近代新生児医療発展の軌跡

はじめに

今日。日本の新生児医療は世界一の水準を誇る。その背景には、医学的な発展はもちろんのこと、日本人ならではのきめの細やかな管理や丁寧な観察、ケアの実践など、多くの先達の努力があった。本連載では、新生児医療にまつわるさまざまなキーワードを基に、我国の近代新生児医療の軌跡をたどる。

目次

第1章 新生児医療の地域化

第2章 新生児医療のidentityを求めて

第3章 我国における未熟児網膜症を巡る光と影の歴史(最終版)

第4章 脳と眼を守る血液酸素モニタにおける我が国の世界への貢献

第5章 新生児を股関節脱臼の悲劇から救う医学苦的・社会的活動

第6章 臨床医と技術者の情熱が世界に発信した石の肺でも換気するHFO

第7章 山下家の五つ子

第8章 荒井良とサリドマイド

第9章 山内とけい皮ビリルビン測定

第10章 中村と我国核黄疸予防の切り札

第11章 世界をリードする我国の超低出生体重児医療

第1章 新生児医療の地域化

はじめに
 これまで2年余にわたって、新生児医療の先達の足跡を私なりの目で描いてきたが、このシリーズでは、幾つかのキーワード(新生児医療の地域化・サーファクタント補充療法・HFOの臨床応用までの明暗・未熟児網膜症との闘い・古くて新しい黄疸の問題・経皮的酸素モニター法顛末記・その他)の下に、我国の近代新生児医療の歴史をたどってみたい。それらは、我国特有の医療問題であったものや我国が世界の先陣を切った医療技術などを、教科書などにはあまり記載されていない切り口とするものであり、物語のような気持ちで読んでいただければ幸いである。また前回の「新生児に生きた人々」のシリーズ同様に、学問的事実の重要性は踏まえながらも著者の視点から見た語りになることをあらかじめ了承いただくことを記しておきたい。それは歴史といえども誰の目で見たかによって内容が変わることは衆知の事であるが、それによって人間味が加わるという利点があると考えるからである。
 このシリーズの最初に地域化(Regionalization)を選んだ理由も全く個人的で、私が1974年に米国留学から帰国して日本でどうしてもしなければならないと考えたのが、新生児医療における生命倫理的考え方の導入と地域化であった。しかし、北里大学NICUには私がアメリカの一流のNICUで見た以上の機器と設備が揃っていたが、残念ながらその能力の一部しか生かされていなかった。私は飲み会の後に一人暗闇で家内が迎えにくる車を待っている間に、何故かぼんやり星を眺めながら「なんとしてもRegionalizationをしたい」と思った時のことを、映画の一シーンのように鮮明に覚えている。その頃アメリカで小児科と新生児の専門医の資格を獲得しながらも1年目のネーベン (2年目の医師の補佐役) 当直から始まる日本流の年功序列の中に組み込まれ鬱々としたものを感じていた私に、僥倖のようにJohns Hopkinsから何と新生医部門のスタッフ(assistant professor)としてのオファーがあり、再度渡米するかどうか大きく心が動いていた時であった。
幸い北里大学のある神奈川県には、これから語る小宮弘毅先生という正に新生児周産期医療のシステム化を最も良く理解している先達がいた。日本に残る決断をして近代日本新生児医療の幕開けに身を置き、多くの素晴らしい仲間と仕事をする幸せに浴することができたのも、神奈川県の新生児・周産期医療のregionalizationに参画したからである。この経験が自分の最も誇りとする仕事の一つであったところから、30年を経た後も自分の経歴の中に必ずそのことを記載している。

1.新生児・周産期医療におけるRegionalizationの意味
これまで早産児や病気を持った新生児の対応は、暗く静かな未熟児室に代表されるように児自身の力で回復する養育が中心であったが、1970年代になりNICUに代表される積極的な医療が新生児にも施されるようになった。その背景には、医学・医療の進歩も然ることながら、新生児といえども一人の人間であり、大人が医学の恩恵を受け助かるなら新生児も同様に積極的な治療を受けるべきである、という思想が社会に受け入れられてきたからである。
NICUには呼吸器やモニターなどを備えた高額な医療設備だけでなく、それらを使いこなす専門の知識と経験を持った医療スタッフが不可欠である。一方、妊娠・分娩は生理的な出来事であり、赤ちゃんの誕生はNICUのある大病院だけでなく全国津々浦々どこでも起こりうるものであり、さらに新生児の治療が必要な問題が一番発生するのは出生の時である。しかし、すべての分娩の場所にNICU並みの設備を設けるのは、費用やスタッフの問題だけでなく、ある症例数の入院が無ければそれらの機器を使いこなす技量や知識が磨かれないため、一定以上の医療レベルを保つためにもある程度の医療の集約化が必要となる。このようにNICUを装備した地域の新生児医療のセンター設置の必要性が、医療経済だけでなく医療レベルの担保という両方の意味から理解できるであろう。
図1・2は神奈川県の新生児医療地域化を共に仕事をした安達健二医師の極めて示唆に富む調査結果である。妊婦に「なぜこの病院を選んだか」を問うと、「家の近くだから」が最も多い。出生は人生で最も死の危険にさらされる時なのに、と言っても、子どもの世話や家事をしながら遠いNICUのある病院に10か月間通うことを選ばないことは十分理解できる。しかし、自分の通う産科診療所に何を希望するかを質問すると、最も多い答えは「赤ちゃんに異常があったら直ぐ病院に搬送してほしい」というものであった。お母さん方は生まれる時に新生児に問題が起こりうることを知っているのである。この母親の二つの「近くで出産したい」と「赤ちゃんに何かあったら直ぐ対応して」の希望を満たすのが新生児緊急搬送システムである。すなわち安心して子を産み育むという人間の基本的な要求に答えるという社会的意味においても       regionalizationは重要な役目を果たしているのである。
それ故、regionalization構築のためには、様々なレベルの医療機関の分布・人口動態・地理的条件・交通網などの条件を考慮し、その地域で最適な場所に最適なNICUを有するセンターを設置するプランニングが必要なのである。

2.マリーランド州におけるRegionalization構築の経験
私が1972−4年の2年間、新生児のフェローとして勤務したJohns Hopkins大学の基幹病院バルチモア市立病院は、丁度マリーランド州立大学病院のNICUと共同で人口400万のマリーランド州の新生児搬送システムを構築中であった。二つのセンターを中核としたのは、万が一院内感染や事故などで一方の機能がダウンしても他方がカバーするための理由と、搬送のヘリコプターなどは州の機関であり、それらの連携の為にも少数の機関が機能的であるという理由であった。アメリカの分娩施設は診療所レベルにはなく、すべてがその地域の中核病院(community hospital)か大きな私立病院であり、上司のReizenberg教授と共にそれらの病院を訪ね、新生児搬送の適応や医学的注意など講義して回った。NICUの壁には大きなマリーランド州の地図が貼ってあり、講義に行った病院にはブルーのピンを立て、搬送があるとそれを赤いピンに代えRegionalizationの広がりが一目瞭然となるようにしていた。親友の増本義が愛媛県でRegionalizationを開始した時も、県全体の大きな地図を彼の部屋の壁に貼り同様に赤いピンを刺していたことを思いだす。
マリーランド州は地形上その中央に入り込んでいるチェサピーク湾によって分断されているところから、搬送の多くは救急隊のベル社の小型ヘリコプターによってであった。私ともう一人のフェローのどちらかがほとんどの搬送に関わっていたので、日本に帰ってからしばらくの間、長女の華子はヘリコプターの音を聞くと「Daddy, Hospital」と言っていたほど、何度も搬送に関わってきた。それは単に専門医が行くという診療上の理由以上に、搬送を基盤とした新生児医療の地域化が重要であるという認識からであった。特に搬送システム構築の創設期であり、実際に現場に行って送り出し先の病院スタッフとコミュニケーションを持つことも重要な任務であった。ヘリコプター搬送は早いというメリットがあるが、振動と騒音で児の評価が難しい難点があり、また風に弱いのでその時は大型の軍のヘリコプターで兵士と一緒に何度か飛んだ。ヘリコプターはエンジントラブルがあると羽のある飛行機のようにグライダーのように滑空して不時着出来ないので危険度が高いと言われ、若いレジデントの中で乗るのを嫌がる者がいたが、幸い私の勤務中の搬送事故は皆無であった。
当時すでにボストンやニュヨークなどの大都市で、動くNICU等の名前で呼ばれる新生児搬送に特化した救急車が稼働していたが、マリーランドのように州全体をカバーする思想で組織化されたシステムはアメリカでもまだ少なく、Reizenberg教授と出席したニューヨークでの新生児搬送のカンファレンスでは、彼の発表が評判となり多くの質問や意見が集中した。その好評であった余韻で上機嫌のReizenberg教授が、帰りのハイウエーでスピードを出し過ぎて捕まったが、なんと「私たちはこれから重症な赤ちゃんの治療に行くので急いでいる」とパトロールカーを先導させてNICUまで戻り、人工換気中の新生児を見せてポリス達を煙に巻いたのである。正に新生児医療先進国のアメリカでも、regionalizationが始まったばかりであり、ヘリコプターや動くNICU並みの救急車での新生児搬送が新聞やTVに織り上げられた頃であったからの笑い話のようなエピソードがあった。そのような表面的な華やかだけでなく、regionalizationそのものが地域の新生児死亡率を明らかに減少させ、さらに新生児医療のレベルの向上に大きな役割を果たしていたのである。
私は米国の5年間の留学で小児科とさらに新生児の専門医の資格を取ったら、日本に帰ってその臨床の知識と経験を活かして仕事をする、と当初から考えていたので、小児科研修を終え新生児のフェローになる間に、2週間休暇を取って仕事探しに一時帰国した。その時偶然に訪れた新設の北里大学に、米国のどの施設にも負けないような最新の人工換気装置や血液ガス測定器などの機器を揃えたNICUが設置されていたことに驚き、その能力を地域に還元するregionalizationの構想に胸を躍らせたことは想像に難くないであろう。
 
3.小宮弘毅先生(以後敬称略、小宮)との出会いと神奈川県新生児搬送システム創設まで
帰国後、アメリカを凌駕するほどの設備を持ったNICUのある北里大学に勤務しながら、周囲にregionalizationの思想を理解する者はなく、院内出生の児の管理だけに使用されていたNICUは、私にとっては宝の持ち腐れのようであった。院内の関係する方々に働きかけ、外部からの依頼を受ける体制造りの小委員会を立ち上げたりしたが、遅々としてその話は進まなかった。そんな中で、日本の近代新生児学の象徴的存在であった名古屋市立大学の小川次郎教授と共に、「危急新生児の集中強化療法による心身障害発生予防に関する研究および新生児救急医療システムに関する研究」なるタイトルの厚生省心身障害研究班に携わっている小宮弘毅先生が神奈川県にいることを知って、かすかな希望を胸に抱いていた。
小宮は寡黙でむしろ訥弁であったが、その正直さと優しさの故か小宮学校と呼ばれる神奈川子どもセンターで新生児医療を学んだ錚々たる弟子たちがおり、そのほとんどが全国各地のNICUを立ち上げる中心となる仕事をしていた。私は小宮の直接の弟子ではなかったが会合などで顔を合わせる機会があるごとに、めくら蛇におじずの伝で「先生、神奈川県に新生児搬送システムを造りましょうよ」と声を懸けると、いつもニコニコと笑顔を見せながら「ウンウン」答えられていた。 ところが1977年11月に東京で行われた第22回未熟児新生児研究会(藤井とし会長)の帰り道、小宮が「仁志田君、今度みんなで集まろう」と答えられたのである。間もなくその呼びかけで、12−3人ほどの神奈川各地域の新生児医療に携わっていた代表的施設の責任者が集まる会が持たれたが、その連絡のみならずお茶やケーキ代までの手配を小宮が全部一人でされた。その会は特に名前もなかったと記憶しているが、それは1985年に全国的な新生児医療連絡会が生まれる8年も前のことであった。
そんな会合が2−3回持たれた頃、小宮が「県の調査費が付いたので、これからは事務方が付く公の会合になり、その会で決まることは実現するよ。」とおっしゃられた。小宮が県の医療行政の中核にいることは知っていたが、まさかと思った。しかしなんと県から正式な委嘱状が届き、1978年9月16日に第1回の神奈川県新生児未熟児連絡会が神奈川県保健医療センターで開催され。31病院の新生児担当医師が参加したのである。

4.行政と地域医療機関の共同システムによる神奈川モデルの新生児医療地域化
1970年に日本で2番目のこども病院(神戸と同時期)である神奈川こども医療センターが出来、年間300前後の新生児未熟児を収容していたが、それは県全体の需用の約10%程度であった。その後、神奈川県内に北里大学病院などいくつかのNICUがつくられおり、小宮弘毅先生が厚生省心身障害研究班で全県下を6ブロック(川崎、横浜、横須賀・三浦、湘南、県中、西湘)に分けて、穴川県の新生児医療の現状を知る目的でアンケート調査を行った。結果では、1床あたり年間10例収容できると仮定すると、ほぼベッド数は足りていると推定され、事実入院を断っている事例はほとんど無く、そのNICUベッド数でも病院相互協力システムが稼働すれば県全体の新生児収容は可能と考えられた。
そのようなデータを下に、県の「神奈川県救急医療問題調査会」に新生児に特化した「病院機能調査委員会」が設置され、その構成メンバーは医師会、産婦人科医会、および実際に新生児搬送に関わる施設の小児科責任者からなっていた。(表) さらに実質的な運営を行う段階の「新生児救急部会」には、そのスタートから小児科・新生児だけでなく産科婦人科医が主要メンバーに加わり、さらに会の長に新生児科医でなく、医療事情と行政との関わりの機微に精通している実地開業小児科医の相見基次県医師会理事を起用したことである。多くの地域で産婦人科と新生児科の間に軋轢が生じていることや、小児科医師の世界で新生児は特殊とみなされていたことを考えれば、小宮の采配の妙を見る思いであった。
1979年11月―1980年1月の間の新生児救急医療に関する調査では、調査分娩施設(554施設)からの搬送例1054人の内、平日時間内は94%が受け入れられたが、休日夜間は27%が受け入れ困難を経験していた。そのデータを基に、6ブロックに一か所の基幹病院(横浜のみ二か所)と複数の効力病院からなる搬送システムが構築された。基幹病院は大学病院やこども医療センターのように人工換気が可能なNICUを有する施設であるが、協力病院は当初は参加を希望する施設すべてを含め、2年後の実績で実情に合った選択がされることとなった。この地域化の基本シェーマは後に厚労省が全国展開した周産期医療システムの原型となっている。
搬送システムは、聖隷浜松・聖マリア・香川子小児のような動くNICU か、東京・岡山のように公的救急車利用かの検討で、神奈川県全体のシステムとして自治体救急隊(消防本部)を利用することとした。1980年11月に「神奈川県新生児救急搬送システム協議会運営要綱」を作成。国産アトムV-80TRトランスカプセルを採用し、32か所の基幹・協力病院すべてに公費で配置した。さらに当時の神奈川県の新生児死亡率(5.0)を日本最良の岡山県(3.2)並みにするために、年間10万出生の内180名の新生児を救命する目標を立て、それに伴って心身障害児(生涯医療費経費2億円)の発生も低下する経済的利益を訴えて、各基幹病院にNICU1床分の設備整備(呼吸器やモニターなど)助成(1500万円)および運営補助費(待機医師の費用など)を基幹病院(年間500万円)と協力病院(年間250万円)の公的助成を獲得した。1981年度の実施が定まり、「神奈川県新生児救急医療対策事業実施要綱」及び全県下の消防本部との話し合いの結果「神奈川県救急搬送システム協議会運営要綱」と「新生児救急搬送実施要領」が定められ、1981年6月1日より試行的実施が始まった。
新生児搬送システムが開始した6月から9月までの4か月間の試行結果の検討では、搬送数446(月111.5名)であり年間に換算すると1338名と予想され、発足前の試算を若干だけ上回る程度で収容不能例はなく、ほぼ実施前試算及び推定が適切であったことが確認されシステムは順調に機能していると評価できた。
このシステムの導入により、神奈川県の新生児死亡率は1980年の4.9から1981年に4.2と改善し、同期間の全国値の低下0.2(4.9から4.7)より良好であった。(図 3) 既に香川県・静岡浜松地区などで、搬送システム導入により明らかな新生児死亡率の改善が記録されているが、いずれも人口100万程度の地域であり、神奈川県人口800万余の規模での改善は特筆されるべきであろう。

5.神奈川県における新生児搬送システムから周産期搬送システムへの進化
新生児死亡の半数以上は早期新生児死亡であり、また障害児を減らす出生時からの適切な新生児管理のためにも、母体搬送(fetus in uteroの搬送)が理想であることは衆知の事実であった。さらに周産期死亡の2/3は後期死産であり、また当時(1980年頃)のわが国の妊産婦死亡は20/10万出生(現在は5程度なっている)とスエーデン(5/10万出生)の4倍であったことから、妊娠後期胎児死亡や母体死亡を減少させることも周産期搬送システムの重要な目標であった。
1981年の新生児搬送システム開始2年後の1983年6月に産科救急医療システムを検討する産科救急部会が設置されたが、小宮はその最初から周産期搬送システムに発展しなければならないことを視野に入れ、新生児救急部会にスタートから産婦人科医師を加えていたので、会長が小児科医の相見基次のまま全メンバーが横滑りした形となった。またハイリスク新生児に対応できる病院が母体搬送を受け入れる病院となるところから、新しい周産期救急医療システムとなってもその構成は新生児システムとほぼ同じ体制となったのは当然であった。この産科救急医療システムが発足したことは、先行した新生児搬送システムとのドッキングで周産期医療地域化システムが出来たことを意味し、人口800万を超える都道府県単位のシステムとしては全国初であった。
周産期救急医療システムは1984年に試験的に、1985年6月より正式に開始したが、それによって新生児搬送が減少する傾向は年を追って明らかとなった。1990年には母体搬送の60%が早産児出産で、特に超未熟児においては新生児搬送が41から22と半減し、母体搬送によるものが45から89と倍増している。新生児死亡率も漸減しRDSによる死亡は例外的となったが、先天異常による死亡が54%と半数以上を占めようになり、超未熟児搬送例の増加とその生存率の向上からNICUの適正ベッド数の再試算が必要なった。

おわりに:
我国の新生児搬送の歴史の中では、一か所の施設が広範囲をカバーする所謂ガリバー型の地域化として、スパーマンのような橋本武夫が率いる久留米市の聖マリア病院が福岡県や佐賀県の約200万人口の地域で、また聖隷浜松病院の柴田隆が中心となった浜松地域で、展開されたものが有名である。特に聖隷浜松病院はわが国最初の本格的な近代NICUを核としたものであること、また聖マリア病院がわずか10年余で世界一の規模のNICUに発展したことは、各々長く記録に残る出来事であろう。 一方、多施設をネットワークでつなぐ地域共同型の地域化の嚆矢は、竹内徹・鶴原常雄・藤村正哲等が1977年に大阪地区で組織した新生児医療相互援助システム(neonatal cooperative mutual system,NMCS)である。NMCSは新生児関係の医療者による自主的運営組織として発足したが、1980年には大阪市・府及び医師会を含む組織に発展し、さらに1987年には産婦人科診療相互援助システム(0bsteteric & gynecological cooperative system, OGCS)の発足を誘導し、名実ともに周産期医療の地域化を達成していった。この連載と時を同じくして、新生児医療の地域化の要である新生児搬送システムに関し、我国におけるその歴史と現状を集約したすばらしいmonogram(新生児緊急搬送ハンドブック、藤村正哲・白石淳「編)、MCメジカ出版、2012」が発刊された。二人の編者の、近代新生児医療構築にRegionalizationが不可欠である、という思いは筆者と同じであることを改めて確認するものであった。

人口800万を超える神奈川県の、行政のサポートを受けた新生児さらに周産期医療の地域化は、大阪のNMCS同様に新生児科医のmotivation が初期の機動力となり行政を巻き込み、さらに産科側を組み込んで発展していった。現在厚労省が中心となって全国規模の周産期システムが構築されつつある時に、その背景にある現状や問題を理解する上で、その初期から公的組織と連動するシステムを目指した神奈川県の新生児周産期医療地域化の、歴史的歩みを振り返ることは意義深いものと確信している。

引用文献
* 安達健二:シンポジウム「新生児医療の地域化とその対策」、(指定発言)実地医家の立場から、日本新生児誌 18(1):120−123、1982
* 小宮弘毅:神奈川県の新生児医療システム (1)神奈川県新生児未熟児連絡会設立、   こども医療センター医学誌 9(1): 12−6,1980 
* 小宮弘毅:神奈川県の新生児医療システム (11)新生児救急医療システムの評価と今後の方針、同上  12(1):19−24、 1983
* 小宮弘毅:神奈川県の新生児医療システム (14)周産期医療システムへの発展の動き     同上  13(1):60−62.1984
* 小宮弘毅:神奈川県の新生児医療システム (17)産科救急部会報告について         同上  14(1):15−22,1985                                                        
* 小宮弘毅・後藤彰子:神奈川県の新生児医療システム(19)昭和60年度の新生児及び産科救急医療システムの結果
                                              同上 16(1):10−16.1987
*仁志田博司:神奈川県における新生児救急医療システムの確立までの歩み、日本産科婦人科学会雑誌 20(2):128-134, 1984
*仁志田博司:地域の新生児救急医療システム、母子保健 303:6-7, 1984

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第2章 新生児医療のidentityを求めて

新生児医療連絡会「創立20周年記念誌」を読み返してみると、当時なんと多くの叫びのような「新生児医療のidentityを求めて」の言葉が飛び交っていたかが、痛いように思い出される。
その象徴的なエピソードが、本誌誕生の時の故長谷川良人メジカ前社長と筆者のやり取りであった。内藤達夫や橋本武男等とビジネスを超えた心の交流をしていた長谷川は、こんなに純粋な人たちが身を粉にして新生児医療に夢を託している姿にエールを送りたい、と新生児に特化した雑誌「NICU](現在のNeonatal Care)を創刊した。その相談を受けた筆者の「ありがたいが、とても採算が取れないでしょう」というコメントに、「皆さんの求めている新生児医療のidentityのよりどころになれば良いんです」という答えが返ってきた。胸が熱くなる思いで、その1巻1号に「NICU創刊にあったて」を書いたが、それはこぼれる涙を抑えるように逆に淡々とした文となってしまった。もう四半世紀も前のことであった。
本項では、産婦人科と小児科の狭間にあって新生児医療に情熱を傾けた者たちの苦難の状況と、そこから一本の蜘蛛の糸を手繰るように這い登って現在の世界に冠たる成績を誇るに至った我国の新生児医療の軌跡を、その渦中に身を置いた者の一人として振り返ってみる。

  • なぜ新生児医療・新生児科医のidentityが求められたか

人は人生の中で、死その時を除けば出生の時に最も死の危険に晒される、と言われるごとく、乳児死亡(生後1歳までの死亡数)の半数以上は生後28日までの新生児死亡である。それ故、これまで赤ちゃんが死ぬのは仕方がない、とされてきたが、1970年代のNICU導入による近代新生児医療の幕開けと同時に、我国でもこれまで手をこまねいていた未熟児や病的新生児に医療が施されるようになった。
新生児に積極的な医療が行われるようになった歴史的背景には、医学・医療技術の進歩も然ることながら、私たちの新生児に対する考え方において二つの重要な変化があった。その一つは、「物言わぬ赤子でも素晴らしい能力と可能性を持った私たちと同じ人間である」という、新生児の学問的知識に育まれた倫理観が生まれてきたことである。もう一つが、「強い良い種子(遺伝子)が残ることが人類を進化させたのであり、未熟児や病的新生児を助けることは自然淘汰の摂理に反する」という、誤った社会ダーウニズムの呪縛からの脱却である。ダーウィンの「種の起源」を、突然変異で生まれた強い生き物が弱いものを駆逐して進化していった、と誤解している者が医療者の中にも少なくないが、ダーウインは「種は置かれた環境に適応して様々に変化していった」と述べているのである。同じ種であるフィンチという鳥が、ガラパゴスのたくさんの島で各々の環境に適応した変化していることから、「すべての生物は最初から神がその運命を定めたのではなく、長い年月の間に環境によって様々に変化していった」という、種の多様性を発見したのである。正に金子みすずの「みんな違って、みんな素晴らしい」という詩のごとく、未熟児も病児も、さらに障害のある児も、社会の構成員として重要な役割を担っていることが理解されるようになったことが、新生児医療を押し進める大切な基本思想となった。
医療におけるその具体的な表れが、大人が集中治療で助かるなら新生児にも同様に集中治療を行うべきである、という考えから生まれたのがNICUである。しかし我が国では1980年代になっても、80ある医科大学の中でNICUを有して近代新生児医療が行える大学病院は1割に満たなかった。そのような時代背景から、第一線の医療機関でたまたま重症新生児に遭遇した医師が使命感から救急処置をしたところ、上司から「お前が挿管したのだから自分の責任でやれ」と言われ、3日3晩当直してようやく救命したRDSや仮死の症例を経験した若い医師が、やがて新生児医療の重要性と面白さに引かれ、その施設の新生児担当となっていったのである。
後に述べるように、産婦人科からは自分たちの聖域に土足で踏み込んできたよそ者のように見られ、また小児科からも狭いNICUで夜昼なく働いている変り者のように見られ、肉体的にも疲労困憊しながらも、目の前にいる新生児の為にその情熱を注いで働き続けていた若者たちが、仲間を求め自分たちの存在価値を求めたのは当然のことである。その思いの表現型が、identity(帰属意識・自己の存在証明)であった。 

