新生児に生きた先達

先達

我国の新生児医療は1960年代頃から、これまで産婦人科の一部として母体の一部という感覚で扱われていた新生児が、小児科によって一人の人間として医療が施されるようになった。正に近代新生児医療の幕開けと言える。その時代の先達の姿を知ることは、現在の新生児医療に関わる者にとって、「温故知新」の言葉の如く多くの示唆に富む英知を学ぶことにもなる。

これらの文章は、メジカ出版のneonatal careに「新生児に生きた人々」のタイトルで連載中である。 写真なども含めた文章を是非読んでいただければ幸いである。

 

目次

 

1 関 保平先生を知っていますか

2 山内逸郎「反骨のロマンチスト」

3 小川次郎「清貧にに生きたあたたかき心の師」

4 馬場一雄「剃刀の鋭さに含羞の漂う孤高の指導者」

5 松村忠樹「京都の粋と大阪の逞しさを持った指導者」

6 三宅 簾「新生児に生きた真のクリスチャンドクター」

7 大西鐘壽「学問というストレートボールを投げ続けた小児科医」

8 小川雄之亮「新生児仲間の爽やかな兄貴分」

9 内藤達男「新生児の仲間に思いを寄せて殉死した男」

10 竹峰久雄「古武士のような凛とした新生児科医」

11 福島に田沼悟という男がいた

12 増本 義「唯ひたすらに新生児医療を愛した男」

13 長谷川良人「赤ちゃんの素晴らしさを知っていた出版人」

14 Mary Avery「日本の新生児医療に慈愛の眼差しを向け続けた世界的小児科医を偲」

1 関 保平先生を知っていますか?

1.プロローグ

新生児医療連絡会の創立20周年記念誌の為に、手元に積み上げられていた創設期の資料を繰っている時に、すっかり失念していた一人の新生児科医の名前が目に飛び込んできた。それは事務局長であった私が書いた礼状の宛先の関保平先生であった。関先生は、生まれんとする新生児医療連絡会に当時としては破格の金額である20万円を寄付してくれたのである。念のためにと、さらに会の議事録を繰ってみると、昭和60年(1985年)7月に神戸市湊川神社の楠公会館で行われた記念すべき第一回の新生児医療連絡会役員会議事録の最後に、竹峰監事がそのことを報告し、「会員一同感激」のコメントが付け加えられていた。
言い訳ながら連絡会創生と内藤先生の自死という波乱の時の流れに、すっかり失念していたが、関先生の名前は私の胸の中に、新生児医療連絡会誕生の熱い思いと共に、あの柔和なお顔を思い起こさせてくれた。しかし多くの会員にとっては、寄付を戴いた事実のみならず、関保平先生がどんな方であったにかは殆どを存じ上げないであろう。この機会に、私自身にとっても幻の彼方であった関先生を、何人かの関先生を良く知る方々からの聴き語りで、忘れられていた新生児医療の歴史の一断章を埋めることを試みた。

2.最初の出会い

1985年7月に神戸で第21回日本新生児学会(現在日本周産期新生児学会)が岩井誠三神戸大学麻酔科教授を会長として開催された折、関保平先生がスポンサーとなって岩井会長が、私たち新生児医療の若手数人を六甲山麓の料亭(播半 はりはん:今は廃業となっているが谷崎潤一郎の『細雪』縁の老舗料亭)に招いて宴席が持たれた。眼下の神戸市街の煌びやかな夜景を見ながら一流の会席料理を戴いたことより、岩井先生と関先生の新生児医療を巡る昔話が、思わず箸を止めて聞き耳を立てる内容であったことが印象に残っているが、何せ20年以上前のことである。その遠い昔の思い出の深淵からの記憶の断片を拾い上げてみよう。
 「新生児の搬送は、大きなアメ車(ビューイック)の自家用車でしたね。一度途中で、どうしても状態が悪いので道端に車を止め、戸板を出して挿管しようとしたら、赤ちゃんの顔の上に雪が降ってきましたね。」と関先生が話しかけると、岩井先生がニコニコ笑いながら「そんなこともありましたね。」と答えたのである。関先生は小児科医・麻酔科医としてのキャリアを背景に、大学や総合病院ではなく一個人病院である関小児科を舞台に、まだ黎明期の新生児医療に取り組まれたのである。驚くことに関小児科病院には「表」に示す如く、なんと昭和35年(1960年)に180名の呼吸循環器障害児や45名の外科的症例を含めた384名の新生児入院が記録されていた。いかに驚異的であるかは、大阪市大に高井俊夫教授が「未熟児センター」(我国最初の新生児に特化した医療施設と考えられる)を設立したのが1956年であり、さらに未熟児新生児学会の前身「未熟児懇談会」が始めて開催されたのは1958年であっただけでなく、その討論の内容は未熟児の栄養などの一般管理や黄疸がほとんどであったことからも窺え知れるであろう。私的なコメントになるが、私が小児科レジデントを始めた1969年のアメリカでも、小児の人工換気がようやく行われ始めたところであり、たまたま当直で仮死の新生児に人工換気を行ったところ、翌朝にチーフレジデントが「こんなことをしてはいけない」と人為的に抜管されてしまった時代であった。後に何人かの方に当時の関小児科病院の活動を語っていただくが、当時としては特筆すべき新生児医療の施設であったことは明らかであろう。
 なぜ関先生が私たち若手を、あのような身分不相応のような宴席に呼んでくれたのか、不思議に思いながら時が過ぎてしまったが、なんと今になって次のように思い出すことがあった。関先生は岩井先生を始め小児麻酔の専門科の方々との交流があったことから、二人がその研究会設立の昔話になった。「麻酔科を選ぶ時でさえ、何で外科の下働きのような仕事を選ぶんだ、と言われましてね。それが小児麻酔医といったら、お前何を考えているんだ、と呆れられてしまいましたよ。それで7人の侍(岩井・渡部・里吉等)が小料理屋に集まり、これからどうするかって相談しましたね。」 こんな話であったが、後の宮坂先生の話しにもあるごとく、まるで新生児医療連絡会が出来る頃の私達の姿を彷彿させるものであった。関先生は多分、岩井先生から丁度この年に新生児医療連絡会が発足したこと、さらにその数年前からの私達の産みの苦しみを御聴きになっており、自分達の来し方にオーバーラップして私達にエールを送ってくださったのだ、と思うに至った。
 私の勝手な想像であるが、関先生は若い医師を勇気付けサポートすることを使命と考えられていたようで、その為に、当時誰も手を差し伸べなかった新生児に最新の医療を行う場所を提供し、黙々と陰子になって麻酔をかけ、さらに経済的なパトロンの役目まで背負ってくれていたのである。私自身も、なぜ関先生が主催されるのかを深く考えずに、何度か神戸の関小児科病院のカンファレンスルームで、Leo SternやNorthway等の錚々たる外国からの専門科の話を聴きに伺ったことがある。さらに関先生は、多くの若い新生児科医や小児外科医をサポートしていたが、そのサポートは物理的なレベルを超えた新生児・小児医療への情熱の伝達であったことは、本稿に思い出を寄せてくださった各人からの関先生との時間を振り返るコメントから読み取れるであろう。

3.関保平先生との時間を振り返る

1)北島博之先生(現大阪府立母子保健総合医療センター新生児科部長):医者としてのスタートを新生児に向けてくれた関先生
 1976年から5年間関小児病院にお世話になり先生の薫陶を受けましたが、その理由は大阪大学天野細菌学教室の同門というよしみで、無給の大学院生のアルバイト先としてもらいました。関先生は医学部2年生の時から天野先生の授業を上級生に混じって一番前で聴いていたので顔を覚えられ、3年生になった時「落第したのか」と聞かれたそうですが、卒業直ぐの1952年3月から1955年3月まで在籍し大腸菌の研究で学位をとられました。私は1981年天野先生退官の年に関先生と同じ大腸菌の研究で学位をもらいました。
関小児科では、毎週金曜日の当直をさせていただきましたが、当直明けの土曜日の朝6時半に関先生と車で、淀川キリスト教病院の朝の輪読会に通い勉強させてもらいました。勉強と言えば、関病院にはカンファレンスルームがあり、私の記憶だけでも、Conn教授(トロントの麻酔科)・Taeuish教授(ハーバート新生児科)・Leo Stern教授(ブラウン大学新生児)・Northway教授(BPDの提唱者)・Swenson教授(小児外科医)・Clement Smith教授(ハーバート大学新生児)など、錚々たる方が来日の折に講演に来ていました。病院の図書館には小児科・新生児科関係の雑誌(Pediatric Researchなどの洋書も)のバックナンバーがずらりと大学並みに豊富に揃っておりました。また、解らない事があると大変なお金がかかった時代でしたが、特に親しかったConn教授やSwenson教授に外国まで電話していました。
図書室の奥にある寝室に、結婚までの2年間居候させていただきました。関先生は御自分が当直でない時もほとんど病院暮らしで、奥様が一日4回の食事を届けられていました。当直の夜など、関先生初め看護婦さん方と一緒に食事をしながら、本当に色々の小児医療の話をお聞きしました。関先生は外科的疾患の麻酔管理がお好きで、関小児科の手術室には、兵庫医大の岡本先生や豊坂先生・大阪大学の植田先生さらに心臓外科の松田先生なども良く出入りされていました。外からの搬送以来などには、夜間でも事務長を呼び出して自前の車でお出かけになっており、大変な激務でしたが、「夕方になると不整脈が出るけど慣れっこになってしまったと」とか、「気胸を起こしたけど肋膜炎の癒着があるので緊張性気胸にならないんだ」などと笑っていました。すごい人と思う一方で先生の体がやはり心配でした。

2)宮坂勝之先生(現長野こども病院院長):関保平先生と第5回世界麻酔学会の思い出
 1972年に京都で開かれた第5回世界麻酔学会は、まだ麻酔そのものが外科の一部と考えられていた我国の麻酔科医の地位向上に大きな意味を持っていました。特に小児麻酔の存在は国立小児病院麻酔科だけで、初代の岩井誠三医長が『麻酔科が24時間院内にいて、全ての麻酔と呼吸管理を取り扱う」としたことは、大学病院でも麻酔科が当直している所がほとんど無かった時代においては画期的なことでした。その岩井誠三先生(後の神戸大学麻酔科教授)が関先生と親しく、当時は死ぬ前の儀式としか考えられていなかったレスピレーター使用の考えを変えなければと、佐多保之氏(東機貿社長・医師)の3人で新生児用に開発されたばかりのベビーバードの普及に努められました。有名なBob Usher(McGuire大学新生児)のRDSに対するアルカリ療法も、人工呼吸器が使えない時代の苦肉の策でしたが、関先生は適切な呼吸の換気が成されない状態ではその効果が期待でないことから、最終的にはレスピレータが不可欠であることを論理的に解説されたことが印象に残っております。
もう一つ関先生の忘れがたいエピソードは、その国際会議での「小児・新生児麻酔呼吸管理シンポジウム」の折に、座長のDr. Connと岩井先生が関先生に特別発言を求めたことです。それは関先生が、RDSの回復期に起こる肺血流増加による悪化の治療に、「動脈管の中でバルーンを膨らませてはどうか」という、当時の最先端の新生児科医も考え付かないアイデアを持っていたからです。まだPDAを閉じるどころかその病態さえ明らかでなかった37年前でした。関先生が臨床だけでなく、その背景の病態生理学まで如何に熱心に勉強されていたかを物語るエピソードです。
そのシンポジウムに全国から小児麻酔科が集まったことが切っ掛けで日本小児麻酔研究会(後学会)が発足しましたが、その中心となった岩井先生を支えた影の功労者が関先生でした。その第一回研究会の前日の懇親会が、この物語の発端である新生児医療連絡会幹部と関先生の接点となった『播半』であったことは、若い人たちの夢を拾い上げて育んできた関先生の生き様の軌跡を象徴するものと言えましょう。

3)大原洋一郎(小児外科・大原こどもクリニック院長):関先生は医者としての行き方の一生の恩師です
 1974年4月に約1ヶ月病院の当直室に寝泊りして教えを受けました。私は聖路加病院の麻酔の研修を終えて東北大葛西外科に入りましたが、手術が上手くいっても呼吸管理上の問題で亡くなる新生児が少なくなかったので、葛西教授の知り合いの大阪小児保健センター植田隆所長を介し関先生を紹介してもらいました。関小児科病院は、当時としては大学でも珍しいNICUが完備しており、24時間体制で新生児を受け入れていました。10名の看護婦と関院長・中平英樹医師が常勤で、非常勤として青山興司医師が当時大阪小児保健センターから週一回当直に来られていました。関院長は小児科の夜間診療もやっていて、ほとんど家に帰らず泊り込んでいました。真夜中の12時に奥様手作りの夜食をみんなで食べてから、青山先生が来るとミッドナイトラウンドと称して夜が白むまで学問の話をしたものです。青山先生だけでなく多くの小児外科や麻酔科の人が来ていましたが、関先生は臨床が大好きで、みんなが手術しているのを楽しそうに麻酔医としてサポートしていました。
また関先生は検査は小児科医の命であると、すべてご自分でmicro-methodで血液ガス、CRP、電解質、IgM、IgG、GOT、GPT等を測定しており、またレスピレータによる呼吸管理だけでなくBAS(バルーン房室隔壁切除術)などの循環器の治療までやっていました。(写真2・3)その時に教えてもらったメモノートを座右の銘として、その後の診療に生かしてきました。研修最後の日に、Klausの「Care of the High-risk Neonate」(初版)を頂き、その見開きに『先生の一生涯に亘るご勉学を期待します、』と書いていただきましたが、今も私の宝物となっています。

4)青山興司先生(現独立行政法人国立病院機構岡山医療センター院長):関先生は忘れられない恩人
 関先生との出会いは、小児科を4年研修した後に小児外科を目指して大阪小児保健センターの植田先生の下で研修をした時に、無給であった私を見かねて関先生が週一回の当直で生活の面倒をみてくれると約束して下さったことに始まります。実は当直に行っても、関先生はいつも病院に泊まっておられ、私は当直らしいことはせず、むしろ関先生からいろいろ教えて頂いたり楽しい話を聞かせていただいたりしていました。また、当直の時の食事は、近くのホテルから取り寄せた豪華な料理のこともありましたが、それ以上に忘れ難いのは関先生手作りの、生玉ねぎのスライスに生卵と鰹節をかけたスタミナ料理でした。ただ年に一回は、完全に私に当直を任せられる日があり、その日は先生は真っ白な海軍の制服の上に黒いコートを着ておられました。後になって、先生は明日は我が身という気持ちで終戦を迎えられたと聴きましたので、多分亡くなられた方々への鎮魂のお気持ちでその日を過ごすことにされていたのではないかと思っています。
 月一回、土曜日の夕方から次の日の朝まで10時間ほどぶっ続けの深夜カンファレンスも忘れられない思い出です。卒業数年目の若手小児科医数名を誘い、あらかじめテーマを決めておいてみんなで発表し討論するのですが、知識の深さと広さがダントツのなので討論のほとんどは関先生の独壇場でした。関小児科の図書室には和洋を問わず小児関係のほとんどの雑誌があり、先生はその中でもPediatric Researchを好んで読んでおられたようです。論文の読み方に関して、まずMethodologyを読み、それがシッカリしていないものは読む価値が無い、それがシッカリしていれば結果を読み、考察は自分で考えるものであるから読まない、と教えられました。ユニークながら、なるほどと思う読み方で、若い人にその方法を勧めています。
 忘れられないエピソードの一つに、横隔膜ヘルニアの新生児の手術例があります。植田先生などの先輩がみんな学会で居ない時に入院してきて、呼吸障害が強いので直ぐ手術しないと助からないと、関先生はまだ外科の経験が1年そこそこの私に、自分が責任を持つからやりなさいと言うのです。それで、先生が麻酔をし、看護婦が前立ちをして手術をしました。幸い手術は成功しお子さんは元気に退院することが出来ましたが、手術をした者にとっては関先生の勇気と決断に感謝しています。
 関先生は、変わった健康管理をされていて、クーラーは使用せず、また炎天下の日中にほとんど裸で芝を刈ったり、本を読んだりして、汗をかくのが良いと言っていました。また、食事を楽しく食べるのが体に良いと、事あるごとにみんなを誘って食事をしていましたが、健啖家でした。また、ヘビースモーカーでしたのに、本が3時間以上続けて読めなくなったという理由で、ピタリと止められたのには驚きました。そんな先生の訃報を聞いた時は信じられませんでした。取る物も取り敢えずかけつけましたが、あの真っ白な海軍の制服に身を包まれた安らかなお姿に、心からの感謝と冥福を捧げました。
 先生の素晴らしさの幾つかを挙げるなら、誰にでも尊敬される人柄、医者として向上心を常に持ち続けられたこと、若い人の成育をし続けたこと、仲間を大切にして素晴らしい人の輪を作ることが上手であったこと、才能のある人を見抜きとことんサポートしたこと、先輩を大切にすること、などきりが無いほどであります。おそらく、関先生ほど心の広い小児科医は空前絶後であり、私は人生の中で遭遇することが出来た僥倖に深く感謝しています。
 
4.エピローグ
 2007年7月にようやく刊行された新生児医療連絡会創立20周年記念誌をパラパラめくっていると、北島博之先生が無給の大学院時代にバイトしたのが、阪大細菌学研究室の先輩の関保平先生の病院であったと書いているのを目にして、早速彼に電話をした。関小児科はどうなっているのかを訊ねると、関保平先生は既に亡くなられているが、小児外科医となった息子さん(関保二先生)が跡を継がれていることと、奥様が御健在である事などを教えてくれた。新生児医療の歴史を語る中でポッカリと抜けている関保平先生の果たされた軌跡を、何かの形で記録に残したいという思いと、私達の会の発足に過大なエールを送っていただいたことにお礼を伝えたいという思いから、北島先生を誘って関保平先生の墓参に行くことにした。突然の連絡にも関わらず、奥様と関保二先生がご同伴してくださり、ほぼ四半世紀後に関保平先生のご恩のお礼を述べることが出来た。(写真 4)
 その後、奥様と現院長のお招きで国立岡山病院の青山興司院長と北島先生を交えて関保平先生の思い出を語る会食の機会があり、ますます関保平先生の新生児医療に捧げた情熱に感じ入り、何としても記録に残したいとの想いを強くした。その時にメモした会話の内容に加えて、お名前の挙がった宮坂先生や大原先生などにお話を伺い、その一部ながら「新生児に生きた先達:関保平先生」の姿を描いた。多くの方に、今日の日本の新生児医療があるのは関先生のような方が黙々と支えてくれたからであることを知って欲しい、と願うものである。この小文を目にされた方々からも、更に多くの関保平先生の人となりの知らせをいただければ望外の喜びである。

 

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2 山内逸郎「反骨のロマンチスト」 

このシリーズの2番目は、真打中の真打と自他共に認められている山内郎先生(国立岡山病院名誉院長)である。彼は多くの歴史に残る先駆的な新生児医療における業績だけでなく、ロンドンやパリで世界各地で写真の展覧会を開いたような芸術的才能を併せ持ったロマンチストであった。

1 岡山を世界一の赤ちゃん王国に

 岡山大学を1947年特待生で卒業した山内は、その持ち前の才気煥発な言動から当時の小児科教授に疎まれ、1952年左遷のようにボロボロの国立岡山病院に出向させられた。反骨精神から大学が出来ないことをしようと考え、岡山の乳児死亡率が全国平均を下回っていたことを知り、新生児、特に未熟児の救命率を上げれば乳児死亡率は下げれると早速取り組んだのである。
  まず産科から保育器を借り、さらに院長車を借用して産科施設を走り回り、一年で国立岡山病院に新生児医療の拠点を築いた。2年間の米国留学から帰った翌1958年(‘61年移転)に木造の国立岡山病院の建て替えが始まり、米国での経験を生かし感染防止のための空調施設、黄疸の適切な観察が可能な太陽光に近い室内灯、新生児室らしいカラーコーデングとショウウインドー並みのガラス張りの外装など、当時としては最も進んだ未熟児室を創ったのである。その斬新な発想は「機能的に合理化された未熟児施設の設計」と題して医学誌「病院」に掲載された。折りしも1961年に移転した翌年に岡山国体があり、昭和天皇の御訪問を受ける幸運に恵まれ、岡山には未熟児センターと天文台の二つの日本一があるとマスコミに書かれたのである。
  1968年には新生児死亡率が全国一になり、九年後の1977年には乳児死亡率と周産期死亡率を加えた母子医療三部門で日本一の王座をかち得た。その三冠王は三年連続し、正に「赤ちゃん王国・岡山」といわれ全国に山内と国立岡山の名を知らしめたのである。 
 その影には、小児科医として看護婦・保健婦などの育児指導や講演に奔走して子育てのための愛育委員会を岡山各地に立ち上げ、国立岡山病院を核としたパラメジカルの小児医療協力ネットワークを構築するという、山内の医療に対する深い思想があったことは特筆されよう。その地域住民からの理解と支援が起爆力となって1975年に全国的始めての国立病院を利用した小児医療センターが岡山の地に誕生したが、その中心が新生児医療であった。小児科の中で新生児医療がまだ継子扱いされていた時代であり、大学を見返してやる、という山内の思いは、新生児医療を切り口に見事に実を結んだのである。
 1970年代のまだ超未熟児の医療は漸くその緒についたばかりの時代に、国立親山のNICUは単に全国一であったばかりでなく、世界的にもトップレベルであった。まだ超未熟児の信頼すべきデータが出そろっていない時であり、噂を聞いた米国小児科学会誌のchief editorであったJerry Lucey 教授が見学に訪れ、山内の言っていることは事実である、と喧伝してくれたことから、二人はJerry・Yamiと呼び合う親友となった。山内はその晩年、Luceyが中心となっているVermont-Oxford data baseが、極小未熟児を対象とした世界規模の臨床成績の比較を行うところから、漸く自分たちの努力が世に出る機会が来たことに胸が震える思いである、と、Neonatal Careに彼の遺稿となる特別寄稿をしている。
 学問的に未熟児の成育成績が世界一となった要因を挙げてみれば、
1)non-invasive:愛情と優しさ、2)感染防止:未熟児室を成熟病児と分け、母親でも入れない完全保護隔離、3)水分制限(ドライサイドの管理)、4)母乳保育、等が挙げられるが、山内の新生児医療への貢献について述べてみよう。   

2 赤ちゃんのためのやさしい医療:非侵襲的医療の創意工夫の数々

 山内は1955−57年(2年間)ニューヨーク州立大にフルブライト奨学金で留学したが、その研究目的は新生児には微量測定が必要であり、その測定法を学ぶためであった。山内は赤ちゃんに出来るだけ侵襲を加えないで高度の医療を提供するための様々な工夫・発明をしている。その源は、赤ちゃんに対するやさしさの心であり、さらに非侵襲的な方法が結果とし医学的に良い結果をもたらすという学者としての信念があった。
 山内は、学生時代から興味を持って取り組んでいたポーラログラフの研究を行う、という明確な目的を持って、ニュヨーク州立大学生理学のDHミューラー教授(ノーベル賞を受賞したJ ヘイロフスキの弟子)の下に行ったのである。後に述べるが、このポーラログラフの研究が数奇な巡り会わせで、山内の世界的な仕事となる経皮的動脈酸素分圧測定に繋がったのである。
  それ以外に山内が創作した非侵襲的新生児管理法の中で、世界的な貢献をしているものに経皮的ビリルビン測定器の開発がある。十数年の試行錯誤の後、1979年ミノルタがその製品化に成功し、1980年のPediatricsの巻頭論文としてTranscutaneous  Bilirubinometry:Preliminary Studies of Noninvasive Transcutaneous Bilirubin Meter in the Okayama National Hospitalの論文が掲載された。光線療法と並んで新生児黄疸管理において歴史的な貢献をしたこの経皮的ビリルビン測定は、山内の生理学的知識のみならず物理工学にも強い彼の知識の幅の広さを物語るものであるが、それ以上に「如何に赤ちゃんに痛みや侵襲を加えないで良い医療が可能か」という、山内のヒューマニズムの結晶と評価されよう。
 山内がこれまでの間欠的にネラトンカテーテルで行っていた経鼻的胃内栄養注入法から、極細ビニール管を用いた持続的栄養法に代えるアイデアも、医療者が便利というのではなく、赤ちゃんにやさしい方法を模索した結果であり、何とこの栄養法は山内が世界で最初に行った一人であった。
 これらのことを思うにつけ、アメリカの侵襲的新生児医療にドップリ浸かってきて筆者が、大人のバイタルサインが体温・呼吸・心拍・血圧であるのに新生児では血圧モニターが抜けているのはおかしいと、呼吸管理例には動脈ラインを取ることがルチーンであると学会で述べた時に、山内はそれがどのくらい赤ちゃんに侵襲的であるかを考えなさい、と諭され、若気の至りで議論したことを思い出し赤面するのである。正に山内の言葉が親父の説教のように、年齢と経験を重ねるにつれ身に沁みてくる。
 山内が新生児医療に対峙して半世紀後、ようやく世界はデベロプメンタルケアと呼ばれる「赤ちゃんにやさしい医療」の重要性に気付いたのである。改めて私たちは山内の先見の明に脱帽するのである。   

3 新生児経皮的動脈酸素分圧(TcPo2)測定を巡るエピソード

 前述したごとく、微量測定の目的からMuller教授下でポーラログラフ
ィーの研究をしていた山内は、たまたま目にしたヨーロッパ周産期学会の抄録(Huch R, Huch A, Lubbers DW: Transcutaneous measurement of blood P02 method and application in perinatal medicine. J Perinat Med 1:183,’73)に、Huch教授夫妻の経皮的に動脈酸素分圧を測定する研究発表を目にして、非侵襲的な新生児モニターに応用できる可能性を読み取った。山内は常人離れした行動力で地球の裏側のドイツに飛び、全く見ず知らずのHuchに直交渉でその機械の使用を依頼したのである。
 当時Huch教授はマールブルグ大學の産婦人科医で、胎児モニターの方法としてTcPo2測定法を研究していたので、どこの馬の骨ともわからない山内が、新生児のTcPo2測定に彼の方法を応用してみたい、と申し出たことを受けたのは、まさに奇跡的であった。それは、山内がポーラログラフの専門的な知識を持っていただけでなく、側にあった研究論文をパラパラと開き、こことここに出ているYamanouchiとは私のことです、と言ってHuchを驚かせたのである。たぶん胎児への応用で行き詰っていたのかもしれないが、何とHuchは2台あったプロトタイプのTcPo2測定装置の一台を山内に貸し与えたのである。
 山内の直感はどうり、42.5度で加温した皮膚から測定するTcPo2の値は、新生児の皮膚の特性故のさまざまな要素が相殺し合って、動脈血酸素分圧(Pao2)値と奇跡的と言える程高い相関を示したのである。
 最初山内は大切な機械を誰にも触らせず、一人でTcPo2を測定しPao2値として用いていた。当時未熟児室専任で勤務していた森茂(現モモタロウクリニック)は、山内先生は奥の部屋にこもって食事は食堂からラーメンを取り寄せrespiratorのsettingを変えながら楽しそうに一日中TcPo2測定を繰り返していた、と言っている。
 やがて山内は、吸引や体位変換などでもTcPo2は大きく変化することを観測し、これまでの点のレベルで測定していたPao2によるモニターは全く意味が無いことを示し、TcPo2の連続モニターが新生児呼吸管理に不可欠であることを証明した。やがて自分が開発した機器の真の重要性を知ったHuchから、山内は米国の親しい友人であったLucey等に、TcPo2連続モニターの重要性をアメリカに喧伝することを頼まれた。また、2台のTcPo2測定装置でpre-dutalとpost-ductalの血液酸素分圧の同時連続測定のよる動脈管閉鎖の研究の講演依頼がオックスフォードのDowsからなされたことも、山内の自慢話の一つであった。
  TcPo2の測定機器はHuch等の発明であるが、それが新生児医療に極めて重要な酸素モニターであることを検証し普及させた功績は山内なのである。彼が基礎医学と臨床の両方にいかに卓越した知識を持っていたかが窺えるであろう。

  
4 母乳の神さま

 1968年、時の日下院長(内科)が、当時すでに精力的に病的新生児・未熟児医療に取り組んでいた山内の小児科に、院内正常新生児の管理を移行することが決めたことをきっかけに、まずは最初に成熟児を母乳栄養とすることが行われた。山内は米国留学中に最先端の新生児医療を見聞し、人乳銀行が行われていたことが印象に残った、とを述べていた。母乳を家庭から新生児室の母乳バンクに持ってくるシステムを作ることに関し、冷蔵庫に冷凍室が付いたことと、山内らが無菌のみならず有害物質が含まれない2重構造となっている丈夫な母乳バックを業者(カネソン)と開発したことが成功の要因と考えられる。その母乳バックは好評で海外にも広く輸出されたという。
 1972年からは免疫学的利点を考え未熟児にも母乳栄養を主とし、翌年には未熟児が全母乳となったところ、壊死性腸炎のみならず感染全体が少なくなった。1974年の第19回研究会で「未熟児の母乳栄養のテーマで、五十嵐医師がその結果を発表し話題を呼んだ。当時米国から帰ったばかりの筆者にとっては、未熟児に医学的観点から母乳を試みる医療が新鮮であり、いくつかの質問をしたことを覚えているが、その時の知識が女子医大で超低出生体重児は母乳で養育するというルチーンにつながる原点となった。
 山内が小児科臨床に載せた「母乳栄養」の論文は産科側から大反響があり、その別冊が500部以上もでたことから、山内は成熟児の母乳普及のカギが産婦人科であると直感し産婦人科医師や助産婦をターゲットにした日本母乳の会を立ち上げた。その教祖的存在として我が国に母乳育児を普及させる上で大きな貢献をした成功の背景には、山内の深い母乳に関する学問的知識に加え、ベテランの助産婦が母親の母乳指導をするのに陪席して自らその実際を学ぶという彼の実地臨床を重んじる姿勢があった。
 1991年国立岡山はWHOから我国最初のBaby Friendly Hospital(BHF)に指定され、さらに山内の後継者たちがBHFの輪を全国規模に広げ現在に至っている。その戦略の一つが、WHO「母乳育児成功の為の10カ条」であるが、それをさらに実地向けにしたのが、いわゆる「山内の3.5カ条」であった。

