をおろし、赤ワインを飲みながビートルズを聞いている。二人がドイッで過ごした日々は遠い遠い昔のようであった。
 サンドイッチとワインが終ったところで、ゾルダンがリンゴを剥きだした。それは、彼の白いナイフであった。「ゾルダン、そのナイフは僕がよく知っているやつだろう」と言うと、ラインでのエピソードを思い出したのか、少し顔を赤らめて笑い、「まだ使っているんだよ」と言った。ジャッキーが「なんのことコと聞き返した。私の言葉で説明できるものではなかった。何時かゾルタンから自分の分身となる女性に、時間を掛けて物語る様に話されるであろう。「僕の愛用のナイフさ、知ってるだろ一」 あれから三年余が過ぎている。まだゾルダンは、このナイフを必要とするのであろうか。明るい太陽に照らされる彼の横顔は、ラインの川面を見つめている唇をキッと噛んだ彼の顔とは違っていた。
 愛する人の側にいる。さらに彼には今、手を差し述べれば掴むことの出来る具体的な希望がある。彼の鋭い目の輝きに穏やかな暖かさが加わった。彼の白いナイフはピクニックにだけ使われているようであった。
 昨夜の当直で寝不足の上、ビールに加えワインまで飲んでしまった私は、、横になって青い空を眺めている間に頬を撫でるそよ風に誘われ、ゾルタン達が驚いた程、あっというまに寝入ってしまった。夢の中でビートルズのレットイットビーが繰り返し繰り返しリフレインしていた。私達はどこに行くのだろう。どうなっていくのだろう。只確かな事は、出口を求めて深い森の道をあてどもなくを歩いているあの頃から比べれば、見晴らしの利く草原に出たことだ。高い山や深い谷があるが、目に見える。そこを越える努カをすれば、目的のところにたどり着ける希望があるのだ。日本に居る恋人がが夢の中に飛び込んできた。二人で手をしっかりとに握り合って草原を走った。河を飛び越え、高い高い山に向かって行く。やがて是が地を離れ、空を飛んで行く一一一。ジャッキーとゾルタンも寄り添って寝てしまったようだ。
 突然、夢を彼って大きな爆発音が聞こえた。公園の近くを走っていた車がバックファイアーをしたのである。日本なら廃車寸前という代物のポンコッ車が定り回っているニューヨークでは、珍しくない出来事である。日が蔭り始まり、そろそろ起きなければならない頃であった。丁度良い目覚しぐらいに感じて、寝ぼけ眼を擦りながらもぞもぞと起き上がった。振り返ると、ジャッキーはまだ眠ったままであったが、ゾルダンはアメリカンフットボールの選手がセットァップしているように片膝を付いて起き上がり、音のする方を見ながら今にも立ち上がりそうになっていた。彼の顔色は蒼白であり唇が震えていた。私と視線が混じり合い事の次第に気付くと、恥ずかしいそうに座り直した。東ドイツに囲まれた陸の孤島のようなベルリンを訪れた時、ロシア軍の演習だという爆発音がよく聞こえむあの昔の記憶が、ゾルダンに私達と違った反応を無意識のうちに起こさせたのであろうか。
 彼の深い心の漿の」枚を意昧じくも目撃することとなった。
 騒音で眠りを中断されたゾルタンと私は、それから!時間程もお互いになぜか同じ姿勢で自分の膝を抱え、思い出したように体をゆっくりと前後にロッキングさせながら、ヨーロッパを妨程える鳥として過ごした日々を、枯れ葉の下に隠れている思い出の木の実を拾い出しては言葉にするようにポッリポッリと話し合った。その側で無垢の子鹿のように安心し切って寝入っていたジャッキーが、そのつぶらな瞳を開き恥ずかしそうに私達を見つめたのはもうあたりに夕闇の帳が落ち始める頃であった。お昼を御馳走になっているので私が二人を招待しようという提案で、ジャッキーの知っている公園近くのイタリアンレストランに行くことになった。