  • 産婦人科との軋轢

既に筆者は新生児学入門などで繰り返し記載しているごとく、世界で最初の未熟児センターをパリに作ったのは産科医のPierre Budinであり、また我国最初の新生児専門書「新産児病学」(1940年)は産婦人科医の小南吉雄によるごとく、歴史の中で新生児医療は産婦人科のテリトリーであった。 
一方, 小児科医の三宅廉が、「外来で見る障害児の多くが新生児期に未熟児や黄疸などの既往があるところから、小児科医も新生児さらにはそれ以前の周産期医療にまで関わらなければならない」と看破している如く、小児科医の新生児医療への参入は時代の必然であった。それが可能となったのは医学・医療の進歩によって、これまで児の生きる力にそのほとんどを委ねる新生児・未熟児医療に、学問と技術が加わるようになったからである。それに加えて、「新生児も我々と同じ人間としての尊厳ある存在である」という理念が、医療界だけでなく社会に受け入れられるようになったからである。
1970年代になり呼吸管理を中心としたNICUが導入されると、これまで産婦人科医が分娩の片手間で行っていた新生児管理とは医療内容ががらりと変わり、新生児医療が産科を離れていったのは当然である。しかしその移行期には、ある大学で新装なったNICUを小児科管理としたところ、「私たちの先輩が営々として築きあげてきた新生児というテリトリー(領域)を小児科に譲るとは出来ない」と、ひと悶着が起こっている。また当時厚生省母子保健課の課長補佐であった関修一郎が、これまで産科主導であった厚生省の周産期・新生児関係の研究班構成を新生児と半々程度に組み替えたところ、錚々たる産婦人科の教授が集まっている東大産婦人科の医局の一部屋に呼び出され、「これからこの世界で生きて行けると思うか!」と恫喝もどきの叱責を受けたという。男気のある関修一郎は、我国の周産期・新生児医療の発展に相応しい両分野のバランスに配慮した研究費配分を貫いたが、それが後の周産期・新生児医療体制の確立に大きく貢献したのである。
また人口に膾炙したいわゆる西南病院事件は、高知の県立西南病院に当時としてはまだ珍しい665gの超低出生体重児を見事に成育させた小児科の澤田敬が勤務していたが、産婦人科を開設するにあって医師が派遣することになった高知医大の産婦人科教授が来て、大学病院同様に西南病院でも「新生児は体外胎児だから1歳までは産科が診る」、という講演をしたことに端を発している。その発言を聞いた増本義が、公の場でそれを時代錯誤と批判し、また筆者も新生児医療連絡会のニュースレターにそのことを記載したことから、感情的な諍いとなり、増本が涙を流しながら詫び状を書いて一件落着した出来事であった。
このような新生児医療に関する産婦人科と小児科の両学会の古色蒼然とした覇権主義の争いのエピソードの中で、筆者の記憶に新しい出来事は標榜科と「プレネータルビジット」を巡るものであった。標榜科に関しては、当時の厚生省の専門医制度の整備に連動して「リウマチ科」などの新しい幾つかの標榜科が創られた時であり、「新生児科」でなく「未熟児科」なら産婦人科側も飲んでくれるであろうと、話し合いが不十分のまま小児科学会が単独で厚生省にその要望書を提出した。それに対し産婦人科側は日母医報(19865年9月1日号)に「新生児(未熟児)診療にかかわる標榜科新設について」と題して、医療の現状を無視した暴挙である、と激しく反論し、小児科側が自主的に申請を取り下げたのである。
今から冷静に考えれば、当時の開業している産婦人科医にとって、専門の新生児科医どころか小児科医が新生児を診るシステムになっている施設は例外であり、新生児診療を小児科に取られるという以上に、もし医療事故があったら専門でない産婦人科医が新生児管理をしていることを咎められる、という切迫した危機意識からであったことが理解できるであろう。外科系の医療である産科は麻酔科や複数の医師を必要とする時代になり、お産は次第に限られた施設に集中化してきたが、しかし都市とは違って地方では、まだまだ一人の産科医がお産から新生児管理までをせざるを得ない現状は変わっていない。
「プレネータルビジット」は、より良い母子関係確立という極めて新生児・小児科よりの目線からの考えであるが、厚生省のモデル事業として発足した。標榜科の時と同様に小児科側だけで、風疹などの母体感染症に関する母親への指導、などを記載した要綱を作成したところから産婦人科側の逆鱗に触れ、すでに印刷した数万部の冊子が廃棄処分にされた。
それが切っ掛けとなり、両学会共同の「新生児に関する合同委員会」が生まれ、新生児に関するコンセンサスを共有する作業が定期的に行われるようになった。筆者は最も若い委員としてその会に参加し、両学会の意向を擦る合わせる作業などを通じて、産科側の委員たちと丁々発止とやり合ったが、多くのことを学んだ良い経験であった。その初期のころには、産科側の意見に対応する模擬答弁をつくったこと等を笑い話のように思い出す。
米国でも、かっては同様に産婦人科が新生児管理をしていた時代があり、コロンビア大学では麻酔科のVirginia ApgarやStanly Jamesが新生児の責任者であった。しかし筆者が新生児フェローをした1972−4年頃には、アメリカでは生まれる前から子供の小児科医を決めるほどに、新生児医療における産科と小児科の覇権争いなどは昔話にも出なかった。
わが国においてもNICUを核とした近代新生児医療が普及してきた1974年に米国から帰国した筆者は、その点で幸運であった。最初に勤務した北里大学の産婦人科には、新生児の取り扱いの写真集などを出して数少ない新生児の専門家と目されていた島田信彦が勤務していたが、私と共に仕事を始めると間もなく「餅は餅屋だよ」と屈託なく新生児管理をすべて私に託し、自分は母体・胎児管理に専念されたので、お互いに尊敬はすれども軋轢などは全くなかったのである。さらに1984年東京女子医大に新設された母子センターに移籍した時も、所長であった産婦人科医の坂元正一は、新生児のことはすべて君に任せると、と言ってそれを実行してくれた。その後任の武田佳彦は新生児の糖代謝を研究テーマする数少ない新生児に興味を持つ産婦人科医であったが、自分も新生児の専門家であると口にはしたが、表立って新生児医療に介入することは無かった。橋本武男が、一時「小児科医なのに産婦人科の軍門に下った仁志田を殴る」と誤解していたが、私がわが国の新生児医療の進歩のためにした功績の一つが、産婦人科の周産期・新生児の分野で最も影響力のあるオピニオンリーダーであった坂元正一と武田佳彦に、「新生児医療とは」を示して理解せしめたことである、と自負している。
現在は産婦人科と小児科の新生児を巡る歴史を経て(表1)、両者は我国の母子医療の安寧と発展のために協調する体制となっており、各々の立場のidentityを担保する考えから、日本周産期・学新生児医会は、周産期専門医を周産期(母体・胎児)専門医(PerinatalObstetrician)と周産期(新生児)専門医(Neonatologist)に分けて、2004年より周産期専門医制度を発足させた。 新生児専門医は2007年に、母体・胎児専門医は2009年に、各々最初の認定医が誕生している。両専門医が仲間として働くようになったのは、表面的な組織だけでなく、新生児学の祖と目されるClement Smithの、“Neonatology Yesterday, Perinatology Today”の言葉のごとく、新生児専門医もすべからく母体・胎児の病態と生理を学ばなければならない時代となり、 産科医療もNICUの仕事同様に24時間365日のいつ救急時が発生するかもしれない妊婦と胎児管理の仕事である、とお互いを理解するようになったから、なのである。

  • 小児科の中の新生児医療のidentityの確立

 筆者は第98回日本小児科学会(1995年3月、岐阜)シンポジウム「小児科医が未来を見つめて今なすべきこと」で、大学病院に勤務する医師の立場で発表することになり、日本とアメリカの小児科医の現状を調査し、両者の境遇の余りの大きな差に愕然とした。大学における教育スタッフの数が、米国では小児科は内科の次に多く約半分で、一般外科より多く産婦人科の3倍以上であったのに対し、日本では東大や慶応の小児科教授が一人であることに象徴されるごとく、その規模でマイナーの科と呼ばれる皮膚科や眼科と同様であった。
 なぜそんなことを言うかといえば、新生児は小児科のsubspecialtyであるとするならば、その母体の小児科の貧弱さが新生児科医のトラブルの問題になっていると考えられるからである。小所帯の小児科が、手間暇のかかる新生児を産科に任せて、珍しい症例だけを拾い上げて小児科の対処としてきたのが現実であった。近代新生児医療が24時間365日の集中治療を必要とするNICUを核として発展してくると、ほとんどの大学の小児科はそれに耐えられる体力が無かった。筆者が北里大学で0歳から2歳までの乳児病棟の主任をしていた1975−7年の間に、管理上の便利さから5つあった重症児用の個室を統合して大部屋とし、当時はPICU(小児ICU)の規定がなかったので、HCU(high care unit)と呼ぶ小児ICUのprototypeを造った。後に北里大学はわが国でも最も早くからPICUを持つ施設となったが、2012年でもPICUを持たない大学病院が多い中で、既に1970年代にHCUを造ったことが、僅かながらもそのことに貢献しているのではないかと密かに思っている。
北里大学は先進的な考えを持った坂上正道が小児科教授であったこともあるが、既にその当時から出向する小児科医は新生児のローテーションを終えなければならなかった。それは新生児医療の特徴(表2)が救急医療であり地域医療であったからである。その頃は大学病院でも、全く新生児のトレーニングを受けないまま小児科医として働いている者が珍しくなかった。それどころか、某有名大学の小児科教授が、新生児医療は小児科の足枷になっている、と公言して憚らなかった。その理由は手間暇の掛かる新生児の臨床のワークロードが研究の時間を奪い、小児科全体にマイナスの影響を及ぼすというものであった。
確かに、NICUという城にこもっているような新生児科医と一般小児科の間には、新生児学会には出るが小児科学会には出ないと公言して憚らない新生児科医が少なくなかったように、小児科一般とは違った職域集団のような溝があったことは否めない。事実、アメリカ小児学会(AAPやSPR)の演題の半数以上が新生児関係であったのに比べ、日本小児科学会でトイレの隣を探せば新生児の会場、という戯言が言われるほど、最も不人気な小さな部屋をあてがわれていた。藤村正哲が後に述べる新生児医療連絡会の事務局長時代に、みんなで小児科学会に演題を出してトイレの隣から脱出しよう、と会員に檄を飛ばし、なんと数年で新生児の会場は最も大きな会場になったのである。ことほど左様に新生児を専門とするものは、新生児屋と揶揄されるように呼ばれ小児科の異端児扱いされ、また新生児科医自身もそれに甘んじて小児科全体を斜めに見ていたのは、ついこの前までのことであった。
 歴史の中の大きな出来事は、東邦大学において多田裕が日本で最初の新生児学教授となり小児科から独立した新生児に特化した教室を主宰したことであり、現在は依田教授に引き継がれている。 さらに、現在はいくつかの大学で新生児に特化した臨床教授が生まれ、各々一家をなして臨床のみならず新生児の教育や研究に従事している。 しかし、今でこそ新生児を抜きにして小児科が語れないようになったが、NICUを活動の中心とする新生児医療は、まだ十分に小児科の中に溶け込んでいるとは言い難い。その理由は、1994年小児麻酔科医の宮坂勝之が中心となって日本小児集中治療研究会(後学会)を設立してから20年になんなんとするが、いまだわが国の小児科がPICUを持ちえないほど脆弱である体質があまり変わらないからである。幸い我国のPICUを発展させたいと夢を抱いて、北米でトレーニングを積んでいる有能な若い医師たちが少なくない。NICUが導入されて世界のトップレベルとなった新生児医療同様に、PICU導入によってわが国の小児医療の体質が強化されることが、振り返って新生児医療の更なる発展につながることが期待できるところから、筆者は新生児科医として彼らにエールを送りたい。

  • identity確立に新生児医療連絡会が果たした役割

日本最初の小児病院の2代目の新生児部長となった内藤達夫は、初代の奥山和夫が突然昭和大学に転出したため、海千山千の部長の中で最も若い部長としての苦労を味わっていた。当時はNICUのある施設が少なかったことから、内藤の下には全国から若い医師が新生児を学びに来ていたが、お役所仕事ゆえに新生児部門もアレルギーや内分泌部門などと同様に、新生児部門も信じ難いことに、一人の部長と一人の医員という体制であった。24時間の集中医療と365日の当直体制が必要なNICUを有するところから、内藤は何度も部長会議で増員を願い出たが、アレルギーでも夜間救急がある、と冷たくあしらわれていた。
そんな内藤が苦しい胸の内を話せる仲間の会を創ったが、それはちょうど関東にあるNICUの施設長が昭和39−43年卒業であったところから「41±2の会」と命名された。それは会則もなく、気が向いたら不定期に誰かを講師に呼んで集まり、自分たちの置かれた現状の不満のはけ口としていたところから、「中年新生児屋のボヤキの会」などと呼ばれていたが、それはまさに自分たちのidentityを模索する作業のようなものであった。
1983年岩手で行われた第28回未熟児新生児学会の折、内藤を中心に新生児仲間が集まり、自分たちの置かれた現状を語り合った。そこで明らかとなったことは、前述した西南病院事件のような産科からの圧力も然ることながら、小児科の中の新生児の立場の不安定さと、光の見えない暗い道を歩くようなNICUの労働環境であった。内藤は、その帰り道で私に新生児医療連絡会の構想を熱く語った。いくつかの紆余曲折の後に1985年7月新生児医療連絡会が設立されたが、内藤は裏方に徹し私が事務局長となってスタートした。
そのわずか半年後の大晦日に、内藤は連絡会の船出を見送るように亡くなった。内藤の求め続けていた、新生児医療とそこに身を置く新生児屋のidentityの寄る辺が、新生児医療連絡会であることを痛いほど知っている残された者は、内藤の思いを壊してはいけないという思いから、なんとしてもこの組織をばねに新生児医療の確立を目指す前進を始めたのである。
1988年に新生児医療連絡会は、その事務局を東京女子医大母子センターから大阪のメジカ出版内に移動し、名伯楽藤村正哲を事務局長にむかえた。生え抜きのボーイスカウト精神「Be prepared:備えあれば憂えなし」の精神を体得している 藤村の、周囲の状況と先を見る目を備えた卓越しorganizerとしての能力と、自分よりは仲間をという共生の心に、連絡会は大化けしたのである。新生児にかかわる事柄に関しては厚生省からも学会からも、連絡会の方々はどのような意向ですか、と必ず意見を聞かれる立場となった。それは、全国の主なNICUの責任者の8割以上が会員となっており、行政が必要な新生児関係のデータを瞬時に手元に集積出来るシステムを藤村が作り上げたからである。そのようなデータを基にした厚労省への働きかけにより、今や新生児部門は小児科の中で最も医療経済的に恵まれた立場となっている。
病院の中で手間暇が掛かるだけで収益がわるく、さらに未熟児網膜症などの訴訟のリスクを抱えた新生児医療は、かってはどの病院でも鼻つまみであった時代を知る者にとっては、正に隔世の感である。内藤達夫や増本義が追い求めた新生児医療のidentity確立の夢が、ようやく現実となったことを彼らに是児知らせたいと思うのである。

  • 赤ちゃん成育ネットワーク:NICUを離れた新生児専門医のidentity

今の若い新生児科の医師たちには想像できないかもしれないが、NICUで重箱の隅を突くような仕事をしている連中は「潰しが効かない」から開業できない、と周りの小児科医から揶揄されていた。私は、「新生児医療こそ頭の先から足の先まで全身を診る上に、発育発達にも詳しい小児のgeneralist(総合医)である、さらに挿管等の救急対応が出来るし、地域医療に配慮することを学んでいるので、小児心臓やアレルギー科などに細分化された小児科医より第一線の開業の場で優位である」、と確信していた。
このようないわれのない中傷による、新生児医療に従事する若い医師の「俺たちの将来は大丈夫なのだろうか」という懸念を払う目的で、1994年に私が会長をした第39回未熟児新生児学会で「新生児OBは今」なるワークショップを企画し、黒柳充男と新津直樹の二人に座長をしてもらった。私たちの予想に反して、そのワークショップは並列して開催された幾つかのワークショップのどこよりも好評で、部屋に入りきらないほどの参加者となった。それだけに新生児proper(特化した)として働く者は、その将来に不安を持っていたことが伺えた。その理由は、新しい分野であること以上に、新生児医療と新生児科医のidentityに不安を持っていたからに相違ない。
そのワークショップで交わされた熱い思いが座長をした新津直樹を突き動かし、彼が中心となって開業している小児科医に声をかけ「新生児OBの会」が生まれた。開業医として休みを取ることが難しい中を新生児関連の学会の折など集まり、各々のNICU時代の苦労話や開業してからの仕事ぶりなどを話し合っていたが、やがて「新生児OBの会」は新津直樹を会長に江原伯陽を事務局長にした「赤ちゃん成育ネットワーク」という組織に発展していった。
年に一度の正式な会合以外に、ネットワークの名前のごとく電子媒体を介して頻繁にお互いに情報を交換しながら、初期には各々の地域でNICU退院児のフォロアップを介し、かって自分たちの青春を過ごしたNICUの活動をサポートしていた。近年はさらにその活動をグレードアップし、重症児の在宅ケアもその守備範囲に入れるようになり、小児外来学会などで重要な役割を担うようになっていった。
私が予言したごとく(当然のことで予言というほど大げさではないが)、「赤ちゃん成育ネットワーク」に参加している新生児OBのほとんどは、地域の小児科開業医の中で最も成功している。それのみならず新生児OBのほとんどは、障害児の在宅支援などの地域の小児医療に積極的に参加しており、NICU勤務時と同じような高いmotivation を持ち続けて母と子の医療に携わっている。最近は、小口弘毅による素晴らしい会報が発行されており、ホームページでその活動の内容を閲覧できる。

  • 新生児看護師のidentityの確立:新生児看護学会設立

新生児看護学会は、その設立趣意書に「わが国でNICUにおける看護が定着するにつれて、未熟児新生児看護を標準化し向上させていくために、 さらに専門領域の一分野として確立していくには、全国的なネットワークを作り、その中で研鑽し合うことが不可欠であるということが看護職の間で意識されるようになった。」と記載されている如く、正に新生児科医たちが、そのidentityを求めた過程に類似していることが分かるであろう。
新生児看護師のidentity確立の歴史は、横尾京子(現新生児看護学会理事長)が単身日本未熟児新生児学会の役員に交渉し、1991年に多田裕が会長をした第36回未熟児新生児学会の折に、その会場の一部を利用し第一回日本新生児看護研究会(後学会)を開催したことに始まる。既に第一回から200名を超える参加者があり、間もなく500名を超えるようになった勢いは、新生児科医同様にNICUで働く看護師も、他の職種と違った厳しい勤務環境と、それを補って余りある母子医療に対する素晴らしさの思いが、マグマのようなエネルギーとなっていたからである。
新生児医療では、特にNICUにおいては、医師と看護婦はほとんど上下関係がなく、共に母と子の為に戦う戦友のような心のつながりがあった。筆者が働いていた東京女子医大母子センターでは、保育器から出る時期や経口哺乳を開始する時期だけでなく、抜管やモニターセッテイングの急性期の管理においても、看護サイドの意見で決めていた。医師同様に看護師も急激な勢いで進化してゆく新生児医療に従事しているプロとしての意識から、看護師の視点からの研鑽の場を求めたのは当然であった。その表れとして、やはり横尾京子の精力的な努力で、2004年より彼女の新しい勤務となった広島で、広島県看護協会を教育機関として、日本新生児看護学会のバックアップのもと、新生児集中ケア認定看護師の養成がスタートし、2005年に30名の新生児集中ケア認定看護師が誕生している。
それは新生児専門医制度の認定医が生まれた2007年より早かっただけでなく、その研修内容が6か月の研修後の資格試験と厳しいものであり、その新生児看護のidentityを求める志の高さは、医師たちを凌駕するものであった。

最後に
我国の新生児医療の歴史の中で、幼い子どもの命を助けようと、今でいうニッチと呼ばれる明日の無い泥沼のような産婦人科と小児科の狭間で、心身ともに疲弊していた若い医師たちが、自分たちのidentityを求めて歩んできた道を振り返ることは、苦しさの中から夢を追い続けた先達の生きざまに思いを馳せ、私たちに更なる勇気を与えるものである。乗り越えてきた新生児医療の背景にある問題の根は、現在でもまだ存在しており、私たちは現状に満足することなくさらなる前進をしなければならない。
そのために先達が勝ち得た智慧は、新生児医療連絡会や成育ネットワークなどに代表される共に働く仲間の力であり、また新生児医療の両極に位置する産婦人科と小児科との相互理解と共生である。産科・周産期医療に携わる仲間は産婦人科の中では少数派であり、その置かれた立場の苦しみは私たちときわめて類似していることを知れば、共に同士のようになるであろう。小児科との関わりにおいても、故Mary Avery 教授が恩師Clement Smithから、新生児科医はその子どもの良き小児科たれ、と教育されたことを思い起こせば、一歩歩み寄って共に母と子の為に手をつなぐようになるであろう。長い道のりを歩んで、私たちはもうそこまで来ていると確信している。
(文中の各氏の敬称を省略した。末尾ながら各位お詫びする。)

(表1)産婦人科と小児科の新生児を巡る歴史経緯  
 小児科側の歩み:主に未熟児・病的新生児を対象に

  • 1955年   未熟児の会
  • 1958年 第1回未熟児研究会
  • 1964年 第7回未熟児新生児研究会(改名)
  • 1986年 第31回未熟新生児学会(改名)

産科側からの歩み:主に新生児科管理と周産期を対象

  • 1960年 新生児委員会(産婦人科学会内に)
  • 1962年 新生児勉強会(小児科も参加)
  • 1963年 第一回新生児研究会(新生児勉強会が発展)
  • 1965年 第一回日本新生児学会(新生児研究会が発展)
  • 1983年 第一回日本周産期学会
  • 2004年第40回日本周産期・新生児学会

  (第40回新生児学会に周産期学会がドッキングし、
   23回周産期学会は、2005年からその冬期開会として継続)

(表2)新生児医療の特徴

  • 新生児は小さく脆弱で、その管理に特殊な技術を必要とする
  • 未熟性に起因する特殊な生理・病態を有する
  • 胎内環境から胎外環境へ適応生理に伴う医学的特徴を有する
  • 母体(胎内環境)の影響が色濃く残っている。
  • 正常新生児管理とNICU管理という異なった医療が並行する。
  • 挿管などの必要な救急及び外科的技術を必要とする
  • 周産期医療及びフォロアップに関する地域医療の知識と必要とする

文献
* 新生児医療連絡会(堺 武男):新生児医療連絡会「創立20周年記念誌」、2007年7月、メジカ出版、大阪
* 日本周産期・新生児医学会 記念事業実行委員会:日本周産期・新生児医学会発足記念誌(日本新生児学会40年と日本周産期学会22年のあゆみ)、メジカルビュー社、2005
* 日本新生児医療連絡会事務局(橋本武男・藤村正哲):日本の新生児医療ーー文献資料(1971−1991)、1992、メジカ出版
* 仁志田博司:新生児医療の現状と問題、日本小児科学会誌、93:1035−38,1989
* 仁志田博司:「わが国の新生児学の過去・現在・未来」(1−6ページ)、新生児学入門(第4版)、医学書院、2012、
* 仁志田博司:NICUをめぐって、周産期医学,9:340−344、1979
* 仁志田博司:小児科医が未来を見つめて今なすべきこと、日本小児科学会誌、100(1):3−9、1996
* 仁志田博司:新生児医療には未来はあるか、日本未熟児新生児学会誌、3:30−35,1991

  • 仁志田博司:座談会「周産期・新生児医療のきのう、きょう、そしてあした」新生児の立場から、日本周産期・新生児医学会誌、47:21−26,2011
  • 仁志田博司:新生児医療の現状と問題、日本小児科学会誌、93:1035−38、1989
  • 仁志田博司:NICUは母子の医療に本当に貢献しているか? 母子保健情報、22:45−53,1990
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第3章 我国における未熟児網膜症を巡る光と影の歴史(最終版)

はじめに
我国は未熟児網膜症(ROP)の医学的対応においては、世界で最初に光凝固療法を導入したことや、急速に悪化する特殊なROPのタイプ(U型ROPまたはrush type)があることを明記した厚生省分類の作成など、当時は国際的に最先端のレベルであった。しかし、新生児医療の進歩に伴う未熟児の生存率が向上する中で、そのROP管理の医療レベルを第一線の未熟児医療施設に普及させることが出来なかったことから、ROPによる失明にたいする医療訴訟が発生した。それは、ROPに対する治療法として光凝固という新しい技術が開発されたことから、「失明を防げる可能性のある治療が行われなかった」と言う思いが、皮肉にも患者家族の訴えの引き金になったのである。
当時は1970年前後の近代新生児医療がわが国に導入された時代であり、前項(新生児医療のidentityを求めて)で記載したごとく、まだ一般社会のみならず小児科の世界においても、新生児医療は一部の変り者が手掛けるというマイナーな分野であった。さらに病院全体においては、看護婦の手間暇が掛かる上に割に合わない診療収益であったところから、未熟児医療は病院経営のお荷物であるが地域医療への貢献の義務の為しかたがない、という感覚でみられていた。そこにROPの医療訴訟が起こったところから、未熟児室を閉じる施設が相次ぎ、正に日本の未熟児新生児医療は崩壊の危機に晒されたのである。
その危機を乗り越えたのは、政治的活動となっていたROP集団訴訟から我国の新生児医療を守ろうという少数の小児科医の情熱と、心ある小児眼科医の学問的サポートによってであった。現在の世界に冠たる未熟児新生児医療に従事しているほとんどの若い医師や看護師は、この歴史的事実を知らないであろう。実は私も、ROP医療訴訟は他人事のように考えていた。言い訳ながら、ROP医療訴訟など問題となっていないアメリカで新生児医療を学び、1974年に帰国してNICU専任の勤務となったのは1977年からであり、ROPによる失明例は経験しているが、その母親の「もう子供など持てないと思っていたので、目が見えなくても母親になれたことで十分満足です」、という言葉を自慢話にするほどの脳天気振りであった。
しかし我国の近代新生児医療の歴史を振り返ると、ROPを巡る問題が如何に重要な出来事であったかを知り、歴史の証人として後に続く人たちの為にも、その事実を纏める意味の重さを認識した。関連した書物や資料を紐解いてみると、多くの親しく接していた先達が、その渦中にあって文字どうり体を張って新生児医療を守ってくれていたことを改めて思い知った。具体的な内容は異なっても、類似した出来事が歴史の中には幾つも埋もれている。さらにこれからも同様なことが起こり得る。温故知新である。私たちはROPの歴史的事実から多くのことを学びとらなければならない。

 

 

ROPの歴史
 最初に未熟児特有の目の異常を記載したのはボストンの眼科医T. L. Terry で、1942年に剥離した網膜が水晶体の後部に付着した所見から水晶体後部繊維増殖症(retrolental fibroplasia: RLF)と記載した。後にそれが未熟性による疾患であることが判明し、急性期には不適当な用語であるretrolental fibroplasiaは使わず retinopathy of prematurity(ROP)と命名され、我国では未熟児網膜症と呼ばれている。
 ROPは1940年代に未熟児に見られる新しい疾患として急増し、米国においては1950年前後の小児の盲の最大の原因となった。その理由は、米国は第2次世界大戦で唯一大きな戦災を受けず最も豊かな国となり、新生児・未熟児にも高度な医療が施されるようになり、高価な保育器が普及して長期間酸素使用が容易になったことが挙げられる。酸素使用とROPの相関を示したのはオーストラリアのK. Campbellで1951年であった。それに基づいて未熟児への酸素投与を40%以下とする管理法が推奨された。しかし、それによって未熟児、特に呼吸窮迫症候群(RDS)による死亡率が高まった(図1)ところから、未熟児への酸素使用に関し、投与酸素濃度が適切かどうかは動脈酸素濃度を測定するようになった。しかし間歇的に動脈血を測定してもROPは防げず、安定した状態で連続的に血液酸素分圧をモニターする必要性が理解されるようになった。現在広く使用されている経皮的酸素分圧モニターそのものはドイツのHuch夫妻によって開発されたが、それが新生児の酸素管理に極めて有効であることを占めしたのはわが国の山内悦郎である。(neonatal care: 反骨のロマンチストを参照)。また現在世界中で、NICUのみならず多くの医療分野で、患者の血液酸素濃度管理に最も多く用いられているパルスオキシメータは、日本人の青柳卓雄がその開発者である。このように、ROP発生予防に最も需要な動脈酸素濃度管理において、歴史的には我が日本が世界に最も貢献しているのである。
 酸素使用とROP発生の間には強い相関があるが、ROPの病態は酸素そのものではなく、酸素投与によって未熟な網膜の血管が収縮し、逆に組織が低酸素となって血管内皮増殖因子が出て新生血管が増殖し、その結果として網膜剥離から視力障害につながることが知られるようになった。ROPによる網膜剥離を予防し盲を防ぐ画期的治療である光凝固療法は、後に述べるように我国の永田 誠のグループが世界に先駆けて開発している。さらに近年は網膜の血管増殖を起こす血管内皮増殖因子を抑制する薬物の効果が認められつつある。
 わが国は欧米よりも超低出生体重児の生存率が高いのみならず、ROPを含めた合併症率も低いことが知られていた。しかし近年、これまでより一段と未熟な在胎24週以下の児も生存するようになり、最新の医療知識と技術を導入してもROPによる視力障害が防げない症例が増加しており、1940年代に酸素療法が導入されて起こったROP発生のピークに続く、新たなROPの流行の時代となってきている。

光凝固法によるROP治療
 天理よろず相談所病院で未熟児の眼科的管理を担当していた永田 誠は、1967年に遭遇した重症ROP活動期病変に、試験的治療であることのICを取って我国のみならず世界で最初の両眼xenon光による光凝固術を施行した。その効果は劇的であったため、その後数例の臨床を重ね、1968年臨床眼科学会に発表した。「永田 誠、他:未熟児網膜症の光凝固による治療、臨床眼科22:419−27,1968」 その後追試者も出て次第に普及してきたが、1980年代後半からはより臨床的に使用しやすいレーザー光凝固に変わっていった。また、我国で冷凍凝固のROP管理の有効性を示す論文が出たのは1972である。(山下由紀子:未熟児網膜症の冷凍凝固法について、臨床眼科 26:385−93,1972) 
しかしいずれの治療法も治療法の学問的有効性を示す臨床研究(randomized control trial:RCT)が行われないまま、1975年に厚生省研究班報告のその中に「わが国独自のROP病期分類と光凝固または冷凍凝固の適応基準と治療指針」が発表されている。RCTが行われなかった理由は、未熟児の眼底を定期的に見ることのできるシステムも技術も限られた施設にのみであったことともあるが、それは残念ながらわが国の医療界の積年の病根であり、ROP管理だけでなく多くの疾患においても同様であった。永井 誠自身が、「新しい治療法であり、RTCによるEBM(evidence based medicine)基に伝えなければ、普及しないだけでなく、外国に認められない」と述べている。新生児医療の世界でも、藤村正哲らの指導の新生児ネットワークで、施設毎で異なったやり方をしている管理法や治療法をEBMに基づくものに統一しようとする動きが出てきたのは、21世紀になってからである。
 ようやく光凝固の多施設共同研究でその有効性のEBMが示されたのは1988年であった。(永田誠 他:多施設による未熟児網膜症の研究 その1:極小未熟児におけるROPの発症と治療成績(日眼会誌 92:646−57、1988) 同じころの1988年にアメリカでは冷凍凝固のRTC(片目づつ)が行われ、その有効性が示されたが、治療効果は治療しないばあいの予後不良発生率43%が22%に半減するというものであった。光凝固により日本の治療成績は、予後不良が9%と米国の半分以下であり、当時ROP治療においては日本が世界のトップレベルであったことが伺える。
 ちなみに私が1984年に女子医大に移籍した時、ROPに光凝固はおこなわれておらず冷凍凝固法のみであり、より未熟な児の管理が増えるに従い光凝固が導入された経緯がある。またアメリカでレーザー光凝固が行われたのは1990年代になってからであり、(The Laser ROP study group: Laser therapy for ROP, Arch Opthalmol 112: 154-56,1994)アメリカでレーザー凝固が冷凍凝固より良い結果のRCTが出たのは2001年になってからである。
 このようにわが国では、皮肉なことに世界最先端のROP治療の技術が開発された故に、その恩恵が臨床の現場に行き渡らなかったことが、世界に類を見ないROP集団訴訟の引き金となり、我国の新生児医療を崩壊の危機に貶めたのである。