5.山内逸郎の人となり

 山内は生理学や病理学に精通した学者であり研究者であり、その知識を生かし小さな子供の負担をかけない医療技術を開発した発明家(カットダウンのこぶつきカテーテル・2フレンチの持続経鼻栄養・針の短い翼状針・骨髄針・経皮的黄疸測定器など)であり、そして何より子供を愛する卓越した臨床医であった。山内は病院の直ぐ側に住んでおり、必要であれば朝早くから夜中でも病院で過ごす患者である子供第一の人生であった。それを象徴する事実は、大晦日の除夜の鐘は新生児室で聞くことを常としていたことであろう。
 山内の向学心とあらゆる分野に見せた好奇心は並外れており、内科医の西崎良知(現名誉院長殿)は、山内が自分の読んでいた内科専門書を見て興味を示して貸してくれと言い、瞬く間にその専門の内容を自家薬籠中のものとした驚きを語っている。山内は英語とドイツ語(逸郎の名前は父親がドイツ留学時に生まれたことに由来するという)を解し、大変な読書家で岡山の丸善の一番のお得意であった。その事実は、彼の弟子の山内芳忠(現国立岡山新生児部長)が同じ漢字の姓であるところから、山内への本屋の請求書が間違って彼に届いた時にその額の大きさに驚いたとエピソードでも明らかであろう。
 更に山内は当時の全岩波文庫を読破したという博識を生かした,名文家であり論説の名手であり、またカメラやクラシック音楽を愛するという知と情を兼ね備えた人であった。後に山内の親友となったNHKの有名directorの吉田直也が、初めて岡山に山内を訪ねた時、彼は山内を写真家か文筆業の職業と思っており、どうして国立病院にいるのだろうと思ったという。吉田との関係から、NHKのドラマ「銀河鉄道の夜」やお正月特別番組「太郎の国の物語」の中に、山内の位相差顕微鏡写真や液晶の写真が使用されている。その山内の芸術写真はプロの域に達しており、私の知る限りでも、New York,, London, Paris, Tokyoと幾つもの大都市で個展を開いている。
 山内の研究者としての姿をほうふつさせる逸話は、まだ岡山大理学部化学科学生であった山口氏を研究仲間にリクルートし、古い国立病院の病理検査室に研究室を作り二人でビリルビンのフリー部分や母乳のリン脂質の微量分析等の研究をしていた頃、臨床が終わった夜中に山内が如何にもこれからは自分の楽しい研究の時間だと言わんばかりに、シューベルトを歌いながらパタパタと廊下を歩いてくる姿の描写であった。山内の研究者としてのスタイルは、追試のような研究のための研究を嫌って、人の真似はしない独創的なものを求めるものであった。そのひとつに、日本にまだクロマトグラフィーのような微量検査・微量分析法が無い時代に、自ら動物園を訪ねて集めた色々な動物の乳汁の成分や浸透圧を測定したことである。世界で誰もやっていないと自慢していたが、それが後の母乳研究の基礎となったのである。
 既に述べた如く山内は野にあって孤高を保つ人であった。それは父様が数学者という生まれつきの才能を持っていたが、軍事教練が嫌いで教官に嫌われ,六高に行くはずが松江高校に、さらに岡山大学では優秀過ぎて教授に疎まれ国立病院へと、その能力に見合った通常のルートを離れた環境に身をおかれたことが、持ち前の反骨精神をさらに刺激したからであろう。
大学に身を置くことが無くとも、医療・医学の面で他を抜きんでていた山内の下には、彼の山内イズムともいわれる人間性から多くの精鋭が全国から集まり、我が国の新生児医療のメッカとなったのである。   
謝辞:以下の各先生にお話を伺った。心から感謝を述べると共に、その意の僅かしか表現できなかったことをお詫びし、日を改めて山内逸郎先生の来し方をまとめることをお約束する。
五十嵐郁子(元国立岡山新生児部長)、西崎良知(国立岡山名誉院長)、山口整毅、山内芳忠(現国立岡山新生児部長)、青山 、森茂(ももたろうクリニック)     
 
 
山内逸郎先生略歴  

大正12年5月6日 岡山市にて出生  
昭和16年3月 第一岡山中学校卒業  
昭和18年9月 松江高等学校理科甲類卒業  
昭和22年9月 岡山医科大学卒業  
昭和22年10月 岡山医科大学修練副手  
昭和27年9月 国立岡山病院小児科医長  
昭和30年 ニューヨーク州立大学生理学教室へ留学(フルブライト交換研究員)  
昭和57年10月 国立岡山病院長  
平成元年3月 国立岡山病院定年退官  
平成元年3月 岡山県文化賞受賞  
平成元年4月 国立岡山病院名誉院長  
平成元年8月 岡山県三木記念賞受賞(社会部門)  
平成2年11月 日本医師会最高優功賞受賞  
平成3年7月 ラ・レーチェ・リーグ国際賞受賞  
平成4年1月 山陽新聞賞(社会功労)受賞  
平成4年5月 日本小児科学会小児保健賞受賞  
平成5年6月 逝去(享年70歳)

 

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3 小川次郎「清貧に生きたあたたかき心の師」

小川次郎 略歴

1912年(大正元年)生まれ
1936年:京都帝国大学医学部卒業
1938年:倉敷中央病院小児科
1941年:宇部同仁病院小児科医長
1942年:岐阜市民病院小児科部長
1949年:名古屋市立大学小児科教授
1976年:名古屋市立大学定年退職・名誉教授
1977年:聖隷浜松病院未熟児センター所長
1985年:勳三等旭日中受章を受賞
1996年:逝去(享年 83歳)

 

はじめに

小川次郎先生(以下、次郎先生と略称に他の方々は敬称略とする)は、単に我が国の新生児の世界に学者として医療人として歴史的足跡を残されたばかりでなく、その人間性から後に続く多くの若者の心に、医師としてまた研究者として生きる教えを刻み込んでくださった。本稿の最初に、次郎先生が「清貧に生きたあたたかき心の師」であったことを彷彿させる、筆者の忘れがたいエピソードを述べさせていただく。
 (エピソード;1)1980年11月、私は第25回未熟児研究会終了を会場の袖で息を殺して待っていた。忙しいNICUを運営しながら1年余り骨身を削ってほとんど一人で準備してきた理由はただ一つ、みんなに参加して良かったと思ってもらいたいという思いだけであった。会長の坂上正道北里教授が閉会の辞を述べると、パラパラと聞こえる拍手の中を会員が三々五々会場を後にするのをボンヤリ眺めながら、もう少しと自分に言い聞かせながら、何人かの顔見知りに反射的に挨拶していた。そこに次郎先生が歩み寄ってきて、「仁志田君、良い会だったね、御苦労さん。」とあの温かい手で握手してくれた時、大げさでなく私は次郎先生の胸に泣きつくところであった。さりげない言葉のようであったが、それはこれまでの私の苦労を心から癒してくれるものであった。忘れることの出来ない瞬間であり、それが次郎先生の次郎先生たる由縁なのである。
(エピソード:2) 次郎先生を心から尊敬していた愛弟子の犬飼から、「そろそろ行かないと会えなくなりますよ。」と最晩年の次郎先生にお目にかかりに行こうと誘う電話がきた。私の人生の中でも最も忙しい頃であったが、浜松の駅で待ち合わせ先生宅に伺った。次郎先生は医学部名誉教授であった上に日本一の新生児センターの長であったキャリアにしては不釣り合いなほど質素なマンションの一室に、心臓がお悪いのでソファ―に半座位でうつらうつらされておられた。犬飼が耳元で「先生、お見舞いに来ました。」と声をかけると目を覚まされ、よく来てくれたと喜んでくださった。昔話の中で胎児発育曲線が話題になった時、ふと思い出されて「Lubuchennco(米国で最初の胎児発育曲線を作った女医)はまだ元気かね」とおっしゃられた。その記憶力に驚いていると、「近頃の産科は面白いことをやっているね。」と、なんと周産期ME懇話会の抄録の話を始められたのである。それは学問の中に身を置いた次郎先生の一生を物語る忘れ難いエピソードなのである。

次郎先生の新生児・未熟児医療への足跡

 次郎先生は1936年に京都大学を卒業後、同小児科医局から1937年に母子医療が中心であった聖バルナバ病院に短い期間であったが派遣された。クリスチャンである次郎先生にとって感じるものがあったのであろう、新しい命が生まれる周産期の医療との運命的な出会いをしたと述べられている。倉敷中央病院で学位論文となるポーラログラフィーによる微量測定法の研究をされたことも、より小さな未熟児を対象とする医療への思いがあったのであろう。
 召集を受けて二等兵から始まる戦争の荒波を挟んで、約10年勤務した岐阜市民病院時代に、保健所と共に未熟児医療の重要性を統計学的検討した。その結果を1950年の日本小児科学会に発表したが、「未熟児」の用語が学会で使用されたのは、その時が始めてであった。その自分の目指す未熟児医療の発表に対し、先輩の小児科医から「自然淘汰という言葉を知っているか?」と含みのある言い方をされ、大きなショックを受けた。しかし学問的な検討も救う努力もしていないのにそんなことが言えるかと思い、逆にそれが未熟児研究の出発点になった、と述べられている。
 岐阜市民病院小児科入局1年目から次郎先生に師事し、大学に移る時にも同行した後藤玄夫(現城北病院名誉院長)は、「次郎先生は新生児と先天異常が小児科の重要なテーマになると確信していた。なぜだろう?これまでの伝染病と栄養障害の闘いは改善すると考えたからであろうか。それにしてもあの時代に未熟児研究の未来を予見されていたことは大きな驚きである。」と述べている。しかし筆者は、次郎先生はクリスチャンとして「同じ神の子である未熟児たちを助けなければ」の思いがあったのであろうと考えている。
 1951年市立女子医療専門学校から昇格したばかりの名古屋市立医科大学に初代の小児科教授として赴任し、女医が多い中で新しい医局を創り上げた。大学病院といっても市民病院の名前が変わっただけ、という戦後のまだ恵まれない時代であったが、次郎先生の新生児医療の夢は、1953年に柳行李に湯たんぽを入れた名市大学式簡易保育器のレベルながら小児病棟内に未熟児室を造り、さらに1959年にはアームストロング型の保育器を備えた未熟児新生児病棟を独立させた。1960年に次郎先生が南紀白浜の温泉で第3回未熟児研究会を主催したが、山内・馬場等の我が国の新生児医療の草分けの仲間とドテラ会と呼ばれる雰囲気で、どうしたら未熟児を助けることができるかを、保温や哺乳法などを話題に侃侃諤々話し合った時代であった。1966年に小児科病棟内に出来た25床の未熟児センター(NICU)は、空調や医療配管を備え初歩的ながら人工呼吸も可能な、当時として最新の施設であり、全国的から新生児医療を志す入局者が増え、名実ともに我が国の新生児医療のメッカとなった。
 次郎先生は自分の殻に閉じこもらないで、良いものを学ぶという心の広さがあった。まだ黎明期の1955年には、たまたま来日したイギリスのマリー・クロス教授から投与酸素の濃度測定やアルカリ療法などの細かい指導を受け、またNICUが確立したころはイエール大学のクック教授を客員教授に迎えている。
 研究面においても次郎先生は、教授自ら点滴をしなければならない創成期から、大学の名に恥じないものをという気概をもたれていた。初期のまだNorthwayのBPDの概念が発表される前の時代に、ねずみの未熟児を高酸素下で保育し肺硝子膜形成を観察した研究は、コーネル大学のレビン教授に認められ、その後の海外の新生児学者との交流のきっかけとなった。1967年名古屋の日本医学総会と連動して開かれた日本小児科学会の会長に選ばれた次郎先生は、その特別講演「新生児肝の生後適応とその障害:特に門脈・肝循環を背景として」に向けて柴田・杉浦等を中心に教室を挙げて大型動物(羊)を用いた実験を行った。(図2:動物実験) このChronic preparationと呼ばれる周産期の動物実験手法を用いた研究は、我国最初ではないかと思われる。残念ながら当時としては余りに大きな教室への負担であったことから、疲労困憊する弟子を思う次郎先生の判断で、ある程度成果が上がった段階で中座したが、この研究は次郎先生が敬愛していたスエーデンのLind教授やイギリスのDows教授に高い評価を受け、我が国の新生児研究のレベルの高さを世界に示した歴史の一ページとして記録されている。
 1976年大学退官後、次郎先生は柴田隆等を引き連れて聖隷浜松病院に我が国最初の本格的なNICUを開設した。それは「未熟児・新生児医療は単に新生児期を助けることだけが目的ではない。未熟児の生存成績が良くなると障害児が問題となるが、子ども達を後遺症で苦しめないためには、新生児医療の地域化さらに周産期への広がりが必要であり、それが私の夢であった。」と述べている如く、次郎先生の「共に生きる社会」というクリスチャンとしての心が,聖隷病院の伊藤隆二理事長の「この子らは世の光なり」の思想と共鳴した結果であった。
 このように純粋に医療と医学の狭間に置かれていた新生児の幸せを願っていた次郎先生は、子供の精神発達に興味を持っていた市大精神科の岸本教授と二人で小児発達研究施設の開設を大学に働きかけたが、教授会の同意を得るまでに至らなかった。そこで、大都市の中で「子ども病院」が無いのは名古屋だけであるところから、「胎児から学童までの発達の基礎的研究」を行う研究施設と病院を備えた愛知県コロニーの構想を当時の桑原愛知県知事に働きかけ賛同を得たのである。春日井に大きなスペースが確保され、建設準備員会が立ち上がり、教室員の杉浦をアメリカのモンキーセンターに見学に行かせたり、コロンビア大学のスタンリー・ジェームス教授に構想を話して指導をお願いしたり、さらに医局長の清水などは街頭募金を行なうなど、現実味を帯びた方向に展開していた。ところが設立委員会で練り上げられたプランは次々と反古にされ、門外漢の他大学教授が所長となり、次郎先生が推薦した世界的なサーファクタントの研究をしていた藤原哲郎(当時秋田大助教授)や名市大からの杉浦・柴田教室員を不採用とするなど、行政・学閥との確執から次郎先生の学者・医療者としての夢はつぶされてしまったのである。時が過ぎて、その出来事を淡々と話される次郎先生の温厚な顔には、当時の全国の大学の中では、新生児医療における設備・人員とも日本のトップであったのに、という悔しい思いが滲み出ていた。それは次郎先生のみならず、日本の新生児医療にとっても慙愧に堪えない歴史の一ページであった。
 
学問への厳しさと弟子への愛情の指導者

次郎先生の口癖は「臨床に進む人はグッドドクターになれ。」であったが、それに続く「単に優秀な医師が良い医者とは限らない。また研究者となるも研究の片輪になるな。」の言葉から、グッドドクターとは研究者であると同時に人間として優れた臨床医であることを弟子たちに伝えていたのであろう。
 すでに述べたが、1967年の日本小児科学会の会長講演に向けて教室を挙げて行われた新生児の生後適応生理における門脈・肝循環の果たす役割の研究は、当時としては画期的な大型動物を用いた実験であると同時に、出生後の適応生理としては動脈管の役割が広く知られていた中で、静脈管(ductus venousus)に注目した次郎先生の独創的なテーマであった。次郎先生とその教室が一番脂の乗り切った時代であったが、NICUが立ち上がり臨床の仕事量も増大した時であり、極めて貴重な研究成果が上がる中であったが次郎先生は教室員のためを思って、その歴史的な研究の中断を決意したのである。後藤玄夫(現城北病院名誉院長)は、次郎先生は次々と新しいアイデアが湧き出て私たちを鼓舞してくれるが、現場の声を良く聞いてくれて「そうか、大変か」と無理強いをすることはなかったと言っている。教授に「出来ません」といえる時代ではなかったが、「次郎先生が威張ったり怒鳴ったりを聞いたことが無く、いつも教室員第一に考えてくれる数少ない教授であった。」と後藤はしみじみ語っていた。しかしその苦労が、大西鐘寿・小川雄之助・柴田隆という3教授を門下から輩出し、また50名の学位授与者に研究指導を行うことを可能にした要因となったことは特筆されなければならない。また後藤の感染症早期診断(APRスコア)の仕事の欧州誌への掲載を知り合いの教授にお願いしたり、大西の仕事を世に出すためにイスラエルなどの学会に連れて行ったり(その時の大西の発表が極めて学問的に高度で参加者は大西を生化学者と思っていたと次郎先生が自慢げに話していた。)、英語の堪能な小川(雄之助)を米国に留学させたり、臨床肌の柴田に活躍の場を与えるため聖隷浜松病院の最新のNICU設立を委ねたり、黒柳に愛知県コロニーで地域医療の夢を託したり、とそれぞれの門下生たちの特性を考慮して、その才能を伸ばしたことも、次郎先生ならではの弟子思いの表れであった。 
 上記のように次郎先生の力で研究面でも医療面でも名市大が我が国新生児医療のトップとなったことより、名市大小児科在籍中の25年間に全国から200名を超える志ある若者が小児科に入局してきたが、最長老の後藤が岐阜市民病院から次郎先生に師事して移ったことを始めとして、その多くは次郎先生の個人的な魅力に惹かれてその門下生となっている。特に名市大の卒業生は、次郎先生の講義を聞いたことやお会いしてお話したことが小児科医になる切っ掛けであったと語っている。
「赤ちゃんが何かを訴えている。」が小川次郎門下の合言葉であった。犬飼はその言葉の信奉者の一人であり、まだモニターが不十分な頃、重症の未熟児の保育器のそばに椅子を持ってきて、何を訴えているか観察していたという。次郎先生のNICUの回診風景も、一方的な大名行列の言葉に象徴される権威主義的なものではなく、医局員と「あの文献にはこう書いてあったが、君はどう思うかね」とみんなとのディスカッションを楽しんでおられた、と鬼頭秀行は述べている。
 外来で指導を受けた研修医が、次郎先生がNICUを卒業した超未熟児を診て「見てごらん、こんなに良くなったよ」とわが子のように満面の笑みを浮かべておられたのを見て、次郎先生は本当に赤ちゃんが好きでした、と語っている。また、「あんなに偉い教授なのにお部屋で学校の生徒のように外人から英語を習われている姿はほほえましいだけでなく清々しいものを感じました。」、や「新しいJPediatricsやPediatricsが来たら今度こそ次郎先生より早く読んで先生に褒められたい。」などの門下生の次郎先生を語る断片的なコメントからも、その人柄が彷彿されるであろう。そのみんなに愛される人間的な魅力の根源は、優れた学者としてやクリスチャンとしてだけでは説明できない、次郎先生特有の相手への思いやりに溢れた心のあたたかさであると私は思っている。

日本の新生児の素晴らしさを世界に訴えたい

 次郎先生はわが国の新生児医療の黎明期には、進んでいる西欧の知識を積極的に取り入れる努力を為されていた。イギリスのマリー・クロスやアメリカのレビン等外国からたくさんの新生児の学者が名市大を訪問して講演をする機会をつくり、NICUが本格的となった頃にはエール大学のクック教授を客員教授に迎えている。
次郎先生はさらに自ら海外の学会に参加して新しい知識を学びそれを名市大の弟子たちに持ち帰っていた。その最初の50日に及ぶ大旅行は、1965年に米国の学会に一人で出席した時であった。奥様が貯金をはたいてくれたと述べられているように、1ドルが360円(闇ドルは400円であった!)であったのみならず500ドルしか持ちだせない時代であり、海外に行くこと自体が経済的にも一大決心が必要であった。まさに明治維新の志士が、海外に視察に出かけた時のような熱い情熱を感じる。学会では未熟児マウスにおける酸素の肺障害の病理所見(hyaline membrane)を発表されたが、日本人の参加者は次郎先生一人だけであり、日本で新生児の研究をしていることだけでも珍しがられたという。英語力が不十分であったというが研究内容は高い評価を受け、その旅で多くの米国の一流の新生児学者に会い、その後の日本とアメリカの新生児学者間の交流の基礎を築かれた。ハーバートではクレメント・スミスに研究を見せてdiscussionをし、またCPCでテストのようにレントゲンを見せられて「横隔膜ヘルニアだと思う」と正解を答えたことから、次郎先生は世界のトップの連中に優れた新生児仲間と認められたのである。ハーバートの誇り高いアングロサクソンの代表のようなクレメント自身に、食事に誘われたりスケジュールを作ってもらった日本人は何人いることであろうか。
1971年のウイーン国際小児学会では後藤・大西がそれぞれAPRスコアと黄疸の研究成果を発表したが、次郎先生はそれらの日本から発信された優れた仕事が欧文誌に掲載されるための努力を惜しまなかった。それは、次郎先生のライフワークの一つともいえる静脈管の仕事が、カロリンスカのリンド教授やオックスフォード大学のドース教授に高い評価を受けたのに、それらを英文論文にする機会を逸したことを悔やむ思いからであった。
 1975年と76年の2回に渡る日本の新生児医師のグループ引き連れた北米新生児医療施設訪問の旅は、次郎先生のそれまで培ってきた海外の錚々たる学者達との繋がりと小川(雄之助)の語学力が相まって、北米の最新の医療を学びまた日本の新生児医療を喧伝するという意味で、我が国の新生児医療の歴史の一ページとして雑誌に報告が記載されている。それに参加した若手の医師たちのほとんどが、その後の日本の中心的NICUのリーダーとなって活躍した。(米国・カナダの新生児医療調査報告」 小児科臨床28巻11号1412-1430;1975年)
次郎先生は、何度か訪れたヨーロッパの学会の名前が欧州周産期学会である如く、産婦人科と小児科が一緒に仕事をしていることを見知っているので、「うらやましいね、赤ちゃんのためにそうしなければ」と良く私たちに話されていた。その周産期の必要性の考えは聖隷浜松に移られてから、総合周産期センターに発展する素地を作るのに生かされている。
 次郎先生は、語学の壁があるとしても優れた日本の医療のレベルが欧米に正当に理解されていないことに何時もある苛立ちを感じられていた。1980年後半には日本の乳児・新生児死亡率が世界のトップレベルになっていたのに、欧米ではそれが適正に評価されていないのは、日本の死産や新生児死亡の統計の取り方がいい加減なのではないかという誤解である、と憤慨されていた。それは、日本の新生児医療の黎明期に苦労して、ここまで立ち上げてきた新生児に命を掛けてきた仲間たちの、血の滲むような苦労を知っているからであり、またここまでになった日本の新生児医療・医学に誇りを持っているからである。私たち後に続く者は、日本の医療成績を単に他と比べる自慢話のレベルでなく、次郎先生の様な先人の思いとして、世界に発信して行かなければならない。

Noble Oblige: 気高くも清貧に生きた師

 次郎先生を語る最後に、歌舞伎役者のようなあの高貴なお顔立ちと悠々迫らぬ立ち振舞いを見知っている多くの人には、まさかと思われるであろうが、清貧の学者として文字道理noble oblige(貴族としての道徳上の義務)を貫ぬかれた一面を紹介し、少なくとも社会からある敬意を受けている医療者が取るべき態度を次郎先生の生き様から学びとっていただきたい。我が身を振り返っても、子ども二人の家族を抱え貯金も住む家どころか箸・茶碗さえなかったアメリカ帰りの私が、身に付けた学問と経験という誇りを唯一の拠り所として日本の新生児医療界に飛び込んで行った時を次郎先生の姿にオーバーラップさせ、怠惰に陥って易きを求める気持ちになる毎に心を奮い立たせてきた。その意味で次郎先生は、私にとっては学問とは別な意味で、生きて行く道を照らしてくれる光の様な存在であった。
 次郎先生から個人的な窮状など一言も聞いたことが無いが、奥様の書かれたものから窺い知ると、早くに結婚されたことやバセドウ病の手術をしたことなどから、医者になってからもけっして経済的に豊かとはいえない生活であったが、物欲に縁遠い学者の家に生まれ育ったので苦にはならなかった、と述べておられる。因みに次郎先生のご尊父は台湾帝国大学名誉教授で台湾原住民諸言語の研究で学士院恩賜賞を受賞された著名な言語学者であり、次郎先生は9人兄弟姉妹の第6子として台湾で出生されている。
 名古屋に移ると、大学教授としての初任給は岐阜市民病院より大幅にダウンしこれで家族4人食べていけるのかと思う安月給で、2DK風呂なしの小さなアパートに住み、銭湯の往復が寒い季節には病院で風呂に入ってから帰る生活であったという。今の大学教授が、同年の会社の役員に比べると給与が低すぎると御託を並べながら銀座のバーなどで飲んでいるのを見れば、次郎先生が清貧の中に孤高を保っていたという表現は決して誇張では無い。
 次郎先生が、「どうして家を新築しないのですか」という新聞記者の愚問に、子供たちの教育盛りの時は学会に行く金が無く知人に頭を下げて借りにったこともあったが、学者として今一番しなければならないことをしてきたら家を買うための貯金など出来るわけがなかった、と答えておられる。また奥様は、落語家のナメクジ長屋ではないが狭くて暗いナメクジの出る家で、岐阜市立病院の退職金を食いつぶしながら家庭教師としてサポートしたり、娘の定期代が足りなく知人に借りて急場をしのぐような生活をしてきたのは、未熟児保育の道一筋に歩んできた学者としての夫と共に歩んできたから我慢できた、とおっしゃられている。この夫にしてこの妻あり、の感である。
 日本で開かれたある国際学会の懇親会の後、マリー・アベリー等の数人の錚々たるゲストの新生児学者を囲んでホテルのバーで懇談会となり、たまたま加わった私たち数人の若手にとっては、和やかながら密度の高い知的刺激を受ける機会でとなった。ところが会の終りに、自然発生的なものであったため会計をどうするかで日本の教授連はお互いウロウロするばかりであったが、次郎先生が「私が責任を持つから仁志田君会計を閉めて来てくれるかね。」とおっしゃられた。その後の支払いをどうされたかは不明であるが、多分次郎先生がお一人で10数人分に支払いをされたのではないかと思う。次郎先生がお風呂のないアパートにお住まいなど夢にも思っていなかった私は、教授ならそのぐらいのことをするのは当たり前と思っていたが、さり気なく爽やかに振る舞われた次郎先生のお姿にnoble obligeの言葉をオバーラップさせ、折につけ我が身を振り返るのである。
 晩年に浜松のマンションにご夫婦を訪ねた時も、医師として学者として日本のトップを極めた先生のお宅としては極めて質素であった。それでも所狭しと積み重ねられていた医学の雑誌と書物が、どの高級マンションの部屋よりも高尚な雰囲気をかもしだしていたことが忘れられない。その御自宅に、教会の仲間を呼んでコーラスの練習をされたり、教室員を会食に招待されたという。その折に、次郎先生の謦咳に触れる機会のあった若い医師たちにとって、にこやかに先生が語られる片片隻句が一生の宝として心に残ったことであろう。その情景を想像するだけでも、爽やかな風の様に生きてこられた次郎先生の姿が目に浮かぶのである。

 項を終わるに当たり後藤玄夫・柴田隆・黒柳允男・犬飼和久・鬼頭秀行の諸先生方のご協力とご助言に心から謝辞を述べさせていただきます。

 

参考資料

1 小川京子:「ともにあるいたみち」聖隷サービス有限会社、1990

2 小川次郎編 :新生児学―基礎と臨床、朝倉書店 、1978

3 柴田隆編:「小川次郎先生のご薫陶に感謝をささげる会」スライド集、2006

 

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4 馬場一雄「剃刀の鋭さに含羞の漂う孤高の指導者」

馬場一雄略歴

1920(大正9)年 8月8日 東京赤坂に出生
1942年 3月 学習院高等科理科卒業
1944年 9月 東京帝国大学医学部卒業
同年  9月  海軍軍医
1945年10月 東京大学小児科入局

1949年   社会福祉法人賛育会(病院)小児科部長

1956年   東京大学小児科講師

1959年   同   助教授

1963年   日本大学小児科教授

1977−1986年日本大学板橋病院病院長(3期連続)

1986年退任、日本大学総合医学研究所教授

1988年   日本学術会議会員

2009年   逝去(89歳)

日本未熟児新生児学会(第10回:1966、第30回:1985)・日本新生児学会
(第7回:1971、第22回:1986)・日本小児科学会・日本人類遺伝学会・先天異常学会など11の学術集会を主催

    

はじめに

 我国の近代新生児学の扉を開いたスーパースターの馬場一雄先生(以後先生と略し、他の方々の敬称を省く)は、日本で最も大きな新生児グループに君臨し多くの後継者を育てたが、これまでの山内逸郎や小川次郎がボスと呼べる親分肌であったのに比べ、一人静かに酒を飲んでいる姿が似合う近寄り難い孤高の雰囲気をまとっていた。筆者は1976年のベルリン周産期学会に参加する医師団を引率するお世話をした折に2週間ほど先生ご夫妻とご一緒し、その謦咳に触れる奇遇を得たが、若輩の筆者を慮る細やかな心配りと温かな物言いを忘れることが出来ない。
 先生は2009年8月に89歳の人生を終えられたが、その偲ぶ会で90歳を越された車椅子の藤井とし女史が万感を込めて切々と先生に語りかけられた姿が目に焼きついている。それは先生が学問に臨床に厳しい方でありながら、相手の心に思いを寄せて対応する優しさを併せ持っておられたことを物語るものであった。
筆者も何度先生から目に見えないところでその庇護を受けたことであろうか。アメリカ帰りというだけで海のものとも山のものとも分からない若造に、最初に依頼原稿を下さったのは先生であった。それに答えるべく100近くの引用文献を添えて一生懸命書いたBPDの総説論文が何人かの方の目に留まり、筆者が日本の新生児仲間の輪に入れていただく切っ掛けとなった幸運を、心から先生に感謝している。