 ガイドブックに載るような有名店ではないが土地の川には名の通った老舖で、ジャッキーが薦めるだけあって古き良きアメリカの雰囲気であった。しかし残念ながら日曜でも開いている数少ない店のこともあり満員であった。バーで食前酒を飲みながら待っことになったが、私達より遅く来た客が次々に用に付いて行く。私が白分達が先にきていると拙い英語でボーイに文句を言うと不機嫌に、予約のある客が先で順番どうりだ、と突っぱねられる。ボーイにチップを出せば早く席に付けることが分かったのは、しばらく経ってからであった。私が御馳走すると言ってあるのでそれを知っているジャッキーは私に言い難かったようであった。ジャッキーが知り合いのボーイに声をかけて、ようやく席に付く事が出来た。食事はパスタとサラダの簡単なものであったが、それなりに名の通った店だけに美味しいものであり、食事の間の会話は二人のなれそめや私の婚約のエピソードなど明るく楽しい話題であった。
 食事の終わりに。ゾルタンとジャッキーは定番のエクスプレッソを注文したが、コーヒーが飲めない私はミルクティーを頼んだ。しかし、出てきたのは3人分のエクスプレッソであった。私はミルクテーだと言うと、いかにも見下したように、まともの英語で注文しろと言わんばかりの捨て台詞を残して乱暴にエクスプレッソを片づけた。二人がもうエクスプレッソを飲み終わったのに、なかなか私のミルクティーが出てこない。明日の仕事もあるのでそろそろ帰らなければならない。「もう紅茶を飲まなくても良いからと店を出よう」と私が言うと、ゾルタンは「相手が悪いのだからこのまま出てはいけない」と気色ばって私を睨み付けた。さらに、「ヒロ、そんな風に扱われて黙っていてはいけない。これからアメリカで生きていくのに、不当に扱われてそのままでいればそれを認めたことになるんだよ」と言葉を継ぎ、グズグズしている私に苛立っているようであった。たまたまそのボーイがテーブルの側を通り掛かると、突然ゾルタンが立ち上がって、私には良く聞き取れない早口の言葉を浴びせると店の奥に入っていった。まもなくマネージャらしき人が出てきて、失礼なことをしたと詫び、すぐに紅茶を持ってくると言う。食事の終わった二人の前で一人紅茶を飲む可笑しさに加え、だいぶ遅い時間となっていた。「いや、けっこう。帰るけど勘定は早くしてくれるだろうね」と言うと、「イヤボール(合点です)」の一言を残し、踵を返して戻っていった。ゾルタンは何か言いたげに私を睨み付け、ジャッキーは取りなすように何か言うとしたが言葉が見つからないまま俯いていた。私のあまりにお人好しの対応に、ゾルタンが苛立っているのは明らかであった。楽しい食事が最後のつまらないできごとで重いなまりのようなものがむねに残る結果となってしまった。駅まで私を送る車の中でも会話は弾まなかった。別れ際に車の窓越しに「ヒロ、とやかく言うつもりはないが、ここは日本じゃないんだよ」と短く言って私の手を握った。あっさりと走り去る車のテールランプがいつまでも目に残り、ドイッで私が髭剃り後のクリームを買おうとした時、「ヒロ、本当にこれでいいのか」と体で隠すようにしてその一滴を手に落とし私に確かめさせた彼の姿が、その赤い光の残像にオーバーラップした。
 ニュージャージーにいる間、何度かゾルタンと会う機会があったが、彼はいつもジャッキーと一緒で幸せそうであった。私にとって彼等に会う事は、数少ない安らぎの時と言うだけでなく、後一歩で恋人や家族のいる温もりの場に逃避したい心を、辛うじて踏み止めさせる不思議な効果があった。それが何であるのか私にも漠としていたが、ゾルタンを通して見え隠れしていたあの白いナイフの光のようでもあった。
 一年の研修を私は生き延び、翌年の6月シカゴに移る事になった。そこでもまた地獄のようなぎりぎりの生活が始まった。挫折しそうになるごとにゾルタンの姿が出てきた。しかしその後ゾルタンと会う機会がないまま、私は5年間の米国研修を終え帰国することとなった。

第11章 譲れない一線

 1974年の夏、私は五年間の米国での臨床研修を終えて帰国した。肉体的のみならず精神的にも何度か挫折しそうになった厳しい研修であったが、2つの専門医と米国での開業の資格等を取得した以上に、日本ではその何倍の年月をかけても学び得ない豊富な臨床経験を身に付けてきたという自負があった。しかし、帰国したばかりの私には、アメリカで生まれた二人の子どもがありながら、家もお金も日本での肩書きさえもなかった。たまたま縁あって就職することになった新設大学で卒業1年目の新人スタッフとしてまさにゼロからのスタートをしたのである。