ROPの厚生省分類と国際分類
 1969年に高山日赤病院のROPによる失明事例が、光凝固による治療の時期を逸したという判決理由で病院側が敗訴になったことから、相次いでROP訴訟が起こり社会問題となった。 それを受けて1974(昭和49)年、厚生省特別研究費による「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」の研究班が植村恭夫を主任研究者とする、8名の眼科医、3名の小児科医、1名の産科医の構成で立ち上がり、1975年の報告書が公表された。その報告書にある「未熟児網膜症の診断基準(検眼鏡的所見による臨床分類)」が、1981年の国際分類設立予備会議において高い評価を受けて議論されたところから、その一部を改訂して1983年の厚生省ハイリスク母児管理研究班で発表された。それが「厚生省新臨床経過分類」で、現在使用されている、いわゆる「厚生省分類」である。
 ROPのわが国の「厚生省分類」と「国際分類」にはいくつかの相違点がある。臨床的に重要な点は、「厚生省分類」ではU型(rush type)と呼ばれる急速に悪化傾向を取るROPの存在を当初から明確に記載していたことと、活動期だけでなく瘢痕期の分類も含んでいたことである、馬嶋昭生によれば1981年に米国で最初のROPに関する国際カンファレンスが持たれた時、日本の1975年の厚生省研究班報告の内容が高く評価され、ある意味では「国際分類」の作成においては、先行していたわが国の「厚生省分類」が大きく影響を与えていたと言え、続く1982年から1985年の間に4回開催された国際分類設立会議の全てに日本の参加を強く要請されている。
初期には国際分類ではU型(rush type)の存在を認めず、単にT型の重症型に過ぎないとして、網膜後極部の静脈怒張等の所見を悪化徴候とするplus disease と呼ぶにとどめていたが、臨床経過のみならずその背景の病態も異なる可能性のあるrush typeの存在が認識され、そのような症例に早期に光凝固療法を行うと予後が良いことがRTCで証明されたのは2003年であった。ようやく2005年に発表された「改訂国際分類(An International Committee for the Classification of Retinopathy of Prematurity : The International Classification of Retinopathy of Prematurity Revisited  Arch Ophthalmol 123 : 991-99, 2005)」において、急速に進行する予後不良な特殊型のaggressive posterior ROPなる名称を加えた。その会議には日本からの参加は無かったが、それは取りも直さずわが国が早くからその臨床的重要性を主張していたROPのU型に他ならない。特に近年超早産児が多数管理されるようになり、U型ROPの早期診断と治療の重要性が高まっている。
 またROPの多くは自然寛解にむかうとところから、ROPの重症度やその発生頻度は活動期分類では不適切で、瘢痕期の分類が必要である。「厚生省分類」には最初から瘢痕期の分類が含まれていたが、初期の「国際分類(第1報)」にはそれが無く、ようやく1987年に第2報の「The classification of retinal detachment」が加えられた際に、そこに日本の委員を含む4名が強く主張して“residua of ROP”の名称で瘢痕期の代表的写真と解説が挿入されている。しかしそれでも「国際分類は「厚生省分類」のような瘢痕期全体をカバーするものとはなっていない。
 このようにROP管理の上で、臨床的にも極めて重要である網膜病変の診かたと、治療方針の決定に共通の情報提供の言葉となるROP臨床経過分類においても、我国は諸外国に比べて先駆的なガイドラインとなる厚生省研究報告を出していたことが理解できるであろう。それにもかかわらず、前述した如く重症ROPの治療可能な光凝固療法を世界に先駆けて手にした我国において、なぜ他国では見られていない、患者にとっても医療者にとっても悲劇である未熟児網膜症集団訴訟が起こったのか、私たちは深く考えなければならない。
 
未熟児網膜症訴訟と新生児医療への影響
 未熟児網膜症訴訟の第1号判決は、高山日赤病院で生まれた未熟児のROPによる失明事例で、1974年に岐阜地方裁判所での第一審判決で有罪判決(原告勝訴)がなされた。患児は1969(昭和44)年12月22日に1200グラムで出生し、生後38日間保育器で酸素投与された。3月11日に盲の可能性が家族に告げられ、3月16日に天理病院転送されたが、その時点で治療は無理と判断されている。家族は1972年3月岐阜地方裁判所に訴え、裁判所は「永田 誠、他:未熟児網膜症の光凝固による治療、臨床眼科22:419−27,1968」を根拠に、「原告が出生した昭和44年は、光凝固は実験段階を脱却して治療法として確実性を有するにいたっており眼科界の一般知識となっていたところから、自院で治療不可なら適切な時期に管理・治療可能な施設に搬送すべきであり、(最善の注意義務」上の過失があったと判断される」、とした。その後本事例は、1979年に名古屋高裁で、1974(昭和49)年の厚生省研究班報告「未熟児網膜症の診断および治療基準に関する研究」が1975(昭和50)年3月に公表(日本の眼科 46:553-59, 1975 昭和50年8月号に掲載)されたことを根拠に、光凝固を含むROP管理が臨床医に普及定着したのはそれ以降であり、患児が出生した当時は総合病院や大学病院レベルでも光凝固は一般に実施し得る状態ではなかったと判断されるとして、逆転原告敗訴となり、さらに1979年最高裁が上告を破棄して原告敗訴(病院側の過失を否定)が決定した。
しかし大きな問題は、高山日赤病院が敗訴(患者側の勝訴)となった岐阜地方裁判所での判決が引き金となって、各地でROPの訴訟が起こったことである。勿論、医療訴訟そのものは、これまで日本の医療は、あまりに父権主義(paternalism:医師が行うことは子どもの為に父親が行う行為のようなものであるという考え)であったところから、患者側が異議申し立てをすることにより、医療レベルを上げる役割を果たす側面を持つという意味で、医療訴訟そのものを全く否定するものではない。ただROP訴訟が起こった背景は、光凝固療法の開発や学問的に世界に先行したROP管理指針を内包する「厚生省分類」が、臨床現場の実情にまだそぐわない段階で公となったからであり、未熟児医療に携わってきた医師や医療施設はROP訴訟によって大きな苦しみと混乱に晒され、まさに新生児医療全体が崩壊の危機にさえ陥ったのである。 
 その後のROP訴訟そのものは紆余曲折がありながらも、1987年の患児13人の集団訴訟(表)の判決結果に見るごとく、当該児の出生時期が厚生省版研究で報告されROP管理指針が一般化したと考えられる1975(昭和50)年前後で、判決結果が鮮明に分かれるようになり一定の落ち着きを見せるようになった。言葉を変えれば、1975(昭和50)年以前はROPによる失明は防ぎきれなかったと判断されるが、それ以後では適切な管理をしていない場合は罪に問われる可能性を示すものである。
私はこれまで未熟児医療に関わった35年の間に何人かのROPによる視力障害をきたした児を経験しているが、もしその事例が医療訴訟となったら、家族を児が盲になったことに加え裁判という泥沼に陥れるという、二重の苦しみを与えることになる。現在の医療レベルに沿った血中酸素濃度モニターなどを含めた管理を行っている中で起こり得るROP,さらにそれによる視力障害は、ある確率で起こり得る防ぎようのない疾患であり医療過誤ではない。むしろ、負ける医療訴訟に家族を引き込んでしまうこと自体に、医療者としての責任を感じなければならない。自分たちがその時代の医療レベルを外れることなく医療を行っていることに自信を持ち、毅然として家族に事態を説明する態度が、家族を二重の苦しみに陥れることを防ぐものと心している。

日本小児科学会の混乱と新生児医療崩壊の危機からの再生
 1974(昭和49)年の岐阜地方裁判所での有罪判決(原告勝訴)を契機に、ROP訴訟は過激な思想団体を背景とする「未熟児網膜症から子供を守る会」(守る会)によって、個々の患者家族に働きかけて、集団訴訟を支援したり医療界や小児科学会を批判する政治的活動に広がっていった。
「守る会」の活動の背景には、ROP訴訟を薬害や公害訴訟と同様に社会運動に広げる思想があったことは、1979年にオックスフォード大学の新生児学の大家であるTizard教授から、彼の知人である竹内 徹に、日本のROP訴訟の原告側から裁判の証人の依頼があるが、というと問い合わせの手紙の中に、「サリドマイド裁判のようなROP訴訟」という文言が依頼文に含まれていたことからも読み取れる。Tizardは、もし明らかな医療過誤であれば医師の良心として受けることに吝かではないが実情を教えてくれ、と竹内 徹に尋ねてきた。竹内 徹は、「実は自分も患者側と医療側の両方から証人依頼のコンタクトがあるが、日本の事情はイギリスと異なるので、まず日本小児科学会の公式文書に目を通して、日本の実情を知ってくれ」、とそれらの文書と朝日新聞(1979,9,21)のROP裁判の記事を英訳してTizardに送った。Tizardは、「彼らはthalidomide trialのような裁判といったが、ROP裁判は集団訴訟でなく症例ごとの検討が必要である。文明国ではこのようなケースは無過失原則(no fault legislation、現在の産科医療保障法のような考え方)で解決するべきであろう。医療上の不運な事故に対するそのような対処は、必ず医師患者間の関係を悪くして、結局は医療そのものに害を及ぼす。」という含蓄のあるコメントを添え、その依頼を断ることを告げてきた。巷では、竹内 徹が原告側のTizardを証人として招聘する橋渡しをしたのではないか、と邪推する噂があったが、私が新生児医療の歴史の一ページを書く必要上、30年前の竹内 徹とTizardの私信を読む機会を得るまで、このやり取りは裁判が絡んでいるところから、両者間でconfidential(内密)とされていた。
ROP裁判が、当該児の出生が1975(昭和50)年前後によって、毅然とした判断の根拠が示されたのとは対照的に、小児科学会の「守る会」の活動への対応は目を覆うばかりの混乱であった。その理由は、インターン闘争に端を発した全国的な学生運動に加えて、小児科にはサリドマイド・森永ヒ素ミルク事件・大腿四頭筋拘縮症などの医療に絡む問題があり、それにROP裁判が加わったところから、小児科学会年次学術集会も開かれない状態となっていたからである。さらに、当時の小児科学会理事の中には新生児医療を余り理解しない大学教授等も少なくなかったの日本の参加はなく米国を中心とした委員ところから、ROPは医療事故という「守る会」主張を認める動きさえあったという。その混迷の極みにあって誰も引き受けたがらない小児科学会会長に、北里大学小児科教授であった坂上正道が48歳の若さで、火中の栗を拾う思いで就任したのが1974年であり、旭川医大小児科教授の吉岡一(副会長)とコンビで学会運営の正常化に文字通り命を懸けた。その心労が引き金となり、坂上正道は1976年に学会関連の仕事の帰りの新幹線の中で心筋梗塞で倒れ、その職を盟友の吉岡一に託した。私は偶々1974年にアメリカから帰国して坂上正道を頼って北里大学に就職したといところから、彼が吉岡一と、「守る会」の連中を蹴散らして心中しよう、等とまるで若者のような威勢のいい話をしていたことや、緊急入院したCCUでペーシングしているのを、私たちが交代で当直して見守ったことなどを鮮明に記憶している。
1977年、饗庭忠男医師会顧問弁護士を交え、吉岡一会長・加藤英夫副会長、坂上正道前会長、山内逸郎、石塚裕吾・小宮弘毅、等の小児科医の懇談会が持たれ、「守る会」のROP訴訟を薬害・公害訴訟と同一視する見解や、被告医師に「家族の目を潰してやる」という強迫紛いの発言は、恵まれない環境の中で真摯に未熟児医療に取り組んできた小児科医には耐えがたいことで、毅然たる態度で学会運営にあたることを確認した。しかし残念ながら、その後も1978年の第81回小児科学会 (加藤英夫会長)では、総会に「守る会」の傍聴や発言を認めて流会となるなど、小児科学会の運営は迷走し続けた。
我国の新生児医療のパイオニアを自他共に認める国立長崎病院の田崎啓介や国立岡山の山内逸郎等は、「保育器障害」なるマスコミ報道は、ROPは未熟な網膜が基本病態であることを理解しないものであり、酸素の過剰投与などによる医療過誤と認めることは、やがて脳性麻痺なども「守る会」の訴訟のターゲットとなることは必至で、未熟児医療のみならず小児医療全体の崩壊につながると、被告医師団の連絡会を立ち上げると共に、日本医師会と武見太郎会長に全面的な協力を要請し、行政への働きかけ等を行うこととした。
 このような新生児医療の行く末を憂える有志の献身的な活動と、1975年以降生まれの患児においても、「医療水準に沿った未熟児管理がなされたか」がキーワードとなったところから、ROP裁判そのものが減少し、「守る会」の活動は自然消滅に向かったのである。1986年に雲仙で行われた第10回九州新生児研究会において、その陰の功労者のひとりである田崎啓介は、誇りと喜びをこめて「かくして日本の新生児医療と小児科学会は蘇った。」と題する講演を行っている。 

おわりに
 ROPは未熟性以外まだ正確な発生病態が明らかとなっておらず、非侵襲的に安定した状態で連続して血液酸素濃度をモニターできる時代となり、さらに優秀なった眼科医による定期的な眼底検査と適切な時期の光凝固療法などの治療介入によっても、未だROPから視力障害となる児を防ぐことが出来ないのみならず、ますます未熟なより重症な未熟児が究明されるようになり、むしろそのような症例は増加傾向にある。
 わが国の眼科医が世界に先がけてROPの管理と治療の方針を確立したが、未熟児医療の管理体制に組み込むことのできなかったtime lagが 患者側にとっても医療者にとっても不幸なROP訴訟が多発し、我国の未熟児・新生児医療が崩壊の危機に瀕した時に、毅然としてそれに立ち向かった先達がいたことを知ることは、これからも起こりうる同様な事態が起こった時に、私たちはどう対応すべきかの、貴重な教訓となろう。

項を終わるに当たり、貴重なご意見を賜りました馬嶋昭生、竹内徹、小宮弘毅、石塚祐吾、五十嵐郁子、大森美依奈、田崎宏介の各先生方に心から深謝いたします。また、我国の新生児医療の存亡の時に苦労を顧みずお仕事をされた故山内逸郎、田崎啓介、坂上正道等の先達の霊に深甚なる御恩の礼を献じさせて頂きます。

図表
図:新生児学入門、402ページ

表: 京都地裁未熟児網膜症集団訴訟判決 :1987(昭和62)年 12月11日
(塚田敬義:日経メヂカル 224:173−6,1988)

児の出生日      在胎週数  出生体重  凝固治療  判決 

  1.  1967年 8月18日  30週  1330g  (−)  原告敗訴
  2.  1968年 6月 1日  29週  1320g  (−)  原告敗訴
  3.  1969年 2月20日  29週  1300g  (−)  原告敗訴
  4.  1969年 6月 9日  29週  1100g  (−)  原告敗訴
  5.  1969年 8月18日  30週  1060g  光凝固  原告敗訴
  6.  1969年12月 3日  29週  1440g  (−)  原告敗訴
  7.  1971年 3月 6日  29週  1160g  光凝固  原告敗訴
  8.  1971年 7月29日  33週  1350g  (−)  原告敗訴
  9.  1971年 8月 4日  29週  1450g  (−)  原告敗訴

10、  1973年  2月 1日  29週  1370g  冷凍凝固 原告敗訴
11、 1973年 12月14日  29週  1380g   光凝固  原告敗訴
12、 1974年  5月16日  31週  1600g  光凝固  原告敗訴
13、 1976年 12月11日  26週   910g    冷凍凝固 原告勝訴

参考文献
*仁志田博司:新生児学入門「第4版」:医学書店、2012、第20章主要疾患の
病態と管理:A 未熟網膜症、p401−407
*永田 誠:未熟児網膜症 序説(総説)――Preface, History of clinical management of ROP――:眼科 46:753−762,2004
*馬嶋昭生:未熟児網膜症の厚生省分類と国際分類――A classification of retinopathy of prematurity (ROP) by the joint committee for the study of ROP in Japan prganized by the Ministry of Health and Welfare and an international Classification of ROP――:眼科 46:763−774、2004
*馬嶋昭生:未熟児網膜症に関する正しい知識と理解を望む、臨眼 58:58−60,2004

*塚田敬義:未熟児網膜症判決の変転――揺れ動く光凝固の医療水準:京都判決は―50年説」を支持、日経メヂカル 224:173−6,1988

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第4章 脳と眼を守る血液酸素モニタにおける我が国の世界への貢献

はじめに
前回触れたごとく不適切な酸素使用は未熟児にROPを引き起こすが、それだけでなく高濃度酸素の長期間使用が慢性肺疾患を引き起こすことが知られている。しかし一方では、低酸素性脳症と呼ばれる病態に代表されるごとく、人間を含めた多くの生物は酸素なしでは生きられないのである。正に酸素は両刃の剣で、私たちは適切な濃度の酸素を適切に使用しなければならない。その生体に適切な酸素濃度は、動脈血酸素分圧あるいは動脈血酸素飽和度であらわされ、その測定及びモニターが酸素を使用する医療、特に未熟児医療、において重要であることは明らかであろう。 
その動脈酸素モニターにおいて、新生児の経皮的酸素分圧モニターの有効性を示した山内逸郎と、パルスオキシメータの原理を発見した青ノ卓雄の歴史に残る業績は、特記すべき我国の誇りであり、世界中で多くの新生児の命を救い、またROPによる盲を防いでいる。本項では、新生児医療におけるそれらの開発を巡るドラマチックなエピソードを中心に、血液酸素モニタの重要性を解説する。
生物と酸素の功罪
酸素は、未熟児の網膜だけでなく、成人も含めたあらゆる生体組織に害を及ぼすことがしられている。それは物が錆びるのも油が悪くなるのも、酸素による酸化作用の結果であり、細胞レベルでも酸化による劣化がおこっていることから理解できるであろう。
私たちの祖先は約37億年前に原始の海で生まれ進化してきたが、その最初の数億年は酸素の無い環境であった。それ故嫌気性細菌(酸素が無いところで生きる細菌)は私たちの最も古い祖先の姿なのである。ところが約32億年前に最初の光合成生物が生まれ、約27億年前に藍藻(シアノバクテリア)が大量発生し、これまで窒素と二酸化炭素ガスで満たされていた大気に21%の酸素が加わった。その証明として、ストロマトライト(stromatolite)と呼ばれる、大量のシアノバクテリア類の死骸と粒などによって作られる状の構造をもつ岩石が見つかっている。すなわちその前後で、地球上の生命体のほとんどは、嫌気性から酸素を必要とする好気性に大変革した。特に人間も含めた、海から地上に上がって進化していった動物は、酸素なしでは生きられない生体機能となっている。
通常の2分子が結合して安定している酸素の中に、ある確率で反応性の高い活性酸素( reactive oxygen species)が存在し生体に悪影響を及ぼすが、生物はその酸化という強力なメカニズムを有効なエネルギー源とするようになって、大進化したのである。同時にその酸化作用から身を守らなければならないので、酸素の中で生体に最も害をなすfree radical(自由電子)を中和する物質(free radical scavenger )、SOD(superoxide dismutase)やカタラーゼなど、を身に付けている。 しかし当然のことながら、酸素が多ければ多いほど酸化作用による生体への害(肺への酸素の害 oxygen toxicity to the lungなど)が大きくなる。 老化の重要なメカニズムも、生きている間に必然的に起こる細胞レベルの酸化障害によるものであることが知られている。
このように私たちは、体に害をなす酸素が生体エネルギー利用の要であり、酸素が不足すると脳障害などの支障をきたすところから、「生きる為に酸素が必要だが、多すぎても少なすぎても害をもたらす」という、生体と酸素のせめぎ合いの状態にある。それ故医療においては、これから述べる血液の酸素濃度のモニターが如何に重要であるか理解できるであろう。
血液酸素濃度の測定
 保育器内の酸素濃度を測定し、児にどのくらいの酸素が投与されているかを知ることは新生児管理上の必須であるが、「投与酸素の濃度が適切か」の判断は血液中(特に動脈血中)の酸素濃度を測定しなければならない。それゆえ呼吸管理を行うNICUの必需品の一つが血液ガス分析装置である。その血液酸素分圧の測定原理はポーラログラフィー (polarography)と呼ばれる、溶液中に溶けている物質(酸素)を、白金電極を用いて電気分解を行う時の電流と濃度の関係から測定する方法を利用したものである。実際に用いられているクラーク型酸素電極 は、酸素は通過させるがイオンを通さないテフロン膜で電極を覆うことにより反応液(血液)と測定液を分離し、測定液と平衡状態にある血液の酸素濃度を測定するものである。
 私が1972年にNICUで新生児科医として働き始めたころは、ベッドサイドで毛細血管からヘパリンで濡らした細い管に採血したサンプルを、大急ぎで検査室に持って行き血液ガスを測定していたことを思いだす。当然のことながらその方法は、静脈血の混じた毛細血管血であると同時にサンプルが空気に触れるので、動脈酸素分圧を正しく反映する値ではなかった。さらに、動脈穿刺や動脈カテーテルからの採決による測定が行われるようになったが、それでも児の正しい動脈酸素分圧を反映しないことが分かったのは、1980年後半になってからであった。それは、ROPの発生頻度と間歇的動脈採血による酸素分圧測定値の検討において、両者が相関しないことが明らかとなったことに加え、経時的な経皮的酸素分圧モニターの変化を見て、血液酸素分圧が僅かな児の状態の変化により連続的に変化していることを知ったからである。(図1) 採血の時に保育器の窓を開けることにより環境酸素濃度が代わるだけでなく、児が泣いたり動いたりするだけで血液酸素分圧は瞬時に変化するのである。採血した血液サンプルの測定値は連続して変化するある1点だけの値で、その時の児の状態を必ずしも反映していないことがようやく理解されるようになったのは、医療者と児の長い苦労の経験の後であった。
 このように児が適切な血液酸素状態にあるかを知るためには、児が安定した状態で連続して動脈酸素濃度がモニターされなければならないことが、ようやく理解され、以下に述べる経皮的酸素分圧モニターとパルスオキシメータにより管理される時代になったのである。
経皮的酸素分圧モニター(Transcutaneous oxygen monitor, TcPo2)の新生児臨床応用と山内逸郎の貢献
  前述のポーラログラフィーの原理を応用して経皮的に血液酸素分圧を測定する研究は、スエーデンのLubbersらが既に1960年代に基礎的な研究を行っていたが、そこに産婦人科医のAlberto Huchとその妻の生理学者のRenart Huchが留学し、最初は胎児モニターとしてこの方法を用いた研究を行っていた。(Huch A, Huch R, Lubbers DW: Quantiattive polarographishe Sauerstoffdruckmessung auf der Kopfhaut des Neugeborenen. Arch Gymak. 207:443,1969)
 一方、 岡山大学の山内逸郎(以後山内)は、新生児医療を将来の専門と考えていたところから、そのために必要な微量測定法であるポーラログラフを学ぶためニュヨーク州立大学生理学のミューラー教授(1959年にポーラログラフの研究でノーベル化学賞を受賞したJ Heyrovsky の弟子)の下に留学したが、この研究が数奇な巡り会わせで、山内の世界的な仕事となる経皮的動脈酸素分圧測定に繋がったのである。
留学から帰国後、国立岡山病院に我国でも最先端のNICUを立ち上げた山内は、たまたま目にしたヨーロッパ周産期学会の抄録(Huch R, Huch A, Lubbers DW: Transcutaneous measurement of blood P02 method and application in perinatal medicine. J Perinat Med 1:183,’73)に記載された、Huch教授夫妻の経皮的に動脈酸素分圧を測定する研究発表を目にした。非侵襲的な新生児管理を最も重要な原則としていた山内は、その研究に採血というストレスを与えることなく新生児の血液酸素濃度のモニターに応用できる可能性を読み取り、常人離れした行動力で地球の裏側のドイツに飛び、全く見ず知らずのHuchに直交渉でその機械の使用を依頼したのである。
 当時Huchはマールブルグ大學の産婦人科医で、胎児モニターの頭皮からTcPo2を測定する研究を行っていた。そこに突然見ず知らずの日本人の新生児科医が、新生児のTcPo2測定にその方法を応用してみたい、と申し出たことを受けたのは、まさに奇跡的であった。それは、山内がポーラログラフの専門的な知識を持っていただけでなく、側にあった研究論文をパラパラと開き、こことここに出ているYamanouchiとは私のことです、と言ってHuchを驚かせたのである。たぶん胎児への応用で行き詰っていたのかもしれないが、Huchは2台あったプロトタイプのTcPo2測定装置の一台を山内に貸し与えた。
 山内の直感はどうり、43.5度で加温した皮膚から測定するTcPo2の値は、新生児の皮膚の特性故のさまざまな要素が相殺し合って、偶然のなせる業としか言いようのないほど、動脈血酸素分圧(Pao2)値と高い相関を示したのである。その新生児のPaO2と皮膚を介するTcPO2の相関は、加温・皮膚からの拡散・その過程で消費される酸素量などの影響の総合の加減算の結果であり、成人のみならず皮膚が成熟した乳幼児レベルでも、その相関はずれてくる(TcPO2がPaO2より低い値となる)ので、この経皮的動脈酸素分圧測定は新生児のためのものと言えるのである。
 やがて山内は、口腔内吸引や体位変換などの日常的な新生児看護操作でもTcPo2は大きく変化することを観測し、これまで苦労しながら動脈血を採血して行っていた点のレベルで測定したPao2によるモニターは、未熟児網膜症を防ぐには意味が無いことを示し、TcPo2の連続モニターが新生児呼吸管理に不可欠であることを証明した。Huchは自分が開発した機器の真の重要性を知り、山内の親しい友人であったバーモント大学のLucey教授に、新生児おけるTcPo2連続モニターの臨床的意義をアメリカに喧伝することを依頼した。このようにTcPo2の測定機器はHuch等の開発であるが、それが新生児医療に極めて重要な酸素モニターであることを検証し普及させたのは、基礎医学と臨床の両方に卓越した知識を持っていた山内の功績であった。
 経皮的酸素モニタはドイツのヘリゲ社とスイスのロッシ社から発売され、我国では日大の井村総一(井村総一・馬場一雄:新生児の経皮的酸素分圧連続測定、呼吸と循環:23:1097−1103,195)や小田良彦(小田良彦・山田康子・安座間良雄:経皮的酸素分圧連続測定装置の使用経験:小児科:18:1973−78.1977)等の発表もあり、広く普及して我国の新生児医療の進歩に大きな寄与をしたが、機器が高価であることと加温されたセンサーを数時間毎に交換しなければならないことなどから、次第に次に述べるパルスオキシメータにその座を譲りつつある。しかし、TcPo2が測定する動脈酸素分圧とパルスオキシメータの測定する酸素飽和度は図2に見るごとく、高濃度酸素状態では酸素飽和度の僅かな違いが大きな酸素分圧の差となるので、山内は高濃度酸素状態のモニターはTcPo2にするべきであり、パルスオキシメータが普及すると未熟児網膜症が増える、と警告した。幸いなことに、パルスオキシメータの性能の向上とわが国の看護師を中心とした医療スタッフのきめ細やかなケアと観察のお蔭で、山内の心配は杞憂に終わり、それによる未熟児網膜症の増加は認められていない。

血液酸素モニターの歴史を変えたパルスオキシメータの物語(1):青ノ卓雄とパルスオキシメトリの出会い
 パルスオキシメトリ(脈拍動による経皮的酸素飽和度策定法)の原理の発見者であり、パルスオキシメーター(その原理を応用したモニター機器)の発明者である青ノ卓雄(以後青ノ)は、1936年に新発田市で生まれた。新潟大工学部卒業後 島津製作所に務めると直ぐに分娩監視装置の胎児心拍および心拍出量測定の研究というmedical-engineering(ME)の分野に携わったが、1971年にMEに特化した会社である日本光電に移籍した。そこで人工呼吸管理を行う医療において、動脈血酸素濃度(PaO2)を連続的に測定することが、患者の状態を知るだけでなく、異常が発生した時に直ちに対応して患者の命を救う上でも極めて重要であることを知り、非侵襲的にPaO2をモニターする装置の開発をしたいと考えた。当時その目的で用いられていたWoodのear-oximeterは、非侵襲的ではあるが事前に耳を圧迫したり測定中に耳を温める必要に加え、校正や安定した測定という面で日常的に臨床で用いるには未完成であり、さらにその測定値にもバラつきがあるところから、青柳はそれらを改良する研究に思い至った。
青柳は研究を始めて間もなくにその測定原理に気づき、1974年に発明したパルスオキシメータは、世界中のNICUのみならず手術室やICUなどの多くの臨床の現場で日常に用いられて多くの命を助けており、近年のMEの進歩の中で最も価値あるものと言われている。わが国の臨床麻酔の先駆者の一人である諏訪邦夫はそのブログで、「致命的麻酔事故の発生は1950年代には2000件に1件であったが現在では10万件に1件となり、すべてがパルスオキシメータの効果ではないが日本の麻酔件数が年間200万件位とすると、麻酔関係の死亡数が年間に千人から20人に減っている計算となる、パルスオキシメータこそ我が国が世界に誇るノーベル賞級の大発見である。」とのべている。事実、1997年の小児麻酔学会で特別講演した、当時のノーベル賞選考委員の一人であったスエーデンのLindahl氏が、青柳をノーベル賞に是非推薦したい人とコメントしたという。
また血中炭酸ガス測定電極を開発した世界の大御所であるカリフォルニア大学麻酔科教授のJohn W. Severinghausが、やはり血液ガス測定では歴史的に有名なP. Astrup と共著でHistory of blood analysis の本を書くにあたって、誰がパルスオキシメトリの測定原理を発見したか、親しかった千葉大生理学の本田良行に尋ね、青柳であることを知った。Severinghause は自ら確かめるために来日し、1987年1月22日に東京ヒルトンで青柳と会い、「なぜ805nmでなく930nmの波長光を使ったか」と質問したのに対し、青柳が「色素希釈法測定中もオキシメトリーが出来るようにである」と答えた瞬間、彼がpulse oximetryの発見者であると確信したという。(JW Seneringhause, Y Honda: History of blood gas analysis. Z. Pulse oximetry, J Clinical Monitoring, 3:135-138,1987) 後日談であるが、Severinghauseが日本光電に行って社長に会ってこのことを告げたことから、社内での青柳の評価が変わったという。Severinghauseの正確に歴史を記載したいという学者としての態度に感嘆する一方、外国人に言われないと社内の世界的な仕事にも気が付かない我国の明治維新以来の古い体質に落胆の思いである。
 その後も青柳は、「みんな私がパルスオキシメータの発明で大金持ちになったと思っているようですが、相変わらずの清貧の研究者ですよ」と、飄々と地道な研究を続け、1993年に「生体組織透過光の脈動に基づく血中吸光物質濃度の無侵襲測定の研究」の博士論文で、東大医用電子研究施設の斉藤正男教授から博士号(工学)の称号得ている。それは青柳の、「血液は赤血球が浮遊しているのだから、これまでの溶液透過光理論(Beer-Lambertの法則)を超えた散乱光の理論に取り組み、パルスオキシメトリの理論式を求めよう」という、新たな学者としてのチャレンジであり、それに小児麻酔科医の宮坂勝之が研究に協力している。(青柳卓雄他:パルスオキシメトリの理論的実験的検討、生体医工学、50:299−307,2012) 青柳はパルスオキシメータによる社会への貢献から、2002年に紫綬褒章を受章している。