近寄りがたい古武士の佇まいとユーモアのセンス

 先生の軍服姿の写真を見たことがあるが、奥様がそのスラリとした長身の凛々しい姿に引かれて結婚なさったという風聞もさもあらんと思う。また先生は学習院卒業なので爵位でもある高貴な家柄の出と信じられていたが、お尋ねすると、家が近くであったことと中高一貫教育であるという理由であり平民ですよ、と微笑まれていた。お父様は農林省の役人であったが先生が中学1年の時に亡くなられ、お母様に厳しく育てられた。姉と弟の3人兄弟で、弟は東大法学部一番の秀才であったが戦死し、優秀な弟が亡くなって出来の悪い自分が生き残っている、と冗談のように言われていたが、その戦争が残した心の傷が先生のシニカルな物言いと少し陰のある雰囲気に繋がっているのだろうか。
 学生時代は西田哲学に憧れたが、母子家庭であったところから哲学では食えないと教師に諭されて医学部に入学したという。先生の趣味が、白馬は馬であるか馬でないか、などと議論する論理学であるというのも、理屈(というよりは理路整然とした考え方)が好きであった学生時代の名残であろう。東大医学部を繰り上げ卒業後すぐに海軍に志願し、海軍医学校で良い教師に出会ったことや肺炎になってマレーシアに行かずに命拾いしたことなどから、1年間だけの軍医であったが死を覚悟した先生の毅然とした人生の姿が形作られた。
 先生がご自宅から病院まで車を運転して通っていた頃は同じ道を同じ時間に通るという几帳面さがあり、また端正な容姿同様先生の立ち振る舞いも上品で、言葉遣いや箸の使い方までキチンとしているので、側にいると肩が凝ってしまうのか、医局でお昼をみんなと食べる習慣であったが、数人の常連意外はみんな先生と食事を同席するのを敬遠していたという。
 しかし先生は寡黙ながら卓越したユーモアのセンスがあり、堅苦しい会議の最中にみんなをドッと笑わせるジョークを発して雰囲気を和らげるエピソードに事欠かなかった。先生のユーモアはジョークの域を超え、ご自宅を訪れた医局員に「家内を見れば私が痩せている理由が分かるでしょう」などと、捻りの効いたアイロニックなものが多く、言われた者が2ー3日たってかれ、「あっそうか!」と気付くレベルのものであった。
 そのように先生は厳しく見えるがユーモアを解する柔軟な思考過程を持ち、家庭内では和気あいあいの自由な会話が交わされ、あまり細かいことは言わない父親であったという。その例として、同じ医局の小児科医であるお嬢さんから、子どもに接する時には同じ目線にすることを指摘されてしまいましたよ、と嬉しそうに話されたことが印象深い。このように、日頃の古武士のような先生の雰囲気とは異なり、お嬢様がお嫁に行く時は涙を流すというウェットな、と言うよりは人間的な側面があり、若い時に読んだトロイを発見したシュリーマンの伝記に感銘を受け、シラーの「青春の夢に忠実であれ」の言葉を頼まれると色紙に書くことを常としていたロマンチストでもあった。小林登が、馬場先生は優しくものを見て静かに考え言葉を選んで簡潔に書かれる名文家であった、と述べているごとく、雑誌「病院」の人物評でも物静かな文学青年の面影、と描かれている。一方、数学(特に統計)が得意という頭脳明晰さは伝説的で、教室員の質問に何十年前の論文を即座に引用して答えることが珍しくなかった。
 先生が医学部に入ったのは母子家庭であり手に職を持つと言う理由であったが、小児科になった理由も、各医局を廻って外科は粗野・内科は青白い顔ばかり・小児科ではミルクが飲めたから、という自虐的なアイロニックなコメントを述べており、最初はあまり子どもはあまり好きでなかったと正直に話されている。しかし3人のお嬢様とお孫さんを授かってからは子どもが好きになったが、それは子どもと身近でコミュニケーションを取るようになって、子どもが思っていた以上に感性が豊かで、ハッとするような受け答えをすることを発見してからである。その一例に、大切な人形を壊してしまった子どもが時間を戻せば元の世界になるだろうと時計の針を戻したという逸話を挙げて、子どもの気持ちが分かるようになると子どもは面白い、子どもと居ると悪いことを忘れる、と言われた。
 先生が何故新生児医療に携わるようになったかは、小児科になった動機より明白であった。東大小児科から駒込病院に派遣され小児科医として伝染病病棟を受け持ち、たくさんの日本脳炎や赤痢などの伝染病の子どもを診た後に、1949年に賛育会病院に勤務となった。それは東大キリスト教青年会有志が慈善事業として貧しい下町に始めた賛育会妊婦乳児相談所から発展した病院であり、当時はお産が日赤病院に匹敵するほどあった。戦後間もなくであったが、賛育会病院はその中でも設備が貧しい施設の一つで、寒い日などは病院に行くと看護婦さんから、昨夜未熟児が3人亡くなりました、という報告がざらであった。何もない所であったが、何とかそのような赤ちゃんを救おうという気持から、手作りの保育器を作ったりするうちに未熟児医療の世界に入ったという。先生自身はクリスチャンでなかったが、貧しいながら掃除の小母ちゃんや事務の人達からも、神の前では赤ちゃんでも平等である、という気持ちが伝わってくる病院で若い時に仕事をしたことは、自分の人生に大きな影響を与えた、と先生は語っている。

厳しく学問を究める姿勢

 先生の回診は厳しいものであった。それは権威をひけらかして周りを圧するいわゆる大名行列と呼ばれる教授回診ではなかったが、教室員は先生の桁違いの博識と聡明な頭脳に恐れをなしていたというのが適切な表現であろう。回診で先生の質問に答えられないと、後で教授室に来るように、といわれ、大学で一番豊富といわれた文献棚から、これを読みなさい、と資料を渡されるのが常であった。図書館レベルの文献の山から魔法のように的確な資料を引き出す、その抜群の記憶力に多くの教室員は畏敬の念を抱いていた。
 先生は、医療は学問を背景に行われなければならないとの考えから、風聞や感想のような意見を持ち込むことを嫌った。先生に最も忌憚なく口が利ける数少ない教室員の一人であった新津直樹が、Anorexia nervosaの患者を「家庭環境が原因です」とプリゼンテーションしたところ、珍しく先生に叱られたという。それは、彼の個人的な推測の意見は学問的考察の最後に述べるべきものだ、という先生の教えであった。
 先生自身が驚くほど多くの文献に目を通していただけでなく、先生からの医局員に対する最初のオリエンテーションは文献の調べ方であった。それは医療者が患者のために良い医療を行う糧が学問的知識であり、その為には先人が積み上げてきた英知にアクセスすることが重要性である、と教えるためであった。また大学人としてやがて研究の道を歩む時に、なんと多くの研究者が既に先人が試みているのに同じ失敗をしているかを、先生は数多く知っているからであった。先生が新生児医療の歴史に造詣が深く、それに関する多くの論文を書かれているのも、温故知新の重要性を日頃感じておられたからである。
 先生は、最新の医学・医療のレベルを知ることは大学人の義務であると考えていたが、同時に医学を含めた自然科学は、やがて後の時代の新しい仕事によってその輝きを失ってゆく運命にあることも冷静に受け取っていた。だから先生の退任記念の業績集を編むに当たっては、担当責任者の助教授であった井村総一に、業績集は次の世代への申し送り事項のようなものであるから、馬場一雄の個人名をそのタイトルに入れないで、「1963−86年間の小児科学教室業績」とするよう要請した。多くの教授退官記念業績集が、その退任教授の華やかな学術活動を誇るように、多くの教室員の労力と多額の金を費やしてきらびやかに作られるが、その多くが贈られても目にも留められず屑箱に直行することを、先生は苦々しく思っておられたのである。その業績集を編んだ井村総一は日大を特待生で卒業した秀才であったが、学生時代に先生の理路整然と話す講義に感銘を受け、小児科というより馬場一雄門下生となることを決めたという。私たちの回りに、学生を感動させる講義の出来る教授が何人居ることであろうか。改めて先生の学問に対する真摯な生き様を思うのである。
 先生は人まねでない独創性のある研究をすることを心がけていたが、賛育会病院で静電気量の測定から赤ちゃんの体表面積を計算する研究を行っている。体表面積は医学的基礎データとして極めて重要であると認識されていたが、新生児の測定は極めて困難であり、それまでほとんど手が付けられていなかった。何もないあの時代にアイデアだけでその研究に挑戦した独創性に、先生の研究に対する考えの真髄を見る思いがする。同様な先生の独創的研究としては、未熟児の無呼吸の治療として生理学の高木健太郎と共同研究した横隔膜刺激装置(高木健太郎:電気肺臓、臨床外科、1952年)、およびJAMAに記載され文献の記事を基に想像をたくましくして作成したという新生児蘇生機(馬場一雄:新生児仮死の機械的蘇生術について、治療、1954)などがある。近年になってからも結果的には失敗に終わったが、有袋類のオポッサムを飼育し未熟児保育のモデルとしようとしたアイデアなども、先生ならではの卓越したものであった。
 先生の多くの業績の中で、核黄疸の研究は教室を挙げての研究テーマであり新生児学の歴史に大きな足跡を残したものであった。先生は黄疸と聴力障害の関係を臨床家として気付いた最初の人であり、また1953年に高度黄疸の既往のあるアテトーゼ型の脳性麻痺症例を本邦で初めて報告し、同時に統計学的にABO不適合例と脳性麻痺の有意な相関関係を示して核黄疸と脳性麻痺の因果関係を指摘している。それはアメリカ小児科学会が核黄疸と脳性麻痺の関係を認めたのが1957年であることを考えれば、世界に先駆けた知見であった。
 核黄疸は溶血性疾患で亡くなった未熟児の病理所見として1940年代より知られていたが、それは脳障害が引き起こす二次的な所見と考えられていた。しかし先生の研究は、核黄疸の病理所見は結果でなく脳性麻痺の原因そのものであることを示唆したものであった。ビリルビンが細胞毒であるという研究に加え、高ビリルビン血症そのものが核黄疸と神経症状を起こすことを動物実験で示す研究が、日大小児科の教室を挙げて行われた。最初は子猫で始められたが、子猫がなかなか入手できないことに加えバーモント大学のルーシー教授の助言もあり、子豚を用いた動物実験となった。杉山順一や阿部忠良等教室員の、マタタビを焚いて子猫を呼び寄せたり、夜間に子豚を引き取りに行ったという汗と涙の苦労話が山積するこの研究は、1971年のウイーンでの国際小児科学会で発表されたときに、実験モデルの子豚の脳基底がビリルビンで見事に黄色に染まった核黄疸の所見のスライドを見た会場の聴衆から、賞賛のどよめきが上がたという。それは先生らの研究グループが、核黄疸の所見が脳障害の結果でなく原因であることを示した歴史的瞬間であり、我が国の新生児医療を世界に知らしめた時でもあった。
 核黄疸研究のもう一つの方向として、先生は先天的にグルクロン酸抱合酵素が欠損し核黄疸を発症するGun ラットを入手して実験を行っていたが、それはBallowitz教授の手法を参考にしたものであった。1979年にドイツで行われた周産期学会参加のためご一緒した折、ベルリン自由大学NICU見学と共に先生の起っての希望でBallowitz教授のGun ラットのコロニーを見学することが出来た。その夜、筆者が個人的にBallowitz教授と知り合いだったところから、先生ご夫妻と故増本義を伴いご自宅に招待された。ワインケラに案内され、増本と私が台所でなにやら日本料理らしきものを作り、家庭的なパーテイとなる、あまり外国語を話すのがお得意でない(読むのは我々の数段上であるが)先生が、ワインの酔いの力の加わったのか、自らが歩んできた核黄疸研究をその世界的権威のBallowitz教授と饒舌に語られたことは、筆者にとっても忘れがたい思い出の夕べとなった。
 先生は新生児以外にも多くの分野で業績を上げられているが、その中でも我国の小児神経学会の創立には深く関り、かつ重要な学会メンバーとして活躍された。特に先生の博士論文が「新生児の反射に関する研究」であったごとく、新生児とその神経学的発達に関して日本の第一人者として知られていた。
 世間一般で最も先生の名が知れ渡っているのは、我国最初の五つ子の主治医としてであろう。鹿児島で生まれた五つ子が、何故日大の先生の下を受診することになったのかには紆余曲折があるようだが、それは山下家が東京で先生が日本一の新生児・小児科医であるという一言に尽きよう。更に、先生が我国における育児学を超えた子ども全体を見る学問であるPuericultureの提唱者であることを考えれば、自然発生なら一億分娩に一組、即ち我国では100年に一組、の宝のような貴重な五つ子を見守るのは、先生をおいて他にいなかったのである。(写真2:山下家の五つ子と馬場一雄先生)

新生児医療からのさらなる発展:Puericulture

 Puericultureとは、1865年にフランス人医師Caronにより「小児を衛生的かつ生理的に育てる学問」と定義された用語である。1960年に山本高次郎がフランスのマルセル・ルロンのLe Puericultureを「育児学」(文庫クセジュ282、白水社)と訳しているが、前川喜平は、我国でその概念の重要性に最初に気付いたのは1994年に小児科医会の講演「小児科の未来と成育小児科学」でPuericultureの概念を紹介した馬場一雄である、としている。
 実は先生は、既に昭和30年代に中山健太郎からWHOの報告文「Technical Report Series No.119」にCurative Pediatrics「治療的小児科学」に対比する言葉として用いられているPuericultureの用語があることを教えられていた。先生は、Puericultureは 育児学を超えた子ども全体を見る学問であり、具体的に育児に科学的基礎を与える内容として、@成長発達の形態・生理学(成長に伴う重心位や体表面積の変化・論理的思考の年齢変化等)、A子どもの生活科学(お風呂の温度・日光浴・赤ちゃん体操などの学問的考察)、B小児のソフトサイン(微症状:夜泣き・指しゃぶり等の臨床的意味)を挙げている。
 前川喜平はPuericultureを成育小児科学(診断と治療社、1007年)と        命名しているが、先生は「子育ての科学」としている(小児科医とPuericulture:小児科診療、1996年)。 その理由は、国立小児病院が成育医療センターとなったが、その概念は疾患を持った子どもがやがて思春期となり成人となり子どもを生み育てるようになるので小児科医が核となって患児の成育全体をみるシステムが必要、という考えからである。それに対しPuericultureは必ずしも疾患を対象としていない正常児を対象とし、その健やかな発育成長を出生前から思春期まで科学的にみる学問と定義されるからである。このことは、これまでの新生児学が未熟児や病児を中心としており、正常新生児は産科や看護婦に任せきりであった反省から、正常新生児に学問的な目が向けられるようになったことに共通すると考えられる。
先生が1983年に編集した「子どもの未来科学(同朋舎)」は、その項立てを見ただけで先駆的であり心が躍る。これまでの小児科学や育児学は、病気や育児法など目の前の問題を取り扱っているが、小児科医療の将来には、康問題や心の問題にも踏み込んだ子どもの遠い未来に視点をおいた学問が必要である、という思想に溢れている。その中の育児環境の遺伝への長期的影響の重要性の指摘は、まさに現代のEpigeneticsに通じるものである。さらに、早期の子どもへの刺激や母子関係が長期的な子どもの知能や性格にどのように影響するか(遠隔効果)の問題提起は,先生が既に今話題のDevelopmental Care の重要性に気付いていたかのようである。ルソーのエミールのように子どもの長い目で見る将来に言及した書物はあるが、それらは思想や願望のレベルであった。筆者の知る限りでは、我国でそのテーマを科学的根拠で論じたのは先生が最初ではないかと思っている。
 先生はその旺盛な好奇心と卓越した知性で、古い論文を精力的に見つけ新しい光を当て、みんなが当たり前に考えてたことに違った視点から研究する論文(肺外呼吸・冬眠療法・ベビースイミング・疳の虫等)を書いている。それは先生が退任後も大学図書館によく通っていたという、学ぶということ自体が大好きな本の虫であったこともあるが、それよりは小児科医という子どもの専門家として、たとえそれが学問的に意味のない世間一般の事柄でも、子どもに関わることで自分が知らないことがあってはならないという自負があった。
先生が会長をされていた周生期医学研究会を、1996年(第17回)に周生期発育発達・医学研究会に代えたのは、これまでの周生期医学の知識を広めることによって障害児予備軍を減らす活動から、Puericulturの考えに基づき、子どもたちの将来の不幸を未然に予防するため、より広い範囲の学習と活動が必要と考えられるようになったからである、この研究会は、我が子がサリドマイド児として生まれた発生学者の荒井 良氏が、児の主治医であった先生の学者として人間としての素晴らしさに深く尊敬し、先生を会長として周産期医学の重要性を社会に啓蒙し、自分の子供のような不運を防ごうという目的で作られたものであった。

先生の人となりのエピソード

 最後に先生の人となりを彷彿させる幾つかのエピソードを取り上げ、先生への供養としたい。
 落語の「饅頭怖い」ではないが、あえて先生の弱点を挙げれば地震であろう。それは3歳の時に祖母に抱かれて逃げ回った関東大震災の経験が幼い心にインプリントされて、日頃冷静沈着な先生が、地震があると条件反射的に真っ先に部屋を飛び出すのである。自分でも照れくさいので、苦笑いをしながら「建物の強度計算をしている建築学科の連中の成績を知っているから信用できないのです。」と冗談めしの言い訳をするのが常であった。
 周産期研究会には馬場一雄賞が設けられ、先生の人間学を継承し「路地に咲く花のように地道に働くが、労多くして報われることが少ない仕事に従事されている方々」に与えられていた。華やかな表舞台で輝くような人生を送られた先生の、見えない影を見ようとするあたたかい心の一面を示す事柄、と筆者は受け取っている。その賞には、「幸せな人生を生きるなら子どもに関わる仕事をしなさい、ただし少しながら経済的には恵まれないが。」という先生の言葉が書かれた色紙が付いている。先生一流のウイットのある名セリフと評判で、筆者も時々引用させてもらっている。
 先生が色紙を頼まれると、よくお書きになるのが「青春の夢に忠実であれ」の言葉であった。ある時、良い言葉ですね、と言いますと、先生はにこりと笑って、夢を実現させるためには息の長いしぶとさが必要ですからね、と先生一流のウイットに富んだ冗談をおっしゃられた。気の利いた言葉を言うこと自体に、何時も面映ゆさを感じられていた先生の、面目躍如たる忘れられない思い出である。
日大を退任された時に、当然のことながら多くの医療関係の施設から院長などの依頼が殺到したが、私はこれから臨床医として子どもを診る楽しさを味わわせてもらいます、とそれらを全て断わられた。先生は、学問としての小児科も面白しろかったが、歳を取るに従って子どもの心が分かるようになり、小児科医になって本当に良かったと思うようになった、とおっしゃられていた。
 先生の名著「花のように:小児科医の思い、メジサイエンス社」(改版:花を育てるように:小児科医の思い、東京医学社)は、子育ては花を育てるようなものである。それは花には暖かい光と豊かな水分と支える土が必要であり、それらは農薬や化学肥料などより大切である、というPuericultureの思想に基づく。かって新生児医療は重箱の隅を突く様なお宅なSnbspecialityでつぶしが利かない、と誤解されていたのが、現在は小児科の中で全身を見るだけでなく、救急から小児保健まで最も幅広く子どもを診る専門であることが理解されるようになった。大学を退任した後、一般外来で静かに子どもに語りかけながら診察を楽しんでいる先生の姿が、新生児成育ネットワークの新生児科医OBが各々のクリニックで働いている姿にオーバーラップする。
 筆者は死生学を学生に講義しているところから、退任した先生と歳を取ってからの行く末を話した時、「山の雪が、気が付いたら消えていた」という人生の終わり方をしたいですね、とおっしゃられた。それは、知的好奇心に溢れ最後まで未知のものを追い続ける学者の姿をイメージしていた筆者にとっては、虚を突かれる思いと先生ならさもあらん、という思いが入り混じる忘れ難い鮮明な記憶として残っている。その言葉のように、一介の小児科臨床医として静かに90年近くの人生の最後を迎えられた先生の姿に、改めて畏敬の念が蘇った。

 項を終わるに当たって、貴重なお話や情報提供を頂いた、川喜田裕・阿部忠良・井村総一・新津直樹・七種啓行の諸先生並びに日大小児科学教室(細野茂春准教授・麦島秀樹教授)の方々に深謝する。

 

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5 松村忠樹「京都の粋と大阪の逞しさを持った指導者」

1916(大正5)年、姫路市に誕生(旧制北野中学・旧制大阪高等学校)
1941年 京都帝国大学医学部医学科卒業(同小児科副手・医師免許)
1942年 応召(1946年12月まで)
1947年 京都帝国大学医学部 助手(小児科学)
1949年 京都帝国大学医学部 講師
1952年 京都帝国大学医学部 助教授
1955年 関西医科大学教授(小児科学):38歳
1964年 関西医科大学付属大学病院院長(1967年まで2期)
1964年 学校法人関西医科大学理事
1984年 定年退職 (名誉教授) :29年間教授職
           (1984年3月21日、定年10日前に脳出血で倒れる。)
1990年 勲三等瑞宝章 
1990年12月31日 死去(享年74才)

学会主催
第3回日本新生児学会
第3回日本臨床電子顕微鏡学会
第17回未熟児新生児研究会
第18回日本新生児学会
第87回日本小児科学会

 

はじめに

 我国の近代新生児医療を確立した4天王のしんがりは松村忠樹先生(以後先生、他の方々の敬称は省略)である。多くの方にとって、先生は教室の絶対的権威で君臨する典型的な日本的な医学部教授に見えたようであったが、私にはこんなに気取らない人間味のある教授が居るのかと思った記憶がある。それは1981年にサンフランシスコで行われた第38回米国小児科学会に、15人ほどの小児科医のグループで約10日間ツアーリーダーとして御一緒する機会があった時である。先生の発案でサンフランシスコからロスアンゼルスまでの飛行機をキャンセルし、代わりに小型バスをチャーターして陸路を旅することとなった。思わぬ小さなアドベンチャーに興奮してワイワイガヤガヤ羽目を外す若い医者の中で、道すがら風光明媚なところでバスを止めさせては、辺りを散策したり路上の物売りと値段の交渉をしたりと、先生は上品な奥様と全く違和感無く楽しそうに我々と行動を共にされたのである。
 今回、先生の人となりを何人かの方にお話を伺ったり追悼文等に目を通すにつれ、学問と教育に厳しく医局員から「鬼の松村」と呼ばれていた反面、いたずら小僧のような人間味のある「仏の松村」の姿が浮かび上がってきた。それは、怖いけれどもみんなが頼りにする親父の姿であった。なぜ先生が親父のように教室員から慕われたかは、先生が関西医大を自分の故郷であると、心から愛していたことを知り合点がいったのである。

多感な青年の心と「仏の松村」

 先生は、生まれは神戸・本籍は京都・仕事は大阪、と京都の粋と大阪のど根性をかね合わせた根っからの関西人であった。しかし京都の粋より大阪人的思考と人情が勝っており、先生をして「僕は大阪人や」と言わしめていた。旧制中学・高校時代は多感な青年として哲学やマルクス主義の精神的洗礼を受け、本を読んでは理論武装して友人と生命・愛・善・人生を議論するという、古きよき時代の典型的な学生であった。事実、先生は大恋愛の末に素晴らしい奥様と結婚し、その鴛鴦振りは有名で退官の最終講義で奥様への賛辞を述べたことは語り草となっている。
先生のトレードマークのチョビ髭は軍隊時代の名残であるが、なかなかのお洒落でパイプ(小川次郎先生とはパイプ仲間)を待つ姿は様になっていた。それに加え好奇心旺盛で、剣道・尺八・和歌・碁・将棋・麻雀・ゴルフなど色々なことをされた。特にゴルフは、それまで医局員には禁止令を出していたのに、60の手習いで嵌ってしまう凝り性であった。
 こんなエピソードもある。回診の途中に患児がしていたゲームに興味を持って先生も加わったところ、あっさり負けてしまった。それに気付かずゲームを続けようとすると子どもに「先生のキャラクターは死んじゃったよ」と言われ「なんだ、死んだの?」と日頃の大教授らしくない滑稽さで答えたのには周囲の笑いを誘い、みんなの親父と呼ばれる先生を髣髴させる姿であった。このように先生がいろいろなことに手を出した思想の背景には、「多忙なほど仕事ははかどる」の考えで「来るを拒まず」の人生観があった。
 先生が京大の小児科に入った理由は、「どの科もあまり大差がない、それなら尊敬できる服部峻治郎教授の下で勉強しよう、まだまだ乳児死亡率が高く研究の余地がある」と思ったからと話されている。先生は自室に写真を飾っていたように服部教授を心底尊敬しており、関西医大への赴任も先生の一言であったという。
 先生にとって医局全体が一家のようであった。小児科に入局した新人は全員先生の自宅に呼ばれ、まず勉強会をしてから宴会となり先生のご自宅の近くにある安土桃山公園に花見に行くのが恒例であった。医局旅行でも先生が中心で、ご長女の千原恵子は「子供の時の家族旅行の記憶はいつも医局旅行の同伴であったが、みんなに可愛がられ楽しい思い出であった。」と語られている。先生は医局員に対し学問や臨床においては厳しかったが、それ以外の私的なことで門下生を煩わせることしない心遣いをされていた。女性が多い医局員への教育の意味もあったかもしれないが、医局でお茶を飲んだ後に「自分で飲んだ物は自分で洗うのは当然だよ」と先生自ら茶器を洗ったり、退官の時などは近くに借りたマンションまで、自分の荷物を自転車で何度も運んでいたという。(岩瀬等はそれが先生の倒れた誘引では、と心を曇らせている。) 
 医局会の後の懇親会などで、スロージンを舐めながら辛口の人生を語る先生の、その言葉とは裏腹に教室員に配る細やかな心遣いが常にあり、決して教室員のことを悪く言うことはなかった。また開業した教室員にも研究室を開放し指導を惜しまなかった。それだからこそ病に倒れても、教室員が車椅子を押して花見に行ったりと、「仏の松村」は教室員みんなに見守られて逝ったのである。

戦争体験と「鬼の松村」

教室員の親父のような人情味を感じさせる先生が、医者として学者としての行き方に極めて厳しいものをもっていた精神構造の奥底には、先生の戦争体験が影を落としていると考えられる。先生は1942年に軍医として応召し、フィリピンのネグロス島で爆風に飛ばされたが片方の鼓膜が破れただけで助かったり、機銃掃射で周りの仲間がバタバタ倒れる中で不思議に自分だけが生き残ったり、と生死の境を彷徨う毎日であり、万が一の時は拳銃で自死するという決意が死の恐怖を忘れさせた、と語っている。1年間の捕虜生活の後1946年に復員するまでの25−28歳の4年間の軍隊生活が、その後の先生の「任務を全うするに命がけで励め」の生き様のバックボーンとなったようで、その片鱗は以下の復員時に詠まれた歌にも感じ取れる。
「吾れ生きて甲板(デッキ)に立てり雲低き呂宗の山の退くを見つつ」
「よく生きて帰りしものと銭湯の鏡に痩せし自分(おのれ)写しおり」
このように「鬼の松村」と呼ばれる学生や医局員に対する学問や臨床における先生の厳しさは、医学が人の命を対象とする限り命がけで励まなければならない、という理念に通じるものであった。学生として又産科医として先生の謦咳に接していた島岡昌幸は、「先生のギョロ目は怖かった」と振り返っている。
 先生はその厳しさを自分にも課しており、木下洋は「先生は学生講義の1週間前からキチンと準備しており、遅れてくる学生があると、話の流れが途切れると学生を入れなかった」と回想している。また1978年の冬、大阪府医師会で小児科の講義に向かう時、氷で滑って転び腕を骨折したが、少し遅れると連絡して救急で仮の固定し、痛みを堪えて講義を行ったという。

関西医大の親父

 関西医科大学は、1931年開講の大阪女子医科専門学校(1928年大阪女子高等医学専門学校)から戦後の学制改革で大学となった歴史が物語るように、物も人もお金も無かった。1955年先生が38歳の若さで教授として赴任した時には、先生が荷車の前を引き野呂幸枝が後ろを押して研究資料や本を運び、研究費のために先生が大切にしていた兄から贈られたライカのカメラと姉から贈られたバイオリンを手放したという。
 赴任した時の医局員はわずか6名であったが、翌日から研究活動が始まった。臨床が終わった夕方から夜中まで研究し、土曜日には「野呂君、明日は10時や」と言い残してかえるのが常で、それは9時に来て電子顕微鏡の電源を入れておくことを意味したので、ほとんど日曜もなかったと野呂幸枝は振り返っている。
 先生が就任時の関西医科大学は、大学院設置や学位審査権獲得などの問題に加え財政的にも最悪の状態であった。先生は最年少の教授として積極的に大学発展に貢献し、病院長時代には事務長と問屋を廻って薬の購入価格の交渉までした。昭和34年ごろの学園紛争に伴う大学の経営危機を、先生は先頭に立って立て直したことなどから、大学では最も権力・権威のある教授として、小児科医としては珍しくボス的存在となった。当時の多くの医学部教授同様に先生の回診も大名行列であり、なんと婦長が先生のナースステーション毎にのむタバコ(それもドイツのゲルベゾルテ)の灰皿を持って付いていたという。それは、他科に伍して小児科の存在を示す思惑もあったのではないかと筆者は推測している。
 先生は学生教育に熱心で、全国医学部長病院長会議の「医学教育あり方委員会」の中心的存在であった。「何人も人が学び得るより速やかに、これを教えようとしてはならぬ」という「ソクラテス」の言葉を最終講義の冒頭に残しているが、それは先生が関西医大の学生歌の作詞者であることも合わせて、学生の側に立った心をいつも持っていたことを表すものと言えよう。
 先生は、退官前の最後の症例検討会で脳内出血に倒れる直前まで、「忙しくて仕方がないほどみんな働けば病院は良くなる。」と激を飛ばしていた。先生は以前から「関西医大で生まれ、ここで死ぬ運命と自覚している」と語られていたごとく、みごとにそれを体現したのである。