 アメリカでは、日本とは比較にならない大きなアパートで家族との団欒をなによりも大切にする、忙しいながらも快適な生活であった。帰国後は一転して、家内と子どもは福島の実家へ、私は大学の独身寮のドミトリーと別居生活をすることになった。当直の合間をぬって、隔週の週末にほとんどとんぼ返りのように神奈川から福島まで家族に会いにいった。
 まだ新幹線はなく、土曜日の仕事を何とか時間内に終わらせ上野駅に駆け付けても、福島に着くのは夜遅くであった。子供達の寝顔を身ながら妻と家族の事や将来の事を少し話すともう時計は真夜中の12時を回る。次の朝は子供達の元気な声に起こされ、朝食も早々に子供達の合い手をしている内にお昼となりそろそろ帰り支度を始める時間となってしまう。
 1、2ヶ月に一度、妻が子どもを運れて狭いドミトリーに泊まりに来る。管理人さんが親切で時々しか会えない私達の家族を不欄に思ってくれるのか、重傷患者の家族が泊まるために用意してある和室が空いていると、例外として使わせてくれた。部屋いっぱいに布団を敷き詰め川の字に寝るのが子供達にはキャンプのような雰囲気を与えるのか大はしゃぎとなり寝付かせるのが一苦労となるのが常であった。そんな生活であったが、私達は輝く程楽天的で希望に澄れていた。妻は私に全幅の信頼を置き、私は自分に全幅の信頼を置いていたからである。あの重い荷物を背負って高山の頂きを極めたような5年間の努力が報われないはずがない。必ず何時かは世に出て、親子水入らずの生活に戻れると不思議な程の確信であった。それはアメリカ生活で培われた努力すれば報われるというチャレンジ精神に基づくものであるが、反面では現実を知らない楽天家ということなのであろう。
 それは家内が子どもを連れて泊まりに来たある9月の日曜日の夕方であった。伊豆半島の突端にある岬まで海を見に行った帰り、横浜への道はいつもの事ながら長い車の列であった。三歳と一歳の子供が乗っているので、一番低速の車線を止まっては走り、走っては止まる、のろのろ運転をしていた。 突然、低速車線のさらに外側の非常用レーンから車が強引に割り込んできた。「無茶なことをする奴だ」と思いながら一台を割り込ませて発進した途端、その後ろに着いていたもう一台の車も強引に割り込んできた。最初の一台も相当無理矢理の割り込みでありまさか次の車までもと思っていたので急ブレーキを踏んだが、僅かながら二台目の車の右後方に追突してしまった。明らかに相手の強引な割り込みが原因であったが、追突という事実は私の過失となろう。ハザードランプをつけて車を路肩に寄せて止めると、追突した車とその前の車の2台から暴走族風の若者がゾロゾロ降りてき
た。
 私も車を降りて彼等と立ち話を始めようとしたが、「てめえ、何処を見ているんだ」と喧嘩腰というよりは相手を洞喝する口調で最初から話にならなかった。「追突したのは悪いが非常識な割り込みじゃないか」と、言おうと思ったが、常識の通る相手ではなかった。どちらの責任うんぬんのみならず詫びの言葉も一切入れず、ことさら事務的に「私が追突したので、私の保険でカバーしましょう」と切り出した。
「オカマしといて態度がでかいじゃないか。只ですむと思ってんのか」「俺達は忙しいんだよ。保険なんか邪魔臭い事してる暇なんかね一んだよ」「示談で勘弁してやるから少し色つけな」「あんた、今いくら持ってんだい。5、6万ならそれで無罪放免にしてやろうじゃないか」 狭い路肩で私と対時する彼等の口から次々に叩き付けられる台詞は、威圧して早くかたをつけようとする口調であった。保険を利用すれば事故扱いとなり、警察に運絡することになるであろう。多分彼等が一番嫌がっていることであった。