血液酸素モニターの歴史を変えたパルスオキシメータの物語(2):青柳がパルスオキシメトリの原理を発見した経緯
 Woodのear-oxyimeterは、酸化ヘモグロビン(赤い光を通過させるので赤く見える:動脈血の色)と還元ヘモグロビン(赤い光を吸収するので黒く見える:静脈血の色)に対する吸収度が異なる二波長の光を用い、耳朶を通る血液に当ててその透過光の分析から酸素濃度を測定するものである。青柳はこの測定法を、これまで彼が行ってきた色素希釈法を用いて検討したところ、その色素希釈曲線上に脈波が乗って観察された。最初青柳はそのノイズの様な脈波の変動を消そうと試みるうちに、拍動部分の血液も血液全体も同じ測定情報を持っていることが判明した。それによって全体を計らないで拍動部だけ計れば良いだけでなく、脈波は血管の中で拍動している血液の動きを反映しているものであり、動脈血の情報を持っていると考えた。それが歴史的なパルスオキシメトリの原理の発見であり、それを用いた臨床のモニター装置であるパルスオキシメータの開発につながった。
 青柳は1974年の日本ME学会にその研究成果を発表した。(青柳卓雄、岸道男、山口一夫、渡辺真一:イヤピース・オキシメーターの改良 :第13回日本ME学会大会資料集、 1974, Pp90-91) その時の座長の戸川達夫が、その発表を高く評価してくれたことが、青柳を更なる研究に向けて勇気づけたという。ちなみにNICUで新生児の深部体温をモニターする熱補償法のプローベを開発したのが戸川達夫であった。1974年3月29日、日本光電工業株式会社の青柳卓雄らにより、パルスオキシメーターの原理に関する特許「光学式血液測定装置」が出願され受理された。しかし残念ながら、この世界的な成果に対する社内の認識が不十分で、欧米への特許出願話されないままとなり、後発のミノルタがアメリカで特許を獲得している。皮肉なことにその結果として、主に米国の小児麻酔領域でパルスオキシメーターが爆破的に発展して日本への逆輸入につながり、青柳の仕事が再評価されたのである。

血液酸素モニターの歴史を変えたパルスオキシメータの物語(3):なぜパルスオキシメーターを開発した我国が米国の後塵を拝したか
既に1973年に、青柳の仕事に興味を持った外科医の中島進医師がパルスオキシメータの試作を依頼し、実際の患者に使用して世界で最初にその臨床上の有用性を発表している。しかし日本光電の一部の人に、脈波はこれまでの先行研究から多くの因子が関与しているから臨床に耐えうる製品は無理であるという固定疑念があり、パルスオキシメーターのME機器としての重要性を認識できず、商品開発する意図は無いところから、何と青ノは昇進して別の部門に移ったのである。それには、酸素分圧が数百mmHgまでの幅広い範囲をとるのに対し、酸素飽和度は酸素分圧100mmHg程度で100%になり頭打ちになることで、モニターとしての意義が不十分だと考える人が多かった、当時の医学界の酸素分圧と酸素飽和度の意義に対する認識不足も大きくかかわっていた。
 日本光電に遅れること1ヶ月弱の1974年4月24日に、パルスオキシメーターの開発を独自に進めていたミノルタより「オキシメーター」の特許出願がなされ、日本では却下されたが米国での特許を獲得している。ミノルタは1977年に、光ファイバー技術を駆使した指先測定タイプのパルスオキシメータを商品化したが、モニターとしての位置づけが明確でなく、日本国内では余り普及しなかった。しかしその概念はアメリカに伝わりバイオクス社(その後オメダ)やネルコア社(現在Covedien)がその技術を改良し、麻酔中のモニターとしてパルスオキシメーターがアメリカでは1980年代に定着している。さらにセンサと本体を一体化した小型の装置つぎつぎと開発され、値段や使い勝手も一般家庭でも使用可能なレベルとなり、近年は睡眠時無呼吸症候群の予防や酸素の少ない高地での有用性など広く社会的認知を受け、コンビニでも取り扱われるほどになっている。
 パルスオキシメータの原理を発明し、またその実用化に耐えうるコンピュータ・デジタル回路技術および発光ダイオードや光センサーなどの光学系の技術を当時既に十分に持ち合わせていながらなぜ我国が後塵を拝したのであろうか。それは日本の医療が臨床重視ではなく、大学の研究重視であったことと無縁ではない。医療機器会社の開発に影響を与えるのも大学の研究者であり、研究精密計測機器としての性能を求めて、臨床モニターとしての視点が入り込まなかったことが大きな要因である。小児麻酔科医の宮坂勝之は、この点を指摘し当時ミノルタ製品の医療機器の窓口であった持田製薬に、モニター機器として脱皮すべく製品改良を申し入れた。しかしその改良要求は日本で生かされることなく、そのままアメリカに伝えられることになった。ミノルタのパルスオキシメータの評価を依頼されたスタンフォード大学麻酔科医のWilliam New氏等が、その有用性を認識して、みずからネルコア(Nellcor:自分たちの名前の頭文字から取った如くパルスオキシメータの成功を確信していた)社を設立し、パルスオキシメータを世界に売り出したことにつながった。
パルスオキシメータに限らず、我国では多くの医療機器において、それを使用する医師が余りに受け身であり、自ら良い医療機器を求める行動に向かうことが極めて少ないことも大きな違いとなっている。

血液酸素モニターの歴史を変えたパルスオキシメータの物語(4):我国の新生児医療におけるパルスオキシメーターの普及
青柳が、Dr. Newがミノルタの評価をしなかったらパルスオキシメトリの発見は日の目を見なかったかもしれない、と皮肉をこめて語っていたが、我国のNICUにおけるパルスオキシメーターの普及も、宮坂がいなければ諸外国よりさらに遅れたかもしれない。 
当時の日本のNICUで働く医師や看護士は、パルスオキシメーターは体動に弱くfalse alarm が多すぎて使い物にならない、また経皮酸素モニターにくらべパルスオキシメーターの値は100(%)止まりでそれ以上がないので頼りない、と冗談めかして言っていたほど不人気であった。事実私も、メーカーに新生児の手足に付けたセンサーのワイヤーが切れて困る、とクレームをつけたところ、いつも麻酔して動かない大人を見ていた技術屋が、NICUに来て新生児の体動の見て驚いて帰ったことを思いだす。その後種々の技術的改善がなされ、パルスオキシメーターは日常のNICUの使用に十分耐えるように進化したのに、初期のモニターの使用経験の印象が強く、我国の新生児医療におけるパルスオキシメーターの普及は遅々として進まなかった。それを払拭してパルスオキシメーターの臨床的重要性を全国のNICUに広めるきっかけを作ったのは宮坂であった。
まず、宮坂は1987年7月11日に日本3大クラシックホテルとして有名な箱根宮ノ下富士屋ホテルに、全国の主要NICUのチークを招聘して「箱根新生児パルスオキシメータワークショップ」を開催した。勿論本来の目的は厚生省心身障害研究新生児管理班(班長:奥山、分担研究者;仁志田)の一環として、OmedaのBiox 3700を使用して動脈ラインからの動脈酸素濃度とパルスオキシメータワーク測定値を、Hemoglobin F濃度測定値などを加味して検討するものであった。既に宮坂と本間は国立小児病院の使用経験をもとに、動脈酸素濃度とパルスオキシメータワーク測定値が高い相関を示すことを発表しているが、実はパルスオキシメータワーターメー各社は、独自の動脈酸素濃度の実測値とが表示する値が相関するアルゴリズムを有しており、それが日本の子どもでもあてはまるのか、我国でも検討しておくべきであるという考えがあったからである。宮坂のもう一つ目的は、Loma Linda大学のJoyce Peabodyに血液酸素モニターの基礎的解説に加え、アメリカのNICUにおけるパルスオキシメータ使用の実情を紹介してもらい、実際にNICUを運営する新生児科医に正しいパルスオキシメーターの理解と関心を持ってもらう目的であった。
静脈拍動からの影響を考慮して測定精度を高める改良や体動の影響をキャンセリングするフィルターなどの機能上の進歩も然ることながら、その使用上の簡便さに加え、パルスオキシメータそのものに対する信頼度が高まったことが、その後の急速な普及につながったことは間違いなく、「箱根新生児パルスオキシメータワークショップ」の果たした役割は大きなものであったと考えられる。そのアークショップとそこで提案された共同研究の成果は、「新生児・小児医療でのパルスオキメーターの応用: 宮坂勝之(編)、日本医学館、 1988年7月」に要約されている。それが大きな引き金となり、経皮的酸素モニターの高酸素領域でのモニタリングの有用性は変わらないが、新生児においても血液酸素濃度モニターはパルスオキシメーターの時代となったのである。

おわりに
近代新生児医療において血液酸素モニターが重要であることは衆知の事実であるが、日本の二人の先達がこの分野で世界的な貢献をしていることは私たちの誇りである。同時にその歴史的なエピソードの数々の影に、私たちが学ばなければならない多くのことが含まれていることを是非読み取って頂きたい。

項を終わるに当たり、貴重な助言を頂いた青柳卓雄・宮坂勝之の両氏に心からの感謝を述べる。また文中の敬語を省略したことを各氏にお詫びする。

参考文献:
仁志田博司:反骨のロマンチスト・山内逸郎、Neonatal Care (完成して下しい)
仁志田博司:新生児学入門、(経皮的酸素分圧モニタ・パルスオキシメータ、及び呼吸生理の基礎)、pp102−103 及び 236−241,医学書院、2012

仁志田博司::経皮的酸素飽和度連続モニター法、 小児内科、19:1853,1987

 

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第5 新生児を股関節脱臼の悲劇から救う医学苦的・社会的活動

はじめに
私は小児科医として先天性股関節脱臼(luxatio coxi congenital ,LCC、後に名称が変わる)を新生児・乳児健診で見逃してはいけないと先輩に強く指導されてきたが、現在実際にその症例を見ることは極めて稀になっている。これまで我が国では、これまで股関節脱臼で歩行に支障をきたす人生を余儀なくされていた人は決して稀ではなかったが、新生児期からの予防によってその発生頻度を著しく低くした整形外科医がいたのである。私は、風の便りに石田勝正(以後石田、敬称略)の名前を耳にしていたが、我国の新生児の歴史を振り返る中で、その果たした役割の大きさに驚愕した。さらに石田の医師として幼い子供に注ぐ眼差しのあたたかさに接し、是非多くの新生児に関わる者にその事実を知って頂きたいと考えたのである。

何故整形外科医師の石田が股関節脱臼の予防に生涯を掛けたか
もともと整形外科は、その英語名称のorthopedicsの語源を辿ってみると、ギリシャ語 でorthos は「真っ直にする,治す」の意味で、pediは小児科がpediatricsであることから想像出来るごとく子供を意味するpaidosが語源である。この言葉の示すとおり、整形外科は小児の先天的奇形矯正から始まり、こどもの手足の治療を出発点としてヨーロッパで発展し、2度の大きな世界大戦を機会に手足の外傷とその機能回復医療として、さらにアメリカ合衆国で骨系統全体の外科の分野として発展したのである。
 1936年に名古屋の商家に生まれた石田が医師になったのは手術に憧れたからで、京都大学医学部では多くの若い医師がそうであるごとくインターン時に最初に受けた影響で整形外科を選んでいる。入局当時の大学病院の整形外科病棟入院患者の大半は子供、特に乳幼児の股関節脱臼であったという。1966年に石田は、恩師の山室京都大学教授がスエーデンでLCCの世界に名を刻んでいるVon Rosenの下で研修し、整形外科医が新生児の股関節の診察をしていることなど新しい知見を持ち帰り、整形外科に新生児検診グループを立ち上げた時代に遭遇したのである。
後に述べるように、石田が外科医としての華やかなメス裁きでなく、母親や産科医など新生児と子育てに関わる人々に予防法を啓蒙するという、ある意味では泥臭い活動に身を投じたのは、その子供の一生を左右するLCC発生をドラマチックに減少させる事実を目の当たりにしたからである。多分石田はLCC との出会いに運命的なものを感じ、その半生を「新生児からのLCC予防」に捧げたのではないだろうか。

新生児の股関節脱臼とは
進化論的には人類は股関節を屈曲させる4足動物であったので、直立歩行を開始した時点でLCCが起こりやすくなったと考えられる。子宮内では胎児は四肢を屈曲位に保っており、出生後しばらくも自然肢位は屈曲位で、ハイハイ等のプロセスを経て生後1年余で独歩を始める。生後間もなくは、分娩時の母体の関節を弛緩させるリラキシン(relaxin、子宮弛緩因子)やエストロゲン等が、児の関節弛緩の作用も行うため関節の固定が不安定で、外力が加わると容易に脱臼し易い状態である。このことは、成熟度判定のドボビッツ検査で知られているごとく、早産児に比べ正期産児は出生時の関節可動域が広く、新生児期を過ぎると関節可動域は狭くなる、言葉を変えれば柔らかかった関節が生後により固定されてくる、ことから理解できるであろう。動物実験でも、幼若ラットの下肢を進展しておくと全例で股関節脱臼となり、その傾向はエストロゲンを注射した動物でより明らかとなることが示されている。このことから、関節を支える靭帯が弛緩し、それを補う筋力も不十分な新生児の股関節に、出生後に無理に伸ばすことなどの外力を加えれば容易に脱臼が起こるメカニズムが理解できるであろう。
股関節は骨盤の臼蓋と大腿骨の骨頭(大転子)の厳格な球状の組み合わせで、安定性と可動性という一見矛盾する機能が統一された特殊な構造であり、歩行時には股関節に体重の7倍以上の力が加わるところから、わずかなずれや少しでも球形性に問題が生じると、股関節を軸とした運動機能の障害を生じるので、新生児期から不適切な股関節の状態が続くと、歩行障害という児の一生のquality of lifeを低下させる誘因となる。乳幼児時に発見される明らかな脱臼による歩行障害だけでなく、見過ごされた亜脱臼の状態が成人になってから変形性股関節症となり、耐え難い痛みをもたらして手術的治療を要する事例も稀ならず起こっている。我国の加齢による変形性関節症の多くも、実はLCCがその背景にあり、老齢期のquality of lifeに大きく影響を及ぼしていると言われており、次に述べる新生児からのLCC予防の持つ意味は極めて大きいことが窺える。
このようにかって先天性股関節脱臼と呼ばれたいたものが、上記のような周産期の股関節の生理的な不安定性を基盤として、出生後の育児環境を誘因としておこる一連の疾患群であるところから、DDH(developmental dislocation of the hip joint、発達性股関節脱臼)と呼ばれるようになった。勿論、骨系統の先天性の疾患などで、子宮内から既に股関節脱臼を起こしている本物の先天性の股関節脱臼も存在するが、それらは極めて稀であり、いわゆるLCCのほとんどはDDHである。

新生児期からの股関節脱臼の予防活動
 我国だけでなく、アメリカ小児科学会のシンボルマークに見るごとく、ミイラのように赤ちゃんをぐるぐる巻く風習はSwaddling(赤ちゃんを細長い布で蒔く)と呼ばれ、赤ちゃんが静かになるなどの理由で古くから世界各国にあった。しかし、硬く下肢を巻きつける子育てをするアメリカのナバホインデアンにLCCが極めて多く、一方全くおむつをしないアフリカの子どもにはLCCはほとんどないことなどから、蒔きおむつがLCCの誘引になっていることが想像されていた。それに上記の医学的知見が加わり、「赤ちゃんの下肢の自由運動を妨げない」育児法によってLCCの発生を軽減することが予想されていた。
 LCC予防は、亜脱臼も含めた早期発見とリーメンビューゲルによる股関節の正しい位置への整復で、そのほとんどが自然治癒するところから、乳児検診さらには新生児検診が中心であった。石田が1966年に新生児の股関節の診察を開始した当時は固い巻きおむつの時代であり、検診した児の2.75%にclick現象(診察時に大腿骨骨頭が臼蓋から滑り出たり入ったりする脱臼感および整復感を手に感じ、その時に多くはクリック音を伴う現象)が陽性で亜脱臼の状態と判断されたが、1967年に巻きおむつを止めてゆるくする指導でclick現象は0.28%と1/10に減少し、1968年より開排位で股おむつにするとclick現象はさらに0.13%と1/20に減少した。この個人的な経験から、石田はすべて新生児が股関節脱臼になる可能性があり、その予防には生後一日目からの対応が主要であることを確信し、股関節脱臼の誘引となりうる育児法そのものの指導から始めることを提唱した。具体的には、蒔きおむつを止め股だけに薄くおむつを当て、児が自由に開排位の取れる指導であったが、長年習慣とされてきた育児法を変えることは、専門家による学問的な説明だけでは容易でなかった。石田は実際に産科医・助産婦・看護婦などの医療関係者だけでなく、保健婦や一般主婦さらには保健所などの行政も含めた子育てに関わるあらゆる職種に働きかけ、ようやく1973年にモデル地区(京都伏見区)でフィールドワークを行うことが出来た。その結果はドラマチックで股関節脱臼の発生頻度は1972年の(1.1%)から1974年の(0.1%)と1/10に激減したのである。その成果は1975年の日本整形外科学会で発表され、石田の理論が広く受け入れられ、全国的なに股関節脱臼の予防活動が展開されたのである。
 かって先天性と呼ばれていた股関節脱臼が、実は生理的な股関節の不安定な状態に起因する後天的な発達性股関節脱臼とよばれるものであることは、すでに多くの先人によって認められていたが、学問的に予防法が分かっていてもそれを実際子どもに関わる者に伝え、指導し、見守る努力をしなければ絵に描いた餅であり、子どもを一生の障害に苦しむことから守ることは出来ない。それを実際に新生児からの養育上の注意として世の中に普及させたのは石田であり、その過程で行われなければならない医療を離れた多くの苦労を伴う対社会的な活動こそが、子どもを股関節脱臼となる不幸から救ったのである。石田はさらに、動きを妨げる服装から子供を守るためにベビー服研究会(1975年)を作ったり、「コアラ抱き:赤ちゃんをお母さんと向かい合わせにし、お母さんの腰骨やおなかにまたがらせ両手で首を支える抱き方」と呼ばれる赤ちゃんの抱き方を推奨したりと、児を股関節脱臼から守る様々な活動を行っている。石田は1978年に、(いわゆる)先天性股関節脱臼の発生・防止の研究と実践の成果により京都新聞文化賞を受賞している。
石田とあたたかい心
石田は整形外科医として自殺企図で飛び降りて骨折したヒステリーの女性を受け持った。彼女は灼熱病と呼ばれる全身の灼熱感と痛みを訴えたが、それは一般的な整形外科診療ではとても対応できない心の病であり、口先のムンテラではなく腹這いにして背中をさすり、さらに抱きしめると涙を流して症状が軽減していった。退院した彼女は、やがて結婚し母親となる幸せな人生を送ることになった事例を経験した石田は、通常の医療を超えた心のケアの重要性を知り精神医学に深く関わるようになった。その背景には、新生児の股関節の異常を早く見つける整形外科医として仕事の中で、泣いている新生児を抱いてやるとおとなしくなり、さらに赤ちゃんが素晴らしい顔になる経験から、石田はやさしさの心のケアのよって、人間が本来持っている遺伝子の愛情本能が表出してくると考えた。石田は私のインタビューに、「新生児は生まれてしばらくは泣いているが、その後は何かを考えているように天井を静かに見ている。誰が世話をするかわかっていて笑って応える。新生児はとても頭が良いですよ。」と話しており、小児科医よりもあかちゃんを良く観察しているのに驚いた。それは石田が、赤ちゃんと心は通じるあたたかい心を持っているからなのである。 
石田は、この世で愛情ほど大切なものはないのにかかわらず心理学では重視されていないところから、愛情を自然科学、特に生物学的観点から取り組むべきと考えた。国立京都病院を退職し、整形外科医院を営むかたわら、「赤ちゃんとお母さんが向かい合い、お母さんの腰にまたがらせておっぱいを飲ませると良い」と勧めて、股関節脱臼予防と母子関係を密着させてお互いの心を育む育児法を広めていた。 さらに石田は、教えていないことをする小さな子供を観察して、「人を愛する心は遺伝子に備わっている」ことに気づき、その善い遺伝子を引き出すには、母親への子育ての教育が大切であると考え、生まれてくる子供たちが心の病で苦しむことがないように、との願いをこめて、母親を中心とした一般向けの「心の科学」勉強会を開催している。
おわりに
歴史の中には石田のように、何にも代えられないほどの恩恵を子どものみならず多くの人々にもたらした仕事をしながらも、華やかな檜舞台に上がることなく淡々と己の道を生きている傑人がいることを、また母親への子育ての指導という日常的に行われている事柄の陰にこのようなドラマがあることを知り、私だけでなく読者の多くは、子どもに関わる医療者として改めて襟を正す思いに至ったのではないだろうか。

文献
石田勝正: 先天股脱成立に関する考察――特にその予防的処置について。 整形外科 24:1299−1311、1973

石田勝正: 先天股脱の予防――臨床的、実験的検索と予防の実践、 整形外科 26:467−473,1975

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第6章 臨床医と技術者の情熱が世界に発信した石の肺でも換気するHFO

はじめに
 先月号で取り上げたパルスオキシメータが、それまでの経皮酸素モニターにとって変わって、我国から発信して世界に広がったように、新生児の人工喚気療法に革命的変化をもたらして世界に発信したのが、高頻度人工換気療法(high-frequency oscillatory ventilation: HFO)である。HFOの開発と臨床応用に至る過程には幾つかの奇蹟のようなエピソードがあるが、そのドラマは天才的な閃きを持った臨床医師と、逆境を跳ね除ける不屈の情熱を持った技術者の運命的な邂逅から始まった。

高頻度人工換気療法:HFO)とは
 従来型の人工換気装置(Conventional Mechanical Ventilation: CMV)は、一分間に数十回の気道内死腔を越えた換気量のガスを、吸気に圧を掛けて送り込み、その後に肺のリコイルで呼気となる機構であり、それは対流による換気を目的としている。しかし対流による換気が行われるのは、気道の中で上気道入口から15−16分岐程までであり、17分岐から先と肺胞腔の間のガス交換は主に拡散によるものであることが生理学的に知られている。それに対しHFOは振動によって、拡散による換気を肺胞レベルから気道入口まで広げることによって人工換気するする方法である。
 CMVによる肺のガス交換においては、炭酸ガス排出は分時換気量に比例し、血液の酸素化は平均気道内圧(Mean Airway Pressure : MAP) に比例する。振動による拡散で換気するHFOにおいては、空気中(room air)でも炭酸ガスは酸素の18倍拡散する(空気中の酸素濃度と二酸化炭素の濃度比から概算)ので、CO2 eliminatorと言われるほど換気効率は良く、その意味ではタイトルに石の肺も換気できると大げさに言ったほど、HFOは理想的な換気装置といえる。一方血液の酸素化においては、これまでCMVで試みられていたPEEPをかける(呼気圧を上げる)や吸気時間を伸ばすなどは、結局はMAPが高くなることによって酸素化が良くなることが理解されるようになった、その結果、どのレスピレータにもコンピュータで計算されたMAPが表示されるようになり、電気を使わないベビーバードの時代が終わったのである。HFOは高いMAP(正確には肺を一定に拡張しておく圧:SI:sustained inflation pressure)をCMVより安全にかけることが出来るので、より低い酸素濃度で管理が可能という利点がある。
 HFOは肺を膨らませたり縮小したりする動きが無いので「肺にやさしい換気方法」と言える。事実、女子医大からサンアントニオのDr. deLemos(新生児科医、ベビーバード開発者の一人)の下に留学した能勢孝一郎は、RDSを発症した未熟なマントヒヒにおいてCMVで換気した例に比べ、HFOで換気すると病理所見でも驚くほど肺障害が無いことを観察している。 さらに高い換気圧を加えても換気が不十分でCMVでは呼吸管理が出来ない肺低形成の症例においてHFOが有効であり、侵襲的な膜型肺による呼吸管理(ECMO::extra-corporal; membrane oxygenation)の使用の頻度を低下させている。

宮坂勝之(以後宮坂)のHFOの原理に思い至った天才的感性
 宮坂の生家は信州の製糸業を営んでおり、生糸を取る繭を高温で煮て柔らかくする過程で大量のお湯が使用されていた。その熱エネルギーを有効に使用するため、従業員が入った後の大きなお風呂を温めるのにボイラーからの蒸気をボコボコとお湯に入れていた。その時にお風呂に入りながら声を出して遊んでいた少年時代の宮坂には、口を開けていると振動で呼吸を長く止めていることが出来るという不思議な記憶があった。
宮坂は1969年に信州大を卒業後、国立小児病院麻酔科に勤務し、1973年に小児集中治療(PIC,その施設がpediatric intensive care unit: PICU)を学びにトロント小児病院留学した。そこで、消防士が気道に熱傷を受け、挿管して肺が破れるほどの圧を加えても換気が出来ない事例のカンファレンスがあった時、まだ駆け出しであった宮坂が、振動を掛けたら、と発言した。誰も宮坂の奇抜なアイデアには注意を払わなかったが、世界的な呼吸生理学者であるBryan博士が、それを聞いて心に止めていた。彼は宮坂を自室に呼んで、音波で気道抵抗を測定する時のカプノグラム(炭酸ガスの連続測定グラフ)を見せた。それは、被験者の口からスピーカーで振動を掛けるとCO2が低下するデータであり、それは正に宮坂が幼少時に不思議に思っていたことの解明に繋がる現象であった。ブライアン博士の、振動が換気に関わる有用性を面白いからやってみないか、と言う提案に、宮坂は運命的偶然を感じて応じたのである。
 宮坂は、人間の気道にスピーカーを用いて振動を加える実験をおこなったが、高出力を出そうとしてBryan博士の私物である高価なスピーカーを2台も壊してしまったが良い結果は出なかった。丁度同じ実験部屋に、豚の顔面を用いて形成術の実験をしている研究者がおり、その豚の呼吸管理を受け持ち、同様な検討を続けた。スピーカーで上手くいかなかったので、physiotherapyで使うパーカッサを応用して気道に振動を与えてみると、明らかにCO2が下がることが確認出来たのである。このHFOの生理学的背景となる、気道に振動を加えると一回の振動幅による駆出量が数ミリでも肺胞まで届いて換気に役立つ、という自分の実験データが実を結ぶ前に、宮坂は日本にPICUを導入する夢を抱いて1977年に帰国することとなった。トロンとの実験で宮坂は、同時に呼吸の圧量曲線で肺のオープンニグ圧が低くなる事に気付いていたが、彼の帰国後に同僚のデスモンド・ボーンがそれらの結果を基に論文(J.Applied Phsiology,80年4月号)にまとめ、それが世界で最初のHFOの実験報告と評価されている。宮坂はその論文のセカンドアーサーであったが、リプリントを送ってきたBryan博士は、その表紙に「この仕事は君のアイデアだ」と書き添えている。 (図1)
 