新生児医療への足跡

 先生が京大小児科入局した時代は戦後の混乱期であり、若くして教授として赴任した関西医大は物も人も無い環境であった。その中で先生は、その留まるところを知らないエネルギーとアイデアで幾つかの我国の近代新生児学の歴史に足跡を残す仕事をしている。
 初期の百日咳などの感染症の研究から、より基礎的な胎児新生児の免疫学の研究に進み, すでに1967年の第3回日本新生児学会では「リンパ球の発達」のテーマで会頭講演しているが、その研究の流れは現在も木下洋の好中球機能の研究に繋がっている。用いられた研究手法の一つに、臨床レベルでは使いこなすのが困難な電子顕微鏡が駆使された。それはその後のRDSや神経学的研究にも応用されているが、そのレベルは先生自らが第3回の日本臨床電子顕微鏡学会の会頭となっているごとく一流で、少なくとも新生児領域におけるその分野の研究は松村グループの独壇場の観があった。
 もう一つの先生のテーマは、当時その病理所見から肺硝子膜(Hyaline Membrane Disease)と呼ばれていた呼吸急迫症候群(RDS)である。家兎を高濃度酸素下に暴露して実験的に作成した肺硝子膜を、電子顕微鏡で観察検討した「実験的肺硝子膜に関する電子顕微鏡的研究」(第3回未熟児学会における特別講演、1960年)は、その当時としては世界最先端の研究レベルと評価されよう。RDSの病因がサーファクタント欠乏であることが明らかとなると、SurfactantのprecursorであるCDP-choline(Nicholin)を投与してその発生を予防する研究に従事したが、残念ながら全国的な多施設臨床研究では有効性が確認されなかった。しかし、先生の先駆的なアイデアは以後の研究の礎になったと評価されている。(第16回日本未熟児新生児学会のパネルジスカッション「呼吸急迫症候群の治療とその評価」、1971年)
 RDSから回復後に発生する慢性の呼吸器障害に関しても幾つかの先生の功績が残されている。まずその病態の重要性を認識させる意義として、その臨床状態を「遷延性呼吸急迫 prolonged respiratory distress」と名命したのは先生であり、さらに現在のCLDにあたる新生児慢性呼吸障害に、小川次郎先生と「小川・松村の分類」なる名称で捉えることを提唱している。(新生児学叢書 V 「新生児の呼吸障害」:松村・岩瀬、分担、医学書院、1967)
 新生児の脳障害に関する研究では、日常の臨床で何気なく使用していた10%ブドウ糖やメイロンなど高張の薬液が、例えば臍静脈から急速に注入されると、静脈管―下大静脈―右心房を介して容易に頭蓋内血管に流れ、高浸透圧液による脳障害の危険を動物実験などで示した。これは今でこそ常識となっているが、新生児臨床における高張液使用の注意を促す先駆的な研究であった。(周産期脳障害(hyper-osmorality):昭和47・48・49文部科学省研究)
 1981年に先生と第38回米国小児科学会にご一緒した折に、カリフォルニア大学San Diegoを表敬訪問して聴性脳幹反応(ABR)の講演を聴いた時、筆者には始めての知識であったが、先生は既にその臨床的有用性に注目されていた。その翌年の1982年の第18回日本新生児学会で、先生は会頭講演で「光眼輪筋反応のよる新生児中枢神経機能の観察」を話されたが、翌1983年には木下洋がABRの新生児期への応用の研究成果を発表している。筆者の知る限りでは、少なくとも新生児領域でABRの臨床的有用性を我国に導入したのは、先生の臨床家・研究者としての嗅覚の鋭さであると思っている。
 先生の新生児医療に対する熱意から、関西医科大学にオランダ製の人口換気装置(ルスコ)を備えたNICUが出来たのは1975年であるが、関西では最初の近代NICUであったという。また先生は関西医大の男山分院の開院式の挨拶で、周産期センターを中心とした総合病院を目指すと述べている。さらに鶴原常雄は先生が大阪の新生児救急医療の実態調査を進めたのがNeonatal Mutual Cooperative System(NMCS)発足の切っ掛けとなったと述べており、先生が関西地域の新生児医療の地域化においてもオピニオンリーダーであったことが伺える。
 さらに先生は、1970年に未熟網膜症と森永砒素ミルク問題でその開催さえ儘(まま)ならない状態であった日本小児科学会の会長(第87回)を火中の栗を拾うように引き受け、混迷の極にあった学会を立て直したのである。その頃に同様な思いから会長(1973−5年)を引き受けた筆者の上司であった坂上正道によると、戦場の赴くような気概が必要であったと話されていた。まさに、ネグロス島の戦場を行きぬいた松村先生の面目躍如たる姿を見る思いである。
 最後に筆者の個人的な忘れられない先生からの教え「知識を蓄えてゆくことはこの世で最も楽しい」を記載する。先生の「仁志田君、毎日一つは新しいことを学ぶ気持ちを持ちなさい。」という言葉を一日の終わりに思い出し、何も無かった日は慌てて新しい英語の単語などを覚えることを日課とするようになった。

 稿を終わるにあたり、貴重なお話しや資料を頂いた、ご長女の千原恵子先生・島岡昌幸先生・木下 洋教授に深謝いたします。


参考資料

1 松村忠樹教授退官記念業績集、関西医科大学小児科教室記念事業委員会、198

2 同門会温仁会誌、第2号「松村忠樹先生追悼特集」、関西医科大学小児科教室同門会(編集発行人:野呂幸枝)、1991

3 偲び草(故松村忠樹先生 追悼文集)関西医大同門会機関紙「おとずれ」第95号、113−122頁、平成3年9月発行

 

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6 三宅 廉「新生児に生きた真のクリスチャンドクター」

1906年 神戸市(パルモア病院の近く)で出生

1932年 京都府立医大卒業

1940年 新潟日赤病院(長岡市)・新潟県立乳児院の初代院長

1945年 京都府立医大・女子専門部教授

1948年 唐沢賞(新仁会を組織し無料診療を開始)

1951年 パルモア診療所 所長

1953年 この年から京都華頂短大で保育学

1956年 パルモア病院 院長 

1962年 第10回国際小児科学会(ポルトガル)で2ヶ月の一人旅(59歳)

1967年「新生児とその疾患」出版

1984年 3週間,パウロの足跡をたどる旅

1989年 パルモア病院名誉院長

1994年 逝去(89歳)

はじめに
 三宅簾先生(以後先生と略し、他の方々は敬称を略す)は、周産期医療のパイオニアとして素晴らしい仕事をしながらも、聖書の「右の手のすることを左手に伝えない」という言葉のように己を喧伝することがなかったので、私が先生の御名前を知ったのは、「パルモア病院日記」とNHKドキュメント「誕生」によって先生がマスコミに取り上げられ、それらに開設したばかりの東京女子医大母子センターが触れられていたからである。
1985年パルモア病院を訪れる機会があり、院内の見学の後サンタルームで先生と長い時間歓談する幸運に恵まれた。口角沫を飛ばす、という言葉そのままに白い唾液の泡を両側の口角に留めながら、小児科医は新生児の命を守るために生まれる前から母親に関らなければいけない、と熱弁する先生に心を打たれ、「私も新生児と生きるつもりです」と答えた。その時、先生は私の目を覗き込むように顔を寄せて、「仁志田君、新生児と生きる、でなく、新生児に生きる、だよ」とおっしゃられた。一瞬虚を衝かれた沈黙の間をおいてその深い意味を悟り、「はい、新生児に生きるつもりです」と言い直したのである。それが、私の人生のその後の決意を記した「新生児(あなた)に生きる」という詩となったのである。(拙著新生児学入門の巻頭詩)
その詩を発表した時(NICU:2巻3号巻頭エッセイ、1981)、親友の故増本義が「仁志田君、こんな詩を公表して後に引けないね」と、揶揄するのでなくエールとしてのコメントを贈ってくれた。私は、「パルモア診療所を開設した時の先生の決意と勇気に比べれば、その万分の一もないレベルだよ」と彼に答えたが、今回この原稿の為に先生の来し方を俯瞰し、言語に絶する試練の嵐の中を「神の与えし幼子の命を守る」という使命を敢然と貫き通した先生の姿に、改めてその思いを新たにしたのである。

パルモア病院とは
先生の生涯はパルモア病院を抜きにしては語れないので、まずその歴史的な成り立ちに触れよう。パルモア(Palmore)の名称は1884年に米国式実用英語学校を創設した宣教師パルモアの名前に由来するが、パルモア学院は1886年に神港栄光教会及び関西学院の創立者でもあるW.B.ランバス宣教師によって夜間の英語学校として設立され、英語と聖書を教えていた。
 戦後の食糧や医療資源の不足から働きながら実用英語を学んでいる学院生
の中にも健康を損なっている人たちが多かった1949年頃より、医師の資格を
もつ宣教師がパルモア学院生徒を対象とする内科の診療を行っていた。当時
の学院長はアメリカ帰りのクリスチャンである先生の義兄石井卓爾であったが、石井は近隣の人たちにもその医療の恩恵を提供したいという思いを持っていた。当時先生は仲間とクリスチャンドクターによる「新仁会」を組織し、石井の経済的なサポートを受けながらパルモア学院で無料診療活を行っていたところから、石井は京都府立医科大学の教授であった先生を招聘し、1951年10月パルモア病院の前身の医療法人パルモア診療所が創られた。
先生は、同じキリスト教病院の淀川キリスト教診療所(1955年開設で後に病院)の設立にも深く関与しており、初代小児科部長の合瀬徹は、1956年に大阪市大高井俊夫教授の指示で淀川キリスト教診療所に先生を訪ねると、掘っ立て小屋のような柳の家(柳の木のある看護婦寄宿舎サフラン寮跡)で診療されていたと述べている。淀川キリスト教病院の初代院長のDR,ブラウンが「Yodogawa Christian Hospital was born in Palmore Clinic。淀川キリスト教病院はパルモア病院で生まれた。」と言っていた如く、先生無くして淀川キリスト教病院も生まれなかったのである。
パルモア病院の基本理念が、「私たちは命(いのち)を尊び、キリスト教精神(隣人愛)に基づく医療を実践してまいります」と記されているごとく、設立当初は全員クリスチャンであった。初期は経営も苦しかったが、「神の言葉を唯聴く人でなく行う人に・患者のために心から働く病院に・仕えられる人でなく仕える人に」という堅い信仰心を貫き,先生は石井との信仰による信頼関係を絆に、血の滲む努力の結果、1956年1月には産婦人科の椿四方介を招いて念願の産科と小児科が一体となった周産期医療を行うパルモア病院を開院した。病院の入り口には、先生の知人が先生の意を解して作った三体の彫像、胎児が正に生まれんとする生誕像と親子がそれぞれ対となった母子像・父子像、が飾られている。それらは、胎児といえども神から授けられた尊い命であり、また子どもの命は母親が育み、父親が人間として完成させる、という先生の哲学が表されている。
しかし、先生がパルモア病院に命を掛けた真意は、単に日本で最初の周産期医療を行うというレベルを超え、母と子の医療を通じて真に神の意を実践することであった。

先生とキリスト教
先生がなぜ医療者として新生児に生きたか、さらに日本初の周産期に特化したパルモア病院を創られたのか理解するためには、先生のキリスト教徒としての信仰の道を知らなければならない。
先生は1903年、裕福な貿易商の同胞7人の3男として神戸市で出生した。父
親は長男を亡くしたことから熱心なキリスト教徒となり、私財をつぎ込んで教会(神港教会)を建設した。家族全員が入信し、先生も3歳で乳児洗礼を受け、毎朝父親から聖書の話と賛美歌を歌ってから学校に行くのが日課であった。ところが1919年に先生が15歳の時、突然父親がスペイン風邪で死亡し、一家はたちまち経済的苦境に陥った。厳しいがやさしかった父の遺言は「兄弟仲良くし、神の言葉に従え」というものであった。上の兄が京大の学生であったところから一家は神戸から京都に移住し、先生も神戸一中から京都一中に代わり、苦学しながら1924年に京都府立医大入学した。4人の兄弟は共に熱心な信者であるばかりでなく歌も上手で、教会のコーラスでは三宅カルテットと呼ばれていた。しかし神の与えし試練とはいえ、兄は39歳で二人の弟は24歳と27歳で次々と夭折し、まだ医者なりたての先生が父親に代わって3人の兄弟の死を見取ったのである。
この先生の生い立ちを知れば、「若くして父母兄弟を亡くしているので、命とは、を早くから考えており医学がそれに答えてくれると思った。だから自分に医学が最も適していたから医者になったのではなく、始めに信仰があったからだ。」、と言う先生の言葉が理解できよう。先生は人生において4度回心(conversion:キリスト教において過去を悔い改め正しい信仰に心を向けること)の機会があったと述べている。それらは乳児洗礼の時(第一の回心)・中学の時の父の死(第二の回心)・医者になった時(第三の回心)・パリモア病院設立時(第四の回心)であった。その中で先生は幼児洗礼を受けたことを、「若き人は何によってその道を極めん。御言葉による外ぞ無き」という神の道に生きるよう運命付けられたのだ、と一番重視している。先生は心からパウロを尊敬しており、常に「私にパウロのような信仰心があれば、もっと良い仕事が出来たのに」言われていたばかりでなく、なんとパウロのドラマチックな回心の姿とその理由を知りたいため、1988年に85歳の高齢のも関らず、その足跡を追う命がけの旅に出たのである。先生は、その旅は、自分の真面目・正義感・妥協しない性格は父から、人情と豊かな感受性は母から授けられているが、パウロはどのような環境と両親の下で育ったのかを知りたい、という小児医学の立場からの目的もあった、と述べている。
 先生はシュバイツアーの「生命への畏敬」という言葉を引用し、命は神から与えられたものであるからすべての子は神の子である、と中絶に反対の立場を取っていた。またダーウィンの進化論や、宗教は麻薬であるというマルクスの共産思想も、神の意思に反するからと認めていない。小児科医として周産期医療に取り組んだ先生の心の底に流れているのは、、医学的な理由もさることながら、「子どもはすべて神の主宰し給う歴史的存在であり、神から与えられた命を全人的に守り育てるのが小児科医の使命である」、というものであった。 
また先生のダウン症などの障害児に対する態度は、「神が与えてくれた試練を乗り越える喜びを考えれば、人生は何が幸福か不幸かは分からないので、そのような子どもを劣っているとも哀れとも針の先ほども思っていないので、単なる同情心などではない」、という筋金入りの信仰が支える説得力に自信を持っていた。
先生とパルモア病院
先生は、パルモア病院は周産期の重要性とキリスト教を教える周産期(教育)病院である、と位置付けている。その教育という意味は、「神の子である胎児・新生児の命を守るのがキリスト信者である医師の使命であり、同時に母にキリストの信仰を教えることが、母と子の幸せにつながる」という理念からである。パルモア病院は、キリストの教えを医師として実行する先生の人生そのものであり、職員全員がキリスト教徒として患者のために働く全人的・家庭的病院を理想としていた。それ故、パルモア病院では毎週水曜礼拝があり、医師の呼び出しのコールも賛美歌であった。
しかし、それは単に新興宗教のように信者を増やす活動でなく、それが命の輝きに?がるという思いからである。一番パルモア病院がクリスチャン病院的であった創設時に小児科医師として勤務した藤村正哲や犬飼和久らは、自分達はクリスチャンでなかったが押し付けがましい布教が表に出るような違和感は全く無かった、と語っている。
先生は6階のサンタルームと呼ばれる自室に母親を集め、子育ての原点は母親であり母が信仰を持てば良い子育てが出来ると、は母親教室に熱心であった。
1956年にパルモア病院の第一号として出産を経験した田中道子は、その後女子医大を卒業して小児科医、さらに産科も学び先生の右腕となったが、先生は子育てに関しては母親に厳しく、子どもを大切にしすぎると優しいだけでは子育ては勤まらないと叱られた、と回想している。先生は同時に、父という言葉はヘブライ語で教育者の意味であり、母親がキャッチャーという愛の要であるなら、父はピッチャーで子どもの人間性を完成させる教育者としての重要な役目がある、と語っていた。
パルモア病院はキリスト教病院であるが、セツルメントのような慈善事業の病院ではなく、患者の多くは診察を受けた帰りに近くの大丸デパートで買い物を楽しみにしているような中産階級であり、赤ちゃんの出生をみんなで祝う産院として妊婦さんを大切にして、産後の母親はお腹が空いているだろうと神戸らしく国際航路船のコックを雇って一番美味しい食事を提供する配慮もされていたという。また、正常産も含めたすべてのお産に小児科医が立会い、さらに先生自らが沐浴時に赤ちゃんの写真を撮り、その写真を貼った台紙に手形をとって出生記念としていた。足型に比べ握っている赤ちゃんの手形を取るのにはコツが要り、先生が魔法のように次々と手形を取るのを他の病院の職員が習いに来たが、どうしても上手くいかなかったと、笑って話されていた。
一方民間病院としては珍しく病理解剖室があり、非常勤ながら病理医師が子どもの解剖を行い、その死因を明らかにしていた。それは、大学病院で亡くなった新生児の解剖を依頼すると、新生児なんか理由なく死ぬんだと、先天性生活力薄弱と非学問的診断名で葬り去られていた経験からの、先生の強い意志があった。藤村正哲は、当時はほとんど見逃されていた先天性リステリア感染症を解剖によって2例発見された経験から、先生はやはり学者でありパルモアを高い医療レベルに保っていた、と語っている。 
先生は晩年になって、中平氏の本「パリモア病院日記」が切っ掛けでNHKがパルモア病院の先生の活動をドキュメント「誕生」で紹介し、急に世間の注目を浴びる存在となった。先生は、おびただしい数の手紙や面会に丁寧に答え、新生児と周産期の大切さを世に伝える役目を果たされたが、心の中では「報道は私の考えとは違うのだ」と感じられていた。テレビで紹介されたのは先生の神戸一中の後輩の坂元教授が主催する女子医大のような近代的な設備の周産期施設であった。しかし先生の目的とするものは、単にお金や設備をかけても果たしえない、新生児を診るたびに、その神の創造の美しさに打たれる気持ちを医療に生かす夢だったのである。

同籃記念会とは
1969年から1991年まで23年間続いた同籃記念会とは、同じ揺り藍に揺られ、同じ体重籠で目方を計った子供たちを15年後に集める会で先生の命名である。15歳からはもう子供ではなく、小児科の手を離れて自立する時であり、パルモア病院の成人式でもあった。先生は、同籃記念会の朝は何時もより深く感謝の祈りを捧げ、 『私はこの日の為に生きてきた。この喜びがあるからこそ頑張れた。こんな至福を味わえるのは世界中で私1人なのだ。』と述べていた。
同籃記念会では、驚異的なことであるが先生は一人ひとりの子どもに生まれた時のエピソードを伝えて、ロダンの考える人のミニチュアと聖書を手渡していた。それは、人間はロダンの彫刻が象徴するように考えるために生まれてきたのであり、聖書がその考える道しるべであることを教えるためであった。先生はその時のために、同籃記念会の前の何ヶ月か掛けて古いカルテに眼を通し、メモのように書かれていた各人の出生時のエピソードを書き出していた。同籃記念会が終わらざるを得なかったのは、老眼が進みその作業が出来なくなったからである、とおっしゃられていた。
なぜ15歳を選んだかは、第二反抗期と呼ばれる人生の中の大切なターニングポイントという小児科学的意味もあるが、それ以上に先生の個人的な思い入れもある。先生が父親が急死を経験して、命の意味に目覚めると同時に、自立しなければならないという人生の転機を迎えたのは、15歳の時であった。
 
三宅簾の新生児医療への貢献
先生の最も大きな我国の新生児医療への貢献は、これまでその人格さえ認められていなかった胎児・新生児を真正面から医療の対象としたことである。小児科になった動機は、子どもが好きで成長する楽しみがあるというものであったが、新生児との出会いは珍しい百日咳の母子感染例であった。先生はその経験から母子免疫の重要性に気づいてネズミの動物実験を行い、それが先生の学位論文となったが、同時に先生の学者としての素晴らしさは、その実験で母と子の繋がりに出生直後の両者の接触が如何に大切であるかを読み取ったことである。ネズミにおいてはそのキーワードは臭いであったが、人間においては心の絆であり、先生は親のためにも子どもの為にも重要な母親教育に、医療者としての情熱を注いだのである。
先生は小児科医として障害児を診る機会が多かったが、その多くが生まれた時に小さく生まれた(未熟児)・黄色かった(黄疸)・直ぐ泣かなかった(仮死)という既往があったところから、良い医療をするための当然の動機として、小児科医は出生前後から関わらないといけないと考えた。さらに先生は、神が与えた命であるはずの多くの新生児が、適切な医療を受けることなく先天性生活力薄弱という名の下に切り捨てられていたことに、クリスチャンとしての使命感を感じたのである。
新生児は沢山生まれて沢山死亡する時代であった。その時先生は、米国の新生児学者Clement Smithが、産道を通る出生の時を聖書詩篇23篇4節のダビデの歌「たとえ私は死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」から「The valley of shadow on death。死の闇の谷」と引用しているのに出会い、産科医と共に母子医療を行う周産期医療の必然を悟ったのである。しかし当時の小児科は新生児に全く無関心で産科任せであったところから、先生はそこに光を当てなければならないと、京都府立大学に赴任した時に小児科も参加する周産期医療を呼びかけたが、分娩室は産婦人科の聖域であると拒否されたのである。先生の凄いところは、その夢の実現のために現職の大学教授職を投げ打って、一介の臨床医としてパルモア診療所に飛び込んだことである。
先生はその心境をドイツの哲学者ボルノーの言葉、「人生の出会い(Begegnen)は始めに呼びかけ(Anrufen)があり、それに答えると眼が覚め(Erwecken)、眼が覚めたら突入し(Einzatz),戦闘開始(Engagement)を開始し,そして生まれ変わる(Wiedergeburt)。」を引用し、 私は新生児に出会って目覚め、闘って変わっていく、という幸せを経験したのである、と語っている。
先生は、どんな子どもの命も価値がある、と障害児の家族を励まし慰め続けていた。それは神が、その子と両親に試練を与え乗り越える喜びを与えているのだ、という信仰に裏打ちされた信念であった。事実、先生は障害児の家族に、「良くこんなに立派に育ててくれた。でもこの子に掛かりきりになるのは両方に良くないので、次の子を産みなさい」と希望を持たせる話をするのを常としており、その父をして「あの頑固な小児科医は親達の苦労を知っている。」と言わしめている。また先生は、パルモアで生まれた無眼症の子どもに、気の毒とは誰でもいえるがそう思ったら家族と子どもを支える行動することだと、学会の折りにその家庭に立ち寄り声を掛け、家族が幸せに生きていることを確認し、目が見えなくともその家には光がある、と語られている。
もう一つの忘れてはならない先生の新生児学における歴史の足跡は、我国最初の小児科医によって書かれた本格的な新生児教科書「新生児とその疾患」であった。残念ながら、NICU以前の内容であり人工換気療法などは含まれていないので絶版となっているが、先生一人でその大書を書き上げるまでのエピソードは、それだけで一冊の本になるような辛酸難苦の連続であった。1936年に金原医学出版が大日本小児科全集を企画したが、当時の新生児は産科の範疇であり、小児科でその第一巻「初産児」を書けるのは若干34歳の先生しかいなかった。戦争を挟んだ苦闘の末にようやく1943年に脱稿したが、企画中止となりその原稿は印刷されることは無かった。戦後になって、全集ではなく単行本として「新生児とその疾患」が刊行されることになったが、なんと先生は内容が古くなったからと、もう一度書き直されたのである。文献、特に外国の文献、の入手が困難であったばかりでなく、コピーなど無かった時代である。各章末に載せられている膨大な文献リストを見ただけで、その本を書き上げる鬼気迫る先生の姿が眼に浮かび、1967年先生が30年の心血を注いだ「新生児とその疾患」を書店に見た時、先生はわが子に対面したような思いであった、と述べられている心境が、痛いほどに理解できるのである。

終わりに
1995年2月に先生から年賀の返礼を頂いたが、そこに「これが最後の御挨拶です。心をこめて皆様さようなら。」と書かれていた。その衝撃的ともいえる清冽な潔さは、先生の堅い信仰に裏づけられものであると同時に、母と子のいのちの為に十分に生き抜いたという満足感が伝わってきたのである。パルモア病院のホープページにも次のように記載されている。
名誉院長になってからも「“望まれない子供”なんかあって良い筈が無い。みんな大事な命だ。赤ん坊を見るたびに勇気が湧いてくる。高齢だが、体が動く限り幼子のそばに居たい、と時間の許す限り体力の続く限り診察室へと足を運んでおられた。三宅廉は小児科医でありながら1万数千人の出産に立会い、その健やかなスタートに力を注ぎ生命の素晴らしさに生きたのである。 
    老人性の弁膜症で御自宅静養中であった晩年の先生を、心から先生を敬愛していた犬飼和久と何度かお訪ねした折、先生は部屋一面に張られた聖書の言葉を大書した紙に囲まれながら、「仁志田君、聖書には良い言葉が沢山あるね」とおっしゃられていた。もう既に何百回も聖書を読まれている先生にしての言葉なので、改めて先生の信仰の確かさに感じ入ったが、それ以上にお別れの会で披露された先生の最後の姿は感動的であった。週一度訪れる牧師さんに、聖書の中で先生が一番好きな章を読んでもらい、起座位で眼を閉じて聞き入っていた先生は、周りのものが気付かなかったほど静かに神に召されたのである。ひたすら神と赤子のために生きてきた嵐のような先生の人生は、すべてはこの安らぎの時の為であったことに思い入り、その生き様に尊敬と少しながらの羨ましさを感じたのである。

   幼子と生きるにあらず幼子に生きるとさとし、師(おさ)は去り行く
   良く生きることが良く死ぬことなりと、我に示しし90年の人生(いのち)
   

参考資料:
1.「パリモア病院日記:三宅簾と二万人の赤ん坊たち」、中平邦彦、新潮社、1986
2.「新生児に生きる(1・2)」、三宅簾、NICU,2:455−8.
535−7,1989
3.「続いのちを育む:真実を追い求める旅の記録」三宅簾、青龍社、1990
4.「こだまするいのち:パルモア病院のこどもたち」三宅簾、新教出版1992
5.「あなたも行って、そのようにしなさい(ルカ 10:25−37)メールで編んだ三宅簾先生の思い出」、小口弘毅:赤ちゃん成育ネットワークニュースレター、No.7、別冊付録1
6.淀川キリスト教病院25周年記念誌、淀川キリスト教病院、1980
7.NHKテレビ:ドキュメント 誕生
8.NHK教育テレビ:宗教の時間(子どもは神のもの;命の尊厳を求めて)

 項を終わるに当たり、お話を伺いました三宅潤・藤村正哲・犬飼和久・小口弘毅の各氏、また赤ちゃん成育ネットワークニュースレターにメールをお寄せ下さいました船戸正久・福田清一・多木秀雄・江原伯陽・桑原勲の各氏に深謝いたします。

 

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7 大西鐘壽「学問というストレートボールを投げ続けた小児科医」

略歴

1935年 愛知県名古屋市 生まれ
1960年 名古屋市立大學医学部卒業
1960−61年 島田市立病院 インターン
1961−65年 名古屋市立大學医学部小児科大学院
1969年 名古屋市立大學医学部小児科 講師
1977年 名古屋市立大學医学部小児科 助教授
1981年 香川医科大学小児科教授
2001年 香川医科大学小児科教授定年退官
      高松短期大学幼児教育学科教授
2003年 逝去 (享年69歳)

学術集会 会長

1986年 発達薬理・薬物治療研究会 
1986年 未熟児新生児学会 
1990年 日本光医学・光生物学会 
1990年 日本先天代謝異常学会 
1991年 日本小児科学会セミナー
1999年 日本新生児学会

国際学会会員

1980年より American Society for Photobiology
1974年より The Biochemical Society
1987年より The New York Academy of Sciences

プロローグ:大西鐘壽先生(以後敬称略の大西とする)という不思議な先達

 これまで取り上げた大先輩にくらべ、大西とは体温を感じる距離で共に新生児の世界を生きてきた世代であるが、大西の講演が自らも認める訥弁に加え、ビリルビン光学異性体の構造を表す不思議な亀の子や、矢印を追っていくだけで30分以上は掛かるスライドが並ぶので、私だけでなく多くの人が別世界に生きている変わり者の印象を持っていたことは否めない。
しかし今回の執筆のため奥様を始め大西を良く知る方々から話しを聞くにつれ、学問上の真理のみならず、すべてのことに何が正しいかを愚直に追い求める大西の姿が浮かび上がってきた。それを端的に表現した言葉が、奥様が語った「大西はストレートボールしか投げない人でした。」であった。学会でも会議でも、さらに小児薬の適正使用を陳情に行ったお役所でも、根回しや懐柔策といったことを抜きに、何が問題で何をすべきかを単刀直入に語られていたのである。
 集めた資料やインタビューから、イスラエルの学会での講演が余りに高度にであったので聴衆の多くは大西を生化学者と思った、というのが、恩師小川次郎先生(以後次郎先生)の自慢話であったように、試験管を振り分析機械を操作して真実を追い求める研究者の姿がより鮮明になった。しかしそれ以上に私の心を動かしたのは、大西の基礎化学の研究者のイメージからは似つかわしくないと思われる、育児や母乳保育の重要性といったテーマに真摯に取り組まれていたことであった。それは香川医大を退職し高松短期大学幼児教育学科教授となったことの必然からかと考えたが、その文献的足跡はずっと以前から認められているところから、それは座右の銘としている恩師の「赤ちゃんはなにかを訴えている」という言葉からあぶり出された、「赤ちゃんは何を訴えているのだろう?」という命題を学問的に追い求めた一連の仕事であったことが、ようやく理解出来たのである。
 その背景には、研究の虫のように思われていた大西には、生き物への・人間への・赤ちゃんへの、優しい思いやりに満ちた繊細なガラスのような心があったからである。大西は実家が農家と養鶏などをされていて大きな家であったこともあったが、実験で使った動物を殺すことが出来ず、なんと家に連れて帰り飼育していたのである。奥様が、羊や豚が賢いので戸をあけて家に入ってくるのに困った、と話されたエピソードは、みんなの知らない大西の一面を物語るものであった。
 もう一つのエピソードは、たまたま大西の外来に来た、余りに反抗的でどの病院からも爪弾きにされた思春期の少女の事例である。大西は、ごく当たり前にその子を受け入れ、長い時間を掛けて繰り返し話をするうちに彼女は大西を信頼するようになって、反抗的な態度が無くなり正常な生活に戻ったのである。お世辞もいえない不器用な大西が、所謂ムンテラでその少女を改善させたとは考えられない。誰も信用できなくなった少女であるからこそ、本能的に大西の赤ちゃんのような純粋な心を感じ取ったからに違いないと思っている。後年、その子が自分の子どもをおんぶして挨拶に来たという、さりげない話の中に、研究だけでない人間としての子供に対峙する大西の姿が窺えるのである。