 それぐらいの金額は持っていた。冷静に考えれば、それでこの蛇を踏んだような突然の災難から逃れられるなら安いものであった。しかしなぜか私は、強行に「保険で処理する」と言い続けた。
 高速道路の道端に車を止め、何人もの若者が言い合っているのをパトカーに認められると思ったのか、彼等は「ここはやべ一や、あっちに行こう」と道路を少し外れた草むらに私を取り囲むようにして移動した。私の体に手を触れるものは誰もいなかった。幸いであった。もし私がその手を振払えば、それは地雷を踏むような結果になっていた事であろう。
 車を離れる前に、助手席で子どもを抱きかかえて震えている妻に、「もし、自分が戻ってくるのが遅かったら、通りの車を止めて警察に運絡してもらいなさい」と耳打ちをした。
 彼女は大きな目をさらに大きく見開き、掠れた声で短く「あなた、やめて」と訴えるような言葉を発した。
 草原では二十歳前後の暴走族風の八人が私を取り囲んで、「俺達をなめるな」「お前が悪いんだろう」「急いでいるんだぜ、さっさとけりをつけな」「ごめんなさいって金をだせばいいんだよ」と、次々に脅しの台詞を浴びせた。その恐怖感から私の緊張の糸が切れるのを待っているのだ。私は台詞を発する一人一人の顔を見ながら、「あなた方の車は保険会社がちゃんとしてくれるはずだ。車を直す以上、事故届けが必要だ」と繰り返した。不思議なほど冷静であった。意外な展間に彼等は戸惑い始めた。「こいつは何ものなのだろう」という疑問が幽かな恐怖感となって、彼等の胸にわき上がりってきたようであった。
 私の正面に、青白い整った顔つきの若者が腕組みをして立っているのが気になっていた。
 周りの粗野な運中とは違い、鋭い眼差しながらどこか良家の子弟の雰囲気がただよっている。無言で周りの運中と私のやり取りを聞いていその若者が、ふいに「土下座して謝れば許してやろう」と、顔に似合わずドスの聞いた声で言った。警察が関与しないと金が取れないと思った事もあろうが、それ以上に何か得体の知れない事態に自分達が踏み込んでしまった事を感じ取り、この場を早々に切り上げようとしたのであろう。その物言いから、彼がリーダーであることは明らかであった。
私は、"生きていく上で、譲れる範囲の物事は譲るが命を賭けても譲れない線がある"といつも考えていた。いわれのない土下座をすることも、私のこれから生きていく人生観そのものに影響を及ぼすものであり、譲れない線の外であった。私の表情が変わった。前に立っている若者の目をじっと見つめ、押し殺すような低い声で、「それは冗談だろうな」
 と言った。二人は睨み合った。二人から出る電磁波のような緊張感が、周りの者達を凍り付いたように立ちすくませた。それは10秒そこそこの時間であったろうか。フッと彼が私の目を反らした。私は、その瞬間を忘れられない。私が勝ったのである。
 顔の青白い青年は「こいつは気違いだよ。気違いに関わっている時間よねえよ。さあ、帰ろう」と、さっと自分の車の方へ帰っていった。他の運中も、少し呆気にとられたようであったが、捨て台詞もなく慌てて彼に続いて帰っていった。それは一瞬の出来事であった。誰もいなくなった草原の空き地に、しばらく放心したように立ち尽くしていた。ふと思い出したように我に返り、車に戻るともう彼らの車は見えなくなっていた。
 まだ震えている家内に、車の窓越しに「彼らが何かをしたか?」と聞くと、無言で首を横に振るだけで言葉が出なかった。運転席に座ると、妻は押さえていた感情がはち切れたように、私の背中を「ばか、ばか」と言って小さなこぶしで叩き、私の膝の上に身を伏し声を出して泣いた。後部座席で遊んでいた二人の子どもも、驚いたように一緒に泣き出した。
 しばらく車を止めたまま、「大丈夫だ、大丈夫」とリフレーンしながら妻の背中を撫でた。私白身も緊張が取れるにしたがい次々に沸き上がってくる心の高まりを押さえなければならなかった。やがて私達は、何事もなかったように再び車を高遠道路の流れの中に乗り入れ帰途に向かった。