トラン・ゴック・フック(日本名:新田一福、以後フック)がHFOに至った道
 フックは1947年に旧南ベトナムのサイゴンの裕福な家庭に生まれ、1968年私費留学生として来日して東海大学工学部で学んだ。祖国ベトナムでヤシ油を材料にした洗剤製造の会社を起こそうと考え、卒業論文も洗剤製造がテーマであった。しかし石油ショックの影響で日本の油脂メーカーで学ぶことが出来なくなり、帰国するまでに何か技術を習得しなければ、という焦りがあったが、幸い泉工医科工業で働くことが出来た。 人生の恩人となる青木利三郎社長は「ベトナムに帰ったとき役立つように」と、さまざまな製品の開発や製造の現場を体験させてくれた。ベトナムでは負傷した兵士の治療で、輸血時にショック死する事故が相次いだのは塩化ビニールのチューブに不純物の混ざった可塑剤が添加されていたためであったことから、安全な輸血セットをつくるための技術を習得し、ベトナムでその会社を設立して国の役に立つのが当時のフックの夢であった。しかしベトナム戦争が激化して1975年4月30日にサイゴン(現ホーチミン)が陥落し、家族との連絡が出来なくなり、帰る祖国も無くなり絶望の淵に追い込まれた。その時のことをフックは、自暴自棄になり死を選びそうな自分自身が怖くて、高い建物では窓の側に近づくことや駅のプラトフォームを歩くことさえ避けた、と語っている。
 日本に留る決意をしたフックは、年功序列の日本企業の文化の中で生きる為に、開発が困難な医療機器の一つである人工換気装置に取り組むこととし、杏林大学医学部での研修に派遣された。大学病院では毎日10例ほどの手術に麻酔の助手として立ち会う一方、1930年代からの世界の医学文献を読み漁り、呼吸のメカニズムや人工呼吸器開発の歴史などを勉強し、睡眠が3、4時間という日々が続いた。その中で、CMVより肺にやさしい1分間に300回から1000回振動させる人工換気の論文を発見した。 会社に戻ると開発費が乏しかったこともあり、流体素子を応用したジェットで起動するHFOの開発に関わり、杏林大麻酔科神山守人教授の指導を受け、1982年に高頻度ジェット人工換気装置(High Frequency Jet Ventilator:: HFJV)を製品化することが出来た。 フックが開発したHFJVはわが国最初の高頻度人工換気装置であった。仁志田も北里大学でCMVでは管理が出来ない重症呼吸不全児に遭遇したところからHFJVを購入したが、その効果のバラつきが大きいところから、小児科講師の中村恒夫の博士号研究として動物実験でHFJVの検討を行った。フックは実験室まで出向いて、加湿用のダブルルーメン針や二方向ジェット装置などを作成して研究をサポートしてくれたが、その根本原理に幾つかの不完全な要素があるところから、その臨床応用には問題があるとの結論となった。その後、次に述べるような宮坂との出会いから、ピストンによるHFO開発に方向転換するのである。

宮坂とフックの運命的な出会い  (図2)
帰国後国立小児病院(現・国立成育医療センター)の麻酔科で働いていた宮坂は、トロントで学んだ多くの最新の知見を活かし日本の小児麻酔と小児集中治療で目覚ましい仕事を展開していた。その頃筆者が働いていた北里大学病院に、宮坂がクリプトンを用いた肺機能の検査のため患者を連れてきた折り、CPAPの功罪など立ち話をしたが、その理路整然とした知識に強い印象を受けたことが昨日のことのように思い出される。
 宮阪はトロントで実験に用いていたピシトンタイプのHFOを臨床に応用する機器を開発する企業を探していたが、その原理を理解できる人がほとんどいなかった。一方フックは、HFJVの限界に直面し次の展開を模索していたところ、営業担当者から国立小児病院に優秀な研究者がいるので会ってみろといわれ、訪ねたのがなんとブライアン教授の下でHFOの研究を重ねてきた宮坂であった。全く新しい原理の臨床適応が可能なHFOを開発しようという、同じ目的を持った二人の運命的な出会いが、次に述べるNHIのHIFIstudy参加という大冒険のステップを乗り越え、世界に先駆けた臨床に耐えうるHFOを世に送る結果となったのである。臨床家として妥協を許さない宮坂先生は、フックに厳しい条件の装置の開発を要求した。ピストンの位置の厳密な設定や、圧力などは従来の100倍の能力を要求され、試作装置自体が室内を動き回るほどのこともあったという。
フックにとっては清水の舞台から飛び降りる思いで参加したHIFI studyが思わぬ結果となり、折からの円高ショックも重なり大きな経済的負担となった。しかしフックはその至難を乗り越え、彼が創業したメトラン社はHFOを軸として大発展し、宮坂と共にHFOの開発者として新生児医療の歴史に名前を刻んだのである。二人の関係は、最初の Hummingbirdにつけられた BM0 20N: Bryan-Miyasaka-Oscillator、そしてその後メトラン社が開発したHFOとCMVを同一回路で適用できるHumming U、 Humming Vなどの命名に象徴されている。 また2012年の日本周産期新生児学会におけるフックの特別講演会で、宮坂が座長をして、フックの「死んだ気になって努力すれば道は開ける」という不屈の精神が宮坂のアイデアを形としてHFOを世に送り出した、と紹介したのである。
NIHのHIFI study
米国国立衛生研究所(National Institute of Health; NIH)が主催する臨床研究は、新しい医療法が実際に臨床に応用されるための登竜門、というよりその難関を通らなければ世に出ないというほど重要なものである。画期的な人工換気療法となることが予想されるHFOの臨床研究が、そのNIHにHIFIスタディとして取り上げられたが、日本からの機器がそれに採用されたことは、我国の医療界にとっても歴史的な出来事であった。
HIFI studyには、日本の他に米国から6社とカナダから1社が参加し、ハーバード大学で6か月工学的チェックの後、マイアミで専門家40名の前でその機器のコンセプト・性能・使用法などのヒアリングが行われた。英語が堪能であるだけでなく、HFOを誰よりも知っている宮坂がプレゼンテーションを行い、見事最高評価を得て選ばれたのである。筆者の親しい友人のRobert deLemosは、アメリカのSensoMedics社のHFO(Moving Coilと呼ばれるスピーカに近い機構でゴムのダイアフラムを用いて振動を発生させる)の開発に関与していたが、HummingBirdが抜きんでて優れていたと、後に個人的に語っていた。
フックにとっては実はそれからが地獄のような日々であった。既に自己資金は使い切っていたが帰化申請中のフックは銀行から資金を借りられない状態であったが、その性能を細かくチェックした試験研究用、HummingBirdを85台、期限までに納入しなければならなかった。しかしフックには、その人柄故の福があった。資金は泉工医科の創業者青木利三郎会長と青木由雄社長がサポートしてくれ、性能チェックは宮坂とその仲間が診療後の時間に、国立小児病院の研究所のコンピュータ等の施設を使って行ってくれたのである。フックとメトラン社の社員3人は宮坂とそのスタッフの協力を得て、嵐のような日々の1年半で何とか期限までに全製品を北米に搬送したのである。フックは、後日振り返ると奇跡のようであった、と語っている。
 1984年からHummingBird BMO 20N を用いての世界初のHFO臨床研究は、NIHのプロトコールに従って700人の未熟児を対象に行われ、1988年に大きなトラブルなく終了した。しかし結果はHFOがCMVに勝る結果が出なかった上に、 脳室内出血(IVH)が多いというマイナスの評価となり、それは世界的な医学雑誌のNew England Journal of Medicineに発表された。 それはHFO自体の理論や機器の構造上の問題でなく研究デザインに問題があったことは、実は当初から危惧されていた。HFOそのものがCMVとは全く異なる人工換気装置であり、異なった考え方や使用上のテクニックが必要であるのに、北米では重症例でも実際の管理の8割が研修中のレジデントレベルでなされ、上司からに新しい方法論の指導と管理が十分に伝わらないことは予想されていた。さらに後に述べるが、、MAP、そして肺容量確保に対する考え方が十分に理解されていない段階で、両者を同じ土俵で比較する矛盾があった。事実、HFOをブライアン博士の夫人(新生児専門医でHFOを良く理解していた)が責任者であったトロントのMt. Sinai病院では、HFOがCMVより明らかに良好な成績を示していたのである。
その逆風を押し戻したのが、わが国の新生児グループであった。小川雄ノ亮を班長として全国9施設のNICUで、750−2000gのRDSの症例を対象に、HFO群及びCMV群が各々46例づつの92例において、NIFI studyよりは少人数ながらキチンとしたプロトコールのRCTが行なわれた。結果は、HFOとCMVの両群の死亡率は0−2%と有意差なく、さらにNIFI studyで問題とされたIVHは全体で15と13%(grades 3-4では4と2%)と統計学的に差がなかった。さらにHFO群における酸素化が良いなどの結果から 、以後HFOは我国のNICUに広まり、フックのメトラン社は息を吹き返したのである。 
HFOの臨床応用への足跡
 トロントでの使用経験があるが、我国での最初のHFOの臨床応用は東大病院における田村の症例であると言われる。初期にはCMVで換気出来ない重症呼吸不全例のrescue として用いられたが、後には肺にやさしいという考えから一般的にも使用されるようになった。その初期の頃の幾つかのエピソードを述べる。
 筆者が最初にHFOを使用したのは、CMVで換気が困難となり国立小児病院からHFOを搬入してもらった事例であったが、CMVと同じMAPのセットで開始すると状態が悪くなり、何度か繰り返したが失敗に終わった。 同じような事例を再び経験し、思い切ってMAPを15cmH2Oに上げて開始したところ、良好な換気が得られた救命出来たのである。そのような経験が重なり、CMVのMAPが呼吸の圧面積を積分した値であるのに対し、HFOでは肺を膨らませた状態に保っておく吸気圧(inflation sustaining pressure)が重要であることが理解されるようになった。 逆にRDSでは回復期に肺のコンプライアンスが低下する(肺が柔らかくなる)ために、初期には適正であったHFOのMAPが過剰となり、肺からの静脈還流量(pulmonary venous return)が減少して心拍出量も減少し、低血圧となる事例が経験された。このことはサーファクタントを使用した例でより著名で、そのような事例にHFOを使用する場合は、時間の単位でMAPを変える必要があった。初期の動物実験の段階で、HFOを使用すると原因不明の代謝性アシドーシス(mysterious metabolic acidosis)が発生すると言われたいたことも、過剰なMAPによる静脈還流量の低下に伴う循環血液量の低下に付随した現象であったと考えられている。 筆者の忘れられないHFOの使用経験は、原因不明の間質性肺炎の新生児において診断目的として肺生検したところ、CMVでは60H2Ocmを超える吸気圧を必要とするため肺気管支婁となり、HFO以外では換気できず、100日間以上HFOを使用してようやく救命出来た事例である。それ以後、HFOは破けた肺でも換気が可能であるなど、CMVを超えた能力があることを確信したのである。
エピローグ
 フックが1984年に創業したメトラン社は、HIFIスダディの経済的負債を乗り越え、HummingirdのHFOにCMV機能をドッキングさせたHummingU、さらによりパワフルなHumming Vなどに進化させ、我国のほとんどのNICUで使用されるようになり、営業的にも成功をおさめた。現在はロータリーバルブとカートリッジ型ダイアグラムの開発に成功し、スズキ自動車などとの共同で成人用HFOを製品化してイギリス・カナダでARDSに対する治験も行われた。特筆すべきことは、日本で用いられる重症患者に用いられる治療機器の多くが外国製であるのに対し、メトラン社の製品はほとんどフックのアイデアから生まれた自社製品であることである。それが評価され2009年に第5回 渋沢栄一ベンチャードリーム賞を受賞し、さらに2012年3月には宮坂と共同で日本ものづくり大賞表彰を受け、7月にはメトラン社は日本の中小企業の中で1か所だけ選ばれて、平成天皇の行幸の栄誉に浴したのである。さらに、フックは日本に帰化したが祖国ベトナムへの奉仕の夢を持ち続け、医療機器製造だけでなく多方面の福祉活動も行っている。
宮坂は国立成育センター(前国立小児病院)及び長野こども病院において、宮坂学校と呼ばれるほど多くの優秀な若い医師を教育し、そのいずれもが現在のわが国の小児医療の中核となって活躍している。宮坂の夢は、20年前に彼が創立した日本小児集中治療学会を発展させ、NICUがそうであった如く、我国においてPICUを全国的に普及させることである。その夢は有能な宮坂学校の教え子たちが、宮坂と同様海外でPICの研修を受けて帰国し、徐々にでああるが実現させつつある。筆者は日本の小児科が諸外国に比して弱体であるのは大学病院でもPICUがないからであると考えているところから、心からエールを送っている。
HFO開発の歴史は、新生児医療から成人の医療に発展していった数少ない医療機器の開発であると同時に、宮坂とフックの二人三脚に代表されるように、医療者(M::medicine)と技術者(E:engineering)が共通の言葉で共通の目的に向かって話をすることが如何に重要であるかを示したものである。また宮坂学校の中村友彦や田村が中心となっている新生児関係のMとEが集う白馬フォーラムの起源が、スキーを楽しみながらMとEが一堂に会して行われる米国ユタ州で行われているSnow Bird Conferenceに倣ったものであり、その始まりはHFO開発初期のMとEのカンファレンスからであった。 我国の新生児医療の発展において、この稀有なるMとEの二人の傑物の邂逅という幸運があったが、それを例外とせず後に続くMとEに関わる若い仲間から、第二の宮坂とフックが生まれることを心から祈念するものである。
稿を終わるに当たり、貴重なお話をお聞かせいただきました新田一福(トラン・ゴック・フック)・宮坂勝之・田村正徳の各氏に心から深謝する。

図1:Bryan 博士が宮坂に「君がHFOをはじめた」とメモ書きして送った論文

図2: メトラン社でHFOを挟んだ並ぶ福田(フック)と宮坂

文献

*トラン・ゴック・フック:HFOV(高頻度振動換気法)から在宅医療支援システムまで、日本周産期・新生児医学雑誌、48(2):256,2012
(宮坂勝之:座長のまとめ、日本周産期・新生児医学雑誌、48(4):799,2013)
*宮坂勝之・新田一福(聞き手:塚崎朝子):医療を支えるものづくりニッポン(第6回):高頻度振動換気人工呼吸器、MedicalASAHI,2012、September:66−69
* 新田一福(Tran Ngoc Phuc):Message from Frontier: HFO人工呼吸器の開発・商品化により自力呼吸不可の早産児・新生児の救命率向上に貢献。Fetal & Neonatal Medicine, 2012 ,4(2):68-75,
* The HIFI study group: High frequency ventilation compared with conventional mechanical ventilation in the treatment of respiratory failure in premature infants. New Engl J Med. 320: 88-92,1989
* Ogawa Y, Miyasaka K, Kawano T, Nishida H  et al: A multicenter randomized trial of
high frequency oscillatory ventilation as compared with conventional mechanical ventilation  in premature infants with respiratory failure. Early Hum Dev, 1993 Feb:32(1):1-10
* Bohn DJ, Miyasaka K, Bryan AC et al: Ventilation by high-frequency oscillation.  J Appl Physiol. 1980 Apr;48(4):710-716.
* 中村恒穂、仁志田博司:高頻度ジェットベンチレーションの基礎的研究(第一法)−胸腔内圧の変動と循環動態に与える影響。日本新生児会誌

* 星 順、仁志田博司:新生児重症呼吸不全におけるHigh Frequency Oscillation(HFO)の使用経験、日新生児会誌、26:686−88,1990*仁志田博司:高頻度人工換気装置(HFV)pp268−271、新生児学入門(第4版)、医学書院、2012

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第7章 我国の周産期医療の扉を開いた山下家の5つ子誕生

はじめに
私が日本周産期新生児学会の鼎談で、日本の周産期新生児医療の歴史の中でエポックメイキングな出来事の一つとして山下家の五つ子誕生を挙げて話した時(仁志田博司:座談会「周産期医療・新生児医療のきのう、きょう、そしてあした」、新生児科の立場から:日本周産期・新生児医学会雑誌、47(1):21−26,2111)、池ノ上克が私にありがとうと言ったが、その時はその深い意味に気付かなかった。恥ずかしながら、鹿児島に日本最初の本格的な周産期センターが出来たのは五つ子誕生という幸運の賜物と思い、五つ子のことも珍しい多胎というギネスブック的興味でしかみていなかったのである。本原稿を纏めるにあって、池ノ上が大村病院の田崎啓介の下に新生児を、さらに南カリフォルニア大学に周産期を学びに行ったのは五つ子誕生の前であることから、外西寿彦がそれ以前から鹿児島県の周産期医療の充実を構想したことを知り、そこに生きた彼らの本当の大きな思想が五つ子のドラマチックなエピソードの陰に隠されて、ほとんどの人に理解されてこなかったことに対する忸怩たる思いが、池ノ上の「ありがとう」の言葉に秘められていたのである。
多くの方々の話を聞くにつれ山下家の五つ子誕生は、多くの幸運と若い医療者たちの情熱と組織を挙げてのサポートによる、まさに奇蹟のようなドラマであるが、多くの歴史的教訓を含んだものであることを読み取って頂きたい。

五つ子の歴史的記載
 我国の多胎の歴史は、1705年(宝永2年)に丸亀藩で六つ子が生まれたと丸亀藩正史「西讃府誌」に記されているというが、明らかな医学的記録では1901年(明治34年)11月1日に私の故郷の福島県伊達郡粟野村(現・伊達市)で生まれた五つ子であり、記録と遺体は東大に保存されているという。生後しばらく生存したが保育器もない時代であり、冬に生まれたので全員死亡したが夏に生まれていたら何名かは生存したかもしれない。
多胎が出生する頻度はHellinの公式「1/80n-1:n=多胎児数」が有名であり、双胎は1/80・品胎は1/802  (6,400)・要胎は1/803 (512,000) と計算されるが、わが国の双胎の出生頻度は欧米の分娩80に一例より統計上少ないので、その公式の80を100として5つ子出生の頻度を計算すると1004=1億であり、我国の年間出生数を約100万とすると5つ子出生は100年に1回となり、いかに天文学的に稀な出来事であることが理解できるであろう。(井村総一他:5つ子について、産婦人科の世界、29(4):407−13,1977)しかし近年は生殖補助技術が進歩したところから、今回の例も含めて多胎発生の頻度はその影響によって大幅に変わってきている。私は東京女子医大母子センターに勤務した初期の5年間(1984−89年)に何と6組の4胎を経験している。幸いその6組の4胎の計24例の児は、死産の1例を除いた前例が生存退院している。
歴史上全員成育した最初の5つ子は、1934年にカナダで生まれたディオンヌの五つ子姉妹(Dionne quintuplets)であり詳細な記録が残っている。担当したデフォー医師は、5つ子の健康のために一日1回泣かせるなどの逸話が世界に流布するほど有名人となったが、5姉妹は必ずしも幸せな人生とは言えなかった。彼女らは1934年5月28日、カナダ、オンタリオ州で生まれた。オンタリオ州当局はディオンヌ姉妹保育委員会を組織し48万ドルの公債を発行して保育資金とし、さらに誕生4か月後にはなんと両親の養育能力が不十分との理由でその養育権を奪い、5姉妹は親から分離され医師と看護師2人が保育にあたり、満18歳になるまで保育委員会が後見することになった。信じ難いことに、見世物小屋のようなQuintland(5つ子の国)と呼ばれる特別に作られたパビリオンで厳格な規則正しい生活を強いられ、その近くには見物人目当てのお土産屋があり、オンタリオ州でナイアガラの滝に匹敵する観光地となったのである。この様に彼女たちの人生が、5つ子で生まれた故に如何に周囲の人々によって歪められたかは、1997年に生存していた3姉妹が、アイオワ州で生まれた七つ子(McCaughey septuplets)の両親にあてて書かれた以下の手紙に読み取れるであろう。
「多胎で生まれ子どもたちは見世物や商売道具にされてはいけない。一日に3回興味深深の見学者の前に晒され、私たちの人生はオンタリオ州の搾取(exploitation)によってめちゃめちゃにされました。この私たちの経験をお子様たちの養育に教訓として頂ければ、私達が生きてきた意味があることになるでしょう。」
山下家の5つ子の養育に当たっては、両親と医療陣のみならず周囲がこの歴史の教訓を十分に考慮した対応が最初から取られたことは特筆されなければならない。

鹿児島のわが国最初の5つ子誕生
 山下夫婦は結婚4年目で,そろそろ孫の顔を見たいという義母の言葉に,その頃から不妊治療が保険で認められこともあり京都府立医大で不妊症治療(排卵誘発剤注射)を受けた.母体は肝障害(B型肝炎ではない)の既往があったが、多胎と診断されていた以外は比較的順調な経過で、郷里が鹿児島であるところから里帰り分娩目的で1975年12月14日(妊娠31週)に鹿児島市立病院を受診した。外来診察において4胎以上の多胎の可能性が予想され、翌1976年1月16日(34週)で早産防止のため入院となり、その後の検査で5胎が診断された。予定日は2月19日
出来るだけ在胎週数を長くして未熟性による児の問題を少なくする目的で絶対安静の管理を受けたが、1月31日(妊娠37週+1日)に自然陣発となり12時30分に経腟で第一児が出生し、第5児娩出まで9分間であった。最初の2児が頭位で3児は骨盤位であり、1分後Apgar Score は第2児と3児が各々7及び6点で共に一時的に気管内挿管と吸引とメイロン投与の蘇生術を受けたが、全員5分後Apgar Scoreは9−10点となった。性別と出生体重は順に男児1480g:女児1800g・男児1130g・女児1300g・女児990gの2男3女、で一例を除いて極低出生体重児であったが状態は安定しており、保育器収容・少量の酸素使用(最高濃度40%。最長使用4日間)・10%グルコース輸液で管理され、1−2生日から母乳による経管栄養が開始された。母親は、「ちょっとがんばりすぎちゃった」と自らコメントするほどお産そのものに予想されたレベルの弛緩出血以外大きなトラブルは無かった。生後6−10日目に後に第4児が壊死性腸炎に罹患したが禁乳・抗生剤使用・輸液で回復したエピソード以外、一般的な未熟児に見られる黄疸・貧血。クル病様所見を認めたが順調な経過で5月12日(生後103日目)に日大板橋病院転院となった。東京への搬送においては、日大の川真田医局長・鹿児島の池ノ上らの医師団と看護婦のチームでタラップを降りる時に抱く人の傍にも人が付き、羽田から日大まではパトカー先導するというVIP並みの配慮がなされた。
日大板橋病院は日本の新生児の第一人者馬場一雄教授の下に井村総一らの優れた医療チームがいることから選ばれた。入院中の経過は順調な経過であったが、担当医は朝夕の2回馬場教授へ5児の状態を報告し、さらに教授が週1回プレスカンファしており、「もし何かがあったら切腹物ですよ」という馬場教授一流のブラックユーモアが語り草になっているほど緊張の日々であったという。長期になると子どもの精神発育のケアに関して理学の山下敏郎グループが月一回診察し、また6月から産科病棟の空き室で家族が面倒を見る病児保育のスタイルとする配慮がなされ、山下家が5人を同時に養育することが出来る大きさの家に引っ越し,家族に加え3人のベビーシッターが育児にあたる体制が整った9月27日に5人そろって退院となった.退院後も定期的な馬場教授の外来受診に加え、日大からナースが訪問指導及び週1回の小児科医往診のフォロアップ体制が取られた。それは、わが国最初の5つ子のデータという学問的な意味を超えて、カナダの5子が多数の人の中で精神的なストレスを受けたことの教訓を生かし、より良い生活環境造りをサポートする意味もあった。
ちなみに5人の子供たちの名前は、父親が取材を通して親しくなった京都清水寺の貫主・大西良慶(100歳)が子供は仏のさずかりものであるとして、観音経の中の「福聚は感無量(聚に代えて寿,海に代えて洋)」から1字ずつとって、「長男福太郎・長女寿子・次男洋平・次女妙子・三女智子」と名づけた。

五つ子の出産と成育を支援した人々のチームワークとその成果
産婦人科部長の外西寿彦は、日本で最初の五つ子出産に向けてのプロジェクトチーム(これは当時としては耳新しい外西の造語であった)を立ち上げ、1月20日に第一回プロジェクトチーム会合(医師10人・助産婦2人・看護婦3人)で、@出来るだけ胎児モニター(FHRとエストリオール)で妊娠継続 A24時間モニターとオンコール体制 B 新生児への対応の体制 C可能な限り自然分娩(帝切の準備のダブルセットアップ) D 厳重な箝口令 を確認し、実際の担当の医師・助産婦・看護師の役割分担を決め、出生の混乱時に間違えずにどのように臍帯に印をつけるか、などを含めたリハーサルを全員で行った。
出生は幸い最もスタッフの多い土曜日の昼であり、外西が5児全員を取り上げ、蔵屋一枝と住吉 稔(池ノ上は東京で実妹の結婚式出席中)を中心としたチームで新生児蘇生(第2児と3児)を含めた分娩時の母児管理を行った。当時保育器は院内に3台しかなかったが、翌日には医療器具会社アトムから保育器が鹿児島に空輸されたが、その際機器の電流の対応を関東から関西使用サイクル(50Hzから60Hz)に変えるのに時間がかかり、埼玉工場から羽田空港までパトカーが先導してようやく最終便に間に合ったのである。これにはアメリカ留学中の池の上が、アトムの社長が分娩監視装置を輸入する折衝の際にサポートした誼(よしみ)で懇意の間であるところから、急な願いに即座に応じてくれたのであり、五つ子を巡る幾つかの幸運な偶然の一つであったと言えよう。
その幸運な偶然の最たるものは、五つ子プロジェクトの要となる池ノ上がアメリカで周産期を研修して帰国したのは、五つ子が生まれる僅か数か月前であったことであろう。さらに池ノ上の2年下の蔵屋も、後に述べる外西の周産期構想の下に1973年に国立大村病院で新生児を研修していた。超音波による胎児診断の技術が導入されたのもその頃であり、池ノ上がアメリカから持ってきたテキストブックを見ながら勉強していた研修医の古川重治が、その教科書にも記載が無い五つ子の胎児画像を確認していることも、若いスタッフが正に新しい周産期医療に向かう学問研修をしていた時であった。
池ノ上と蔵屋に国立大村病院で新生児を指導した田崎啓介は、その前年退職して長崎市で小児科を開業していた。偶々2月1日の新聞で鹿児島市立病院が未熟児網膜症で訴訟を受けたことを知り、教え子の池ノ上を心配して電話をしたところ、東京から文字どうり飛んで帰ってきた池ノ上が「5つ子誕生でそれどころでないのです。」と、渡りに船と田崎にサポートを依頼したのである。当時の鹿児島の新生児管理は、カルテやフローチャートまで大村病院で学んだ田崎スタイルを踏襲していたのである。
田崎は当時世界のトップの未熟児医療の成績を上げていた親友の国立岡山病院の山内逸郎にも協力を頼んだ。山内は早速American optic社 制の最新のビリルビン測定器を携えて鹿児島を訪れ、幾つかのアドバイスを行ったがその中の一つが、母乳栄養にすることであった。それが後に5子全員救命のキーワードとなったのである。
第4子が生後6日目(1月7日)に腹満・嘔吐・血性便・全身色不良と状態が悪化した。池ノ上は暗澹たる気持ちで田崎に電話をし、田崎はさらに山内に電話をしたが、山内は電話を受けた時の5時15分を指している時計を忘れられないと言っているが、それは山内が「100年に一度の5つ子の誕生に居合わせた新生児科医として、後世に笑われないようにしなければ」と思ったからであった。取る物も取りあえず、とにかく西に西と飛び出し、列車で岡山から博多さらに熊本まで辿り着き、そこからタクシー約200kmを走り午前3時30分に鹿児島市立病院に着いた。診断は壊死性腸炎だが状態は予断を許さない。祈るような気持ちで、禁乳・輸液・抗生剤で経過を診ることをスタッフに助言し、2時間の仮眠を取った後山内は名古屋の会議に出かけた。8日の夕がた山内は再び鹿児島に戻り長崎から駆け付けた田崎らと合流し、池ノ上たちと話し合い「状態は少し持ち直している。このまま様子を見よう」という結論となった。
その後児は快方に向かい救命に至ったが、その陰に久留米大学小児科の本廣孝と病院検査部の功績があった。未熟児の管理には感染対策が重要であるという田崎の助言で、感染症の専門家である本廣は5つ子の皮膚・咽頭・鼻腔・便の培養と感受性を連日モニターしていた。その結果、患児の便からクレブジエラが培養され、ゲンタシンに感受性があることがわかり、適正な抗生物質使用がなされたのである。検査室も、5人分の培養に加え慣れない未熟児の少量の検体を用いた種々の測定を、24時間体制でサポートした。
このように、山下5つ子成育成功は鹿児島市立病院全スタッフに加え田崎や山内、さらには東京のフォローグループなどオール日本のチームワークの成果であった。