学問と研究そのものが大西の趣味であった。

 大西の膨大な研究や新生児医療への学問的貢献を語る前に、その人となりを少しながら触れることにする。
 大西は田舎の大きな農家である自宅で、好きな絵を書いたり(論文やスライドの動物のシェーマや図は自分で書いていた。)の自由な生活をしていたが、高校3年になって進路を考える時、姉が小さい時に肺炎で亡くなったことなどが動機となったのか医学部を目指す勉強を始めたという。次郎先生が彼の頭脳明晰さに、君はなぜ国立大学に行かなかったのか、と言ったというが、大西はことほど左様に名誉栄達という範疇には恬淡と無欲であった。またインターンをした島田市民病院でも、その飛びぬけた才能から京大出の院長に可愛いがられ、学問のできる小児科を薦められた。さらに名市大でも、大西の能力を見抜いた次郎先生に好きなように研究をさせてもらったのである。
 大西が小児科を選んだもう一つの理由は、子どもというより、子どもの代謝異常などの生化学的な疾患を診るのが好きだったからである。大西は難しい疾患を理詰めで考え診断にたどり着く過程が大好きであった。特に症状の組み合わせから考えるより、生化学的に異常酵素や物質が明確にわかる疾患が得意であった。それで彼の外来には珍しい疾患の患者が多く集まり、何時も外来に各々英語(ネルソン)とドイツ語(ファンコニー)の最も代表的な教科書の二冊を両脇に抱えて持って行き、それを自分が読むだけでなく、家族にも本の記載を示して説明していた。大西は、話すことは苦手であるが英語・ドイツ語の論文を読む能力は人並み以上であった。しかし名市大時代は英語の論文を書く雰囲気があまり無かったので、その素晴らしい研究成果に比して英文論文が少なかった反省から、香川医大に移ってからはバリバリ英文論文を書いたのである。
 次郎先生が彼の才能を買っていたからだけでなく、医局の中でも研究者大西は一目置かれており、当直の時もその時間のほとんどを研究室で過ごしても誰かが彼の仕事をカバーしてくれていた。特に長い間医局長だった清水国樹も先輩ながら大西のゴーインギマイウエーに手を焼きながらも黙認していた。大西が居る頃の名市大は、未熟児新生児学会の演題数では常に断トツであり、その半数は大西が関与した研究発表であった。また次郎先生の退官業績集である発達小児科学の本も大西が中心となって編んだという。
 大西は臨床を医局員におんぶしている分、自分の学問的な知識を出来るだけ皆に還元する目的で、毎週木曜に医局員に最新の論文の内容などを講義していた。その話はレベルの高いものであったところから、次郎先生も時々聴きに来ていた。大西は講義の途中で学問的に面白い箇所に来ると一人で微笑むことがあったというが、それは本当に学問が好きな男であったからであろう。
 大西の趣味は文献を読むこと、というほど無趣味で、文献を読んでいる時が一番楽しそうであった。何と大西が酒を飲まない理由は、直ぐ赤くなる以上に文献が読めなくなるから、というのである。大西の家は、体を横にしないと文献棚の間を歩けないほど文献だらけで、教授秘書役をしていたお嬢さんが大西の指示した文献を引いてコピーし、夫人が大西の必要に応じて即座に出せるようそれをファイルしていた。夫人も小児科医であるが、大西の才能を認めて自分の小児科医としての専門を捨て、大西の研究を支える黒子に徹したのである。博覧強記といわれた大西の膨大な知識量と圧倒的な数の引用文献の影には、このような家族の献身的なサポートがあったのである。
 大西の生活時間のほとんどは大學、特に研究室であったので家族で出かけることはほとんど無く、小学校で四日市喘息の話題が出たときに四日市に行ったことが無いのはクラスで大西の子供達だけだった、と夫人が笑って話されていた。家が近いこともあり夫人は休日に弁当を作って子供達と大學に行き食事をすることも稀でなかったという。
 そんな生活にも拘らず2人のお子さんが立派に成長されているのは、父であり夫である大西の才能を認めて誇りに思っている家庭だからこそであろう。大西もそのことを心から感謝しているのは明らかで、あのshayな大西が自ら編んだ退官記念の「The Way to the Neonatology」と「赤ちゃんが何かを訴えている」の謝辞に、家族の大西愛理と大西喜久子の名前を忍ばせている。
 研究者大西を慕うものは家族だけでなく、伊藤進や磯部健一などの弟子達も同様であった。伊藤は既に学生時代から大西に研究の面白さを伝授され、放課後に研究室に行くとクロマトグラフィーが流れていて、「これからピークが出るから良く見とれ」と言われ、ジッと見ている間に終電に乗り遅れ朝まで研究室に居た、などの逸話に事欠かなかった。彼らが入局後は、一つのチームのように仕事をし、大西がアイデアを出すと、伊藤・磯部等が分析器を上手に使い、真夜中どころか朝まで実験することも珍しくなかった。伊藤・磯部等は大西の研究の実質的な手足となって働いたが、それは俗界の功利を越えた、学者・研究者としての大西への信頼によるものであった。伊藤も大西に劣らない訥弁であり、二人が話すのを聞くと「あれで意思が通じるのが不思議だ」と言われるほど短い単語のやり取りであったが、お互いに以心伝心の間柄だからなのである。もう一人大西の研究を支えた俊才の川出 登は、残念ながら夭折したので余り私たちの記憶にはないが、彼のビリルビン・UDP−グルクロン酸転移酵素の人での発達パターンの業績は、世界で最も広く使用されている新生児学の教科書(Avery GB 他、Neonatology、第5版、 766ページの 図 38-4)に掲載されている。大西が名古屋市大の教授選に敗れた時、誰の命令でもなく伊藤・磯部をはじめとした数人の精鋭が、大西と共に名古屋から遠い香川の地に移り、これまで以上の高いレベルの研究環境を構築したのである。

新生児医療への貢献(その一):黄疸を中心とした生化学的研究成果たかし

 大西は学生時代からパイナップル由来のプロメリンとよばれる蛋白分解酵素に興味を持って生化学教室(村地孝教授:後に京大臨床検査部教授)に入り浸っていたことに象徴されるように、一貫して生化学的な研究に興味を持っていた。特に1973年に文部省科学研究費で高速液体クロマトグラフィー(HPLC)を入手して以来、水を得た魚の如くその分析機械を駆使して黄疸・内分泌・薬物代謝などの多くの仕事を成し遂げた。当時HPLCは家一軒が買えるほどの高価であったばかりでなく、その高精度機械を臨床にリンクして使いこなせるのは大西のグループだけであるという使命感に燃え、その研究成果を次々と発表していった。
 大西等は既に1968年本邦で最初に黄疸に対する光療法を導入し、その作用機構の研究を行っていたが、光療法によってO.D.415の物質が出来ることを発見していた。そのO.D.415物質がHPLCによる分析によってEZ-cyclobilirubinであることを突き止め、さらに13C-NMRS(安定同位元素の13Cをラベルした磁気共鳴スペクトロスコピー)によってその構造を決定した。この研究成果は、ビリルビンは光によって水に溶けやすい光学異性体EZ-cyclobilirubinに変わるという、光療法のメカニヅムを解明した世界的な仕事であった。その光構造異性化反応の作用波長は500〜520nmであることから、従来のブルーライトより緑色の光が安全かつ効果的であることも証明している。
 さらに伊藤進は後に述べる薬物代謝とリンクした大西の臨床的に重要な業績として、新生児黄疸の予防・治療薬として使用されようとしていたブコロームが、実は遊離ビリルビンを高めることを見出し、その薬害として核黄疸が増える危険を未然に防いだことを挙げている。それは、新生児医療の歴史の中で、感染予防として使用されていたサルファー剤がアルブミンからビリルビンの遊離し、黄疸に気づかないままに多くの核黄疸による脳性麻痺児の原因になっていた苦い経験を思い出させる。正に大西は、研究者としてブコロームという危険な薬から我国の新生児の脳を守ったのである。
 当時名市大小児科は名大を大きく凌駕し、名古屋周辺のほとんどの主要な病院の小児科を関連病院としていたところから、医局の指示で各施設から検体(血液・尿・剖検試料など)が集まり、研究室の廊下にずらりと並ぶ−80度のフリーザーに貯められていた。大西等はそれらの資料から、HPLCを駆使して薬物やホルモンなど様々な分析による研究を行っていた。未熟児の無呼吸に用いるキサンチン誘導体としては、テオフィリンよりカフェインがエンドプロダクトであることなど、臨床に直結した多くの研究成果が発表されている。

新生児医療への貢献(その二):新生児脳科学

 大西の新生児神経学への関心も、主に生化学的な観点からであり、その業績は脳科学とよぶ方が相応しいであろう。この脳科学の研究は、血中コーチゾルレベルの測定によりcircadian rhythmが生後6ヶ月で確立されていることを示した如く(Pediatrics 72,1983年)、大西が晩年に最も精力を注ぎ込んだ子どもの心の発達をキーワードとした育児の科学に通じるものと考えられる。
 脳科学分野の研究においては、日本最新の高額な装置を必要とする31P-NMRS(リンをマーカーとした核磁気共鳴のスペクトロスコピー)を用いた基礎研究を既に1981年から開始しているが、大塚製薬徳島研究所エネルギー代謝センターとの共同研究で、大型動物である新生仔ブタを使い新生児仮死例の脳エネルギー代謝の研究を行い、1986年の第31回未熟児新生児学会の会長講演でその成果を発表して、新生児脳のエネルギー代謝障害に起因する脳障害の予防・治療法の研究の基礎を創っている。
 またこの研究と平行して、ベッドサイドでの脳循環・代謝の測定を目指して1991年より近赤外線分光測定装置(near infrared spectroscopy(NIRS))による基礎的研究と臨床研究を始めた。近赤外線による脳酸素飽和度測定による研究も我国では最も初期からであった(Photomed Photobiol 15,1993年)。1999年にマッチングファンド方式による産学連携研究開発事業に「新生児・小児用無侵襲診断システムの開発」が採択され、最新の多チャンネルNIRSを導入しリアルタイムで測定可能な生体機能画像計測システムを開発し臨床応用を行った。これらの最先端の技術による研究から、他の追従を許さない高いレベルの成果を次々と発表しているが、その研究の流れは、香川大学の大西の後継者達によって脈々と受け継がれており、現在に至っても彼らのグループの業績は我国では独壇場の感がある。

新生児医療への貢献(その三):新生児薬物学・発達薬理学

 大西の博士号研究が、名市大の小児科を挙げての研究であった出生後の静脈管血行動態の適応変化(名古屋私立大学医学雑誌16,1966)であった如く、初期から薬物代謝のキーオルガンである肝機能に興味を持っていた。さらに前述した如くHPLCを手足の如く使用するようになり、ビリルビンのみならず多くの薬物の微量測定系を開発してきた。
 小児の医薬品に関しては、あのアメリカでも最も広く使用されている薬物手引き(Physician's Desk Reference、PDR)の1973年版の中の薬の約78%は、小児に対する用法・用量が記載されていなかったのである。1997年,このような小児に対するtherapeutic orphan(治療上の捨て子状態)を解消するためのクリントン米国前大統領の声明をきっかけに,米国小児科学会開催の折にシンポジウム「The therapeutic orphan-30years later」( 既に1963年に小児薬理学の第一人者であったShirkey Hが、小児に対しては薬の安全性と有効性が放置されている、と警告しているが30年後もその現実は改善していない、という意味である)がワシントンで開かれ、学会参加中であった私も招聘され参加した。(Neonatal Care 10(9),1997) 
 我国でも大西が1995年から日本小児臨床薬理学会運営委員長となり、1994−6年に渡って行われた「小児薬物療法の実態調査」の結果を元に厚生省へ働きかけ、小児用医薬品の適応外使用(off-label drugs)の問題解決を働きかけ、さらに松田一郎日本小児科学会薬事委員長と共に,新しい小児の薬物開発ガイドライン作成に取り組んでいた。(Pediatric International 42,2000)
 あの無骨な大西が、委員会や研究会などの集まりで上京する毎に、必ず関係省庁に何がしかの土産を持って訪ね、この問題解決の陳情をしたという。松田一郎は学者としての大西を高く評価していたが、同時に自分の学問的な実績に余りプラスにならない役人への働きかけを続ける献身的な大西に、学者を越えた小児科医の姿を見ていた。このような地味な活動が評価され、2007年より45歳未満の研究者の原著論文を対象に「大西記念小児臨床薬理学会賞」が設けられたのである。

新生児医療への貢献(その四):子育ての科学

 研究中心の大西から母乳保育や子育ての重要性を説くイメージが湧かなかった私をかつ目(ワープロに出ませんが漢字にしてください)させたのは、犬飼和久から送られてきた厚生労働科学研究報告書「母子健康手帳に載せる育児情報に関する科学的根拠」であった。その内容はいかにも大西らしく、哺乳動物として人間の母子の行動を科学的根拠で解き明かし、あるべき姿を示そうとするものである。一部は大西等の研究成果も織り込まれているが、訴えようとする内容のほとんどは膨大な論文(250以上なのに紙面の都合で一部を省略したという!)の読み解きから組み立てられている。個人的なことであるが、捜し求めていた有名な13世紀ドイツのフリードリッヒ二世の「子どもはどのように言葉を覚えるか」の実験(優しさを与えられない子どもは全員死亡した)の原著文献を私はそのリストから知ったのである。
 なぜ試験管と分析器に向かい合ってきた大西が、科学的色合いが少ない育児論に踏み込んだのか、その資料を見るまでは私には大きな疑問であった。その報告書が2004年であり退官後に短大保育科の教授になったからかと思ったが、夫人の大西喜久子が、大西は外来で診る親子が昔と比べてどうもおかしいと以前から言っていた、と語っている。事実大西は既に1984年四国新聞創刊95周年記念のパネル「21世紀を支える子供の健康」のコーヂネーターとして、育児の環境の大切さを述べており、さらに1987年の学生講義では、「赤ちゃんは何かを訴えている」のタイトルで@育児とこども脳の発育、Aサルの親子分離実験、B母子分離と成長ホルモン低下、C生後の学習の重要性:脳科学的な臨界期、D母と子の絆と子どもの行動異常の関係、の項目を教えていたのである。
 大西は香川に移ってから地理的に近いこともあり、黄疸研究のことなどで岡山の山内逸郎を頻繁に訪ねるうちに、二人は肝胆相照らす仲となり、大西は山内逸郎から母乳保育と母子関係の重要性を学んだと推測される。1992年に大西が会長をした第21回日本小児科学会セミナーに、山内逸郎が自ら病を押して駆けつけ、名講演と謳われている「Human Biologyの原点」と題した母乳・子育ての重要性を訴えている。また人をめったの褒めない山内逸郎が、「大西は学者としても臨床家としても小児科医の中では日本の中でNo1」と語り、何と遺言として大西を1993年の「母乳をすすめるための産婦人科と小児科医の会」の講演に招いたのである。大西は母乳権「母親が母乳を飲ませる権利と赤ちゃんが母乳を飲む権利」の講演を行い、山内逸郎の思想に学問的な裏づけをすると共に、その重要な考えを人類・地球というグローバルなレベルまで広げたのである。
大西の、恩師小川次郎と盟友山内逸郎から受け継いだこの小児科医、特に新生児科医としての命題は、彼の退官記念誌ともいえる「赤ちゃんがなにかを訴えているー21世紀に生きる子供達の幸せを願ってー」に凝縮されている。その中には、胎児環境としての母体の重要性から、今話題となっているBarkerの仮説さらにepigeneticsにも言及しており、大西の学問の広さと視野の広さに改めて思いを新たにしている。

エピローグ

 新生児未熟児研究会の名称を学会に変える提案をしたのは大西であったが、その時は産科と新生児がその棲み分けと協調の折衝中であったこともあり、新生児学会がある中で小児科主体の同じような名前の学会が出ることに反対の意見を述べたのは私だった。しかし大西の真意は、これだけ高いレベルの研究成果が発表されている会であり、薬屋レベルの研究会と同等に扱われかねないことは、研究者のプライドに抵触するというものであり、大西の考えは正しく学会への移行はスムーズに行われた。
 また、大西が赴任した香川医大は、私の上司だった坂元正一等が中心となり、産婦人科から産科が離れて小児科と一緒に周産期医療を行う機構としてスタートしたが、初めての国立大学での試みということもあり、残念ながらスムーズな運営には見えず、何度か坂元正一から、どうしてかね、と嘆かれたものであった。それらに加え、学会でも顔を合わせる機会は多くともザックバランナ話をすることが少なかったことから、私の大西の印象は次郎先生の評価を受けている研究者の範囲を超えていなかった。
 しかし、今回、多くに方々のお話を聴き、資料を紐解くうちに、大西が単なる研究家の姿から幼子に慈愛の眼差しを注ぐ小児科医に変っていったのである。この連載の機会に、その繊細な心ゆえに志半ばで去っていってしまった大西の生き様を俯瞰して、彼の深い知識と洞察に触れることの少なかったことに慙愧の念を覚え、改めて大西の偉業の一端を僅かながらも編んだことを甘受している。

参考資料

*The Way to Neonatology(1961-2001):Shoju Onishi (Susumu Itoh / Kenichi Isobe), In Commemoration of the 35th Congress of J S of Neonatology,1999 (香川医大小児科より出版)

*赤ちゃんがなにかを訴えているー21世紀に生きる子供達の幸せを願ってー:大西鐘壽、高松短期大学幼児教育学科、2002年、アート印刷株式会社

*厚生労働科学研究報告書「母子健康手帳に載せる育児情報に関する科学的根拠:小児科医・産科医・母親・学生等の意見収集・分析」、大西鐘壽(分担研究者)、2004年、アート印刷株式会社

*予防の視点からみた小児における現代病:医薬ジャーナル36(12)p77(3309)〜p84(3316)。2000年

 項を終わるに当たり御協力いただいた、大西喜久子・二村真秀・黒柳充夫・清水国樹・鬼頭秀行・浅野里美・犬飼和久・伊藤 進・磯部健一の諸先生方に心から感謝を申し上げ.る

 

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8 新生児仲間の爽やかな兄貴分

小川雄之亮略歴

1936年 7月24日 生まれ
1962年 名古屋市立大学医学部卒業
1962−3年 米国空軍ジョンソン病院・立川病院でインターン
1963年 名古屋市立大学小児科入局
1967−9年 New York州立大学 Downstate Medical Center, Instructor
1974年 名古屋市立大学小児科講師
1979年 Harvard大学医学部小児科Visiting Professor
1981年 名古屋市立大学小児科助教授
1985年 埼玉医科大学総合医療センター 小児科教授
2000年 埼玉医科大学総合周産期センター長
2001年 埼玉医科大学総合医療センター副センター長
2002年 埼玉医科大学総合医療センターセンター長
2002年 6月18日 逝去 (65歳
(小川雄之亮先生(以後雄さん,他の方の敬称は略)を語る序章に筆者の特権を乱用し、雄さんのお別れの会に私が旅先から贈った鎮魂歌を引用する。)

私達の兄貴分であった雄さんへ

 雄さんは、あなたは新生児医療に携わる者がその研究や臨床で行き詰まった時に叱咤激励と共に常に進むべき方向をしめしてくれる兄貴の様な存在でした。ようやく我が国でもそのidentityが確立し、これから羽ばたこうという新生児医療において、雄さんを喪う傷はとても深く大きいのです。
  「後輩を厳しく諭す先達の 微かな笑みにやさしさの影」
 2001年3月にクライストチャーチで行われたアジア・オセアニア周産期学会に、奥様に伴われながらも病をおして出席され、歴史に残る感動的な会長講演を成されましたが、その責任を全うする雄さんの壮絶な姿にstanding ovationが起こりましたね。
  「病おし母子に捧げし命なり 真実一路の鈴ふりて」
学問一筋に見える雄さんは、知る人ぞ知るスポークスマンで高校時代はバレーボールの国体選手でした。晩年の雄さんは、日本の新生児医療のリーダーとして「するべきことはして来た」という、スポークスマンらしい一陣の風のような爽やかさを身にまとっていました。
  「爽やかに65年の命を駆け抜けぬ 母子の為のトスを挙げつつ」
雄さんが挙げたそのトスを、後に続く我々新生児仲間が見事に目標に打ち込むことを誓いつつ、御冥福をお祈りいたします。
2002年6月
旅路で訃報に涙しながら   仁志田博司

新生児仲間の兄貴

 1984年内藤達夫の自死が大きな動機となって若手新生児科医師が中心となり、自分達のidentityを獲得する活動から新生児医療連絡会が出来た。当時42歳であった筆者前後の年齢の者がその中心であり、私より7歳年上の雄さん達の年代は蚊帳の外であったが不思議に雄さんはことある毎に、どちらからともなく声が掛かり参加していた。雄さんの、お前達大丈夫か?、というほって置けない性格と、どこかで「雄さんはどう思うだろう」という我々の思いがあったのであろう。
 そのころ、産科と小児科が新生児を巡って主導権争いの様な出来事が幾つも起こり、中堅どころの小川・中村・多田・仁志田がつるんで幾つもの会議に新生児側の代表として出席したり、厚生省に掛け合いにいったりしたが、いつも雄さんがリーダー役であった。それは単に雄さんが一番年上という単純な理由を超え、みんなの為に労を惜しまない身に備わった、上に立つ資質があったからである。
 そのような公的な集まりや会議におけるleadershipだけでなく、学会における発言はいつもacademicであり啓発的であった。特に国際学会や外国人が加わるdiscussionにおいての雄さんは、その語学力だけでなく、外国人に臆するところのない颯爽たる姿に、何と多くの若者が勇気と自信を与えられたことか!
 雄さんは、新生児だけでなく患者の頭の先から足の先までgeneralに診れる医者になるよう医局員教育を心掛け、細かい離乳食の創り方まで一つ一つ説明していた。その教えを受けた多くの若者は、網塚がいみじくも、困った時には「雄先生ならどうおっしゃるだろう」と自分に問いかけている、と言ったように、恩師というニアンスよりもっと肌身に感じる、頼りになる兄貴のように慕っていたのである。

 生真面目ながら笑顔の優しい上司ー雄さんの真面目さのエピソードには事欠かず、教授になってからも毎朝一番に病棟や外来に顔を出していた。長年埼玉で雄さんに私事した清水浩は雄さんが厚労省の報告や原稿の締め切りで慌てたことを見たことが無いと言い、また彦根に墓参に行った際にお母様から、頑固者の雄之亮によく付き合って下さいました、とお礼を言われたという。
 名市大から埼玉医大に移籍した面々の神谷賢二先生(初代助教授)、川瀬淳(初代医局長)、江口秀史、田中太平、小山典久は、雄さんを慕って小児科に入った一騎当千の強者揃いであり、また埼玉の医局に入局した者の多くも、雄さんの下で仕事をしたいと北海道から出て来た清水浩のように雄さんと心中するつもり程の思いであった。昭和大学に新生児専門の小児科教授を、という雄さんの深慮から一時的ながら助教授を勤めた板橋家頭夫は雄さんが校正してくれた英文論文のメモ書きに雄さんの真摯な姿を思い出すと書いている。信州から颯爽と病棟を回診する雄さんに憧れて名市大に来た西田は、名市大に残って生化学的研究に従事していたが、人生の大きな転機となる八王子こども病院の新生児チーフとして赴任為る際に、雄さんから受けた「皆に出来るだけ同調するように」という自分の性格を見抜いたような適切な教訓を忘れることが出来ない、と回顧している。弘前から入局した小山典久は初めて会ったときの雄さんの笑顔がとても印象的であったことと同時に次のような雄さんとのエピソードを記憶している。彼が松江の新生児学会で発表を終えたので遊びに出るとばったり雄さんと会った。少し恥ずかしげに笑う雄さんと一緒に出雲大社にいったが、それは結婚まじかのお嬢さんのことを出雲大社にお参りに行くためであった。「学会の期間中に会場を抜け出すのは初めてだなー」と言う雄さんは、理由がなければそんなことはほとんどないのであった。
 雄さんの若い医局員に対する教育者としての姿勢も峻烈で、オーベンが言ったからというセリフは受付けず、evidence based medicineを基調に、なぜそう考えるのか、と厳しく問い詰められ、いい年の医師の目に涙を見ることもあったという。一方では古い権威主義の教授とは異なり、上下に関係無く若いスタッフも混じってカンカンガクガクの議論をしている。川瀬 淳は、いい加減な仕事をすると雄さんの「いかんやないか!」の声が懐かしいと言っていた。
 同時に、教室員やかっての戦友とも言える仲間への細やかな心配りは雄さんならではのものがあった。筆まめで若い人からの手紙にも答え、またその広い人脈を駆使して地方に戻る医局員をサポートしていた。医局員の家族にも気配り、狭山の自宅の小川バーベキュー大会は教授・医局員の壁を超えた裸の付き合いの場として、皆が楽しみとしていた恒例の行事であった。
 雄さんの秘書の方々も、教授とお昼を歓談しながら取るというintimateな雰囲気ながら、雄さんを単なる上司としてを越え心からの尊敬していた。仕事上で叱られることは無く、「私の仕事ですから、どなたのミスも私の責任です」と穏やかな微笑で受ける優しさに加え、病の雄さんを助教授として支えた清水浩のあまりの堅物ぶりに秘書達が愚痴をこぼすと、笑いながら「けしからんやちゃなあー」と言い、そのユーモアに一件落着してしまうという懐の深い包容力があった。雄さんを最後まで献身的に支えた名秘書であった手塚かをりは、それを雄さんのHumor and Pathos(ユーモアと感性)と表現している。
 雄さんの小児科医としての子供達へのやさしさの姿も数多く語られている。ジェントルマンの雄さんは何時もパリとしたワイシャツにネクタイすがたであったが、外来の日はデズニーキャラクターのネクタイをする子供への心配りをしていた。未熟児の誕生日にはその成長を記念する写真を取ることをルチーンとしていたが、その時が最も嬉しいようで、子どもを微笑みながら見ている顔が最も雄さんらしかったとスタッフが語っている。同様に、クリスマスの時の小児病棟では小川サンタが定番で、雄さん自身も楽しみにしており、その時の慈父のような笑顔がとても印象的であったという。もう一つの恒例は毎年送られるクリスマスカードであったが、それは雄さんがクリスチャンということを抜きにした、子供に送ると同じやさしさの目線で裏打された心温かいものであった。
 雄さんの子ども好きは、ついついお孫さんを裸にして診察してしまうんだよなー、と恥ずかしげに秘書達に話していたことからも伺えよう。

雄さんの生きる上の信条

 雄さんは「あかんやないか」の近江弁が口癖だった様に、少し理屈っぽいが義と仁(人に対する思いやり)の厚い根っからの彦根人であった。名市大の学長を勤めた小児科学会の貴公子と呼ばれた和田義郎をして、「雄さんの佇まいは(粗雑な武士の中で横笛を嗜む素養を持った若武者)平敦盛を彷彿させる」と言わしめている。また、かっての上司の坂元正一は、叙勲の祝いの席に病を押して出席し、もう声も十分に出ないので痩せた体を押し付けて「おめでとうございます」と言った雄さんの笑顔に、どんなに大変でも友の喜びを分かち合う為に来てくれたその仁と義に思わず涙し、雄さんこそ「愛の人・愁(物のあわれの心)の人・誠の人」であると言った。
 雄さんの心の師である次郎先生とは、学会などでは何時も一緒で、皆が「親子ですか」と間違うほど親密であった。共にクリスチャンという理由をこえて、無言でも分かり合うお互いの尊敬と信頼の絆が感じられ、傍目にも羨ましく思ったものであった。雄さんの机の前には、いつも次郎先生からの直筆の書「赤ちゃんは何かを訴えている」が掛けられていたが、その言葉こそ雄さんの人生を貫く心であった。
 雄さんは彦根の名家に生まれ、名門東彦根高校でバレボールに明け暮れていた。成績も優秀で、医療には直接の関係は無かったが医学部を受験したが、名市大に入らなかったらバレボールの推薦で他大学で医者以外の道を歩んだかもしれないという。名市大でバレボールの先輩だった柴田隆は、雄さんが医者にならなかったら頭脳明晰な名監督としてオリンピックに出ていたろう、とまでその文武両道の才能を評価している。
 雄さんのカソリック入信は、家や家族の信仰の影響で無く、中学時代の友人の感化を受けての自分の判断であるところが、自立心の強い雄さんらしいところである。奥様もクリスチャンで毎日家族で教会に行き、帰りに買い物をするのが三人の子供達の楽しみだったという典型的なクリスチャンをバックボーンとした生活であったが、私だけで無く長年共に仕事をしてきた仲間達も、信仰を表に出す素振りは微塵も感じられなかったのは、医療者として人の上に立つ立場の雄さんらしい一つの諦観であったのだろう。
 奥様は、仲人の次郎先生が「小児科医の妻は母子家庭になるほどの覚悟を」と言われた通り子供が小さい間は母子家庭同様であったが、何時も「家のことはまかせるよ」と言って医師としての仕事に誇りを持って働く雄さんを支えることに喜びを感じていたという。家庭人としての雄さんは、ビール・漫才・アイスクリーム・おしゃべりが大好きで、皆がお喋りをしていると「何々?」と話の輪に入り、最後は「くっだらん!」というのがお決まりであったという微笑ましい風景が目に浮かぶ。また、雄さんにはロマンチストの一面があり、結婚前に奥様に北海道の学会からすずらんの花を入れた英文の手紙(結婚までの手紙はすべて英文)贈ったという。母子家庭であったが雄さんは心して家族と一緒の時間をひねり出し、なんと母の日には夫人がびっくりするくらい何時どこでと思うほど見事な手料理を作って驚かしたという。奥様が二年間のアメリア生活は、雄さんが楽しげに研究に専念出来た時であると同時に、夕方にはキチンと家に帰って来るのでとても楽しかったと言っている。副次的に良かったことは、呼吸の研究をする者が、と上司にいわれタバコを止めたことです、と笑いながらおっしゃられたが、あの金言実直な雄さんがタバコをすっていたのはしらなかった。体育系の名残であったのであろう。