 時間が経つに運れ、次第に熱いものが胸にこみ上げてくる。猛獣の檻に手ぶらで入るような蛮行を恐れもなく出来たのは、まだアメリカ帰りのdebateを常とする習慣が、そしてjustisを信じる精神が残っていたためであろうか。いや、そのような高尚なものではない。
 外国生活の荒波を乗り切ってきたと訳もなく高揚している気持ち故、事の重大さを読み取る状況判断が出来なかったに過ぎなかったのだ。あの息詰まるような緊張感を乗り切れたのは僥倖であった。"二度とあんな事はしないで。 土下座をすれば済むなら土下座をして"という妻からの命令に近い懇願は当然のことであった。
 しかし"土下座するなら死んでもいい"という気追が、言葉以上に相手に伝わったからこそ、猛獣の檻から生還できたのである。ハンブルグで私を救ってくれた時のゾルダンのナイフが象徴するのは、人生の中で時に必要となる、命を賭けたぎりぎりの気迫そのものであった。ゾルタンは何時もそのナイフを持って生きていた。アメリカで会った彼はジャッキーと幸せそうであり、もうあのナイフは必要なさそうに見えたが、懐に深く沈めてあるナイフの光を何度か垣間見た。彼ならどうするであろうか。しばらくはゾルダンの事を思い出す日々が続いた。

第12章 バージニアの白い家

 1995年12月、私はワシントンで開かれた「新生児医療の最新の進歩」と題する国際シンポジウムに招かれた。招待状が届いてからの約半年間、丹念にデータを整理すると共に、英語の発音のチェックだけでなく、出だしのジョークから締めの言葉まで発表をいかに聴衆に印象付けるか推敵に推散を重ねた。それはこの分野の世界の檜舞台で日本の代表として発表する責任からだけでなく、なんとしても成功させなくてはならない個人的な理由があったからである。
 15年前同じワシントンの地で、私は壇上で立往生したのだ。それは医学倫理に関する国際シンポジウムに日本からの代表として講演した時であった。5年間の米国留学で多少は英語に自信があった。また講演の内容も、予後不良の症例に対する対応など欧米流の倫理観ではカバーし切れない日本的な考え方を加昧したものであり、国際学会にふさわしい論点を含む発表になると白負していた。しかし結果は惨憺たるものであった。通常の医学用語と大きく異なる倫理関係の言葉が、私の発音では十分に通じていない事に気付いて、直そうとすればするほど全体の流れを見失い、何度か絶句してしまったのである。私の発表は開始の間もなくから聴衆の関心を失っていた。それに気づきながら、残りの30分近くの講演を続けることはたまらない屈辱であった。駄目押しのごとく、講演後の質疑に座長から諭理の組み立ての暖昧さを指摘された。それが私の講演のポイントの一つであり、西欧流と東洋流の倫理的思考過程の違いなのであった。しかし私の真っ白になった頭の中からは答えるべき英語の言葉が全く見つからず、気まずい沈黙の後「そうかもしれません。一言かぼそく答えると逃げるように演壇を降りたのである。胸の中は煮えたぎる思いで
あった。私達の考えが間違っているのではない。置かれている文化的歴史的背景が違うのだ。それを言えない自分の語学力に情けなくなると同時に、このつぎは何としても彼らに一矢を報い、彼らを納得させなければならないと心に誓ったのである。そしてその待ち望んだ日が今日であった。
「このような伝統ある学会で発表の機会を与えてくださいましたことは、日本の新生児医療がようやくそのレベルを世界に認められたことを意昧するものと心から感謝しております。御静聴有難うございました。]と1時間の招待講演を締めくった。一呼吸してからその聴衆に向かって一礼して演壇をおりようとすると、座長を努めてくれたアベリー教授が手で待てと合図するように私を押しと止めながら歩みよると、「素晴らしい講演でした。私達はあなたがたから多くのことを学びました」と、握手をしながら抱き抱えるように私の肩を2、3度ポンポンと叩いた。それがきっかけとなり、800人を越す聴衆が立ち上がると嵐のような拍手が起こった。信じ難いことに私はスタンヂングオベーションを受けたのである。最前列には、かっての恩師や同僚達に混じってキラリと光る縁なしのメガネをかけたゾルタンの姿があった。学会の後で彼の家を訪ねる予定のやり取りの中で、今日の発表が私にとって何を意昧するかを知り、聞きに来てくれたのである。私は目頭が熱くなり危うく落涙するところであった。