守り抜かれた五つ子出産の箝口令:
 五つ子妊娠は外西にとって初めての経験で当然その予後が不明であることと、マスコミの過剰な報道が予想されるところから、家族の希望もあり厳重な箝口令が敷かれ、5胎妊娠を知っていたのはプロジェクトチームの医療者のみであり、なんと病院長も総婦長も知らなかったほど徹底したものであった。
幸いにも全員無事生まれ母親も無事であったが上手の手から情報が洩れ、出生翌朝7時のTVのニュースに流れた。赤木三郎事務局長は、それを初めて聞いて自分の病院で重大なことが起こっていることに気づき、直ちに事務局員全員集合させた。同時に院長はじめ産婦人科スタッフそろっての記者会見をしなければならないと考え、全員に病院に来てもらう手配をしたのは流石であった。案の定病院に駆けつけると、電話が鳴り続け、記者が押し掛け、日曜当直の医師が右往左往していた。 幸い予定していたかのごとく最初の記者会見が行われ、外西は「5児とも小さいが十分生存の可能性がある」と発表したが、後に「白衣の下がゴルフウエアであったことが痛恨の思いであった」と苦笑していた。
父親はメヂア関連の仕事に従事していたところからで、過度なマスコミ攻勢が家族、特に母親に精神的な負担をもたらすことを知っており、またカナダの5つ子の例が示した如く長期的に子どもたちにもマイナスの影響をもたらすことを考慮した対応を望んだが、同時にロッキード事件などが起こっている世相に明るいニュースをもたらす可能性も理解していた。また病院側もマスコミ攻勢で病院機能に支障をきたす可能性があるところから取材窓口を一本化し、毎日朝と夕に外西が記者会見を行うこととした。外西のメヂア対応は軽妙で、「5つ子は上手く離陸して安定飛行に入りましたが乱気流に出くわすこともります。」と言い、壊死性腸炎で一時状態が悪化したことを、「少し気流が悪く今ベルト着用サインが出ましたので」と表現している。

五つ子成育成功と鹿児島周産期医療システム構築
鹿児島大学で産婦人科助教授をしていた外西寿彦は、1966年鹿児島市立病院の産婦人科部長として赴任した時、大学と異なった市立病院の使命は地域医療に貢献することであり、産婦人科医としては一般開業医のレベルを超えた母子救急医療体制を確立すべきと考えた。外西の非凡なところは、彼の専門が婦人科腫瘍であったが周産期医療の重要性を認知し、その為には新生児医療の充実が不可欠であると新生児・未熟児センターの設立を病院改築の構想を練っていた上高原勝美院長に進言したことである。その背景には、わが国の明治維新の立役者であった鹿児島県が、文明度のバロメーターと言われる母子医療における妊産婦死亡率・周産期死亡率・新生児死亡率・乳児死亡率のいずれもが全国最下位を低迷しており、離島が多いということを勘案しても、その産婦人科に身を置く外西にとっては忸怩たる思いであったからである。
県衛生部長として同じような思いを持っていた浜口剛一は、鹿児島の小学生の体格も全国最低であったことから、1969年4月に金丸三郎 県知事を運動促進本部長として「太陽の子運動」(すこやかな子どもを生み、明るくたくましく育てようという県民運動)を始めたのである。その運動の4本の柱は、@良い子を産む(母体と周産期の対策)A丈夫に育てる(ゼロ歳児・3歳健診、栄養改善)B地域が母と子を育む(母子の環境を改善) C乳児教育であり、9千万の予算が組まれた。(鹿児島県保健福祉部子ども福祉課資料:蔵屋一枝より入手) それは外西にとっては願ってもない好機であり、精力的にその運動の中核となって若い池ノ上などをスライド係などで同伴させ、県内各地で妊婦・助産婦・保健婦などに周産期医療の重要性を講演して回った。
鹿児島大学を卒業した池ノ上 克は麻酔科になる自己研修の一環として国立大村病院で田崎から新生児医療を学んだが、その時奇遇なことに私の親友の増本義に会って「新しい医療を学ぶにはアメリカに行くべきだ」と助言され、その為のECFMと呼ばれる試験のapplication formを増本に書いてもらっていた。その後の1970年に鹿児島市立病院医局の産婦人科の研修に来た池ノ上を一目見るなり、外西は彼を中心として念願の周産期医療の構想を立ち上げようと考えた。既に周産期医療の重要性と未来性を直感していた池ノ上は、大村で助かる新生児が鹿児島では死んでいる、もっと勉強したいと訴えると、外西はロータリーからの奨学金を申請し、1973年には南カルフォルニア大学の当時の周産期の大御所のQuilligan教授の下に留学する機会をつくったのである。如何に外西が池ノ上を高く評価していたかが窺えるが、そのことが巧まずして山下五つ子成育成功の伏線となったのである。
池ノ上が留学中も、外西は蔵屋を国立大村病院に新生児研修に送り、また住吉など優秀な若手スタッフを確保し、1973年9月には新生児・未熟児室が新病院産婦人科病棟の一角に新築されているなど、周産期医療構想のための活動は続けていた。ようやく1975年10月に最新の周産期の知識と経験を積んで池ノ上が帰国したが、なんとその僅か3か月後に山下家の五つ子が誕生するという奇跡的な幸運は既に述べた。五つ子の名声が広まるにつれ、外西の地域の周産期医療の中核となる夢は達成されたが、産科入院さらに新生児の入院が急増し周産期医療施設・設備が手狭になり、1976年に鹿児島市医師会は「未熟児収容施設の拡充整備について)の陳情書を議会に提出している。さらに症例数の増加だけでなく、鹿児島県の新生児死亡・周産期死亡率が改善しており、1979年には我国最初の本格的な周産期医療センター が開設されたのである。
山下家の五つ子のこれ以上は望むべくもないほどの見事な成育の記録は、多くの僥倖の様な幸運に恵まれたが、関わった多くの人々の語りきれない労力の賜物であった。そしてそれが、わが国の周産期・新生児医療の新しい未来の扉を開くのに、魔法のような影響を及ぼしたのである。

おわりに
 個人的なことになるが、私は米国で周産期・新生児を学んで1974年に帰国したが、当時はまだ周産期医療という言葉も、地域化という考えもほとんど無かったので、私を含めてほとんどの人が鹿児島市立病院に立派な周産期医療ンターが出来たのは五つ子の誕生という幸運があったから、と考えていた。そのセンターオープンの前日に、当時国立大村病院の新生児のチーフをしていた増本 義や大御所の山内逸郎と並んで、まだ駆け出しの私も宴席に呼ばれ、外西から「周産期医療センターと池ノ上をよろしく」と杯を注がれた記憶が鮮明に残っているが、その意味が不消化のままであった。しかし今回この記事を書くことによって、外西は五つ子の誕生以前に鹿児島の周産期医療の地域化を模索しており、センターは外西の夢の結晶であり、池ノ上はその実践者であることを知った。当時日本で米国の周産期・新生児専門医をもっていたのは増本と私の二人だけであったことから、それは、産科医として米国で学んで周産期医療を鹿児島に導入した池ノ上をよろしく、という外西の子どもを思う父親の様な言葉であった。
 池ノ上は宮崎医大の教授として鹿児島のみならず日本の周産期医療のリーダーとなり、市立病院も茨聡らの弟子たちが日本のトップを走る仕事をしている。それに五つ子という風が幸いしたことは事実であろうが、外西の蒔いた種は大きく花開いているのである。

項を終わるに当たり、池ノ上 克(宮崎大学教授)・蔵屋一枝(鹿児島市立病院産婦人科医長)・井村総一(日本大学客員教授)・七草啓行(七草医院院長)・田崎宏介(たさき小児科クリニック院長)の各氏に心から感謝いたします。
(文中で敬称を訳させていただきました。また鹿児島及び東京にも別の五つ子の成育が記録されたことと、「山下五つ子」はわが国最初の快挙と既に広く全国にその名が知れ渡っていたと判断されたところから「山下五つ子」と個人名を使用させていただきました。)

参考文献

*田崎啓介・外西寿彦・池ノ上 克・蔵屋一枝・住吉 稔・山内逸郎・本廣 孝:五つ子の分娩と保育を語る、小児科臨床29(6)、1976
*田崎啓介・山内逸郎・外西寿彦・池ノ上 克 他:五つ子の保育成功例、小児科臨床29(9)、1442−1458、1976
*山下頼充・浜上安司:五つ子(その誕生と成長の記録)、日本放送出版協会、1977
*井村総一 他:五つ子について、産婦人科の世界、29(4):407−13,1977
*馬場一雄 他:五つ子の生育、医学のあゆみ、113(6):367−370,1980
*蔵屋一枝・池ノ上 克・住吉 稔・外西寿彦:私たちの五つ子の体験―5胎・分娩・哺育の2回の経験―、産婦人科MOOK 31:144-164,1985
*池ノ上 克:五つ子誕生・保育成功のインパクト:胎児―出産―新生児まで一貫した周産期医療の発展と整備に大きく貢献(Message from Frontier),Fetal & Neonatal Medicine 4(3):114-120,2012

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第8章 サリドマイド児の親である発生学者としての矜持が生んだ周生期研究会

プロローグ:
 30年も前の荒井良博士*(以後荒井良、博士*は注参照)が民間ながら立ち上げた周生期研究会のことを、なぜこのシリーズで書かなければと思ったのであろうか。それは研究会の周生期の命名が日本最初であったからだけでなく、我が子に降りかかったサリドマイドの悲劇から周生期の重要性を世に問いかけたのは、荒井良の発生学者としての矜持であったことが、フッと脳裏を過ぎったからであった。その背景には当時の私が、どうして荒井良が壮絶なまでに自分の半生をその戦いに投じていたのか十分に理解しなかったことから、我が身の周産期センター長としての多忙を理由に、その戦線から中途で離脱したことへの贖罪のような思いがあった。
 荒井良のサリドマイド児の親として、また学者としての思考過程をたどると共に、我国のこの分野の歴史において周生期研究会の果たした役割と、その会が設立したユニークな馬場一雄賞について振り返ってみる。
(*注:荒井良はいわゆる博士号を取っていなかったが、彼の著作のレベルは一流の学者であることを如実に証明しており、個人的に荒井良を博士と呼ぶにことに吝かではない。)

サリドマイド薬害事件
 荒井良が周生期研究会を立ち上げる切っ掛けは、長男がサリドマイドによるいわゆる「エンジェルベビー」(上肢の形成不全で残った部分が天使の羽のように見えるところから俗称された)となったことであり、その原因のサリドマイド薬害事件を振り返ってみる。
 1957年10月に西ドイツのグリュネンタール社から、その効き目が穏やかな睡眠・鎮静剤としてサリドマイド(N−フタリル・グルタミン酸イミド、ヨーロッパの商品名:コンテルガン)が発売され、また我国では大日本製薬から1958年1月から商品名イソミンとして発売された。わが国ではイソミンを含む「プロバンM」という神経性胃炎薬も販売され、特に「妊婦にも安全」と宣伝したために妊娠時の「つわり」に多く使用された。 ところが妊娠早期に妊婦が服用することにより、胎児に奇形が生じることが明らかとなった。それは現在の風疹症候群同様に、妊娠初期(最終月経から34〜50日)のサリドマイド服用によって発生するサリドマイド胎芽症であり、四肢の低形成であるフォコメリア(phocomeliaあざらし肢症)が特徴的で、難聴などを伴う外耳奇形や顔面の血管腫が合併することもある。
ハンブルグ大学で遺伝・発生学を専門とする小児科医のレンツ(Widukind Lenz)は、その発症とサリドマイドの強い因果関係を示唆すること(いわゆるレンツ警告)を1961年11月に発表し、グリュネンタール社は同月にはサリドマイドの回収決定し、イギリス・北欧諸国なども年内には同様な決定を行っている。1961年12月5日にグリュネンタール社の勧告が大日本製薬に届いたが、同社は厚生省と協議の結果「有用な薬品を回収すれば社会不安を起こす」として販売続行を決定した。
諸外国では当然のこととして速やかに行われた、「人体に悪影響を及ぼす危険の可能性のあるものには速やかに対応する」という安全に対する医療にかかわる企業・行政の基本理念が、我国において欠如していたことが、この歴史的な薬害をもたらしたのである。さらに信じ難いことに厚生省は、その後も共にサリドマイドを含有する「パングル」(亜細亜製薬)と「ネルトン」(柏製薬)の販売を許可しているが、幸いこの2薬によるサリドマイド奇形の発生は明らかでない。
我国でも当時北海道大学小児科講師の梶井正(後に山口大学小児科教授)らが同様な奇形発生を認め発表しているが、ヨーロッパ市場からサリドマイドは速やかに1961年の内に回収されていたのに対し、我国においてはレンツ警告から2年後の1962年9月18日に販売停止され、商品の回収はさらにその後まで遅れたのである。世界19か国で4千例を越えるサリドマイド児が出生しているが、レンツ警告以後の発生は外国では例外的であったのに対し、我国では300例を越える発生が記録された内の3分の一が、「レンツ警告」後にサリドマイドを服用した妊婦から生まれている。
特筆されることは、FDA(米国食品医薬品局)新薬部門の医務官として勤務を開始したばかりであった一人の担当官のフランシス・ケルシー女史(1914年カナダ生、当時46歳)の見識によって、米国の子どもと家族はサリドマイドの悲劇から守られたのである。1960年9月、サリドマイド発売申請が米国ウィリアム・メレル社よりFDAに提出されたが、彼女は提出されたデータだけでは安全性を示す動物実験が不十分と判断し、追加データを求めて承認を保留した。その間にサリドマイドの催奇形性が明らかになり、米国でのサリドマイド販売は阻止されたのである。時の大統領ケネディは、ケルシー女史を米国の救世主としてたたえ、1962年に「大統領市民勲章」をおくっている。それに比べて、我国の厚生省の対応の余りの違いに、天を仰ぐのは私だけではないであろう。
荒井良のサリドマイド児を抱えた親と子の戦いの歩み
荒井良は1930年に東京で生まれ、多感な15歳で終戦を迎えた。名門の旧制第5高等学校(熊本大学文法学部・理学部の前身)さらに東京都立大学理学部で生物学を学び、東京ガス(千住工場)化学実験の仕事に携わりながら、母校の発生学教室(学長であった團 勝麿が指導教官)で個人的な学問への憧憬から研究を行っていた。その最中の1962年に、妻が妊娠中に医師から処方されて飲んだサリドマイドの催奇形性により、青天の霹靂の如く長男が上肢の欠損を伴う奇形を持って生まれた時、荒井良は自分が発生学を学ぶ研究者であることとの運命のいたずらを冷静に受けとめ、自分たちに降りかかった不条理な出来事に精神的な強さを持って対峙することを心に決めた。
生後1か月の長男の診察で馬場一雄(当時東大小児科助教授、以後馬場)に会ったことが、我が子に考えられ得るベストに近い一連の医学的対応が行われることに繋がり、以後荒井良は馬場を生涯の師と仰いでいる。馬場の紹介で小児外科医の駿河敬次郎(当時翼賛会病院、以後駿河)の診察を受けると、駿河は数か月前に国際学会で同様なサリドマイド児を手術した報告を聞いており、我国においてもその新しい手術法を導入することを考え、フィンランドのマッテイ・スラマー博士の招聘委員会を立ち上げた。その手術は早期乳幼児期に行う必要があるところから駿河の行動は驚くほど迅速で、1962年4月15日にはスラマー博士が来日し、その2日後には東大病院で日本最初のフォコメリアの手術(鎖骨を利用し上腕を作成する)が行われ、さらに24日には手首を矯正する2回目の手術が施された。手術そのものの是非に関して専門家の間でも異論があったが、残された機能を最大に引き出す上で効果があり、6月にはフォコメリア治療研究会が立ち上がり、わが国でも駿河らがサリドマイド児に同様な手術を試みている。勿論、それで完治する疾患ではないが、荒井にとっては出来得る最良の医療をわが子に施すことに異存は無かった。
 そのような民間のレベルでの活動に対し、国のサリドマイド児支援の陳情に来た荒井良たちに、厚生省役人が手術の様子がTVで放映されたことを、児童福祉法に記載されている「不具奇形の児童を公衆の観覧に供する行為は児童虐待となる」に当たる、と皮肉のように冷たく言い放ったことは、日本の行政の障害児全体に対する姿勢そのものを具象するエピソードであった。それは正に、サリドマイド児の親への指導に「児を周りの環境から隠してはいけない」と記されているヨーロッパの奇形を奇形として受け入れる社会と、その役人の言葉に代表されるごとく、我国の「奇形の児を切り離して一般社会から幽閉する」社会」との大きな差を示すものであった。荒井良は翌年6月にスラマー博士による3回目の息子の手術の為フィンランドに行き、子どもは国の宝であると出来る限りの福祉を提供する社会に触れ、「我国にもヘルシンキにあるこどもの城の様な施設を」という夢を抱いて帰国したことが、その後の彼の社会への啓発活動に繋がったのである。
荒井良の息子への基本的な対応は、異常があるからと特別扱いするのではなく、それを受け入れて普通に生きる心を養うことであった。不自由な異常児として世話をされるより自分で出来ることは、たとえ足で食事をしてもその姿が人目に付くことは手の使えない自分にとっては当たり前である、と受け入れる強い意志を持つように育てたのである。また社会人として自立ためのみならず、人間の尊厳にとっても重要な要素である排尿と排便は、各々6歳半および9歳半で足や小道具を用いて自分で行えるようになった。また、大学などの肢体不自由児の為の義肢の作成にも協力したが、残念ながらフォコメリアの児においては基本的な筋肉そのものが発達していないことからほとんど成功しなかった。むしろ子どもにとっては迷惑で、「どうして今まで足で何でも出来たのに難しい義肢を付けないといけないの、魚は手が無くてもチャンと生きているよ。」との言葉に、父親が子どもから学んだと言っている。いかにも荒井良らしいコメントであった。

サリドマイド児を巡る訴訟と荒井良の考え
 サリドマイドは歴史に残る薬害として多くの教訓を残した。我国ではレンツの警告からサリドマイドが市場から撤去されるまで2年余を要したことから、日本のサリドマイド児の3分の1は西欧諸国では防がれた期間に発生している。その背景には行政の怠慢と製薬会社の営利主義が責められてしかるべきであったが、お抱え学者の様な発言を許した我国の医学会の倫理観の無さも責められるべきであろう。さらにヨーロッパでは製薬会社が速やかに己の非を認め患者救済に努めたのに対し、国と製薬会社がリンツの警告さえ学問的根拠がないとその非を認めないところから、日本の被害者は1961年に国(厚生省)と製薬会社を相手として告訴を行い、10年以上の泥沼の争いの末に1974 年に和解した。その過程で、ある原告が妊娠した妻に意図的にサリドマイドを服用させた後に中絶し、サリドマイドと奇形の因果関係を示そうとしたおぞましい出来事さえ起こっている。
 発生学者である荒井良はサリドマイドの催奇形性に疑いは持っていないが、それ以外の原因で奇形を持って生まれる子どもがおり、お互いに助け合う目的で1963年3月に先天性異常児父母の会(飯田進会長)の立ち上げに世話人代表として参加していた。しかし、裁判は不運な運命に遭遇した子どもと家族を救う答えではないと考え、サリドマイド訴訟原告団への参加は拒んでいた。
 さらに荒井良は、訴訟だけでは子どもの問題は解決しない、体の奇形を他人の性にして賠償金をもらうのではなく、息子が自分の力で生きて行く強い意志を持つように育てたい、と考えたのである。荒井良はフィンランドで見た「こどもの城」のインスピレーションから、障害を専門的に見るこども病院設立を目的として「子どもたちの未来をひらく父母の会」をつくり、マッチを売ることによる募金活動(青い鳥十字:マッチは小さい炎だが大きな光になる)などを早稲田の学生の支援を受けながら始めた。結果的には彼の理想主義では事が進まないと、何と自分がその発起人の一人であった家族の会から1966年12月に除名されたのである。

周生期医学研究会
クリスチャンの荒井良は、我が子がサリドマイド児となったのは発生学者としての自分に科せられた神の啓示であると受け止め、何と不退転の覚悟で1973年に会社を辞め、「すべての子どもの健康と幸せを」と「万一の不幸に最善の医療を」の目的から、「子どもの医学協会」(会長に駿河敬次郎・最高顧問に馬場一雄)を設立した。我が身を削るような荒井良の姿に共鳴した彼の家族や仲間達が核となった具体的な活動は、@障害児予備軍を救おうA周生期医学を知ろうB体のしくみを知ろう、をスローガンに、出生と子育てに関わる専門家を対象とした学問的なセミナ―による啓発活動を行うと共に、専門家としての立場からの執筆活動さらに電話相談による患者のサポートなどを開始した。
さらに1980年には、子どもは医療・看護を受けた後に保育園や学校などの地域に帰って行くので、子どもに関わる助産婦・看護婦・保健師・保育士や養護教員なども含めた職種を超えた医療専門家が、共に学ぶ場をつくるべきという考えから、周生期研究会(後に周生期医学研究会)を立ち上げた。その会には、馬場を会長として新生児のみならず産科や小児外科などの専門家が講師として呼びかけられた。私もその第1回から尊敬する馬場の鶴の一声で新生児科医の立場から参加したが、若い看護師を中心とした参加者の熱気に驚いたことを思いだす。
1989年の第10回周生期医学研究会の時に、多田裕が実行委員長・私が選考委員長となり、ユニークな馬場一雄賞が設立され、その最初の受賞者に、沖縄で地道に未熟児のフォロアップをしていた落合靖男と障害児の椅子や机をつくっている竹野広行が選ばれた。その賞は、路地に咲く花のように控えめで地位に関係なくコツコツと地道に働いている医療や福祉に携わる方に与える、とされているところから、その選考は容易でなく個人的な情報網に頼るしかなかった。さらに、その賞状には、「一生を楽しく過ごそうと思ったら子どもにかかわる仕事をしなさい。ただしあまりお金にはならないが」という馬場一流のアイロニックな言葉が記載されている。
周生期医学研究会は、第一回(1980年)の「テーマ:小児の立場から見た周生期」から第21回(2000年)の「テーマ:胎児期から乳児期における生育環境の危機への対応」まで、毎年第一線で活躍している新生児・産科・小児外科などの専門家を呼んで行われており、多くの熱心なリピーターの看護師や助産婦が参加して活発であったが、残念ながら荒井良の逝去(2002年)でその幕を閉じ、現在は荒井良の意思を継ぐ仲間がアイ・ヒューマンネット(Interdisciplinary Human Net、多田裕 会長)の名称で類似した組織と活動を行っている。

エピローグ
 恥ずかしいながら私は荒井良の没後に、彼の周産期医療(彼の言う如くperinatalは周生期が正しい訳語であるが周産期が正式用語となっている)に果たした役割の深い意味をようやく知ったのである。それは長男の受けたサリドマイド薬害・荒井良が発生学を専門としていたこと・馬場一雄教授との邂逅、の組み合わせは、神が予め仕組まれたドラマであるとさえ思える。クリスチャンの新井良は、「神は試練を与えた時にそれを耐え抜く力と英知を与えたもう」と受け止めていたのではないであろうか。
幸い、その初期から荒井良と周生期研究会の仕事を支えてきた小林尚司から多くの資料とお話を伺うことが出来たが、生前に荒井良からそのドラマに含まれている波乱万丈の物語を聞いておくべきであったと、今更ながら後悔している。この小文から周産期新生児医療に携わる者が、荒井良が我国の歴史に残した足跡を垣間見て何かを学び取ってくれることを願っている。
稿を終わるに当たり、貴重なご意見を賜った小林尚司・永井 元・多田 裕ならびに本項を上梓することに賛意を頂いた御子息の荒井浅香・貴の各氏に感謝する。また文中の敬語を訳させていただきましたことをお詫びいたします。

 

参考文献

  • Kajii T. :Thalidomide and congenital malformations.Lancet 2:151,1962
  • 荒井 良:タカシよ手をつなごう、文藝春秋社、1965
  • 荒井 良:貴(たかし)への手紙(サリドマイド児成長の記録)、日本YMCA同盟出版部、1970
  • 荒井良:子どもを駄目にしたのは父親だ、主婦の友社 1980

*荒井 良:先天異常:発生のしくみとその異常、社会思想社、東京、1981
*荒井 良:胎児の環境としての母体―幼い生命にためにー、岩波新書、岩波書店、1982
*荒井 良:幼い生命と健康、岩波新書、岩波書店、1991
*鳩飼きい子:不思議な薬 (サリドマイドの話)、潮出版。2001

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第9章 世界基準となった赤ちゃんにやさしい黄疸管理:経皮的ビリルビン測定

はじめに
  かって新生児の神経学的後遺症の3大原因は仮死・未熟児(未熟性に伴うPVLなど)・黄疸であったが、幸い現在は核黄疸による脳障害は激減している。現在は、黄疸は目に見える所見であり早期の対応(光線療法や交換輸血)によって防ぐことが可能な疾患であるところから、新生児管理において一人でも核黄疸の症例を発生させてはいけないどころか、核黄疸が発生したら裁判は避けられない時代となっている。しかし出生後の適応生理として新生児にはある程度の黄疸が発症し、光線療法などの治療を要する児は少なくない。特 に日本人は西洋人に比べ、いわゆる生理的黄疸(特発性高ビリルビン血症)の発生頻度とその程度が高いことが知られている為、新生児管理において毎日の黄疸のチェックは最も重要なルチーンのひとつであり、ほとんどの新生児がヒールカットなどによる採血でビリルビン値のモニタが行われていた。
  山内逸郎(以後山内)は、新生児への経皮的酸素モニタを導入した経緯でも知られているごとく、新生児管理において出来るだけ痛みなどの侵襲を加えないことを基本理念としていたところから、多くの新生児が採血により連日痛み刺激を受けていることに心を痛め、いつの日かそれに代わる非侵襲的黄疸管理法が生まれることを願っていた。その山内の長年の夢は、愛弟子の山内芳忠(当時国立岡山病院小児科部長)が持ち帰った米国からの最新の研究情報と、ミノルタの山西昭夫(以後山西)の技術屋としての卓越した才能によって驚くほど短期間に実現したのである。
 本項では、世界に先駆けてベッドサイドで看護師が新生児の黄疸を非侵襲的にモニタ出来ることにより、交換輸血さらには核黄疸発生を防ぐことを可能とした、大げさでなく新生児医療において歴史的な発明といわれる経皮的ビリルビン測定器誕生のエピソードを述べる。
 
 経皮的ビリルビン測定の歴史
 ビリルビンは皮膚に黄色調の色合いをもたすところから黄疸と表現される。その程度を肉眼的に測定する方法がゴセット式イクテロメータであり、皮膚の黄染の度合いを5段階の黄色の色調に分け、プラスチック板を通した皮膚色と比較する。世界的に広く用いられそれなりの有用性があったが、柑皮症(柑橘類を多量に食べた時に皮膚が果物の色素で黄染する)や人種による皮膚の色に違い等による影響があった。個人的な経験であるが、高度の貧血と肉眼的な黄疸の所見から溶血性疾患と思ったところ、ビリルビン値は高くなかったが貧血のために皮膚本来の黄色調が明らかとなった事例を経験し、日本人は黄色人種であることを改めて思い知ったことがある。また肉眼的に黄疸と認識できるのは血清ビリルビン値が7mg/dl以上になってからであり、逆にイクテロメータによる評価では5段階分類の一番上の方ではどのくらいのビリルビン値かは分からなくなり、当然のことながら測定値でなく見た目の主観的となる限界があった。
 黄疸が肉眼的に見えるのは、黄色の波長光(表)が皮膚表面から出ているからであるが、本来光の3原色は青・緑・赤であり、黄色は緑と赤の交じり合った色(混色)である。人間の目においても、波長400ナノメートル(紫)から750ナノメートル(赤)の範囲まで見ることができるが、網膜には短波長の青・中波長の緑・長波長の赤に反応する三種類の錐体細胞があり、その3種類の波長の情報から無数の色を判別している。
 皮膚から反射してくる光を分析し、その中からビリルビンが示す黄疸色を客観的に数値として捉える方法が考えられ、いくつかの基礎的研究がなされてきた。その中で1970年に世界的な女性新生児学者であったドイツのBallowitz教授とアメリカのAvery教授は、共同で光線療法のメカニズムを研究のため350−700nmの範囲の皮膚の分光反射率を測定し、黄疸のある皮膚では430−520mmで反射率が減少(その範囲でビリルビンが光を吸収しやすい)することを示したが,彼女たちの研究成果はその波長の測定で皮膚からビリルビン測定が演繹できる可能性を示している。個人的になるが、かって欧州周産期学会の折りに、Ballowitz教授が持っていたガンラット(遺伝的に黄疸になる鼠)のコロニーを見学したいという馬場一雄教授を、私が以前より交流のあったBallowitz教授に紹介してご一緒に自宅での夕食に招待された思い出がある。またAvery教授には私を含めた日本の新生児全体がお世話になり、私が日本周産期新生児学会誌及び本誌に彼女の追悼文を書いている。
 1978年にHannemann他は、皮膚からの反射光を分光器により取り出し光電変換して増幅し、磁気テープに記録してコンピューター処理する皮膚分光反射率解析法で、臨床例で採血した血清ビリルビンとの正の相関を示した。これは経皮的に黄疸を客観的に評価する具体的な方法であったが、大型の機器が必要であることやベッドサイドでデータが出ないことなどから、臨床応用にまで至らなかった。しかし、この研究が次に述べる山内やミノルタの山西らを触発して、わが国が世界に先駆けて開発した経皮的ビリルビン測定器を生み出す道につながったのである。
 