新生児医療への貢献

 雄さんの我が国の近代新生児学および医療を確立した功績は多岐に渡っており、以下はその一部に過ぎない。
 研究においては、我が国の新生児医療のメッカであった名市大でスタートしたところから、なんと最初の仕事は先輩大西鐘壽の指導下で行なった黄疸の母親の尿中のpregnandiol分析であり、初原稿は「新生児遷延性黄疸に関する知見補遺」であった。(1963,小児科診療)
 卒業後1年米軍病院でインターンをしたこともあり、小児科入局時より英語が堪能で、1965年、第4回国際小児科学会で次郎先生とLannmann教授が共同座長をした時に通訳をしたのが切っ掛けで、Lannmann教授にその才能と人柄を認められ彼の元に留学した。雄さんの生涯の研究のメインテーマは、呼吸器系、特に肺サーファクタントであったが、その基礎はアメリカで行なった羊の、chronic preparationを含めた研究であり、その成果は博士論文:fetal pulmonary surfactant in amniotic fluid of ewes. (1972,Tohoku J Experi. Med.)として実を結んだ。残念ながら雄さんが帰国後の名市大ではNICU導入で動物実験どころでは無くなり、臨床研究に専念したが、雄さんの臨床家としての優れた感性を示すエピソードを杉浦壽康が語っている。それは、雄さんが留学から帰って暫く障害児施設で働いた時、「母親による全身の長管骨の多発骨折例」を大学の次郎先生の外来に送ったが、1970年頃であり多分日本で最初のbattered child syndromeであったろう、というものであった。間もなく雄さんは柴田隆の後をおそって、NICUの責任者となったが、その時それまでの経鼻挿管を全例経口挿管に代えたように、自分が学問的に正しいと思ったことは慣例を変えても断行する姿勢を貫いた。pulmonologistとして、新生児にとって大切な経鼻呼吸を妨げないという理念に基づくものである。個人的な思いで出あるが、私が経管栄養チューブを従来の経鼻から経口ルートにすべきと学会で発言し、大御所の山内逸朗にお小言をもらったのを、雄さんが学問的データを元にサポートしてくれたことを思い出す。
 未熟児無呼吸治療のテオフィリンがoff-label であったのを解決したのも、雄さんの呼吸専門家と学会理事長としての責任からの仕事であった。その切っ掛けは、新生児で大西鐘壽が指摘していた如く、大半のクスリが適応外のまま使用されていたが、厚労省がスケープゴートとして薬価の安いテオフィリンを槍玉に挙げたことであった。キチンと臨床的なデータを出す労力に加え、厚労省というお役人と儲けにならないクスリの治験をしたがらない製薬会社を相手に辛抱強い仕事であったが、それを成し遂げたことは、新生児そのものが医療のなかでオーファンとして扱われて来たことに一矢を報いる歴史的な出来事と評価されよう。
 雄さんが長きに渡って日本未熟児新生児学会の理事長としてこれまでの年一度の学術集会だけのような活動から、新生児科医師のレベルの向上や周産期医療システム確立など、実質的な活動の輪を広げたことは特筆されるべきであろう。特に若手を対象とした教育セミナーは自ら初代の委員長として、歴史的に有名だった富士山麓の医学教育者養成セミナーをモデルに、参加者の若い医師が議論に加わりそのproductを発表するスタイルを計画した。病に侵されて委員長を中村肇さらに田村正徳に譲ったが、両人とも雄さんの教育セミナーの掛ける情熱に驚いたと言う。セミナーは雄さんの意を理解した多くの人の努力で成果を挙げており、雄さんをして「若い人の新生児を思うDNAが自分と同じであることが分かって、安心して死ねる」と言わしめている。
 恩師次郎先生が、我が国の新生児医療が国外で正当に評価されていないと嘆いていたことから、その流暢な英語と誰にも好感を持たれる人柄で積極的に国際学会等で活躍した。アジアオセアニア周産期学会や国際周産期学会の創設期に事務方として重要な役割りを果しているが、冒頭で述べたごとく アジアオセアニア周産期学会では命を削って会長の責務を果たしている。また、日韓新生児交流も雄さんが始めたものである。 その雄さんの思いの表れが2002年の47回日本未熟児新生児学会で予定されていた「Globalizatonと日本の新生児医療」の特別講演であった。その年の始めには、既に病状は末期的であることが明らかであったのにその講演を引受けた雄さんは、這ってでもみんなにこのテーマを聴いてもらいに行くという鬼気迫るものがあった。6月に亡くなられた雄さんに代わって戸刈創が立派にその意を伝えてくれたのである。
 名市大の新生児の後継者であり、雄さんの学会関連の仕事も受け継いだ戸刈創は、代役となる特別講演と学会事務の引継ぎの為に亡くなる2ヶ月前に病床訪れた。terminal stageであり、1時間程頂けますか、と問うたところ、「とんでもない。伝えなければならないことがたくさんあるので最低3時間を」と言われ、事実、学会のことのみならず大学のあり方から日本の新生児医療の未来まで時間を忘れるほど熱く語ったという。最後の最後まで雄さんらしいエピソードである。
 雄さんの最も大きな新生児医療への貢献の一つは、埼玉総合医療センターの初代小児科教授として関東で最大級の周産期センターを確立したことであろう。新設のセンターに名古屋から数人の同士と移籍し、忙しい小児科救急もこなしながらNICUを立ち上げるまでの苦労は、初代センター長坂元正一の絶対的な雄さんへの信頼があったとしても、その卓越したリーダーシップによるモーゼの脱エジプトのような苦難の道程だった。数年で関東有数の新生児施設の規模とんなり、1990年には我国最初の総合周産期センターの一つに認可され、2000年にはそのセンター長、さらに最晩年の2002年には病院長とも言える全体の医療センター長となっている。それは施設内の事情を超え、新生児医療の社会的認知を高める大きな作用をもたらしたのである。田村正徳がその後任になった背景には後日語られるであろういくつかのドラマチックなエピソードがあったが、主たる理由は雄さんの築き上げた周産期センターが、既に一施設のレベルを超えて全国に影響を及ぼす規模と役目を担うようになったからである。やはりクリスチャンである田村正徳には、臨終の間際に雄さんが伝えたいと思っていた言葉 「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし:ヨハネ伝、第12章24節 )の真の意味を、天啓のように感じてとって、名門長野こども病院院長職が嘱望されていながら、火中の栗を拾う覚悟でその任を運命と受け取ったのであった。

雄さんからの我々への最後のメッセージ

 人は亡くなる時に、その人生がくっきり浮かぶ挙がるという。雄さんの幼い子・弱い立場の人を大切にした愛と誠実さ、それに人間として強さはすべて信仰に裏打ちされていた。「70歳ぐらいまで生きられたらナー」と言ったことがあるが、まだやりたいことがあり無念だったと思う反面、充実した65年の人生だったと神に感謝しています、と奥様が語られていた。
 雄さんは外来と回診を最優先で予定を組んでいたが、病気が進行しそれが出来なくなったことを同窓会で話されたときに、一瞬絶句したのはその無念さからであった。責任を全うしようとする雄さんの姿を、秘書の手塚かをりは次のように描いている。
 6月17日夕刻、ベッドからの最後の指示のあと「これで全てですね」と念を押し、丁寧に「有難うございました」とおっしゃられ、その12時間後に逝かれました。先生は予定を話すとき「来年は生きてるかわからんなあ」と言いながらも、その瞳はいつも未来を向いて輝いていました。2002年4月の小児科学会出席を断念した時、体力をつけ7月の神戸の新生児学会の出ましょうと約束しましたが、先生は必ず復活すると信じていました。6月14日「神戸の上谷先生に連絡をとって、出席できそうもありません、御迷惑をお掛けして申し訳ないとお詫びして下さい」と面会謝絶の病室で指示され、涙が出てしまいました。その時先生は「手塚さん、どんな時も人間、ユーモアとペーソスを忘れちゃあかんのよ」と微笑みながら諭してくれました。クライストチャーチの学会に奥様の手を借りながら足を引きずってゆくのを見て、どうして?、と思いましたが、先生にとって生きるということはそういうもので、手を抜くことはできないのです。亡くなった後片づけにセンター長室に入ると、生前と全く同じ佇まいで、キットもう一度この部屋にもどって仕事をするつもりだったのであろうと思いました。2001年12月22日に両足がパンパンに腫れて緊急入院した時も、「やー婦長さん、無理だといわれたのに海外出張に行ってねー」と苦笑いしながらも目はキラキラ輝いていました。2002年1月1日に入院中の身で「医療センター長」を引き受けた時、多くの人は終末期になぜ?、と思ったようですが、先生は「キリスト教の利他主義の精神で託された役目は最後まで出来る限りしなければ」とおっしゃられました。同年の1月4日の新年祝賀式では、先生のダンデイズムでしょうかセンター長としての義務感からでしょうか、車椅子より起立が楽なんだよ、と言って30分も立って挨拶されたのです。自分が壮絶な闘病中にもかかわらず、お互いに相手を思いやる調和の心ハーモニーがセンターの目標である、と話された言葉が印象的でした。
 既に病状が進んでいた2000年に、愛弟子の小山典久の要望に答えて豊橋で「肺サーファクタントの機能的欠如と新生児疾患』の講演をしたが、その話しの中の節々に「残された人生を小さな子供の幸せにささげる覚悟」が感じられたという。また亡くなる前に弟子達に託した言葉は「どんな環境になっても、今までどうり子供に優しい医療を続けて欲しい」というものであった。
 最後に、メヂカのUrological nursing(2000年11号52−6)に、雄さんが一患者として投稿された「声なき声を聞くために」から、「患者さんの声を聞くことは簡単かもしれませんが、患者さんの声は弱いものです。声なき声を聞くのが私たち医療者のつとめでありましょう。」を引用する。赤ちゃんの声なき声を聴く姿こそ雄さんの生きてきた道であり、その座右の銘としていた次郎先生の「赤ちゃんは何かを訴えている」に繋がるものであった。

 稿を終えるにあたり、御協力いただいた、小川路得子夫人、神谷賢二、川瀬淳、江口秀史、田中太平、小山典久、杉浦壽康、黒柳  、鬼頭  の各氏に深謝いたします。また、多くを埼玉医大小児科編纂の「小川雄之亮教授追悼文集」に寄稿されました方々の文章を参考にさせていただきました。 

 

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9 内藤達男「新生児の仲間に思いを寄せて殉死した男」

1940年:台湾台北市生まれ
1974年:愛媛県三芳小学校入学
1956年:千葉県松戸市立第一中学卒業
1959年:東京都立新宿高校卒業
1966年:東京大学医学部卒業
1968年:国立小児病院研修医
1970年: 同 新生児科医員
1974年: 同 新生児科医長
1985年: 逝去 (享年 45歳)


はじめに
私が内藤達男先生(以後内藤、その他の方々も敬称略)と初めって個人的な接点を持ったのは、まだアメリカ帰りというだけで海の物とも山の物ともわからない私に、突然内藤から慢性肺疾患の症例のレントゲンを見て欲しいという電話があり、国立小児病院に彼を訪ねた時であった。それは内藤が、CLDを外因性のBPD群と内因性のWilson-Mikity群のスペクトラムとして論じた私の総説を読んで、面白いことを言う奴がいるので話を聞いて見よう、というものであった。内藤は私を試すような素振りなど微塵も感じさせない柔和な笑顔で、面白いねと相槌をうちながら私のCLDの話を聞き、やがてアメリカの新生児医療事情に話題を広げて行った。天下の国立小児の医長であった内藤に声を掛けられたという晴れがましい気持もさることながら、繰り返しわざわざ来てもらってすまないという彼の謙虚さが心に残った。その最初の出会いから、内藤の日本の新生児医療の先頭に立つという使命感と、皆と一緒にという優しさの綯い交じった生き方を知ったのである。


内藤達男という男
内藤は会社勤めの父親の関係で台北で生まれ四国の今治に帰ったが、その人生の大半を彩っているのは、サークル活動を通じての東大時代の仲間と新生児医療の世界での仲間であった。その仲間達が一様に描く内藤の姿は、そのこぼれる様な笑顔に代表される優しさと頑なにさえ取られる誠実さであった。
内藤は既に東大教養学部入学時から、子どもの為に小児科医になりたいと明言して教育研究会というサークルに参加し、施設の子供達とキャンプをしたり子ども野球のコーチをしたりと、生来の子ども好きの面目躍如たる活動を楽しんでいた。内藤は子供たちとの活動の中でアコーデオンを引き、歌もよく歌っていたという。残念ながらアコーデオンの腕は聴いたことがないので定かではないが、確かに楽しそうに歌う歌は上手であった。またサークル仲間と山小屋を作り、それに「狸の家」なる看板を掲げて、仰々しい教育研究会なる会の趣旨より、気心のあった仲間同士で海岸に何日もテントを張ってキャンプをしたり、ポケットの硬貨をかぞえながらの乗物代さえままならない貧乏旅行をするという若者ならではの生活を謳歌していた。子供と親しくなる方法の一つとして内藤は映写技師の資格を取っていたが、その延長で子どもをテーマとした16ミリの映画を自主制作している。その為に、小児科医となってからの真面目一方の内藤からは想像し難いが、東京オリンピックの入場券のダフ屋紛いのことをしたり、友人のバーを借り切って同伴パーティなるものを企画して資金集めをしたという。まさに友達には「達チャン」と親しみを持って呼ばれていた内藤の青春時代であった。
さらに堅物と思われていた内藤の驚くエピソードは、ドクトルマンボーのように船医として数ヶ月間外国航路の貨物船に乗ったことである。インターン闘争のゴタゴタの後の医師として就職するまでのモラトリウムのような期間とはいえ、内藤に取っては忘れ難い思い出の時であった。それは、寄港地に会いに来てくれた同級生であった春子夫人に、シンガポールの夕焼けと南十字星の下で求愛するという、ロマンチストの内藤に相応しい映画のワンシーンの様な出来事があったからである。
もう一つ学生時代の内藤を語るキーワードは野球であった。内藤の過ごした戦後の少年時代は、どの街角でも子供達の遊びの中心は野球であった。全てに正統派の内藤が野球少年に憧れたことは想像に難くない。東大で野球部に入部した内藤の姿は、バットを短く持ち前屈みにホームベースに被さり、何が何でもボールにバットを当てるという同僚の描写が合っている様であるが、それよりも合宿の際に内藤が参加すると部室が綺麗になるというコメントが腑に落ちる。実際の活躍はさて置き、内藤が野球好きであったことは事実で、その追悼文集のタイトル「子どもたちと彼」は少年野球のコーチの経験を通じた内藤と子ども達の交流を描いた小文から取ったものであった。また、後に述べる新生児医療連絡会設立のエピソードでは、内藤と野球が重要な役割をはたしている。
新生児医療連絡会で恒例に行なわれた東西野球大会(東軍 immatures, 西軍 kernicterus)は、内藤が高校球児であった井村総一に声を掛けて始まった。話半分ながら王選手と東京地区で甲子園を目指した井村総一に、運動から程遠い文学青年のような内藤は「ソフトボールか?」と冗談を言われたという。その緒戦で2人はバッテリーを組んだが、まだユニフォームが無かったとはいえ、内藤はなんとアンダーシャツで試合に出ていたのが語り草となっている。
酒飲みで偏屈なほど人見知りをして無口な井村総一と、酒を余り飲まず常に周りのみんなの世話をする内藤とが、何故気が合うのか不思議であった。
二人の出会いは古く、既に1972年に井村総一が勤務していた母子保健院と国立小児等が新生児勉強会を行っていたころから知り合い、お互いの医師としての有能さを認め合う以上に、余りに相手を気遣う内藤に対し少し突き放す様な物言いをする井村総一は、良い刺激だったようである。その後NICUのスタッフに苦しんでいた内藤の下に、井村総一が日大から秋山和範を送ったことなどで二人の絆は深まり、酒の飲めない内藤が飲んべーの井村総一に付き合って真夜中過ぎまでカラオケを歌うことも珍しくなかったという。
新生児医療に埋没する前の内藤の医師としての夢は、無医村で働くことであった。それは、内藤の弱者への温かい眼差しによるものであり子どもや新生児への思いと同列であるが、もう一つは名誉や地位をめざすドロドロした世界が嫌いでそれらから超越することを願っていたからと考えられる。同級生の五十嵐正紘が北海道厚岸町で一般実地医となったとき、「俺がしたいことを先にされてしまった」と内藤が言った一抹の寂し気な表情を忘れることが出来ない。追悼文で五十嵐正紘が、厚岸湾に燃えながら沈む夕陽に重ねて内藤を偲んでいることも、何か象徴的と私には思えるのである。
私にも忘れられない内藤の姿がある。1980年8月に田沼悟が中心となって第一回福島県未熟児・新生児医療シンポジウムが開かれたとき、一緒に福島県立医大の新生児室を回診した。その新生児室は小児病棟の一角を仕切っただけで、点滴をしている未熟児の側に布団が敷かれ付き添いのお婆さんが寝ており、もう1が月以上入院しているという新生児が入った保育器の側には農閑期で休みだという父親が椅子に座って無呼吸回数を記録していた。田沼悟と医学的なdiscussionをして病棟を出るとき、内藤の目に涙が浮かんでいた。その涙は、小さな子どもの命のために恵まれない環境ながら身を削って働いている仲間がいるという思いからでであった。帰京後、内藤はポケットマネーで輸液ポンプを田沼悟に送ったのである。
もう一つ内藤の人恋しさとその無欲な純粋さを語るエピソードを挙げよう。創設期のメジカ出版社の医療者向けのセミナーで、内藤と橋本武夫・池ノ上克それに私が講演した打ち上げの慰労会は、長谷川良人社長の行きつけの鮨屋であった。内藤は飲めない酒に顔を紅潮させながら、「今夜は良いナー」と歌うように繰り返しながら新生児医療を巡る屈託の無い話の中に加わっていた。その翌日長谷川良人の下に。内藤から「あんな有益な時間を与えてくれた上にお金をもらうのは気が引ける」の手紙と共に講演の謝金が送り返されてきた。長谷川良人は、無垢の新生児のような内藤の顔を思い浮かべながらも、この不思議な手紙とお金を目の前にして思案にくれ、橋本武夫に電話したところ、なんと彼も謝金を送り返してきたのである。長谷川良人は、それでは会社と講演者の間合いがなくなる、というセリフで再び送り返しという。多くの医療者と面識のある苦労人の長谷川良人にとっても、内藤は特別な男であった。それが一つの切っ掛けであったか、長谷川良人はその後、新生児屋のグループにエールを送り続け、採算を度外視して雑誌「NICU(現在 neonatal care)」や成書「新生児学」を発行している。
同じ国立小児病院で働く内藤と春子夫人は人も羨むおしどりコンビであった。2番目のお子さんを病で亡くされたことが、内藤の新生児医師としての生き方に影響を与えたことは事実であるが、子供が大好きな内藤は忙しいながらも努めて家族の時間を大切にする父親であり夫であった。OD(起立性失調症)で朝起きるのが苦手だった内藤を起こすのが子供達の大仕事だったというが、内藤は子供たちに起こされるのを楽しんでいたのかもしれない。お父さんの膝が指定席だった「くっつき虫」の末のお嬢さんも、何時も家族を気遣って「どうしたの具合が悪いの、ちゃんと眠らないと駄目だよ、そんな所で居眠りすると風邪を引くよ」という内藤の口癖を真似ていた長女も、父親としての内藤の存在は大切であった。内藤に寄せた春子夫人の追悼文「あなたへ」の、「貴方の心を子供達と共にもう一度生きていきます。でも出来るものなら子供のように大声で、また来てね、と叫びたい。一人で見上げる広くて青い空が、とても悲しい」のくだりは、真の夫婦のみが発することの出来る言葉であり、読む者の心を打つ。
内藤の相手を思いやるあたたかい心(筆者註:単なる親切のレベルを超え相手の苦しみを自分の苦しみと感じる心)のエピソードは事欠かない。研修仲間がストレス性胃潰瘍で医局に寝込んだ時、自分の当直業務も超忙しいにもかかわらず、寂しいだろうと彼の側に一緒に泊まり続けたばかりでなく、主治医が精神療法に催眠術を彼に学ばせた時に暫く付き添って習いに行ったのである。精神的ストレスがどれほど辛いものか、内藤は自分の体験から知っていたからであるが、相手は内藤の優しさに一生忘れないものを感じている。もうひとつの思い出の一つは、内藤の発案で当時病気療養中の関西医大の松村教授を多田裕・井村総一・筆者の4人でお見舞いに行った時である。脳梗塞で倒れられ気管切開されていた松村教授が、私たちの顔を見るなり涙を流されると、内藤が部屋を飛び出して泣きだしたのである。勿論私たちもあの威厳のある誇り高き松村教授の心情を察する気持ちが起こるが、内藤の場合はそれが自分の感情に投影され同じレベルの感情となってしまうのであろう。各々かなりの忙しいスケジュールを調節して東京から遠路やって来たのであるが、内藤の滂沱の涙でそこに居たたまれず面会は数分で終わってしまったのである。帰りの車中、内藤はその反動か少しの酒で異常にハイテンションとなり、人生論のようなものをズット喋り通しであった。

内藤の書いた「子どもたちと彼」(1962年、東大医学部一年生クラス会雑誌「アナストモーゼ」)を読むと、本来子供が大好きで一緒に歌ったり遊んだり出来る子供を対象とする小児科医を夢見ていたはずであるが、会話すら儘ならない新生児医療にのめり込んだ理由には、単に奥山和男との出会を越えたものが窺える。内藤はその中に、「子供と野球をしていてガラスを割ってしまうが誰も自分が悪いと謝らないので自分がお金を出した。自分は子供が大好きで子供を美化し理想像を作っているが、子供の世界は大人の世界の反映であり、ずるさ・いやらしさがある。」と書いている。では何故内藤は子供と遊ぶのか。内藤はたくさんの友人がおり楽しく付き合っていたようであるが、不思議な孤独感から何時もみんなのために自分を卑下するように振舞っていた。自分はそこから逃れるため子供の中に身を置いて、むしろ子供に遊んでもらっているのだ、と言っている。この内藤の文章に、大人を反映する子供よりも、もっと無垢な赤ちゃんが好きな背景が見えてくるのである。

内藤は電話魔であった。それは診療で疑問があると天下の国立小児の医長という肩書きに捕われず謙虚に意見を求める態度からであったが、それ以上にあの無口な井村総一には毎日のように電話をしていたというところから、彼は人恋しい寂しがり屋であったからであると思う。全国の中心的NICUで働く新生児仲間で、彼から電話を受けなかった者は少ないのではないだろうか。事実、亡くなる何日か前まで、青森の千葉力・石川の大木徹郎・長崎の増本義・豊島病院(当時)の山南貞夫等と電話で話しており、いずれもが彼の突然の死に驚いている。特に山南貞夫には、致死的疾患とされているポッター症候群は、脳は正常であるから肺さえ治療すれば助かるはずだと、熱く話をし、なんと亡くなる1週間前の12月23日に国立小児でお互いの症例を持ち寄って検討したばかりである。翌年1月18日の周産期学会シンポは急遽山南貞夫が内藤のピンチヒッターとしてその内容を話した。

内藤は心やさしい人であった。長期入院児の誕生日にポケットマネーでバースデイケーキを買ってきたり、スタッフの個人な健康などにも心を配っていて、大丈夫?ちゃんと寝ている?体に気をつけるんだよ、が彼の口癖だった。また、花が好きで一人で病院の花壇の手入れをしたり、病棟に花を飾ったりしていた。特に沈丁花が好き好きだったのは、一説によると春子夫人との恋愛にまつわる思い出の花であったという。内藤はにかむ様に微笑む爽やかな笑顔は、それだけで人を和ませてくれた。


内藤達男と国立小児病院
内藤の卒業当時はインターン闘争が激しさを増した時期であった。争い事が本質的に嫌いな彼は所謂ノンポリに属していたが、インターン制度改革の主旨には賛同し、クラス全体で作成した東大病院での2年間の自主的研修カリキュラムに沿って、外科や麻酔科、小児科などを研修した。春期の国家試験を全員でボイコットの後、秋期に受けている。親友の島田宗洋の誘いに応じて船医としてインド洋などを半年ほど旅してから、大学の仲間10人で出来たばかりの国立小児病院に無給研修医として参加した。その正式職員としてのポストは極めて難しく、ほとんどが各科をローテイトした後に外に出るか無給のまま研修しなければならず、内藤も既に都内のある病院に内定していた。ところが奥山和男(当事の新生児科医長)自らがその病院と交渉して、偶々空席となった新生児科の医員のポストに内藤を抜擢したのである。奥山和男は、丁度出たばかりのベビーカーバードを一生懸命使いこしている真面目な診療態度だけでなく、治療も空しく亡くなってしまった新生児からレスピレーターを外しながら涙をふいていた内藤の心優しい態度に好印象を持った、と語っている。その僅か4年後の1974年に奥山和男が昭和大に教授として栄転すると半年ほど医長代理を経て、国立小児病院では例外的な34歳という若さで内藤が医長に抜擢されたのである。
国立小児病院が出来た経緯は、1965年に第11回国際小児科学会(ちなみにその時のテーマが出生前小児科Perinatal Pediatricsであった)が日本で開かれる時に、国立の小児専門病院が無いのは国威を下げる、とバタバタ創られた経緯があり、素晴らしい人材は揃っているが(事実殆どの医長が後に大学教授として転出している)組織と建物はつけ焼刃的であった。筆者はかって岐阜で行われた小児科学会のシンポジウム「小児科に未来はあるか」において、小児科学会のリーダーシップをとっていない東大と子ども病院らしい夢を欠いている建物の国立小児病院を批判し物議を醸したが、今でも正しかったと自負している。その反省から現在の成育センターが創られたと信じている。
最も若くして医長となった内藤の命を縮めたのも、その不条理な国立小児病院の組織形態であった。慶応・東大・慈恵の三つ巴のドロドロの権力・権利争いもさることながら、信じ難いことにアレルギー・内分泌などの各専門科が一様に横並びの医長と医員の定員構成であった。当然重症患者の多い心臓や24時間の当直を必要とするNICUを持つ新生児の分野がそのスタッフ枠で運営出来る筈がない。お役所仕事の典型的な悪平等の組織であった。若くして医長になった内藤は、必死にその改革を願って精魂を使い果たしたのである。
内藤が医長になった1974年は漸くCPAPや人工換気療法が導入された近代新生児医療の黎明期であった。我国唯一の国立小児病院は小児のあらゆる部門のメッカであり、最先端のレベルの医療が求められていた。特に新生児医療においてはまだほとんどの大学にもNICUは無く、多くの若い医師が新生児を学ぶ為国立小児病院に研修に来ていた。内藤は国立小児が重症の新生児の最後の砦であるという気概と責任感から文字どおり新生児医療に全身全霊を傾けた。官舎が病院の敷地内にあったこともあり、大体朝夕の食事以外は病院内の仕事をし、まとまった時間の取れる夜中に再び病棟に顔を出しは重症児を診察し、カルテをチェックしては研修医の記載へのコメントを上手な字で真っ赤になるほど書き込んでいた。それが数ページに渡ることも珍しく無く、何と内藤は日付のスタンプをもっていたという。また最重症児の時は、内藤が病棟にいるので担当医は朝まで帰れないことがしばしばで、更に珍しい事例が入院すると夜中でも全員集合がかかり、mid-night lectureが始まるのである。
当時を知る研修医は、内藤の診療の力量が彼等に比べて桁外れであったこと以上に、日本のトップをという姿勢から溢れる気概に、内藤が病棟に入って来るとピンと空気が張りつめ、スタッフの表情さえ変わったという。しかしそれは権威と権力を見にまとった古いタイプの医学部教授の場合とは異なり、若いスタッフに高いレベルを求める以上に、自分自身にもそれを科していたからである。
内藤が外科や心疾患のみならず多くの他の専門分野に関わる新生児が入院するNICUを新生児の視点からから管理していた処から、他部門の医師達から揶揄するように内藤天皇と呼ばれていた。筆者も北里大学でNICUのチーフをしていたとき、同様に他科の医師達から、仁志田のNICUじゃないぞ、と嫌味を言われたので、それなら点滴から栄養管理まで自分達でやれ、とタンカを切って一件落着した経験がある。ナースを含めた24時間体制のチームワークがNICUのバックボーンであり、専門だからとそれを無視した医療は成り立たないのである。そうそうたる人材が揃っている国立小児病院で、最も若い医長の内藤の苦労は察しても余りあるものであった。それだけ内藤は日本一のNICUという誇りと、自分でプレイヤーを買ってきてNICU内に配線してBGMとしたりと自分の城としての愛着を持っていた。内藤はよく私に、俺は病棟のごみ拾い係りだよ、と冗談を言っていたが、事実きれい好きな彼は病棟でも良くごみを拾っていたというが、それも内藤のNICUに対する思いの表れの一つであった。
内藤は優れた臨床家であった。内藤が呼吸障害の児を一目みて「この汗のかき方はTAPVR(総肺静脈還流異常)だよ」とつぶやき、正にそうであった、というエピソードを研修医が語っている。若いスタッフにも彼並みの手を抜かない観察と高いレベルの医療を要求したのは、赤ちゃんのために一生懸命な内藤の診療姿勢故であるが、知らないことは知らない、分からないことは分からない、とはっきり言う謙虚さと正直さに研修生が驚いていた。秋山和範は、こんな偉い人がこんなに一生懸命働いているのに感動した、と語り、生涯の心の師としている。内藤の診療姿勢の基本は、常に患者にべったり付いて良く見ろ、必ず赤ちゃんから教えられることがある、さらに自分の子供のように最後まで諦めるな、というものであった。若いレジデントが多発奇形の重症児を「こんな子供を助けて何になるの」と、ある意味では素朴な質問をしたところ、内藤は珍しく、新生児医療を知らないくせに何を言う、と烈火のごとく怒ったという。その背景には、内藤の2番目の子供が先天性心疾患で長期間の呼吸管理の後に亡くなった経験がある。内藤は、医師としてだけでなく父親として、やれるだけのことをする医療の意味を知ったのである。その可能な限り救命をというスタンスは、まだまだ十分な医療が提供できなかった時代であったことに加え、彼はやれるところまでするのが患者に対する礼儀であると考えていたようであった。
内藤は、全国から彼の下に研修に来てくれる若い医師達の過酷な先の見えない労働環境をなんとか改善したいと願っていた。仙台から研修に来ていた山田雅明は2年で貯金が底をつき、もう新生児から足を洗う、と言って帰って行ったが、同僚に「それは無理だよ」と言われたように、帰ってからも新生児を続けたのは、内藤マジックと呼ばれる彼の人柄に触れたからであった。初期の頃は、新生児を研修する施設が少なく、全国から若い医師が集まったが、各地にそれなりのNICUができるようになると、内藤が最初に研修医に、ここは野戦病院だからね、と言った激務に加え無給という条件でも来る医師が減少し、さらに数少ない常勤医師の負担が増えるという悪循環に落ち入ったのである。
内藤は親友であった小児循環器内科の永沼万寿喜医長とよく院長室にセンター構想を語りに行っていた。多分それは横並びの各科並列でなく、PICU,
NICU, CCU, 救急部門等のように各科の壁を越えた縦割りの組織を描いていた。それが各科に人員をばらまく悪平等を解消する一つの方法と考えられた。しかし、彼等の願いは成育センターが出来るまで叶うことはなかった。NICUを有する新生児科がその構造上他科のスタッフと接する機会が少ないことと、真面目過ぎるほど愚直な性格から病院内で孤立していた。
内藤が、新生児医療は24時間当直を必要とするICUなので、とスタッフの増員を何度医局長会議で懇願しても、アレルギーや内分泌でも夜間救急がある、とあしらわれていた。その内藤と他科の激しいやり取りは、病院の医局に置かれていた医局長ノート上でも行われたという。大学間の陰惨な覇権争いに加え、真面目一方の内藤は権謀術策が下手でいつも足を引っ張られ、その悔しい思いを私達新生児仲間にこぼすことがあった。信じられない事実であるが、内藤の春子夫人が、当然のキャリアで小児神経科の医長に推挙の議題があがった時に、医長会で夫婦二人が医長になるのはいかがなものかと理不尽な意見が出され、潔癖な内藤は自治医大の医師を推挙した。