 会長主催のの暗れがましいデナーパーテイでの祝辞や世界のオーソリテーとの交流など、学会発表の成功を身に染みて感じることので出来た数日間の公的行事の後、ワシントン郊外のヴァージニヤに住むゾルタンを家内と一緒に訪ねた。彼はニューヨークで歯学部を卒業した後、ワシントンで卒後の研修をし10数年前にこの地で開業していた。ヴァージニアの美しさを白慢するような、柔らかな風と暖かい日差しの午後であった。ワシントンから、ゾルタンの友人夫妻の車に便乗して1時間まどで着いた彼の家は、白い壁が印象的な瀟洒なコロニアルスタイルで緑と花に囲まれていた。大きな裏庭には、緑の芝生の上に真白のテーブルクロスのかかったいくつかのテーブルが置かれ、パーテイの準備が行われていた。少し頭に白いものが混じったゾルタンが、ジーパンにポロシャッツというラフなスタイルで我々を迎えてくれた。相変わらずの縁なしメガネであるが、ニコニコと微笑む彼の柔和な眼差しは、私の記憶の中に灼き付けられているゾルタンのイメージから程遠いものになっていた。私の家内やジャッキー夫人などが、ひとしきりお互いの紹介と手短な近
況報告のような会話をすませた後、さりげなく家の中を案内してくれる彼のゆっくりとした白信に満ちた物言いから、豊かさに加えしっかりと生活の基盤が出来ている落ち着きが感じられる。私が日本から送った武者絵が、リビングルームの壁に威張っているように架けられていた。その毛羽毛羽しい赤みの絵が少し不似合いに目立つほど、部屋全体がシックな薄い緑の色調に統一されていた。
 ゾルタンの仕事仲間の3組みのカップルと、近くに住むジャッキーの叔母一家がその日のバベキューパーテイに加わった。みんな親しい間柄らしく、打ち解けた会話が笑い声と共に交わされ、良き古きアメリカ甫部の中流家庭の一小間を切り出したような雰囲気であった。みんなの私への認識は、たまたま古い友人がワシントンの学会に来たと言う程度であり、30年前に私とゾルタンがユースホステルで出会ったエピソードなど話題にもならなかった。ジャッキーも私とは25年ぶりの再会であるのに、毎年のクリスマスカードで家族の写真を見ているためか、昨日会ったかのごとくお互いに家族のことなどを尋ねたり答えたりしている。会話が途切れふと気を許すと、ビールと時差が心地よい眠りに誘う。もともと英語の昔手な家内は、ジャッキーとハンモックのように揺れるベンチに座って話しているうちに短い時間ながら本当に寝入ってしまった。ジャッキーがクスクス笑いながら「彼女は疲れているようだからそっとしておきましょう」と言いに来た。ジャッキーの叔母が連れてきた3歳の孫娘が、舌足らずの言葉でみんなの会話に割って入ると、しばらくはその小さなプリンセスの邪気のない行動がみんなの関心を集めた。平和と辛せを絵に
書いたような午後の時間がゆるゆると過ぎていく。やがて三々五々とゲストが帰って行き、最後に子供ずれのジャッキーの叔母一家が帰ると急に静かになり、パーテーは終った。
 通常はパーテーの後も心地よい軽い興奮が持続するのであるが、私がバーベキュー台やテーブルを片付けるゾルタンを手伝いながら交わす会話は、不思議なほど淡々としたものであった。あの30年前の触れば血の出るような研ぎ澄まされた感性を思い出すことがタブーのように意識して避けているわけではなかった。逆にあの時の事が、遠い物語りの世界のようにさえ思われ、どのように言葉に出して好いか戸惑っているようであった。