 我国における経皮的ビリルビン測定器の開発
 山内にとって経皮的黄疸測定法は彼の夢の一つであり、米国のAmerican Optic社から最新のビリルビン測定器を購入して臨床に用いていたが、その測定原理を経皮的ビリルビン測定に応用出来ないかと思案していた。国立岡山病院を退職する際にまとめた自著論文集(非売品、1989)に、「経皮的にビリルビンを測定しようという考えは十数年間抱き続けていた。この間幾つかの業者に具体的構想を提供して試作させてみたが成功しなかった。しかし1979年ミノルタが製品化に漕ぎつけた。この黄疸計は非常に大きな関心を海外に呼び起こし、1980年にはPediatricsに巻頭論文として発表された。」とその仕事に対する自負と喜びを記載している。そのドラマチックな経緯を纏めてみよう。
 1978年New Yorkの Albert Einstein大学にいたビリルビンの大家であるGardner教授のところでビリルビンの腸管循環の研究で短期留学していた山内芳忠は、たまたま上記のHannemann他の研究発表を聴き、帰国後に山内にその内容を告げると、彼は直感的にその可能性を読み取りミノルタに共同研究を呼びかけた。その頃ミノルタの山西は酸素飽和度をモニタするパルスオキメータの製品化を為していたものの、日本光電に一歩先んじられ臍を咬んでいた。そのような背景から、山内の「経皮的酸素分圧モニタが実用化されているのだからパルスオキメータなど止めて経皮ビリルビン測定器を開発すべきだ」という挑発的な呼びかけに、既にミノルタでは独自の技術で小型分光器の開発研究がなされていたところから、山西はすぐその意を汲んで「出来ますよ」と二つ返事で答えた。事実驚くべきことに、ミノルタはその年(1978年)の3月に経皮的分光測定の基本アルゴリズムの特許を「光学的測定装置」の名称で、さらに5月には2波長を用いた測定法を「黄疸計」の名称で特許を申請したのである。
 その測定方法と原理を簡単に示す(図1)。Hannemannらは皮膚の表面に外から光を当てた反射光の測定であったが、ミノルタはファイバーの加工技術があったところから皮膚を押し付けて血液を排除してその影響を避け、皮下に光を当てた反射光の測定をしている。入射光は表皮・真皮で反射・散乱・吸収され皮下組織に達し、そこで皮下組織を黄染している非抱合型ビリによって短波長側の吸収を受けた光が散乱・反射して、その一部が皮膚表面に出てくる。その部分を捉えることは皮下組織に達して戻ってくる光を主に捉えることになる。460o(主に青を吸収しその補色の黄色が反射)と550mm(主に緑を吸収するので黄色の反射は少ない)の2波長の分光吸収係数は黄色(主にビリルビン)で大きく変化するが、吸光全体に大きく関わるヘモグロビンではあまり変わらないので、この2波長を用いて測定すれば両者の差はビリルビン濃度に比例する。すなわち青と緑の波長領域の光学濃度差から相対的なビリルビン濃度を測定できる。この様に分光技術と光電センサーの技術に加え、ファイバーとマイクロコンピュータの技術があったので、ミノルタが世界に先駆けて経皮的ビリルビン測定を可能にしたと言えよう。
 最初に国立岡山病院にミノルタが持ってきた試作品は大型の分光器を用いた測定装置であり、山内が臨床現場にそぐわないと言うと、数か月後には手品のように小型に改良して持ってきたのには山内も山内芳忠も驚くと同時にその技術力に感心したと語っていた。1979年には山内等はそのプロトタイプの測定器で臨床治験を行い、その有用性を発表した。その臨床での検討と製品の改良は車の両輪の如くフィードバックし合い、僅か1年後の1980年には測定器は商品化され、それを用いた山内他の論文がアメリカ小児科学会の機関誌Pediatricsの巻頭論文を飾ったのである。それは当時のPediatricsの編集長であったルーシー教授が山内と親しかったこともあるが、それ以上に山内の臨床家としてのみならず研究者としての力量を高く評価していたからであった。我国から発信された世界初のベッドサイドで使用可能な経皮的ビリルビン測定器(ミノルタ黄疸計、JM-101)は、その認可の壁が厳しいFDAが、何と1981年にはアメリカにおける発売を認可したのである。
 
 世界に負けない更なる発展へ
 これまでのミノルタ黄疸計は、2波長光の解析によるビリルビンの相対的測定であり、表示される値は血清ビリルビン濃度との相関はあるが、ビリルビン値そのものでは無かった。また光の透過性や反射に影響を及ぼす皮膚の性状の変化により、その値が変わり得るものであった。それに対し1998年米国(Respironics社)から、ビリチェック(BiliCheck)の商品名で血清ビリルビン値に近似した計測値を表示し、さらに黒人などの皮膚の性状の差に影響を受けない新しい経皮黄疸計が発売され、わが国にも導入されるようになった。その測定原理は従来器同様に吸光光度分析法であるが、光源がタングステン・ハロゲンの白色光(400−760nm)の反射光を3nmごとの137波長に分光し、ビリルビン・ヘモグロビン・メラニン・コラーゲンの吸光光度の総合値を示す484nmの部分を測定し、別に各々測定したヘモグロビン・メラニン・コラーゲンの吸光光度を引き算して残ったビリルビンの吸光光度を求めるものであり、高度な分光能力と高速演算可能なマイクロコンピュータの開発がそれを可能とした。
 ミノルタの山西らは、それに対抗すべくBiliCheckとは異なった測定アルゴリズムの2光路光学系による新しい経皮黄疸計(JM-103)を開発し、1999年には特許申請して2001年には臨床治験を行い商品化したのは流石であった。それはこれまでのミノルタ黄疸計にもう一つのグラスファイバーと受光器を追加し、プローベ先端に発光部から異なった距離に二つの受光器を配置する工夫であった。それにより発光と受光の幅が狭い組み合わせは浅い部分を通る短光路と、広い組み合わせは深い部分の広報攪乱光を捉える長光路と分けることが可能となる(図2)。測定原理は図3に示す如く、短光路を通る部分は主に皮膚からの反射光であるが、長光路の部分は皮下組織と皮膚の両方からの反射光であり、両者の光学的濃度差を引き算で求めれば共通する皮膚の部分が相殺され、皮下組織の光学的濃度が求められるので、その部分のみ従来型と同様な460oと550mmの2波長の光学的濃度差からのビリルビン濃度計算が可能となる。それ故BiliCheck同様に、メラニン色素などの表皮の影響もキャンセルされる結果となる。
 このエレガントなアイデアによる改良は、我国が世界をリードしている近赤外線による脳血流測定(NIROや光トポグラフ)の知識と技術から導入されたものであり、プローべの先端に発光部と隔壁を設けることにより、光源からの隔壁の厚い外側が長光路の受光器となり、隔壁の薄い内側が光源に近いので短光路を通る部分の受光器となる比較的シンプルな構造で、その目的を達することを可能にしている。改めて我国の医療工学のレベルの高さを知り、これまで多くの医療機器が外国製であることを苦々しく思っていた私にとっては、溜飲の下がる思いであった。
 
 おわりに
 世界に先駆けた経皮的ビリルビン測定器の開発は、山内の非侵襲的新生児管理をという強い意志に裏付けられたものであるが、同時にこれまでこの連載のシリーズで何度か取り上げたパルスオキシメータ(2013年1−3月号)やHFO(2013年5−6月号)の開発のエピソード同様に、医療側(M:medical)と技術者側(E:engineer)が同じ視点で対峙する時に、共鳴し合うように生れ出る成果の良き例の一つであった。
 後日談であるが、山内と山西の最初に出会いは、学会で新生児の酸素飽和度をパルスオキシメータで測定する臨床研究の発表を巡って山西の上司と山内が論争となり、山内が「俺はメーカーの味方ではない、あかちゃんの味方だ」と言えば山西の上司が「私も科学者のはしくれだ」と応じて深夜となり、最後は山内の家に行き、奥様にお茶を頂き彼の趣味の写真の話などで和気あいあいとなったという。そのやり取りに相伴した山西は、岡山で学生時代を過ごした時に新生児を専門とした国立岡山病院の山内の名声を耳にしていたが、聞きしに勝る大物と印象付けられたと言う。私もアメリカら帰ったばかりの駆け出しの頃、動脈ラインを入れ血圧をモニタしていたことを山内に「そんな侵襲的なことをしてはいけない」と叱られ、私が「大人のバイタルチェックに血圧が重要なのに新生児でしないのはおかしい」と反論すると、「経験を積んでチャンと診ていれば血圧のモニタはいらない」と切って捨てられたことがあった。しかし、まだ若造であった私に講演の声をかけてくれたりして頂いたのは、やはり山内の懐の深さであった。
 我国の医療におけるMもEも共に世界のトップレベルにありながら、古い商習慣のなごりで両者の接点が少ないのみならず、共通のLogo(言葉)で話し合うことの少ない現状に一石を投じるような快挙が、この経皮的ビリルビン測定器である。医療者としての山内と技術屋としての山西らが、各々のプロとしての立場から侃侃諤諤より良い医療を目指して論じ合ったこのエピソードを読んで、後に続くMとEの若い人たちがお互いの壁を越えて、世界に発信するME機器の開発の夢を育むことを念じている。
 
 稿を終わるに当たり、貴重なお話と資料提供を頂いた山内芳忠・山西昭夫・五十嵐郁子の各氏に心から深謝いたします。また本文中の敬語・役職名を省略いたしましたことをお詫び申し上げます。
 
 文献
 *仁志田博司:反骨のロマンチスト:山内逸郎、Neonatal Care 22:1160-3/1266-8, 2009
 * Ballowitz L & Avery ME: Spectral refractance of the skin: Study on Infants and Adult Humans, Wister and Gunn Rats. Biol Neonate 15:348,1970
 * Hannmann RE, et al: Neonatal serum bilirubin from skin refrectance.
 Pediatric Research 12:207, 1978
 * 山内芳忠:経皮的ビリルビン濃度測定法、日本新生児学会誌 15:654−60,1979:
 * Itsuro Yamanouchi, Yoshitada Yamauchi, Ikuko Igarashi,
 Transcutaneous Bilirubinometry: Preliminary Studies of Noninvasive
 transcutaneous Bilirubin Meter in the Okayama National Hospital,
 Pediatrics 65:195-202,1980
 *山内逸郎:国立岡山病院在職中自著論文集(非売品)1989
 *山西昭夫、山内芳忠、加部一彦、猪野雅孝:2光路光学系による新しい経皮ビリルビン測定器――初歩的検討――、日本新生児学会誌 37:415−21,2001
 *Saneyuki Yasuda, Susumu Itoh, et al: New transcutaneous Jaundice
 device with two optic paths. J Perinat Med 31:81-88, 2003
 
 
  表1:黄色に関与する光の波長(nm)
 (光の3原色は赤・青・緑であり、赤と緑の光の混色が黄色)
 吸収光波長/nm :吸収光の色 :観察される色(補色,余色)
 400〜435     紫      緑黄
 435〜480     青      黄
 480〜490     緑青     橙
 490〜500     青緑     赤
 500〜560     緑      赤紫
 560〜580     黄緑     紫
 580〜595     黄      青
 595〜610     橙      緑青
 610〜750     赤      青緑
 
                
 図1:初期のミノルタ黄疸計の構造
 
 図2:新しいミノルタ黄疸計の構造
 
 図3:皮膚からの反射光の短光路と長光路

 

訂正
1)P108 右側中ほど
「そのころ、ミノルタの山西は酸素飽和度をモニタするパルスオキシメータの製品化を試みていたものの、日本光電に・・・・」
の部分、「製品化を試みて」→「製品化を為して」 と訂正。
1977年にすでに「世界初指先型」と称して「OXIMET1471」を発売しておりますので歴史的事実との齟齬をきたさないためにぜひ製本される際に修正をお願いいたします。

2)参考文献
上記1)に関連して出来れば下記文献を加えていただけませんでしょうか。
山西昭夫.パルスオキシメータの黎明期、医科器械学、75(12):852−862,2005

3)P109 図1
図面右下 (2ワット/秒)→(2ワット・秒)

目次へ
  

第10章 我国が核黄疸予防の切札として世界に発信したアンバウンドビリルビン測定器開発

はじめに
中村肇神戸大小児科教授(以下中村の)がアンバウンドビリルビン(以後UB)の測定原理と方法を考案し、株式会社アローズ(以後 アローズ社)会長の生越義昌(以後 生越)がそのアイデアを製品化し、核黄疸防止の切札として始めて臨床利用可能な測定器(UBアナライザー)を世界に発信した。しかし、なんとお膝元の日本の臨床現場で、その適切な普及に齟齬をきたして消滅の瀬戸際に置かれていたが、この連載の取材が二人の研究者と企業家の心に火をつけ再び蘇るという今回の物語は、この連載の中でも最もドラマチックなものとなった。
皮肉なことに最新の核黄疸予防法を成し遂げた故に、その不適切な普及が未熟児医療を存亡の危機に立たせたことは、過去において光凝固開発と未熟児網膜症(ROP)に類似した事態(わが国における未熟児網膜症を巡る光と影の歴史:本誌2012年 11月号・12月号 参照)であった。我国の新生児医療に携わる者はすべからく、この出来事を歴史の教訓として、襟を正して読んで頂きたい。

UB測定の意義
新生児黄疸そのものは、ビリルビンがフリーラジカルを取り除く機能があることなどから生理的な意味が有ると言われており、ほぼ全ての新生児に見られる。しかしアルブミンと結合していないUB(フリービリルビンよも呼ばれる)が細胞表面の電子伝達系を阻害してビリルビン脳障害(核黄疸)を引き起こすことが明らかとなっている。すなわち総ビリルビン値があまり高く無くともUBが高いと核黄疸のリスクが高くなり、逆に母乳性黄疸の様に総ビリルビン値が高くともUBが低い場合は核黄疸のリスクが低い。
一般的には総ビリルビン値とUBは比較的相関し、特別な状況でなければ総ビリルビンで代行出来る。しかし特に未熟児ではビリルビンと結び付くアルブミンが低いことに加え、その結合を阻害する薬物の使用やアシドージスとなる頻度が高いので、総ビリルビンに加えUBの測定が必要となる。新生児医療の進歩に伴い、これまでのレベルを超えた超早産児、それも多くの重症な疾患を合併した例の救命率が向上し、総ビリルビン値が低い児でも核黄疸の発症が見られようになった。
その予防に早期から強化光線療法の導入が北米中心に行われているが、核黄疸の最終治療法である交換輸血を行うタイミングを逸しないビリルビン管理はUB測定であり、また不必要な侵襲的交換輸血を避けるためにもUB測定は有用である。

UB測定の歴史
表にこれまでのUB測定の歩みを示すがそのほとんどは研究レベルであり、後に述べる中村の方法が開発されまでは、いずれも臨床の場に応用されるに至っていなかった。
その中で、私が1972-4年にホプキンス大学で新生児医療に携っていた時に、サルファ剤が新生児の核黄疸のリスクを高めることを突き止めたことで有名なOdell教授が開発した、saturation indexが試験的に臨床例に用いられていた。それはUBが上昇するポイントを捉えるもので論理的には正しいと考えられるが、その測定法には高度の技術を必要とする為、彼のフェローしか測定出来ないものであった。事実私がそこを離れてから、その測定法は日の目を見ずに消えていった。
またSephadex による方法は、我国でも船戸正久等が試みていた。しかし中村自身も早期からこの方法を検討したが、微量血清での測定が不可能な上に測定値の再現性に乏しいところから、次に述べる方法を開発している。f

ベッドサイドでUB測定を可能とした中村のアイデア
黄疸を新生児研究のテーマとしていた中村は、Diamond and SchmidのUBが核黄疸を引き起こす病態として最も重要な役割を果たすことを証明した研究を読んで、UBの測定法を模索していた。中村はフランス留学時代にSephadexでUBを測定していたが、前述した理由で別な方法を考えていた。そんな中で偶々デンマークのBrodersenとJacobsenのperoxidaseでビリルビンを処理してUBを測定する論文を読んで、自らもその方法を試みてみたが、極めて不安定で上手くいかなかった。中村の非凡な才能は、そこで諦めずにグルコースをglucose oxidaseと反応させたときに発生する過酸化水素(H2O2)を利用し、それとJacobsen等の測定法と組み合わせてペルオキシダーゼによる安定したビリルビン分解でアンバウンドビリルビンを測定する方法を考えたことである。それは帰国後の1973年頃であったが、その方法を図に示す。
    
中村と生越の邂逅
研究半ばでフランスから帰国した中村は、自分の新しいUB測定法のアイデアに確信を持っており、その測定機器を共同開発する相手を探していた。一方生越は島津製作所の中央研究所で仕事をしていたが、1976年に独立して株式会社アローズを設立し、1979年には内視鏡超音波診断装置の特許を出願し特許権をオリンパス光学に譲渡した経歴書が示すごとく、一つの分野に収まらない才気煥発な技術畑の才人であった。また事故酒を防ぐために酒の鉄分をppb(Parts per billion)という微量で測定できる測定器を、国税局鑑定官室や全国の主な酒造メーカーに製造販売する会社を立ち上げていた。話しがそれるが、その為生越は全国の蔵元と交流があり、効き酒ではプロ並であったところか、私も何度か一緒に銘酒を飲むその恩恵を受けた。
中村と生越の出会いは、生越が神戸大学の外科と、積分球を先端に取り付けたオプティカルファイバーを用いて2波長で酸素飽和度を測定し、腸管の血行動態の良否を非観血で定量的に測定する機器の研究に携っていた時に、中村がUBの測定器を作ってくれる医療機器メーカーを探していることを知った外科の広本秀治助教授の紹介によるものであった。中村の話を聞いて、島津製作所にいた時に生化学的測定の基礎知識を蓄えていた生越は、高度に専門的で普通の者には理解できない様な内容を即座に理解し、研究者と起業家の両方の鋭い感から、その新しい共同研究の将来性を読み取った。
時を置かず二人の共同研究がはじまると、生越は中村が日中の臨床医としての忙しい仕事の後に夜遅くまで大学で基礎的研究をするのに何度か付き合い、その熱心さと人柄に惚れて彼を支援する心を固めた。ペルオキシダーゼ反応は極めて鋭敏な反応で、温度設定や検体攪拌などの条件設定の微妙な違いで測定値にバラつきが出るところから、それらの条件設定を一定にすることや、迅速な反応であるとことからどのポイントを測定値として読み取るかの理論的な設定のアルゴリズムなど、二人の医学者と技術者の各々の専門家としてのスタンスからの叡知が火花を散らし、臨床に益するUB測定器の開発が進められ、1982年にはアローズ社からUBアナライザーUA−1が生まれた。

UB測定の臨床応用への歩み
1980年から中村が考案した手法に基づいて、自動的にUBを測定できるUBアナライザーUA−1をアローズ社が開発し製品化する作業が行われ、神戸大学医学部病院と国立小児病院で臨床試験が開始され、1982 には厚生省から製造承認と製造業の許可を受けた。
しかし我が国でUBアナライザーが世の認知を受けると同時に、まずヨーロッパで1982 年にドイツ(Dusseldorf) で行われた医療器機展示会(MEDICA 82)に UA−1が出展された時、ベルリン自由大のBallowitz 教授(前号の経皮的ビリルビン測定器開発でも彼女が紹介されているが世界的な新生児黄疸の研究者)がUBアナライザーに興味を占めし、黄疸用の実験動物であるガンラットでUBを測定している。残念ながら、その結果はペーパーにはなっていない。1988 年にはオスロで開催されたヨーロッパ周産期学会でもUA−1が出展され、同年にはフランスBernus社(仏、Paris)がUA−1をヨーロッパで販売を開始したのである。
一方北米では、黄疸研究で有名なニューヨーク州立大学のBrown教授がフロロメトリー法でUBの測定を試みていたが、その再現性が悪く困っていたところに、1983年に山内逸郎先生がアローズ社のUBアナライザーを紹介している。さらにGunnラットの研究で有名なペンシルベニア大学のLouis Johnson教授らも本装置での研究を行い、高い評価を与えた。1984 年には中村がアメリカ小児科学会のPreliminary
Sessionで UBとABRに関する研究報告をした。このように北米でもUBアナライザーの臨床的有用性が認識されるようになり、1988年には米国 FDAがUA−1の米国での販売を許可したのである。実は、医療に関する査定が厳しい米国のFDAがUBアナライザーを医療器機として認可したことが、後に我国においても時の厚生省が認可する大きなファクターとなったと考えられている。
我国においては、漸く1992 年にUA-1の専用試薬アンバウンドビリルビン測定試薬キット「UBテスト」は3年間の審査を受け、翌年2月にはUB測定が薬価に収載され、保険点数200点が生後2週間まで適用とされた。生越は、厚生省に製造承認申請を提出する際に、私が旧厚生省からの雑誌「母子保健」に載せた「NICUは日本の母子医療に貢献しているか」にある,一例の障害児が出るとどのくらいのお金がかかるか、の資料を提出し、それを馬場一男日大教授がサポートしてれたことが役立った、と振り返っている。更に、我国の新生児仲間の中でもUBアナライザーをサポートする活動が起こり、中村の盟友の当時国立小児病院新生児科医長であった内藤達男が音頭をとって第一回UB研究会が立ち上がった。またエピソードとして、研究者としては辛口の厳しいコメントを述べる藤原哲郎が展示場でUBアナライザーをみて、高く評価してくれたことを、開発者の生越は鮮明に記憶している。
1994 年にはアローズ社が主催して東京と大阪において第1回国際核黄疸シンポジウムを開催し、米国からDr.Brown, Dr.Jonson, Dr.Cashore、ノルウエーからDr.Bratridなど、世界の黄疸研究の大御所を招待して、UB測定の学問的-臨床的意義が議論され、UBアナライザーの重要性が広く認識されるようになった。1996年には改良型のUBアナライザーUA−2が発売され、1998年には第2回国際核黄疸シンポジウムが、新しいものは簡単には受け入れない山内逸郎のおひざ元の岡山で開催され, ベッドサイドでのUB測定は我国のNICUにおける新生児管理のルチーンに組み込まれるようになったのである。しかし後に述べる世にように、臨床におけるUB測定の著しい普及は1994年からの4年間で、1998年からは頭打ちの状態になっていた。

中村は上記の歴史的出来事を以下の様に振り返っている。
UB測定の臨床的有用性については高い評価を得ていたが、我国のNICUにおける新生児管理のルチーンに組み込んだのは限られた施設であった。その理由は、血液型不適合により溶血性黄疸の出生前診断が普及し、成熟児での核黄疸がほぼ皆無となり、また簡易ビリルビン測定器と光線療法が普及し、重症黄疸のための交換輸血が激減していた。また黄疸そのものが生死を左右することは稀であり、救命を第一義としたNICU医療の中で新生児科医の黄疸に対する関心が相対的に低下していた。一方早産児の核黄疸は急性期症状が乏しく診断が容易でなかったことに加え、無関心であれば気づかずに見過ごしてしまうことにもなっていた。 
しかしビリルビンの幼弱な未熟児脳に及ぼす影響は、未熟ほどその障害の程度は大きく、さらに高い頻度で未熟児に合併する病態がさらに悪影響を及ぼすことが考えられる。事実ここ数年、MRI所見やABR所見が超早産児の核黄疸の診断の有力な根拠になると考えられ、いくつかの施設から超早産児の核黄疸症例が報告されるようになった。さらに近年の長期予後のデータで、超早産児の脳障害が高頻度に見られているが、その障害に黄疸が関係していないという根拠はなく、黄疸に関する注意深い検索と研究なしには、超早産児の脳障害の減少にはつながらないと考えるに至った。早産児の核黄疸の多くは低ビリルビン血症でも起こっているが、その半数はUB測定でリスクのスクリーニングが可能と考えられる。勿論脳細胞自体のビリルビンに対する感受性も関係しているところから、UBを測定していても100%核黄疸予知は不可能であるが、だからといってUB測定は無駄であるとは言えない。自分自身(中村)が神戸大学退職を機にUB研究から離れていったことを慙愧に思っており、今こそUBを含めた総合的な黄疸研究に取り組まなければという思いでいっぱいである。

UB測定普及の停滞
核黄疸のリスクをモニターするUBアナライザーは、初期にはベッドサイドの経時的CRP測定法のように、欧米より一歩進んだ我国のNICUのルチーンとなったが、以下に述べる幾つかの理由で思わぬ暗転に向かったのである。
2001年にUB測定法の臨床的重要性の良き理解者としてUBアナライザーのサポーターであったブラウン教授が亡くなったことが一つの要因となり、アメリカでのUBアナライザー普及が滞り,さらに2007 年には諸般の事情が重なり、アローズ社は米国へのUB測定試薬の輸出を中止した。欧州においても、2004 年にアローズ社とヨーロッパでUBアナライザーを取り扱っていたBerunas社と意見の相違が生じ、フランス大使館からの再三の継続の要請があったが、アローズ社はヨーロッパへの輸出中止を決定したのである。
その背景として我国においては、中心となるべき新生児センターでさえUB測定の重要性の理解が不十分で、NICUにおけるUB測定の頻度は少なくなっていた。その最大の理由は、新しいコンセプトに基づくUB測定がNICUのルチーンに採り入れられて根を下ろす前に、UBを測定していなくても核黄疸は起こらないという風潮になっていたことである。その先達となるべき立場にある中村が、神戸震災と心筋梗塞を患ってactivityを低下せざるを得なくなったことに加え、医療崩壊が進む中で神戸大学病院の院長職につき、続いて兵庫県立こども病院の院長に推されて地域医療全般への関わりが大きくなり、新生児医療から距離を置かざるを得なくなったことがあった。 さらにアローズ社の生越が病に倒れ長い闘病生活に入った不運も重なったのである。
繰り返すがUB測定法の関心が高まらなかった理由は、開発者の二人のactivityが落ちてしまったことにより、UB測定の臨床上の重要性が十分現場に理解されずに、測定器はある程度普及したが、手間暇が掛かるUBより総ビリルビン値で黄疸管理の方針が決められ施設が多くなってしまったことであった。その結果、UB測定の試薬の出荷が減少傾向となってきたところから、アローズ社は2008年に、これまでクラレメジカルに託していたUBアナライザーおよびUB測定試薬の販売のルートを直接掌握するシステムとし、また同年薬事法が全面的に改訂されたのを機に、病院および代理店にUB測定に関するきめ細かい指導をおこなう方針とした。しかしながらUB測定試薬の出荷の減少傾向は変わらず、生越は、学問的に正しくとも臨床的にはUB測定の意義があまり高くないと現場では受け取らとられていると考え、UBを測定している施設と密な接触を持ち、UB測定の低下を歯止めする努力をしてその効果を期待した。それは中村と共に、新生児の黄疸管理に歴史のイチページを開いた自負と夢を抱いて世界中を走り回った生越にとっては、少なくとも現状を維持するだけでなく、国内でのUBにたいする認識度を高めていく願いでもあった。

UB測定の重要性の再確認
この連載の最初の構想の時から、中村と生越の二人が世界に誇る研究の成果を形にしたUBアナライザー誕生の物語を取り上げることを考えていたので、私は満を期して中村と生越の取材に大阪に出かけたところ、上記の事実を知り驚愕した。
実は個人的に、超未熟児の核黄疸の訴訟例の相談をうけていた。従来なら救命出来なかったような児の救命に、長期に渡る日夜を分けぬ献身的な仕事の結果として、訴訟の場に身を晒すことになった主治医達のやるせない思いが伝わってくるが、残念ながらUBを一度も測定していないことから、もしかして病院側が敗訴になるかもしれない、と密かに思っていた。それは、本項の「はじめに」で述べた未熟児網膜症(ROP)の訴訟の歴史に類似するもので、皮肉にも我国が世界に先駆けて開発したレーザー療法が行わなかったROP事例が、病院側敗訴になった出来事である。
更に近年極小未熟児の生存例に、アテトーゼ様CPと特徴的なMRI所見から、これまで気づかれずにいた核黄疸の存在が注目されてきた。ハイリスクの超早産児が高い確率で生存する様になり、この問題を避けて通ることが出来ない。それ以上にこのままでは、これまで先人が世界の最先端レベルまで築き上げきた我国の新生児医療全体にも、計り知れない負の影響を与える可能性が憂えられる。

UB測定の普及への新たなるスタート
私の本原稿の取材が一つのキッカケとなったのは事実のようで、中村は自らが世に送り出したUB測定の置かれている問題の大きさに思い至り、「10年間の冬眠から覚めたよ」と、その開発者としての義務感から自分自身が先頭に立って、「現状の改善に余生を投じる」と決意表明したのである。また生越も手術後5年経過し、久しぶりに私達とワインを飲み交わす程に体調も戻り、中村の心意気に事業家としての社会倫理感を動かされたようであった。
生越はUB測定用試薬の地域毎のデータを持っており、何と東北地方の出荷より東京や大阪などの大都市が少ないことから、実は主要な施設が何らかの理由でUB測定を行わなくなっていたことが判明した。これまでのUB測定値に基づく神戸大の交換輸血の判断基準に従うと、大きな施設では交換輸血の頻度が増えてしまうという意見が多くあった。一方青森県立病院の網塚貴介のように、神戸大学とは異なった自分の施設用の交換輸血の判断基準を定めて、UB測定を自分のNICUのルチーンとしている者もおり、中村自身も神戸大のUB値によるこれまでの交換輸血の判断基準は見直す必要があると考えていた。
中村は新生児医療連絡会の協力を頼んで、UB測定の現状を把握すると共に、UB測定の学問的・臨床的意義をもう一度臨床現場に喧伝する必要を改めて認識し、さっそく8月に行われる福島県猪苗代での未熟児新生児学会教育セミナーにUBの講演を加えてもらうことを教育委員長の中村友彦と主催側の責任者の氏家二郎に依頼した。さらに12月の未熟児新生児学会でも教育講演でUB測定の意義を話したい意思を久保実学術学会長に伝え、共に上記の事情を理解してもらい快諾を得た。それは大御所の中村肇の意向を汲んで、というよりは、二人ともその内容の重要性さを第一線の新生児医療の現場で働く者として、打てば響く様に読み取ったからであった。
超早産児の黄疸は2ヶ月にも及ぶことが珍しくないので、従来の新生児黄疸の常識を超えて新生児期を過ぎても核黄疸発生の可能性が考えられるところから、従来のUB測定の保険適応が4週間とされているのは明らかに不十分で、少なくとも極小・超未熟児においては、その保険適応を生後6−8週まで延長することを、新生児関連学会の理解と協力を得て厚労省に要求する準備を開始している。幸いなことに,中村の薫陶をうけた神戸大の森岡一郎講師はじめ多くのスタッフがUB測定の問題に積極的に取り組んでいることは心強い限りであり、近々にその為に必要となる説得性のある資料が出揃うことは間違いない。