内藤達男の新生児医療への貢献
内藤の新生児医療への貢献は、日本が世界に発信したサーファクタント補充療法や高頻度人工換気療法などの先駆的臨床研究のリーダー的役割を果たしたことなどが挙げられようが、彼の最も大きな貢献は新生児医療に携わる人材の養成と我国における新生児医療のidentity確立への尽力であった。
内藤が15年余の間に国立小児病院で新生児医療を共にした42名の医師の多くは、全国各地でそれぞれ内藤の教えを胸に新生児医療に従事し、さらに内藤イズムの種を蒔いている。それらは臨床上のちょっとしたコツであり考え方であり、さらには決して諦めず子供のために全力を傾けるという基本的なものである。没後25年を経た現在でも、困難な事例に遭遇した時、内藤ならどう考えるであろうか・どうするであろうか、と思いを馳せる者は少なくない。
内藤の新生児医療のidentity確立への夢は、日本新生児医療連絡会という形となって実を結び、脈々とその活動を続けている。その成立と発展の歴史は優に一冊の本となる量であり、以下に筆者が追悼文集に寄せた「内藤先生と新生児医療連絡会」の触りを載せる。
1982年の春、私は内藤から新宿に呼び出され「41−2」の会の構想を相談された。それは東京近辺のNICU責任者が偶々インターン闘争などの激動の41年前後2年の卒業であり、お互いの情報交換と親睦の会を作りたいというものであった。二人の呼びかけで9人(内藤達男・多田裕・井村総一・中村 敬
・後藤彰子・志村浩二・岸本圭司・竹内豊・仁志田博司)が集まり、年数回ゲストを呼んで話を聴き歓談する活動が始まった。この会は内藤の人恋しさによるものであり「疲れた中年新生児屋のぼやきの会」などといわれたが、3年後に新生児医療連絡会が出来る橋渡しの役目を果たした。
1983年盛岡での未熟児新生児研究会の折、高知の西南病院で当時数少ない500グラム未満の未熟児の成育に成功した沢田敬がいるにも拘らず、産科主導でNICUが造られたことに単を発した産科と新生児の問題(詳細はhttp://h-nishida.com/参照)を語ろうと内藤が呼びかけ、約30人の新生児仲間が集まり、日本の新生児医療の現状を巡って激論を交わした。それが内藤の、より全国的な組織としての新生児医療連絡会の思い、に火をつけたのである。1984年3月、内藤達男・多田裕・井村総一・仁志田博司の在京4人が中心となり発起人会を立ち上げ、紆余曲折を経て1985年7月神戸市で第一回新生児医療連絡会が開催された。その最大の立役者は、内藤の清廉潔白な人柄であり、新生児医療の将来を案ずる身を焼くような情念であった。現在の新生児医療連絡会は、厚労省や学会が、新生児に関する事柄の決定には連絡会の意向を打診するほど、社会的認知が高まっている。それは、最初の数年間事務局を引き受けていた筆者にとっても、胸が熱くなる思い出であった。
 既に述べた如く内藤は大学には席を置かず、野戦病院と自虐的に言っていた国立小児病院新生児科で重症新生児の治療に追われ、研究をする時間的・人的余裕は全く無い日々であった。それ故、内藤の業績集を纏めた河野寿夫・杉浦正俊・田中あけみ等は、内藤の総説は独創的で深い内容のものが多く原著に劣らない力を持っているので、敢えて原著と総説を分けることはしなかった、と付記している。彼等の指摘の如く、内藤の臨床家としての鋭い観察と考察は、整った研究の形ではなく、学会の発表やカンファレンスでのコメントなどで、多くの新生児科医の記憶の中に残されて、時が経ち場所を変えて実際の臨床の成果や研究の切っ掛けに生かされている。内藤の幾つかの具体的な新生児医療への貢献を、内藤と共に最も長く仕事をしてきた河野寿夫のメモを参考に以下に挙げてみる。
* 呼吸管理とCLD:丁度人工換気療法が導入された頃であり、誰もがCLDの管理に苦慮していた。内藤は1970年代から既にearly onsetのWMSに着目しており、私を小児病院に呼んだのもCLDのレントゲンの読映に関してであった。多くの人工換気に関する総説や症例の発表に加え、内藤は先駆的に長期管理例の精神的なサポートの重要性に注目していた。彼は長期人工換気の例に感情移入するタイプで、一歳になってようやく抜管に成功し昭和大学病院に転送した児を、忙しい合間を縫って自分の子供のように良くお見舞いに行っていたという。
* 横隔膜ヘルニアの待機手術:それまで肺を圧迫している内蔵を出来るだけ早く取り除くべきという考えが主流であった。しかしその治療成績が満足出来るものでなかったところから、麻酔科の宮坂・循環器科の永沼・外科の秋山洋と中条俊夫等との話し合いがもたれた。その結果、合併するPFCが横隔膜ヘルニアの予後に大きく関与すると考えから、出生後の血行動態が安定してから手術を行う待機療法が導入された。胸腔内で肺を圧迫している臓器を取り除いても直ぐには呼吸状態が改善しないデーターがあり、事実待機療法が導入されてから治療成績は向上し、国立小児病院が発信地となって全国に広まった。さらに内藤は、PFCがシャックリを契機に悪循環から脱して改善に向かった事例を経験したところから、スタッフに呼吸の観察記録の項目にしゃっくりを加えている。内藤の優れた臨床家としての一面を語るものであろう、
* 動脈管および循環器管理:内藤達が未熟児のPDA管理にインドメタシンを用いたのも外科的ligationを行ったのも、本邦では最も早い時期であった。アメリカでも文献は1970年前半に出ているが、一般に広がったのは1975年以降である。著者もRDSの回復期にPDAによる心不全が起こり、水制限や利尿剤で管理しているうちに心不全が悪化して児を失った悲しい歴史を経験していた時代であり、それらはPDAの画期的な治療法であった。その当時のインダシンは大人用の物を手作りで新生児用に小さくしていたところから、誤って多量に投与されて腎不全となる事故など、先駆者ならではの苦い経験を乗り越え、その有用性を我国に広めた。内藤はPFC(PPHN)の概念が広く知られる前から、MASの症例で予後が悪い児は動脈管が大きく開いていることに気付いていた。神戸関小児科の関保平が、PFCの治療法にPDAをligationしては(勿論現在はかえって危険と考えられる)、と学会で発表しているが、そのアイデアの背景は親しかった内藤との議論からと考えられる。また、これまで強心剤として使用されていたジギタリスが、新生児、特に未熟児では効果よりもマイナスの面が多いことが知られるようになり、ドパミンが使用されるようになったのも内藤とそのグループからであった。
* 新生児感染症の対策:敗血症の重症例の治療として新鮮血液での交換輸血は既にしられていたが、それでも超未熟児の死亡率が90%の時代であった。それを内藤等は顆粒球輸血を併用することにより大幅に改善したのである。筆者等もG−CSF使用が可能となるまで、内藤の試みを重症感染症治療の最終手段に応用していた。感染症の早期発見だけでなく経過のもモニターにCRPのベッドサイドでの測定をNICUに導入したのも内藤が最も早く、従来の沈降法や免疫拡散法よりも迅速に結果のでるネフロメーター法が製品化されるとCRP研究会を立ち上げている。アメリカではCRPはいまでもnonspecificな反応であると無視されているが、筆者もCRPの新生児医療における重要性には深く同意しており、我国の新生児の感染症による死亡が諸外国より低いことに貢献していると思っている。
* 内藤が一つ一つの事例に如何に真剣に取り組んでいたかの幾つかにエピソードを挙げよう。痙攣が続き診断だけでなく治療にも難渋していた新生児破傷風の事例は、内藤が図書館にこもって調べ、「見つかった!」と受け持ち医であった渡辺とよ子の自宅に夜中の2時に電話があったという。内藤は診断や治療に苦慮する症例があると、自ら全国の新生児仲間に電話したり文献を検索して、主治医をサポートしていた。Intractable diarrhea(原因不明の難治性下痢症)の児では、まだpareteral elimentationの市販液が無い時代であり、主治医を買って出た内藤が1年間余の間、毎日ボトルにアミノ酸などを加えて治療していたという。また、中村肇とUnbound bilirubin研究会を立ち上げたのも、光線療法の適応から外れた未熟児がフォロアップで神経学所見から核黄疸と診断された事例を経験したことが強い動機となっていた。
もう一つ特筆されることは、小児病院は外で生まれた病児だけの入院であったが、内藤はお産に立ち合うことの重要性を肌で感じおり、あの忙しいNICUの勤務の合間に近辺の産科病院に出向いていた。分娩に立ち合うに際して必要な内藤特性の七つ道具があったというエピソードからも、全国の子供病院が産科をブームのように併設する以前から、新生児医療における周産期の重要性を理解していたことが窺える。


一粒の麦地に落ちて: 内藤達男と新生児医療連絡会
内藤の若すぎる突然の死は、我々新生児仲間に取っては青天の霹靂どころか、「なぜ? どうして?」という当惑と怒りの遣り切れない気持ちをもたらした。当惑は、内藤が呼びかけてidentityを求める胎動を始めた連絡会によって、ようやく泥沼のような新生児の医療現場から抜け出す光が見えてきたところなのに、そのリーダが消えていってしまったことであった。また怒りとは、内藤を死に追い込んだ、彼と新生児医療を取り巻く環境に対してであった。
元旦早朝に福島の自宅で山田多佳子からの泣きながらの電話を受けたとき、まさか!という気持ちとシマッタ!という慙愧の念が同時に脳裏を過ぎった。馬場一雄も同様な思いを「悲しさより怒りに似た悔しさである、彼の純粋な声を聞き取ることが出きたかも知れなかったのに」と、また中條俊夫はもっとストレートに「ついに彼をここまで追い込んでしまったかという後悔の念と悔しさ」と表現している。また親友の島田宗洋が、内藤をドイツ語のSauber・Rhein(共に清潔・純粋)やHubsch・Schon(共に美しい)で表現し,「すまん、許せ!」と言ったのは、何を意味するのであろうか。小児病院に駆けつける列車の中で思い浮かんだのは、新生児医療の夜明けを待ち望みながら、聞きしに勝る魑魅魍魎の跋扈する世界で、権謀術数は純粋無垢の赤ちゃんに悪いとばかり額に皺を寄せて殉教者のように一人雪の荒野を歩む、ガラスのようなナイーブな心を持った内藤の姿であった。
「暗き夜の 長きに耐えず 君は去りしか 必ず来る 朝を見ずして」

「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」(ヨハネ伝、第12章24節)の如く、内藤の一粒の命が、私たちに残したメッセージは何であろうか。
後継者の河野寿夫には、内藤らしい清楚な文脈でNICU運営の申し送りのようなものが残されたという。内藤にとって国立小児病院NICUは、日本の新生児のメッカとして守り抜いた彼の城であり、そこから全国の新生児仲間に発信する義務と責任を痛いほど感じていた。内藤には戦いを終える安らぎと同時に、どうしても河野寿夫にわが子を託するような思いがあったのであろう。しかしカナダ留学から戻ったばかりの河野寿夫にとって、突然の重責のバトンタッチは、どうして、という内藤への戸惑いの問い返しとなることが考えられたが、幸いにもそれは杞憂に過ぎなかった。河野寿夫は内藤を語る私とのメールのやり取りの中で、「内藤先生の、新生児科医としてわずか15年間の時間の中で、たくさん一緒に仕事をすることができた幸せを、今になってひしひしと感じております。」の文節を読んで、私だけでなく内藤の安堵する微笑を見た思いであった。内藤の新生児医療への思いは、一粒の麦からのミームと呼ばれる心の遺伝子として、河野寿夫をはじめとして彼を知る多くの若い仲間に伝えられている。
私への内藤からのメッセージは簡潔に、「大変でしょうが、新生児医療連絡会をよろしく」というものであった。内藤の我国の新生児医療への貢献のところで取り上げた新生児医療連絡会は、内藤の人恋しさから出来た「疲れた中年新生児屋のボヤキの会」と呼ばれた「41+/−2の会」から、実は自分の置かれている苦しみの境遇は本質的には我国の新生児に携わる仲間共通のものである、と感じ取った内藤の責任感と、仲間への彼の熱い思いから生まれたものであった。まさに新生児医療連絡会こそ、内藤が命を賭して私たちに残したものなのである。託された私達はその一粒の麦を育て、実りを勝ち得なければならない。幸いにも新生児医療連絡会は、東京女子医大での数年の揺籃期を経て、藤村正哲という名伯楽を事務局長に向かえ、今や学会も行政も一目置く存在にまで成長し、新生児医療を取り巻く環境は様変わりした。内藤という一粒の麦は、地に落ちてその命を終えたが、新生児仲間の安寧の実りをもたらしたのである。

 内藤が亡くなる僅か3日まえの12月27日に、彼の発案で気心の知れた仲間(竹内豊、井村総一、多田裕と筆者)5人で忘年会をした後、荒木町で朝までカラオケを歌ったり楽しく飲んだ。その二次会で初めてふらりと入った店の名前が「かくれんぼ」であった。私は今でも内藤がかくれんぼしていて、ヒョイと「やー遅くなってごめんごめん」などと言いながらやって来るような気がしてならない。その時は内藤に、「あなたの撒いた種はシッカリ若い仲間の心に根を下ろし、夢の花が咲き出しているよ」と伝えよう。
 「我知らず フト立ち寄りし荒木町 君を待つごと 独り酒飲む」

稿を終わるに当たり、貴重なお話しを賜りました、内藤春子・島田宗洋・河野寿夫・井村総一・秋山和範  の各氏に深謝する。


参考資料
「子どもたちと彼――内藤達男先生追悼文集――」、編集委員会(仁志田博司・島田宗洋・河野寿夫・山田 馨)、1986年

 

仁志田博司:論文3つ

メモ:喜太郎の音楽「天空」
   野原が変化する絵本(彼からもらった不思議な)

 

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10 竹峰久雄「古武士のような凛とした新生児科医」

略歴
1954年3月 県立高砂高校卒業
1956年3月 姫路工業大学医学部進学過程終了
1960年3月 兵庫県立神戸医科大学卒業
1961年4月 同上 小児科学教室入局
1964年4月 同上 助手
1965年10月 兵庫県立淡路病院小児科医長
1967年9月  兵庫県立病院課主査 県立こども病院設立準備
1970年4月  兵庫県立こども病院 新生児科医長
1990年4月   同         副院長
1993年4月   同         院長
1994(平成6)年8月25日  淑

はじめに
竹峰久雄先生(以後竹峰、その他の方は敬称を略する。)は、身長が190cmほどもある新生児仲間で一番の偉丈夫であっただけでなく、凄みのある低音の声でする質問は若い発表者の肝を震えさせるものがあり、一度その洗礼を受けた者に忘れがたい印象を与えていた。幸い私は、竹峰が初代の新生児医療連絡会会長を引き受けてくれ、また連絡会主催の東西新生児野球大会の西軍の監督で合間見えたことなどから、いつも一目置きながらも兄貴分のような親しみを感じていた。今回竹峰の新生児科医としての来し方を書くにあたって、神戸大や兵庫こども病院の方々にお話を伺ったが、残念ながら竹峰が亡くなった翌年に、阪神大震災という未曾有の大災害にみまわれ多くの資料が失われ、インタビューの内容は各自の限られた記憶が頼りであったことから、隔靴掻痒の感がある文章になったことをお詫びする。

竹峰久雄という男
竹峰は高砂市出身で、実家は医者でなかったが竹峰が小児科を選んだのは、社会医学的なことが好きであったからと友人達に語っていたという。新生児科医となったのは、師事した神戸大学小児科教授の平田美穂の影響というより命令のようなものであった。あの竹峰が平田から電話があると直立不動で受け答えをしている姿に驚いたというスタッフの描写から伺えるように、鶴の一声で平田の下で兵庫県立こども病院設立に携わり初代の新生児科長(後に部長)となった。
その性格は姿どうりの豪放磊落であったが、一方ではその威圧感のある見かけによらず下の者の面倒を良く見る親分肌の典型的な関西人であった。神戸大学昭和35(1969)年卒の卒業アルバム委員やクラス会世話人を引き受けたのも、その人付き合いの良さの表れで、自分が宴会などで賑やかに振舞いながらも、騒ぐのが苦手な者に気を使ってくれていた。また神戸大の新生児のエースであった中村肇が、小児科教授選の最中にノルウエーのビリルビン研究会に出かけているのを心配して「この大切な時にお前なにしてる!」と彼を呼び戻したのは、当の中村が「日本に居たからといってもなー」とこぼしていたが、竹峰らしい後輩の者を思うエピソードであったといえよう。
また同級生の奥谷明弘は、ガン末期の竹峰を病院に見舞いにいくと、食事が取れず経静脈栄養下にもかかわらず、ノートにびっしり病院関係者への指示連絡事項が書かれていたことに、竹峰の責任感の強さを感じたという。同様なことは晩年の竹峰の下で働いていた会田道夫と野中路子も、竹峰が亡くなる直前まで車椅子姿で自分が設計した周産期センターにお忍びで来ていたことを語っている。
竹峰の診療に対する基本姿勢は、周産期センター5周年記念冊子に「忘れないこと、忘れてはならないこと」と題した一文に記されている如く、その後任の新生児部長になる中尾秀人への申し送りが「赤ちゃんのためを第一に」であったことに凝縮されている。竹峰は小児科の医師としては珍しく他科にキチンと物言いが出来る人であった。それは単に体が大きいだけでなく、その仕事ぶりで周りにニラミをきかせ「赤ちゃんのためにこうせい!」と言うのであった。兵庫県の新生児医療の黎明期であり、当時は医師2ー3名で数十床の新生児病棟を運営していたが、竹峰は新生児部長ながら若い医師に混じって当直・オンコールをこなす勤務に加え、新生児搬送があると加古川から数十キロを運転して(酒好きの竹峰のことを考えると酔っぱらい運転のこともあったろうが)病院にかけつけ、それからタクシーで産科に向かい、帰院してベビーの処置まで一人でこなしていた。そんな生活だったので、新婚直後なのに1週間も家に帰れなかったことから、奥さんが病院長であった平田美穂に「竹峰を家に返してくれ」と直訴したというが、ことほど左様に大変な時代であった。
竹峰は実践家で「体でおぼえろ」が口癖だった。スタッフが竹峰に「ものが無い」と愚痴ると、「なるようにしかならん。無いなら無いところの知恵を出せ」と言われ、事実竹峰はあきらめずに粘り強く取り組んで、なんでも工夫してなんとか切り抜けていた。新生児スタッフの野中路子は、「竹峰先生は、お母様が教職で自分が子ども時代に寂しい思いをしたためか、女性が子どもを持って働くことは余り好まなかったようで、褒めてもらった記憶がありません。」といいながらも、野中にとっては破格の栄転ともいえる、こども病院の遺伝科医長に推挙してくれた竹峰のあたたかい配慮に、心から感謝していた。竹峰は女医だからと区別するのでなく、自分を含めすべての医師に厳しかった。しかし患者家族にはやさしく、竹峰の葬儀の時には関係者がびっくりするほど、大勢の患者家族が参列したことが語り草となっている。
新生児の医療をしている時が一番楽しそうな竹峰であったが、「その趣味は」と問われれば、酒・ゴルフ・阪神の応援・写真(最上級のキャノンの一眼レフをもっていた)等が挙げられよう。なんと言っても熱狂的な阪神ファンで、何度となく紙吹雪を持参して病棟から甲子園に観戦に行ったことか。竹峰にとって、それは勝っても負けても楽しい時間であった。阪神が久しぶりに優勝して日本一になったときなどは、病院の医局で阪神タイガースの旗を振り、菰樽酒を開けて大騒ぎであった。
竹峰の酒豪ぶりは伝説的で、論文を書くときも「飲んでいる方が筆がすすむ」とコップ酒を横において書いていた。仲間で一緒に飲みに行くと、若いものを呼び寄せてお説教のような話をするのが好きであったが、乱れたところは一度も見たことがなかった。学会でも午後からの自分の発表の時など、隣に座ると微かにアルコールの臭いがするので、「先生、昼から?」というと「多少入っとったほうが、口が良く回ってええんや」と答えていた。学会といえば、竹峰は質問が好きというより質問することが演者に対する礼儀と考えている節があり、「学会は質問してなんぼや」とスタッフに言っていた。時には手厳しい質問もあり、独特の播州弁で「兵庫県こども病院の竹峰です」といわれて、なんと多くの若者が震える上がったことか。竹峰はそれを通して新生児医療のレベルアップを目指していたと、今になって思い当たるのである。
竹峰は達筆であった。それに加えて、複雑な漢字を彼独特の少し省略してそれらしく見せるという特技があることから、学会用のスライド作りが上手で、パワーポイントなどない時代であったので、みんなに良く頼まれていた。さらに竹峰は、自分が会長をした第35回未熟児新生児学会(1990年)でもその特技を生かし、何と業者に頼まずに、こども病院の限られた新生児スタッフ(ほとんど竹峰・会田・野中の3人)で企画運営まですべてやり遂げたのである。
竹内豊は竹峰と最初にゴルフをしたときの思い出に寄せて、彼の気配りを語ってくれた。その時のメンバーの橋本武夫や長谷川良夫らはベテランどころかシングルレベルであり、竹峰は全くのビギナーであった。竹内を驚かしたのは、スタートのときに竹峰が腰にたくさんのボールを入れた袋を下げていたので、「それは何ですか?」と聞くと、「イヤー、わしはボールがどこに飛ぶか分からないので、みんなに迷惑を掛けないようにロストボールをたくさん用意したんじゃ」と答えたことであった。そしてプレーでは、OBになると「キャデーさん、探さなくても良いよ」と言って、悠々と腰のボールを出して次のショットをするのであった。おおらかで、のびやかで、みんなに迷惑を掛けない竹峰の気配りに、竹内は感激したのである。元々運動神経が良い竹峰は。間も無くして別人のように変身し、新生児仲間ではトップクラスのゴルファーになった。

兵庫県立こども病院と周産期センターの立ち上げ
竹峰は、我国の小児専門病院としては国立小児病院(1964年開院)に次ぐ兵庫県立こども病院の設立にその当初から深く関わった(神奈川こども病院とほぼ同時期)。その設立の背景には、1965年に金井元彦兵庫県知事が、滋賀県の一日知事として我国最初の重症心身障害児施設「びわこ学園」を訪問して障害児の姿にショックを受け、その多くが周産期新生児期に原因があることを知ったエピソードがある。金井はその翌年からユニークな県民運動として「不幸な子どもの生まれない運動」を提唱したのである。即ち、既にそのスタートから、兵庫県のこども病院は周産期センターを思想の核にしていたのである。金井知事とその運動に心からの同意を示した平田美穂(当時神戸大小児科教授)は、二人三脚でなんと全県を33回に渡って講演して回り、1967年には県政100年記念事業の一環として「こども病院建設事務局」が立ち上がった。平田からその風貌だけでなく真面目な仕事ぶりで目をつけられていた竹峰は、まだ神戸大小児科入局6年目という異例の若さながら、大抜擢されて「県立こども病院設立準備室」に出向を命じられた。それは竹峰がこども病院の中核となり、やがて周産期センターを作り上げる運命を託されたことを意味するものであった。
竹峰が敬愛して止まない上司であった平田美穂(1931年京大卒)は、1958年第61回日本小児科学会を主催した折に、第一回未熟児懇話会を大阪市大教授高井俊夫らと共に開いた日本の新生児医療のパイオニアの一人であった。平田は2006年に99歳に亡くなるまで多くの新生児医療に関わる業績を残したが、その業績の一つは竹峰を見出し兵庫県の周産期新生児医療の基盤を彼に託したことと言えるかもしれない。
ポートアイランド建設の埋め立ての為に高倉山が削り取られた跡に、1970年兵庫県立こども病院が開院し、平田美穂は初代院長として「こども病院は未来を築く子ども達への贈物であり、兵庫県民の大きな誇りとなろう」と高々と宣言した。将来の周産期センター併設を目標とした設立理念から、最も重要な医療部門とされた新生児の初代部長となった竹峰は、そのスタートから関わった医療スッタッフの一人という気概から、NICUの多忙な医療業務のみならず、こども病院全体の数々の重責を担っていた。 神戸大学小児科と子ども病院が兵庫県の二大小児医療センターであるところから、平田が連れてきた医師と大学に残った者の間にわだかまりがあったが、竹峰はその豪放磊落な親分肌の性格でその溝を埋め、平田の信頼を受けた右腕としてこども病院の基礎作りをした。
こども病院には開院当初から医師・ケースワーカー・臨床心理士・保健士がチームとなった指導相談部が作られ、院内の患児家族だけでなく退院後の患児とその家族をサポートしていた。さらに病棟保母を正式職員としているなど、極めて先駆的な考えが導入されていたが、それらは竹峰が主導したものであった。1981年に、松戸市立病院に小児医療センターを設立する準備の為に、竹峰を頼って兵庫県立病院を見学に訪れた竹内豊が、「子どものための選択食や食形態や盛り付けにも工夫を凝らしているなど、子ども目線の姿勢に感動した」と感想を語っている。また既に竹峰が「母体の状態を知って、生まれた瞬間から関わらなければ良い新生児医療はできない」と熱く語っていたことに、竹内豊は、竹峰の新生児医療を越えてその先の産科と協調する周産期医療の重要性を見据えていた先見の明に感服していた。
神戸大学は中村肇がビリルビンの世界的研究で有名であるが、初代教授の平田以来の新生児の伝統があり、大学としては最初にNICUを持っていた。その中で竹峰は陰の医局長などといわれる如くボス的存在であり、毎月こども病院と大学が交互に新生児の勉強会も竹峰が中心となっていた。このように竹峰が行政や産婦人科医会などとの関連を持ち、中村肇が大学や学会で活躍するというコンビで兵庫県の新生児周産期医療を引っ張り、1989年には兵庫県周産期医療推進事例検討会ができている。その中でどちらかというと柔和な中村肇に変って、各病院の医療の質に対して厳しい注文をつけるのは竹峰の役であった。
竹峰は新生児部長時代から周産期医療の重要さを認識しており、自分の車の中に何と自家製の新生児蘇生にセットを常備し、産科からの電話は竹峰に?がるように病院スタッフに命じて、彼が必要と判断すると自ら産院に駆けつけていた。スタッフは竹峰のその姿を、酸素を抱いて押しかける様に産科に行っていた、と表現していた。それは竹峰が、兵庫県立子ども病院が何故出来たか、の歴史を痛いほど知っている数少ない一人であったからである。しかしながら周産期センター設立に関して、こども病院開設の理念の中にある「不幸な子を産まないように」という言葉尻を捉えて,「先天異常や障害の子どもは不幸なのか」と、その開設に反対する患者団体やマスコミから理不尽の非難を浴びせられたが、竹峰はその矢面に立ってその母と子の幸せに果たす役割を説き続けて来た。竹峰が超多忙の新生児医療の中で身を削っても産科医療施設に自ら足を運び続けたのは、正に産科側からの理解と援助を得るためであった。また竹峰には、周産期医療は新生児とは違った母と子の医療という考えから、周産期センターを広いスペースとし,そこへは小児病院とは別の入り口(玄関)で、という発想があったが、残念ながら現在の周産期センターはこども病院全体と供用の玄関となっている。竹峰が選んだという絵の掛かった、今となっては空しく広く感じられる周産期センター入り口跡に立つと、竹峰なら何というのであろうか、という思いが胸をよぎる。
1994年10月、竹峰がその生涯をかけた夢であった周産期センターがオープンしたが、彼はその目前の8月に他界した。その死去を一片の病院長交代の広報「平成6年9月1日. 管理者変更:新任者 小川恭一、前任者 竹峰久雄」で知った新生児仲間の何人かが、当たり前といえどもお役所仕事の冷たさに「別な表現は無いのか」と憤ったのは、竹峰の無念の思いが以心伝心に伝わった故であろう。