 確かにあの時のゾルタンの生き方が、これまでの私の人生に大きな影を落してきた。ゾルタンに会ったならば、あの頃のことを、そして彼に会った故に切り抜けることができた私の人生でのさまざまなエピソードを語り出すのではないかと思っていた。しかし、側でニコニコしていれば十分である古い友人に会うような気持ちは予想外であった。その理由は明らかであった。私の思い出の中のゾルタンは、ドイツで一緒だった時の体全体に帯電していつも青い火花が敵っているゾルタンであった。今、目の前にいるゾルタンは、幸せな家庭の父として夫として、そして医師という社会人として揺るぎない安定を得ている。私の心の中でだけ、あのゾルタンは年をとらないで生きていたのである。
 ジャッキーと家内が、時々食器類の洗い物の手を休めては家事や家族の事であろう笑い声を立てていた。ゾルタンと私はどちらからともなく間わず語りにお互いの仕事の話しながら、パーテイに使った椅子やテーブルを地下の物置き部屋に運んでいた。それらの後片付けが一段落したところで、女性達は紅茶とケーキを、私達はブランデーを飲むことにした。
 広々としたリビングルームのソファーに腰を架けると、私がお土産に持ってきた喜太郎のCDが流れてきた。彼もこの音楽が好きだと言い、ひとしきりこのミュジッシャンが話題となった。彼がポツリと「故郷を感じる」と言った。それがきっかけで、かれがアメリカに渡った頃のハンガリーの話しになった。もう二度と踏めないと思った祖国の地を彼は何度か訪れており、両親はすでに亡くなっているが兄弟や親類縁者は彼の地に幸せな生活を送っているという。ハンガリーは東欧諸国の中ではペレストロイカ以前に白由化の方向に最も早く向かった国であり、政治経済の状況もかなり西欧諸国に迫っているという。
「でも、あの当時はひどかったよ。」と彼が眉をひそめた。それからはハンブルグのユースホステルでの人との出会の事などが、思い出のポケットから次々とに取り出され、断片的なお互いの記憶が一致するとしばし話しに花が咲いた。ユースホステルで会った生来のバガボンのようなトシの事は、自分とは相入れない生き方だと言いきりながらも、彼は彼の人生観だからと言葉を継いだ。彼のホステル宿泊の延長をかたくなに拒否たトルコ人のオーネンの事は、真面目一方のドイツ流の教育を受けた人だから仕方ないと、オーネンが私とゾルタンが親しくなるきっかけをつくったことを懐かしんでいた。その時に彼はユースホステルに止まることが出来ず私の部屋で雨の夜の難を逃れたことを思い出し、「あれがヒロとの最初の出会いだったかな、有難かったよコと言った。「そうだね、でもゾルタンにはその後やくざな運中から助けてもらったよ。思い出してもゾッとするけど、君がナイフを出したのには驚いたよ」「ナイフを出すなんて、そんな危ないことをしたかな」
 その物言いは、"そんなことがあったか"と言うよりは"そんなことするはずがない"という響きであった。「ほら、君が何時も持っていたあの白いナイフだよ」私は彼がすぐ思い出すと思って言った。しかし彼は「白いナイフ?どのナイフかな一」とロダンの考える人のようなスタイルで右手を額に当て、目を閉じて首をひねった。私には、一瞬彼が何を言っているのか解らなかった。あの白いナイフは彼にとって白分の分身のように心の中に大きな存在となっていると思っていたからである。ラインの湖畔で彼がそのナイフで手を突いたことを話そうとしたが、あまりに彼が恬淡としている。逆に私がなぜその白いナイフに拘るのか聞き返されそうで、言葉を濁して他の話題に話しを移した。
 その夜、私はなかなか眠れなかった。それは単に憤れないベッドというだけではなかった。
 私の人生にあれだけの影響を落した白いナイフは幻であったのであろうか。彼との出会いからの記憶の糸を、暗闇を見つめながら映画のフラッシュのように順を追って頭の中に投影してみた。どの場面でも彼は白いナイフと一緒であった。たとえそれが彼にとって数あるナイフの一つにすぎづ、幸せな安定を得た今は記憶の彼方に消えてしまったとしても、私にとってあの白いナイフは、ゾルタンの峻烈に生きる姿そのものであった。これでいいのだ。私は白いナイフを通じてゾルタンから多くを学んだ。そして彼がそれを必要としなくなったように、私ももう必要としなくなるのであろう。私達の青春の時代が消えてゆくように一一。