終わりに
中村は以前の講演でルーシー教授のコメント、「我々は超早産児がという未知の患者を対象にするようになった」を引用していたが、例え超早産児の核黄疸の病態が我々のこれまでの知識を超えたものであるとしても、現段階でベストと考えられる黄疸管理を行わなければならない。その結果として核黄疸が発生するなら、それは超早産児のROP同様に高度な未熟性によるもので、どんなに酸素コントロールをしても発生は不可抗力と判断され得るかもしれない。しかしそれは、我国から発信されたUB測定をルチーンに加える黄疸管理が行われた後のコメントでなければならない。
中村と生越が、臨床現場に使用しうるUBアナライザーを世に出したときの情熱を持って再びこの問題に取り組む限り、必ずこの難関を乗り切り、超早産児の核黄疸予防という新たな歴史の扉を開くことを、私は確信している。
(項を終わるに当たり、貴重な資料と当事者以外語れないUB開発秘話をお聞かせいただいた、中村肇神戸大学名誉教授と生越義昌株式会社アローズ会長に深謝いたします。また文中の敬称を略させていただきましたことをお詫びいたします。)

表:さまざまなBilirubin Binding Test (中村肇より)

図:中村によるGOD-PODによるUB測定の原理(中村肇より)

参考文献

  • 中村肇:「温故知新」:Unbound bilirubin 測定の歴史、第13回新生児呼吸療モニタリングフォーラム特別講演抄録、2011年2月16日、大町市
  • 中村肇:「早産児の黄疸管理」の現状と課題:Unbound bilirubin 測定の意義について、日本未熟児新生児学会第17回教育セミナー講演抄録、2013年8月22日、福島県猪苗代町
  • 中村肇、船戸正久、内藤達男他:極小未熟児における血清Unbound bilirubin測定の論証的評価、日児誌 1985:89,655−662
  • Okumura A, Kidokoro H, Shoji H et al: Kernicterus in premature infants. Pediatrics 2009,123;e1052 

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第11章 世界をリードする我国の超低出生体重児医療

はじめに 
 国際疾病分類第10版(ICD-10)で在胎28週(平均出生体重1、000グラム前後)をextremely premature infantと定義されたところから、我国の厚生省はそれを超未熟児と訳して使用していたが、現在の医学用語としては、出生体重1、000グラム未満の児を超低出生体重児(extremely low birth weight infant :ELBW児) と呼ばれている。 
 私が1972年にジョンズホップキンス大学の新生児のフェローになった頃は、上司のRisenberg教授はELBW児がNICUに入院すると、「Hiroshi, it is experimental. You can do whatever you think good for the baby. : ELBW児は実験レベルだから、何でも良いと思うことをして良い」と言っていた。当時は、ようやく未熟児にも人工換気療法が導入されるようになったが、NICUに入院したELBW児の90%が死亡しており、家族に救命の可能性を告げることが出来るのは1,500グラム以上の児であった。
しかし人工サーファクタンの開発や人工換気療法の進歩などによりELBW児の救命率は急速に改善し、1990年になるとELBW児は全出生の0.5%程度であるが全新生児死亡の1/3を占めるようになり、NICUにおける医療の中心はELBW児となってきた。さらに長期にわたる高いレベルの医療の継続が必要であるところから、ELBW児の生存率はそのNICUの評価のバロメータと言われるようになった。またELBW児を救命するためには産科との連携が不可欠であるところから、周産期医療の重要性が認識されるキーワードとなった。さらに我国の未熟児救命率は、1980年後半から世界のトップレベルとなっているが、その中でも現在のELBW児の生存率は全国平均でも80%近くになっており、欧米諸国からも「なぜ日本が?!」と奇異と称賛の合い混じった眼差しで注目を浴びている。
 本章では、我国の超低出生体重児医療が世界をリードするようになった軌跡とその背景、さらに超低出生体重児医療の進歩が及ぼす周産期医療や社会への波及効果に触れる。

日本のELBW児の成績の変遷
 1970年のWHOの周産期統計には、1000グラム以下の児(ELBW児)は含まれていなかったように、例外的なELBW児の生存が記録されているが、当時は医療の対象にはなっていなかった。しかし周産期新生児医療の進歩に伴い、図1に示す如く1960年にはほぼ100%の死亡であったELBW児が1990年にはその半数以上が生存し、さらにその生存児の後遺症発生頻度は20%前後と増加していないことである。このことは、ELBW児医療の進歩は、死ぬべき運命の児を無理に生存させているのではなく、その医療レベルで助かるべき子供が助かっている、という結果を示していると言えよう。
日本小児科学会新生児委員会・新生児医療調査小委員会(委員長:石塚裕吾)が我国のELBW児のデータを5年毎に集計してきたが、その結果は図2に示す如く当事者の一人であった私も驚くほどの急速な進歩であった。更にこれまで流産・死産として扱われていた出生体重300グラム未満の児の生存が報告されている。(池田一成他:妊娠23週、289gで出生した児の管理経験、周産期医学、31:1395−99,2001) また最新の我国の成育限界に近い在胎22−23週のELBW児医療の成績(Ishii N, Kono Y, Yonemoto N, Kusuda S, Fujimura M; Neonatal Research Network, Japan. Outcomes of infants born at 22 and 23 weeks' gestation. Pediatrics. 2013;132(1):62-71.)においては、
2003−2005年に出生した22週(75例)と23週(245例)の各々の生存率は36%と63%であり、3歳までのフォロアップデータでも神経学的後遺症発生は各々52%と57%と、対象とされた世界のトップレベルのデータとの比較で明らかな好成績をあげていることが示されている。(表1及び表2)
しかし当然のことながら、どのくらい小さな未熟な児が生存しうるかには医学レベルの限界があることは明らかであり、またその成育限界に近づけば近づくほど、限られた医療資源の配分や後遺症発生率の上昇を巡った倫理的議論が必要となってきているところから、ELBW児医療において最先端の成績を上げている日本の挑戦を、世界はかたずをのんで見守っていると言えるかもしれない。

超低出生体重児医療の周産期新生児医療及ぼす影響
 出生体重2500グラム未満を低出生体重児と定義するのは、通常の正期産児よりリスクが高いこともあるが、周産期新生児医療の疫学的検討を行う統計学的検討において有用な用語であることが主な理由である。それに対し出生体重1500グラム未満を極低出生体重児(以前は極小未熟児と呼んでいた)と定義したのは、その未熟性及び体重が小さいことが医学的にその対応を難しくして、死亡率や合併症発生率が有意に高くなるからである。さらに未熟で小さいELBW児(以前は超未熟児と呼ばれていた)の定義がなされたのは、極低出生体重児より一段とリスクが高いという意味だけでなく、より未熟で小さいという観念を越えた子宮外環境に適応可能の限界に近いところから、これまでの未熟児医療の知識や経験では対応できない範疇に入る児であり、冗談のようにET(Extra Terrestrial:地球外生物)と呼ばれるほどであったからである。
 しかし急速な新生児医療の進歩によって、これまで例外的に生存していたELBW児の生存率が向上すると、How small is too small ? (どのくらい小さな児が小さすぎるのか?)やHow premature is too premature?(どのくらい未熟なら生存には未熟すぎるのか}という命題で、さらに未熟でさらに小さな児への挑戦が行われた。(Nishida H, Sakanoue M, Ishizuka Y. “How small is too small?” in Japan 1983. Acta Paediatr Jpn; 28: 195-201, 1986)しかし当然のことながらそれには限界があることは明らかで、それを成育限界(viability limit: 単に生きているだけでなく、正常に発達する能力を持っている限界) と呼ばれている。これまでの疫学データよりELBW児の生存の可能性は出生時体重より在胎週数が重要であることから、成育限界は在胎週数で定義されている。
ELBW児の生存率が高まり、より早期産の児が救命可能となることは、これまで挙児を諦めていた心疾患や腎不全などのハイリスク妊婦にも母親になる喜びを与えることが可能となり、妊婦胎児を管理する産科医療に携わる側にとっては、母児の為にいつ妊娠を中断するかの自由度を広げることとなった。 それによって産科側は、新生児側により早期産のより小さな児の救命を求めるようになり、新生児側はそれに答える努力をするという相互作用が起こるところから、成育限界の追及は周産期医療を進歩させる原動力となっていったのである。
成育限界は時代やその国の新生児医療のレベルによって異なり、我国の母体保護法(かっては優生保護法と呼ばれてた)では、1991年より成育限界は在胎満22週とされている。その背景には、日本小児科学会新生児委員会の1986−88年の3年間に在胎24週未満で出生してNICUで加療された児の調査(石塚裕吾他:出生体重500g未満または在胎24週未満の長期生存例と後遺症。日本小児科学会誌、94:841−844,1990)があり、「21週の児の長期生存は一例もなく、22週の児は7例あったがintact survivalは一例もないが、23週になると60例が生存し29例と約半数がintact survivalであった」ことから、成育に可能性のあるのは満22週以降と判断された。
このような我国のELBW児医療に対して、現在でも在胎24−25週以下の児は治療しない方針を取っている先進国が少なくない。その理由は、障害児を世に送り出すことの経済的理由と、誤った社会Darwinism(強い賢い者が弱い劣った者を淘汰して人類が進化したので、弱い劣った者を助けるのは正しくない、とする考え)によるもので、事実私が 重症なELBW児を治療しているスライドを出すと、「なぜそんな小さな病気の子どもを助けるのか」と、医療者からも質問されることが稀ならず経験する。しかし、Darwinは強い者が弱い物を押しのけて繁栄していったのではなく、それぞれに異なった環境に適応した結果の多様性が進化の鍵であると言っている。また限られた医療資源の有効利用に関しても、現在の成育限界を理解して行っている我国の新生児医療の範囲では、ELBW児に対して治療を施すことは、たとえ弱い仲間でも可能な限り助ける人間としてのプライドや喜びだけでなく、社会経済にも決してマイナスバランスでないことが示されている。すなわち高度な医療を行わなければ助からなかったであろうELBW児が生存して、社会人として貢献する経済効果(種々の計算法があるが、現在はほぼ一人当たり生涯3億円程度と試算される)は、社会に対する経済負担となる医療費用と発生した障害児に要する費用の合計より、優位に大きいことが種々のデータから計算されているからである。(仁志田博司:NICUは日本の母子の福祉に本当に貢献しているか? 母子保健情報 22:45,1990)
さらに近年のわが国では、成育限界に近い22―23週の児に対する医療も稀ならず行われるようになり、その成績も約半数が救命されるほどに向上しており、22週どころか25週以下の早産児には医療を行わない取り決めをしている国も少なくない欧米諸国は、日本のこの分野の進歩に驚きと共にその行く末を大きな関心を持っている。(野口明彦:米国における生育限界22週未熟児治療に対する考え方、日本周産期・新生児医学会雑誌:44:1−3,2008)

東京女子医大の成績:そのbeginner’s  luck(初心者のつき)は何時まで続きますか?
 私が新生児部門長として赴任した女子医大の母子総合医療センターが開設した第一日目の1984年10月1日に、まだ重症な入院児も居ないので挨拶だけにしようか、と考えながら朝の回診に向かったところ、何と全員がバタバタと動き回っており、ELBW児の双胎が生まれ入院第一号と第2号になったことは、ELBW児が東京女子医大母子総合医療センターのメインテーマとなる極めてepisodic な出来事であった。
私達が1984年から1990年までの女子医大のELBW児の生存率を学会で発表した時、それは85%前後と全国のトップレベルのNICUの成績を大きく上回っていた。(図2)その場にいた当時福岡こども病院の新生児部長をしていた近藤 乾(現東京女子医大八千代医療センター教授)が、「女子医大のbeginner’s  luckはいつまで続くと思いますか?」と質問した。それは決して意地悪ではなく、特別な成功の秘密があるとは思えないので、親しい友人からの素朴な質問であった。それに対して私は、「私達だけが特別な方法を持っているわけでなく、みんなとほぼ同じことをしているので、皆さんのNICUも同じような成績になると思います。」と答えたが、もしかすると彼の言うように、「初心者のつき」に終
わるのではないか、と一抹の不安を覚えたことを思いだす。
 幸いなことに女子医大はその後もほぼ同じ成績を維持したが、他のNICUの成績が急速に改善してきたので、2000年頃には両者の成績の差はほとんど無くなり、それ以後は女子医大より成績の良いNICUが珍しくなくなったのである。それは時の流れで当然の結果と言えるが、多少とも女子医大の発表が役立ったとしたら、みんなが「そうか、それくらいの成績にはなるんだ」と思ってくれたことであろうと、密かな自負を感じている。強いてそれまでの成績の差が無くなって来た理由を挙げれば、女子医大は最初から産科と一体の周産期医療を行っていたこと、また日本のNICUの伝統であった一人の主治医が何か月も目の離せないELBW児を診る医療から全員が患者情報を共有するチーム医療体制を取っていたこと、などの重要性が他の施設にも認識されてきたことが考えられる。
そのような経緯から女子医大のスタッフ全員で、自分たちの行っているELBW児医療の臨床経験を中心に、我国で最初のELBW児に特化したマニアル「超未熟児―その実践的医療と管理。メジカルビュー社」を1994年に発刊した。当時の多くのNICUでは、手探りでELBW児の管理を行っていたところから、そのマニアルは待望の書として受け入れられ、5刷を重ね、5年後の1999年に改訂第2版が発刊され、さらに2006年には第3班(仁志田博司・楠田 聡(編):超低出生体重児:新しい管理指針(改訂3版)、メジカルビュー社、2006、東京)が発刊されて現在に至っている。

世界への発信
 既に述べたが、1970年代後半より国立岡山病院のELBW児の成績は当時の世界トップレベルであったが、症例数が少ない一施設のデータ(institutional data)であることと、英文での発表がなされていないことから、全く世界には知られていなかった。経皮的酸素分圧モニターや経皮的黄疸測定器開発の仕事を介して、山内逸郎とVermont 大学のJerald    Lucy教授は交流があり、彼が国立岡山病院のNICUを訪れたことから、「少なくとも山内逸郎の施設の成績は世界トップクラスであることは事実である」とが海外に喧伝してくれたが、日本の新生児医療のレベルの高さを欧米が認識するには至っていなかった。
実は山内逸郎の最後の論文は、Lucy教授が中心となっているVermont-Oxford Data Base(1,500グラム以下の児の成績などのデータを共有して自分の施設の問題点を探し出す目的の, 米国が中心だが世界の幾つかのNICUも参加しているネットワーク)に日本も参加することになったことを、ようやく自分たちが築き上げてきた未熟児医療の成果が欧米のデータと同じ土俵で較べられる、という喜びがあふれるものであった。(山内逸郎:私が願うこれからの新生児医療「時は流れる、時代は変わる」−21世紀を展望してー、NICU(現Neonatal Care)1993年秋季増刊、73:17−21) 私はその山内逸郎の熱い思いのこもった論文を英訳してLucy教授に送り、彼から心からの哀悼と山内逸郎を失ったことが日本との交流に如何に大きな損失となったことかを嘆く手紙を受け取った。
1998年1月、私はLucy教授から日本のNICUの成績が米国より良いこので、日本のやり方をbenchmark(基本・手本)として両国の医師や看護士の交流を行うKaizen Project(日本語の改善を掲げたプロジェクト)の提案を受けた。それを受けて、まず日本側からアトムメジカルの援助を受け、加部一彦(愛育病院)と北島博之(大阪府立母子保健総合医療センター)が米国のNICUを訪ねた(site visit)。残念ながら私の努力不足で、米国側からの日本のNICU visitが上手くいかず、Kaizen Projectが数年で途切れてしまったが、現在は藤村正哲(前大阪府立母子保健総合医療センター総長)が率いる研究班で新しい世界的なデータベースが構築されている。(藤村正哲:新生児医療の日本から世界への発信、日本未熟児新生児学会雑誌、24:5−9,2012)
 1996年に、私はLucy教授が企画運営の中心で行われているHot Topics in Neonatologyで、「Micropremie」のタイトルで日本のELBW児の成績を話すよう依頼を受けた。最初その手紙を見た時に、私がこれまで幾つかの国際学会で女子医大だけでなく日本のELBW児のデータを示してきたので、「どんなに良いのか話してみろ」という意図であろうが、Micropremie(定義は無いが彼は出生体重600グラム以下とした)にテーマを絞ったのは冗談か意地悪か、と思ったほどであった。それは、私個人のみならず、発表に足りるだけのMicropremieのデータはまだ何処にも無かったからである。しかし新生児医療連絡会に助けを求めると、たちどころ過去10年間にNICUで入院加療を受けた1,400例余のMicropremie、しかもその20%が救命されたデータが集まったのである。(Oishi M, Nishida H, Sasaki T. Japanese experience with micropremies weighing less than 600 grams born between 1984 to 1993.Pediatrics. 1997;99(6):E7)
 そのデータを基に、なぜ我国のELBW児の成績が良いかを幾つかのポイントを挙げて30分の講演を終えた。演壇を降りようとすると、座長をしてくれたMary Avery教授が私を押しとどめ、「You gave us the answer. 私達に(ELBW児に関する)答えを与えてくれた。」と賛辞を述べると、聴衆が立ち上がって拍手(standing ovation)をしてくれたのである。その時偶々参加していた名古屋市立大学の戸狩 創(当時名古屋市立大学小児科助教授)は、私に「ありがとう」と握手を求めてきた。その意味は、彼の恩師であった小川次郎(前名古屋市立大学小児科教授)が山内逸郎同様に、なかなか諸外国に自分たちの仕事が認識されずにいた無念を傍で見ていたからであった。
 2007年のオスロで行われた欧州周産期学会でも同様な経験をした。その時は単にELBW児の生存率だけでなく、そのフォロアップの結果、特に大阪母子保健総合医療センターの神経学的のみならず身体発育さらに社会への適応性までも含めたデータを、世界で最も進んだ総合的なフォロアップシステムとして紹介した。座長をしてくれた私の親しい友人であるオスロ大学のOla Saugstad教授が、Hot Topics の時のAvery教授と同様な賛辞を述べたことを、参加していた窪田昭男(当時大阪府立母子保健総合医療センター小児外科部長)が、日本の新生児医療が世界のトップレベルであると同時に自分の勤めている施設が素晴らしい仕事をしていることを再認識した、と感激してくれた。
 同年の2007年9月には、フローレンス(イタリア)で行われた世界周産期学会の招聘講演で我国の22−23週の児の成績を発表した。当時はまだ24週とそれ未満の児の成績には大きな差があり、アメリカで私が上司に「1000グラム未満の児はexperimental」と言われた言葉そのものが22−23週の児のレベルであった。それ故発表内容は、学術的論文に纏めるには女子医のデータも僅かであり、連絡会の仲間からの寄せ集めのデータも幾つかの大切な臨床項目が虫食い状態の上に、長期フォロアップのデータは皆無であった。まだ多くの西洋諸国でも流産扱いの週数であったところから、私の発表は学問的関心というよりは奇異の目で見られ、倫理的や社会経済的な質問に終始した。その講演にLucy教授がわざわざ聞きに来てくれていたが、それはELBW児の医療で世界の最先端を走る日本の現状と、これから日本はどこに向かうのであろうか、と高い関心を持っていたからであり、その講演内容を総説としてまとめて論文とした。(Nishida H, Sakuma I: Limit of viability in Japan: ethical consideration, Journal of Perinatal Medicine. 37( 5,): 457–460,2009)
 さらに世界で最も広く使用されている新生児学の教科書(Avery’s Neonatology, Pathophysiology & Management of the Newborn(第6版、2005年)の第25章The Extremely Low Birth Weight Infantの中に、東京女子医大のELBW児の成績が記載されているが、それは私が2002年に再びHot Topics in Neonatologyに招聘されて講演した「Marginally viable, fetal infant who is too young or too small to live: Japanese experience」の抄録からの引用であった。我国の臨床データは患者背景が異なること以上に、成績の評価にバイアスがあるとみなされるところから、欧米の教科書に引用されることはほとんど無かった。その教科書の編者Mhairi MacDonaldは私がホプキンスで新生児フェローをしていた時の新生児科医であり、私を知っていたこともあろうが、そんなことよりは日本のELBW児の生存率が英文で明らかな数値データが出ており、それが諸外国より飛び抜けた成績であったからであった。
 これまで我国の成績が諸外国に引用されなかった理由は、英文での論文が少なかったことに加え、そのデータのほとんどがpopulation baseでなくinstitutional であったことと、我国の予後の評価法の新版K式評価法が世界共通のBayley法でないことなどが挙げられよう。幸い、厚労省研究班(藤村正哲 班長)の支援を受けて、女子大母子センター小児保健部門で共に働いた河野由美(現自治医大小児科準教授)等が、既に述べたごとく、我国のELBW児の中で最も我国が世界の注目を浴びている在胎22−23週に絞ったデータを纏め、米国小児学会の公式雑誌 であるPediatricに掲載された。その論文は大きな反響を呼び、数人の海外の友人から、私にも何故か「おめでとう」というメールが届いたが、それは、日本のELBW児の成績が世界の最先端であることを世に示した歴史的論文であったからである。私自身もその論文を目にした時、山内逸郎や小川次郎等の先達に読んで頂きたいと思い、藤村正哲と河野由美に「涙が出る程嬉しい」とメールをしたが、我国の新生児医療に長く携わって来た者としての私の偽らざる気持ちであった。

日本が諸外国より成績が良い理由
  何故日本の新生児医療のELBW児の生存率が諸外国を凌駕する成績を挙げたのであろうか。医療施設や医療制度はむしろ西欧諸国の方が我国より優れているであろうし、母親の体格や健康状態に大きな差がるとは思えないので、以下にそれらの私なりの理由を挙げてみる。
@超早期からの母乳栄養: 母子関係確率の重要性とは別に、母乳、特に初乳に含まれている免疫物質が児の腸管上皮をペンキを塗る様に(intestinal painting)カバーし感染からの予防に益する。同時に、EGF(上皮発育因子)などの腸管の成長発育を促す物質が極めて重要な働きをすることが知られている。最初にELBW児の養育に母乳の重要性を示したのは山内逸郎であったが、その後日本のほぼ全てのNICUでルチーンとなり、出生当日からほんの数滴でも児の口腔内に投与することも行われている。この早期からの母乳栄養が,我国の壊死性腸炎の発生頻度が、特にELBW児において諸外国より低いことの要因と考えられている。
A経時的CRP測定による感染対策:すでに1980年に名古屋の後藤玄夫(現名古屋城北病院名誉院長)が開発したAPRスコアは保険も認められ、我国の新生児の感染症の早期診断に広く用いられていた。CRP,  Haptoglobulin,  Orthomucoidの3種の急性反応蛋白を測定し、正常値域より高い場合をプラス1点として、合計点が3点なら偽陽性があるが感染の可能性が高く、ゼロ点なら自信を持って感染が否定出来る、というものであった。発表当時に北里大学に講演に来てもらった時、彼は人工換気療法下で臍帯動脈にカテーテルを入れている児でもAPRスコアが零点なら抗生物資は使わない、と言ったことが忘れられない。しかしながらAPRスコアは三つの急性反応蛋白の測定ということと、1点と2点の場合の判断が不定であることなどから、残念ながらあまり普及していない。後藤玄夫は80歳を過ぎた現在でも、自分で測定した臨床データを学会に発表し続けており、心から敬意を表している。それに変わるものとして、高感度CRPの連続測定は、血液ガスや血糖値測定時にベッドサイドで迅速に出来るところから、ハイリスク児では経時的に測定され、出生後48時間の生理的なサージ(高値)のCRPカーブと比較して、感染の可能性が判定出来るところから、多くのNICUでルチーン化され、我国のハイリスク新生児の感染対応に効果を上げており、ベッドサイドで血糖や電解質と同時に簡易に測定できる機器が良くつか販売されている。(佐久間泉他:分娩時ストレスが新生児CRPの生理的変動パターンに及ぼす影響についての検討、日新生児会誌、33:202,1997
B初期のドライサイドの水分管理:1970年代のELBW児の初期の水分投与量は不感蒸散量が多いことから120-150ml/Kg/dayが一般的であり、開放型の保育器での管理では200ml/Kg/day以上のことも稀でなかった。ところが国立岡山病院では当時から40-50ml/Kg/dayで初期輸液を始めることを聞いた時140-150ml/Kg/dayの間違いではないかと思ったほどであった。それは100%に近い高加湿の閉鎖型保育器内管理下で行われるもので、事実女子医大で高橋尚人(現東大小児科準教授)がその条件での不感蒸散量を測定した研究した結果が40-50ml/Kg/dayであり(高橋尚人他:超未熟児における早期新生児期の水:電解質、日新生児会誌、27:656,1991)、それを行っていた五十嵐郁子等の国立岡山病院の新生児グループの先見の明に驚いたのである。その後私達だけでなく、日本のNICUのELBW児の初期の水分投与量は国立岡山病院方式となり、それがPDAやCLDを含めたELBW児に発生し易い合併症を少なくしたことは事実であった。
Cminimal handlingとless-invasive care: ELBW児はその小ささに加え高度な未熟性から、その皮膚が容易に糜爛や皮下出血を起こすように、僅かなストレスでも予後に影響を及ぼす状態を引き起こすところから、出来るだけ児に侵襲を加えないことが管理原則とされた。私はアメリカ流の新生児医療を身に付けてきたところから、人工換気を行う事例は臍帯動脈にカニュレーションをして採血ルートと同時に血圧モニターをルチーンとしていたので、学会で山内逸郎に、「そんな児に侵襲的なことはしていけない」と言われ、「大人のバイタルサインが体温・呼吸・脈拍と血圧であるのに、新生児は血圧を計らないのはおかしい」と反論したことを覚えている。しかし私も経験を重ねるにつれ、動脈カニュレーションによって得られるメリットと児に与える侵襲のバランスを理解するようになり、特にELBW児に対する非侵襲的管理の重要性を理解するようになった。それに加え、欧米に比べて日本の医師や看護士のよりきめ細かい管理テクニックが、総合的にELBW児の予後に影響を及ぼしていると考えられる。
D社会ダーウイニズムからの脱却による共生の考え:ELBW児を管理していると、医療者からも「そんな未熟な児を助けることは自然選択という原則から外れた間違ったことではないか」と疑問を投げかけられることがある。しかしそれは間違いで、Darwinは「種の多様性」が進化のキーワードであり、共に生きることの重要性を述べている。我国のELBW児医療は、「これだけ豊かになった21世紀に、単に小さい・早産で生まれたというだけで、経済的理由や世話が大変な障害を持つ可能性があるからと、自分たちと同じ仲間の人間に出来うる医療を施さないのは間違っている。」という考えから、功利的に線引きをして切り捨てる西欧諸国より一歩優れた成績を上げている。
 

おわりに
 我国のELBW児医療を世界のトップレベルとしたキーワードである「誤った社会Darwinismから脱却して共に生きる心」は、小さな島国に生きる私たちの祖先の生活の知恵である。種々の学問的な知恵やテクニックに加え、その大切なメッセージを世界に発信することは、我国のELBW児医療に携わる者の責務であり、ELBW児のみならず重篤な子どもたちを救命することに繋がることを願っている。

稿を終わるに当たり、貴重なご意見や資料を賜った石塚裕吾・河野由美・藤村正哲の各氏に深謝を述べると共に、我国のELBW児医療を支えてきた諸先輩に心から敬意を表する。また文中の敬語を省略したことをお詫びする。 

図表:

新しい 表1,2(河野由美より:22−23週の成績)

図1:ELBW児の死亡率と後遺症発生率の年代順変化
(Nishida H: Outcome of infants born preterm, with special emphasis on extremely low birth weight infants. Bailliere’s  Clin  Obstet Gynaecolo, 7:611- ,1993)

図2:わが国のELBW児の出生数及び死亡率の経年的変化
日本小児科学会新生児委員会・新生児医療調査小委員会(委員長:石塚祐吾):委員会報告 わが国の主要医療施設におけるハイリスク新生児医療の現状(1991年1月)と新生児期死亡率(1990年1−12月)、日本小児科学会誌、95:2454−61)

図3:東京女子医大のELBW児の生存率と他施設との経時的変化の比較

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