我国の新生児医療への貢献
竹峰は早くから県立こども病院に関わった臨床家であったが、初期の頃は神戸大小児科のテーマが栄養であったところから、平田の指導を受けエバーミルクを薄めた新生児の栄養バランスの研究などを行っていた。 こども病院に移ってからは、大学よりも新生児の症例が多いので、大学で研究されているテーマに沿って消化管疾患例の尿を用いたメコニウムインデクスや黄疸例におけるアンバウンドビリルビンのデータ集めを依頼され、忙しい中にも関わらずそれらに応えていた。また極めて稀な先天性代謝性疾患の治療用の安息香酸のバイアルを用意するなど、兵庫県の唯一のこども病院である責務と考えて、労多くして自分達にはメリットの少ない医療業務も嫌な顔をせずに行っていた。
私が新生児医療に関わり始めて1972年頃は、「専門は?」と聞かれると今のように新生児の心臓とか神経とは言わず、ただ「新生児」と答えて済んだ時代であった。私より6歳年上の竹峰も、彼の論文リストを見ると新生児全般をカバーする内容であったのは当然のことであった。それらの竹峰の新生児医療の臨床家として幅広い仕事の中で特筆されるものとして、いわゆる(竹峰法)とよばれている「ABO不適合溶血性疾患の鑑別検査としての同型成人血球による間接Coombs試験:日本小児科学会誌、1981年4月」が挙げられよう。新生児の赤血球はHemoglobin Fが主で、その結合部位の特徴から感作されていても直接 Coombs試験が陽性に出にくく、ABO不適合溶血性疾患の鑑別検査が容易でなかった。竹峰は成人血を用いた交換輸血後に新生児から採血した血液の直接Coombs試験が陽性に成る臨床上の現象は、児に輸血された成人赤血球が感作されたためであることに気付いた。この竹峰法により、母子間の血液不適合による新生児の黄疸・溶血性疾患として最も頻度の高いABO不適合を、早期に確実に診断することが可能となった。現在光線療法が早期から導入され、最も頻度の高いABO不適合による黄疸のほとんどが交換輸血されることなく治療されている。しかし母子間の血液型がABO不適合の組み合わせだけではABO不適合疾患と言えないので、この竹峰法が確実な診断のために臨床的に有用である。
このような臨床家であった竹峰の新生児医療への貢献は、むしろ新生児・周産期医療のシステム構築などの大きなレベルからであった。兵庫県新生児未熟児懇話会は1956年から始められた長い歴史を持ち、竹峰が亡くなった1994年までに第181回をかぞえているが、1970年代以降の約20年余りは、竹峰がその中心であった。学問的な内容もさることながら、酒豪で鳴らす竹峰を囲む若者達へ、新生児医療の情熱を掻き立てる雰囲気は竹峰特有なものであった。その会で話す機会があった竹内豊は、講演後の宴席で竹峰に「君−、凄いよ。その呼吸機能測定のデータは画期的だよ。是非研究を進めてくれ。お願いする」と激賞され、その熱いメッセージが竹内豊から彼の後継者の長谷川久弥に伝わり、今の長谷川の一連の呼吸器系の仕事になったのである
竹峰は1990年に第35回未熟児新生児学会を主催したが、そのプレコングレスを、竹峰は昔の先輩達が行っていた「ドテラ会」の雰囲気でやりたいと、有馬温泉に泊まりこみで行った。学問の後には全国から集まった新生児仲間が無礼講の飲み会で親交を深めたが、翌朝の有馬から神戸の国際会議場までは、私を含め多くの者にとって、二日酔いで辛いバスの旅になった、ことが語り草になっている。学会そのものも、竹峰の「新生児医療は専門に細分化しつつあるが、多くの分野の人が助け合って行うチーム医療である。」という考えから、2会場のみで他はポスターにして全員参加のかたちにした。個人的なことであるが、小児科学会誌100巻第1号の巻頭に書いた私の拙文を読んだ竹峰(会長)から「新生児医療に未来はあるか」の解説講演を依頼され、逡巡しながらもそれを引き受けた時、竹峰の「そうか、引き受けてくれるか!」と弾むような電話越しの声が今も忘れられない。それは竹峰自身が話したいタイトルで、その思いを代弁する者として私に白羽の矢がむけられたと光栄に思っている。
竹峰は、新生児医療連絡会の立ち上げにおいても立役者のひとりであった。1984年6月、故内藤達男を中心とした「41+2の会」の関東の新生児屋の面々が大阪に出向いて関西の新生児仲間に連絡会設立に協力を呼びかけた時,少数意見として賛意を示してくれたのは竹峰であった。その後竹峰は持ち前のカリスマ性で関西勢に働きかけ、1985年7月、第21回日本新生児学会(現周産期新生児学会)が岩井誠三(神戸大麻酔科教授)の下で開催された折に、竹峰の世話で第一回の新生児医療連絡会が神戸市湊川神社楠会館で行われた。正にその時に、竹峰が初代会長(1985-92)となり筆者が事務局長として実質的な新生児医療連絡会の活動がスタートしたのであった。
竹峰は連絡会の東西野球大会に西軍のキャップテンとして常時参加してくれた。竹峰は「猛将の下に弱卒なし」の諺どうり、西軍の橋本武夫・池ノ上克・近藤乾らの活躍で東軍を連破し続けた。後楽園球場での試合の時、内野手の竹峰がファールを追って転倒し、起き上がってからも意識朦朧でみんなで慌てて救急外来に車で連れて行ったことや、試合後に有志で飲みに行き竹峰・橋本・竹内の3人がカラオケのステージで歌いだすと他の客が3人を暴力団と思ったのか店を出て行ってしまったエピソードなど、竹峰の思い出は尽きない。
メディカの前社長の故長谷川良人は、雑誌Neonatal Careに、「慟哭! 竹峰先生」と題して、「好漢は逝ってしまったのか、と痛烈なものがからだを走る。」と竹峰を追悼している如く、我国の新生児医療の明治維新のような激動期に、竹峰という古武士のような男が、我々を鼓舞しながら一陣の風のように走り抜けていった思いである。

参考資料
・「日本未熟児新生児学会40回のあゆみ」
・「NICU」誌 第7巻10号(1994年) 奥付:慟哭! 竹峰先生
・ 未熟児新生児学会誌 第6巻1号 弔報記事
・ 仁志田博司「新生児医療の現状と問題」日本小児科学会誌、93:1035.1989
・ 仁志田博司「新生児医療には未来はあるか」日本未熟児新生児学会誌、3:30,1991

稿を終わるにあたり、貴重な時間を割いて竹峰先生を語っていただきました、中村肇・竹内豊・中尾秀人・会田道夫・野中路子・上谷良行 ・橋本武夫の各先生方に深謝いたします。

 

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11 「福島に田沼悟という男がいた」

 筆者と田沼悟博士(以後田沼、他の方々も敬称略)の交流はインドでの不思議な出会いからである。のっけから理屈っぽいが、私たちは137億年前のビッグバンから始まった宇宙の一員であり、私たちに起こる過程はあまりに複雑で予想不可能であるが、全ての事象はその前の事象の結果であるところから、世の中には必然も偶然も無いので、不思議な出会いというのは面白い出会い、という意味である。
 1977年にインドで行われた第15回国際小児科学会に、彼の一生のテーマであるマグネシウム研究のデータを発表するために参加していた田沼は,「自分の発表のビラを撒いて宣伝している変な日本人がいる」と聞いて「どんな奴か」と見に来たのが、「発展途上国も独自の胎児発育曲線を作るべき」と自作の胎児発育曲線のコピーを会場の入り口で配っていた筆者との、初めての邂逅であった。共に福島県人・小児科医・外国帰りで初対面でも物怖じしない、ということもあって意気投合し、学会中つるんで学び・遊ぶ数日を過ごした。両者とも、それが福島県に近代新生児医療をもたらす切っ掛けになろうとは知る由も無かった。

田沼悟という男
 田沼の父方は田沼意次の子孫であり、その実家は埼玉であるが国鉄職員であった父親は各地を転勤し、福島の地に定住した。その次男(長男死亡)である田沼悟は初め工学部が志望であったが、成績の良いことから医学部受験を薦められ医師となった。この短い経歴からも、彼の新撰組の生き残りのような風貌と豪胆な性格、及び臨床家ながら常に学究肌であった姿が彷彿されるであろう。
 学生時代の田沼は真面目な学生であった一方、何と自らがリーダー(スチールギター)となって三島  (ドラム)や門井伸暁(ボーカル)等に声を掛けて当時流行のエレキバンドを結成し、大学クラブの資金集めのダンパーなどで演奏していたという。その背景には、安田講堂攻防戦でも全国から集まった学生に少なからぬ福島県立医大の学生が含まれていたように、当時の学生運動の過激な風潮を嫌った田沼の、正義派の先輩に心酔しながらもノンポリを貫いた自己韜晦のスタイルがあったと思う。筆者も同様な渦中に引き込まれた時代を経験しており、田沼がそのことに関して多くを語らない心情が十分理解出来る。後に、脂の乗り切った助教授のポジションをアッサリ捨てて開業したのも、大学にありがちな地位を巡る権謀術策と相容れない、田沼の相手を信用して手の内を見せ、駄目なら駄目という性格故であった。
 田沼が小児科になったのには学園紛争の余波も関与しているようであるが、終生の恩師であった大原徳明福島県立医科大学名誉教授に小児研究の醍醐味の薫陶を受け、「深く尊敬している」という彼の言葉が全てを物語っている。Mgを中心とした電解質の研究が一段落し、同時にその指導者であった大原徳明が退官間近であったところから次の目標を模索していた田沼は、福島県の中心にいる小児科医として、全国レベルのworst threeを低迷している新生児死亡率の改善も責務の一つと考えていた。その下地があったからこそ、前述の筆者との遭遇が、田沼をして新生児医療に踏み出す切っ掛けとなったようである。
 田沼は福島県立医大の重要な国際協力事業の一貫として、JICA派遣員の立場で1975−7年の2年間をガーナの野口英世(福島県出身)記念研究施設で過ごした。当時のガーナは政情不安定で、街頭から露天が無くなったら大使館に避難する勧告を受けていたように、夫人同伴であった田沼は平穏無事な日本では考えられない様々な国外生活を経験をしたという。その2年間は、田沼にとって栄養不良児の電解質研究という学者としての得るべきものがあった以上に、多くの外国人との研究や臨床の接点からinternationalな感覚を育て、専門のマグネシウム研究を引っさげて国際学会で活躍する下地となった。また田沼のガーナ赴任中に、野口英世の伝記「遠い落日」を書いた渡辺淳一が取材にきたが、その折の「野口博士が港からどの道を歩き、どのような花や景色を見たかを自分の目で見る」という作家としての態度に、事実を追い求める研究者として感ずるものがあった、と田沼が語っていたことが忘れられない。
 田沼を知る者は、異口同音に「彼は義理人情に厚く後輩を可愛がる」と語る。田沼を敬愛していた本田義信は、「見どころのある若い者をお宅に呼んで食事をし、一緒にお風呂に入るのが先生のお気に入りの定番コースでした。また学会などで私たち若造を新生児の御偉方に紹介してくれますが、私もその恩恵に浴しました。」と語っている。筆者も、田沼の自宅で本田義信を「こいつは将来日本の新生児医療をしょって立つ男だからよろしく頼みます。」と紹介されたことを思い出す。若者にとって、自分の中の何かを評価してくれた人がいる、という事は大きな心の支えになることを田沼は知っていた。氏家二郎も同様に、「先生は若いものにも信頼して仕事を任せるので、それに応えようと本気になって頑張り、成果が出ると自分のことの様に喜んでくれ、それを「凄いでしょう」とみんなに自慢してくれた。その部下の能力を見据えながらやる気を出させる術は、計算されたものではなく、先生の性格そのものでした。」と語っている。
 田沼の新生児の回診風景は、主治医が皆の前でプレゼンテーションを行い、それを田沼が厳しく論評するというスタイルであった。田沼は看護記録にある細かな変化から患者の状態を読み解くことに関しては素晴らしいものがあり、常に「この記録の解釈は?」と問い詰めて、主治医に赤ちゃんの病態を理解させるので、「看護記録は宝の山だ」が口癖であった。このように田沼のラウンドは、観察所見を理論で裏づけするので説得力があったが、同時に若い医師が田沼のコメントに反論した時もキチンと聞いてくれた。ほとんどの場合は「君、それはありえないよ」と一蹴されるが、まれに「そうか」と聞いてくれるだけでなく、後になって若い医師の解釈が正しいことが分かると、必ず覚えていて「お前の言っていたことが正しかったな」とresponseしてくれた。ほとんどの上司は、そんなやりとりは忘れているが、田沼は自分の間違いを認める、ある意味で謙虚で正直な人であった。当時の新生児臨床は経験主義で学問的な根拠が薄く、何となくそう考えた、というものが少なくなかったが、それを一掃したのが田沼の若手スタッフへの教育であった。『こういう児の状態を見た場合には、1に○○、2に○○、を疑う。そして、これとこれの検査を行い、それに応じてこれとこれの治療を開始する。』という明快な新生児学を教えていた。今のようなNICUマニュアルが無い時代であったが、田沼は自分流の言葉でビッシリと臨床に必要な事項を書き込んだノートを何時も持ち歩いていたという。田沼が北里のNICUで研修した時に、朝から晩までスタッフに密着して細大漏らさずメモを取っていたが、その恐ろしいほどの熱心な姿を思い出す。また田沼が常に若い医師に求めたのは、発表するときに「あれが足りないこれが足りない」という事が無いようにキチンとデータを取っておき出来るだけ英文で報告しよう、というものであった。それは、症例数が少なくとも設備が劣っていても学問的には福島も負けないのだ、ということを全国に示そうという意気込みの現れであった。近内育夫は、赤ちゃんを前に田沼が若いスタッフと侃々諤々の議論を行い、分からないことがあると文献に当たらせそれを積み上げていった成果から、1982年に福島医大で初めて超低出生体重児の生存を経験した感動を語っている。

学問への情熱とマグネシウム研究
 田沼は優れた臨床家であったと同時に本質的に研究者であり、恩師大原徳明の薫陶を受けた電解質研究の中で学位論文「小児の脳性疾患における髄液Mgについて。日児誌79(8):604-23.1975」であったごとく、マグネシウム研究が田沼の一生のテーマとなった。特筆されるべきことは、大学を離れ開業医となってからも、以前から共同研究していた郡山の民間病院に付属の研究施設を維持して研究を続け、1975年の初論文以来亡くなる1996年までの22年間に絶えずマグネシウム関連の論文を発表し、その数は少なくとも42編に及んでいる。
 1988年に京都で開催された第5回国際マグネシウムシンポジウムでは教育講演を行い好評を得て、国際マグネシウム学会の理事に就任している。さらに1989年には「リンパ球内Mgレベルの研究」で日本マグネシウム研究会の奨励賞(第一号)を受けて名実共にこの分野の日本の第一人者となり、1992年には第12回日本マグネシウム研究会を福島市で主催している。小児科の開業医という立場で、マグネシウムという基礎的な分野の学術集会会長となることは極めて異例であった。田沼の研究者としての資質も然る事ながら、心ならずもアカデミズムの中核である大学を去らなければならなかった田沼の反骨精神が、彼のエネルギーの一つであったと考えられる。 田沼の研究者としての真骨頂は、突然の癌宣告に際し彼が仲間に申し送った言葉の一つが、「イオン化マグネシウムの年齢別正常値を作りたい」であったことに、如実に表れている。

福島県新生児医療連絡会
 田沼は北里大学NICUで研修から帰ると直ぐ、精力的に福島医大に新生児グループを立ち上げる活動を始めた。田沼の熱い薦めで福島医大から7人もの小児科医が新生児の研修に北里大学や聖隷浜松病院などを訪れたが、その滞在費用の捻出なども仲間同士で都合するという、それまでの医局運営になかった研修方法を考案し、それを実行に移したのである。
 さらに医大小児科病棟内では無理であろうとされていた新生児医療も、看護師体制の不備を家族の付き添いで補うことにより実現させたのは、田沼の既成の事柄に捕らわれない発想と実行力によるものであった。勿論現在の医療体制から見れば、家族の付き添いは問題視されるかもしれないが、当時とすればこの方法しかNICU病棟を運営することは出来なかったのである。また信じ難いであろうが、当時の福島医大ではレスピレータが麻酔科の管理下におかれていただけで無く、挿管も麻酔科医が行うことになっており、小児科医が救急で挿管すると麻酔科医が再挿管していたのである。田沼は、それを粘り強い麻酔科の大ボスとの政治的交渉で、新生児の呼吸管理をNICUに委ねさせたのである。
 このような田沼をリーダーとした新生児グループによって、1979年から小児科病棟の一室を用いてとはいえ念願の新生児医療が開始され、早くも翌1980年3月には、県内主要施設の小児科医と産婦人科医に呼びかけて、福島県福島未熟児・新生児医療連絡会が形成された。それは、まだ全国的な連絡会が出来る気配も無い頃であり、田沼の実行力・政治力のみならず、その先見の明に今更ながら驚くばかりである。
 田沼のバイタリティーは留まるところを知らず、1980年8月には第一回福島県未熟児・新生児医療シンポジウムを福島市民会館で開催し、北里大学産婦人科西島正博、長崎中央病院新生児科増本義、北里大学新生児仁志田博司それに国立小児病院新生児科内藤達夫を演者として招聘した。その折の忘れられないエピソードは、演者達が田沼の案内で福島医大の新生児医療の現場を訪れた時に、点滴をされている新生児と同じベッドにおばあちゃんが寝ている姿や、未熟児がケアされている保育器の側に置かれた簡易ベッドに農閑期とはいえ3ヶ月も付き添っている父親の姿を見た内藤達夫が涙を流したことである。内藤達夫の涙は一時的な感傷的なものでなく、我が国の新生児医療の中核を担う者として、田沼等の苦労をわが身のように感じたからである。事実内藤達夫は後日、自分のポケットマネーで輸液ポンプを田沼に送ったのである。そのシンポジウムのインパクトは効果的で、県より搬送用保育器12台が県内中心医療機関に配置されたのである。それは神奈川県についで、県レベルの新生児地域化が行われる第一歩、と大きな期待がよせられた。
 福島県未熟児・新生児医療シンポジウムはその後、第2回(仁志田博司・豊田淑恵)、第3回(仁志田博司・内藤達夫・島田信宏・井村総一)、第4回(室岡 一・山内逸郎)と1983年まで続けられ、新生児の世界で東北に福島ありの名を轟かせた。福島医大以外にも、田沼と電解質研究や新生児医療で長年コンビを組んできた盟友の門井信暁は、たった一人で人口20万の会津地区で新生児死亡率を激減させていた。また伊達地区では、進 純男が年間600を超える分娩をほとんど一人でこなしながらも、片手までなく新生児医療に取り組み、とうとう民間病院としては福島県で最初のNICUを作り上げていた。さらに田沼は県内の周産期のアンケート調査から県全体を6ブロックにわけた地域化構想を既に持っており、他県に追いつき追い越せと、各地で孤軍奮闘していた仲間達と熱く語っていた。(福島県の新生児・未熟児医療の現状と展望:福島県医師会報、43:33−45,1981)このように田沼を中心とした若い力が、ほとんどゼロの状態から築き上げつつあった福島県の新生児医療は、皮肉なことに全国レベルの新生児医療連絡会が発足する日を待たずに、当初の目的を達したという一応の理由付けであったが実情は大学内の事情により、1983年12月に会の発展解散という形でその火を消したのである。
 その後の田沼は、新生児医療整備目的で国立郡山病院に支給された国庫補助金で、自らが設計した本格的なNICUを立ち上げ、1984年から新生児医療を開始した。それを巡る今となっては笑い話の様なエピソードがある。筆者と田沼が彼の別荘のある磐梯にスキーに行っているときに大学から電話があり、明日の国立郡山で行われるNICU設立委員会に是非出席して欲しい、という。その理由は国の担当官が最終打ち合わせに来るので、それ迄にNICUの設計図を完成させて置かなければならないが、これまでの図面はNICUとして不適切と差し戻されていたのである。なんの資料も無く雪山に居る我々を呼び出す程、切羽詰まっていたのであろう。その夜二人で酒を飲みながら田沼の記憶だけを頼りに、やっつけ仕事でNICUの図面を書き上げ、迎えに来た公用車で雪道を何時間も掛けて山を降り、お役人との会議に出た。田沼のあのドスの効いた声と態度で、これは練り上げられた最も新しいNICUのモデルだ、とのプレゼンテーションに、なんとスケッチの様な図面が採用されたのである。後日談であるが、トイレの扉がNICUのど真ん中に開く様になってしまうので、最終決定まで手直しがあると高を括っていたところ、一度決まった物は変えられないと工事が始まり、そのまま完成してしまい、引渡し後のオープン迄にドアの位置を代える工事を改めてしたのである。自分達のミスを棚に上げてであるが、ことほどさように御役所仕事というものは、と思った次第である。田沼はその最新の設備を持ったNICUで、医大から派遣される若い医師を教育しながら、福島県全体の新生児更に周産期システム造りに全精力を注いだ。それにより、他に遅れていた福島県の新生児医療が一気に加速し、更に産婦人科教授に周産期学の第一人者である佐藤 章が東北大学から就任したことと相まって、その周産期新生児医療体制がゆるぎないものとなっていった。
 しかし1986年田沼は大学に戻り助教授となるが、1989年アッサリと大学を辞め、程なく開業した。彼が手塩にかけた新生児グループの若手が居るとはいえ、漸く希望が見えかけた新生児医療の火は田沼が居なければ消えてしまう、と万人が憂えていた。田沼を高く評価し,彼と福島県の周産期医療を世に出すことを夢見ていた佐藤章は、何とか引き留めようとしたが、人事のしがらみを潔く断ち切る田沼の心は変わらなかった。田沼のその何かに向かうエネルギーは衰えず、多忙な診療の合間に研究を続け、一開業医ながら国際学会に研究成果を発表し、1988年には福島で日本マグネシウム研究会を主催した。さらに、福島医大の新生児を志す若手の後輩(福島の氏家二郎・三島 博、郡山の平井 滋、磐城の近内育夫・本田義信、等)に、影になり日向になって支援を続けていた

田沼先生へのオマージュ
 1990年、田沼は50歳の若さで胃がんに倒れた。筆者は国際学会に出かける直前に、門井信暁から「今会わないと田沼先生には会えなくなります。」という電話を受け、急ぎ福島に田沼を見舞った。病人らしからぬドスの効いた声で、田沼は癌性腹膜炎のCT画像を示して「先生,俺は後1ヶ月ですよ。」と言ったが、「まさか」の思いであった。ベッドの上に胡坐を書いて座っている田沼と、2時間ほどこれまでと変わらない調子で、インドでの出会いや内藤先生と福島県新生児連絡会の思い出を、冗談話しを交えて語り合った。驚くほど平成に見えた田沼が、僅かに涙を見せたのは別れの時であった。もう会えないことを二人とも理解しており、帰りの汽車の中で、こみ上げる熱いものが消えない前にと田沼への感謝と惜別の手紙を書いた。田沼の死は、その2週間後私の旅先への奥様からの国際電話で知った。その惜別の手紙を、田沼へのオマージュとして以下に載せる。

田沼 悟 君への別れの手紙

どれだけの人があなたのように、キッパリと「自分はあと一ヶ月の人生」と言えるでしょうか。 どれだけの人があなたのように、家族のことを思いやりながらも「自分の人生には悔いはない」と言えるでしょうか。あなたは見事です。
  「懐かしく出会いを語る微笑よ あと一月の命とは見えず」

鎮痛剤として多量の麻薬が使われているのに、相変わらず鋭い眼光で射抜くように私を見つめ、ドスの利いた声で自分の人生を振り返るハッキリとした物言い。そして包むように握りしめるその手の柔らかさと暖かみ。あなたは素晴らしい。
 「射抜くごと我を見つめて語りおる 暖かき手に命のほむら」

人は必ずいつかその人生を終えなければならない。その時にどのように振舞えるかが、その人の全人生の評価である。あなたは立派です。
   「みごとなり 命の終わりはかくあれと 我に示して行きしか友よ」
   「淡々と命の跡を振り返る 君が瞳に一筋の涙」

私は決して忘れません。あなたと初めてインドで会った時のことを、福島で内藤先生たちと新生児医療への夢を語った時のことを、そしてあなたの見事な生き様に接した今日のことを。
私の人生の一ページを鮮烈に彩ってくれたあなたに、心からありがとう、そして、さようなら。

平成8年(1986)6月1日 福島からの車中にて
                     あなたの友 仁志田博司


田沼 悟 先生 略歴
1946年 2月2日 福島市に出生
1964年 仙台第一高等学校卒業
1970年 福島県立医科大学卒業、小児科入局
1975年  同大学院医学研究科終了
1975−7年 ガーナ大学医学部派遣(国際協力事業団)
1979年 北里大学NICUに国内留学
                     福島県立医科大学で新生児医療を開始
1980年   医大NICU開設  (大原徳明教授退官)
1982年 福島県立医科大学小児科講師
1984年 国立郡山病院小児科部長(NICU開設)
1986年 福島県立医科大学小児科助教授
1989年 田沼小児科クリニック開院
1992年 第12(11?)回日本マグネシウム研究会主催(福島市)
1992−6年 福島市医師会理事
1996年 6月17日 逝去 (享年 50歳)

参考資料

  1. 田沼 悟他:福島県の新生児・未熟児医療の現状と展望。福島県医師会報 43(5):33−45、1981
  2. 田沼 悟:NICUの前面開棟。春生会誌 5;25−6,1984
  3. 田沼 悟:関連病院便り。 春生会誌 7:30−6、1986
  4. 仁志田博司・進 純郎・門井信暁・氏家二郎・平井滋:福島県未熟児・新生児医療連絡会と田沼 悟の思いで。新生児医療連絡会創立20周年記念誌、29−31,2007

項を終わるに当たり、貴重なお話しを頂いた、田沼紀美子(夫人)・門井伸曉・氏家二郎・伊藤俊晴・近内育夫・平井 滋・本田義信・関場慶博・三島 博の各氏に深謝いたします。(順不同)

 

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12 増本 義「唯ひたすらに新生児医療を愛した男」

シカゴ大学でレシデントをしている時、風の頼り私が働いていたジャージー市立病院に「ものすごく働く日本人が居る」と聞いていた。私もそんな名称で呼ばれていたので「誰だろう?」と思っていたが、それが増本 義先生(以後増本、その他の方々の敬称も略)であった。実際の初対面は、1973年に増本がジョンズホプキンス大学に留学中の松田道夫(元熊本大学小児科教授)に会いに来た折に、「出生体重1600g以上ならRDSでは死なない」と言っている生意気な日本人がいるというのでどんな奴か顔を見たい、と私が新生児フェローをしていたバルチモア市立病院NICUに訪ねてきた時であった。それから増本が亡くなるまでの20年余、ほとんど毎週一度は電話で難儀な症例について意見を訊ね合う肝胆合い照らす仲となり、私の新生示児医療にとって増本はいつも影の様に寄り添う、心の支えのような存在であった。

医者として新生児の世界に
 増本は、軍医であった父を早くに亡くしたが、幼年時代より医師を目指しており、亡父の母校長崎大学を第一志望としたのは自然の流れであった。大学時代の増本は、いつも教室の最前列に陣取り真面目に勉学に励み、噂によれば中沢誠と並んでイチニを争う秀才であったという。しかし同時に柔道部(何と黒帯で高校時代に愛媛県代表にもなったという)やコーラス部に属し、よく学びよく遊ぶ学生時代を過ごした単なるガリ勉ではなかった。特に音楽が好きで、コーラスだけでなくフルートも練習し同級生の菅尚義のバイオリンと合奏を楽しむ夢多き学生時代であった。
 彼の名前の「義」を「ただす」と読むのは聖書から頂いたものであるという。正に名は体表す如く、ほとんどの同級生は増本の印象を「真面目・ひたむき・頑張り屋・負けず嫌い」と評している。クリスチャンであったご両親の増本への期待と思いが伝わるように、医学生であった21才の時に洗礼を受けているが、それは医学の道を歩む増本自身の人生への堅い意思表示であった。増本が、当時最も恵まれない境遇にあった新生児の命を救うべく茨のような新生児医療への道を選んだことも、増本らしい選択と受け取れるのである。
 増本は1968年長崎大学医学部卒業と同時に国立大村病院(現国立病院機構長崎医療センター)小児科勤務となり、田崎啓介(1918−2004)小児科部長と運命的出会いをした。田崎啓介はポリオによる左下肢麻痺を持ちながら1949年から国立大村病院小児科に勤務し、我国で最初の離島からの新生児のヘリコプター搬送はじめ、鹿児島の五つ子養育成功の陰の力となり、また未熟児網膜症訴訟で未熟児医療が危機に瀕した時に論陣を張って今の世界に冠たる我が国の新生児医療の礎を築いた等、知る人ぞ知る傑物であった。そんな田崎啓介を見て、増本は当然のように新生児医療の世界に身を置くようになった。

北米留学(1):地獄のレジデント時代
当時はNICUという概念さえ無い時代であり、未熟児や病的新生児が賽の河原の石積みのように治療を試みても試みても亡くなってゆく毎日に、増本は「なんかしなんばあかんたい!」と田崎に食って掛かったところ、「じゃー外国に勉強に行ってこい」と逆に発破を掛けられたという。確かに私が1972年にホプキンスで新生児のフェローになった時、上司の最初の言葉が「ヒロシ、赤ちゃんが死ぬことに慣れろ」というものであった。
増本は頼る知人も無く全く一人で、当時の研修目的で北米に留学するためのECFMG( educational counsel for foreign medical graduate)の試験を受け合格後、何十という病院に自ら書いた紹介状を付けて応募し、1972年に米国ジャージー市立病院小児科レシデントとして渡米した。 なん奇遇なことか、増本が1972−3年の2年間レシデントをしていたジャージー市立病院は2年前に私が働いていた所で、ハドソン河を挟んでニューヨークの対岸にある、自由の女神の後ろに聳え立つている十数階建ての病院であった。ベトナム戦争華やかな頃で、Medicare(一般医療保険が買えない低所得者層向けの公的保険)でカバーされる患者が殺到する野戦病院に様なところであった。レシデントの過半数はFMG(foreign medical graduate,外国の医学教育を受けた者・即ち外国人医師)が夜昼無く働いていていた。3日おきに当直で、朝8時の回診に間に合うように出かけ(普通は自分の患者の状態を把握するためにその1時間前ほどには行っているが)一日の常務が始まり、夕方5時になると日勤の連中は見事なほどサッと帰り、当直の仕事が始まる。当直は外来と病棟に分かれるが、外来は救急だけでなくwalk-in-clinic(時間外夜間外来)と呼ばれ何でも来るので、朝まで大忙しだ。病棟当直医も、入院患者の急変の対応だけでなく通常2−3人の夜間入院があり、朝の回診でattending doctore(指導教官の教授クラスの医師)に検査成績を揃えて診断と治療内容を報告しなければならないので、寝る間も無く朝の回診となり、また通常の日勤の仕事がはじまる。夕方5時になると受け持ち患者の状態が悪かろうが、とにかく33時間以上の連続勤務を終えて家に帰る。シャワーを浴び夕食を食べ終わるか終わらないうちにバタンと眠ると、もう次の朝7時には起きなければならない。その日は日勤だけだが、やはり夕方5時にはすべてを当直に任せてサッと家に帰り、漸く家族と団欒などの自分の時間が持てる。
増本はこんな生活を死に物狂いで2年間過ごしたが、どのくらい過酷な勤務であったかのエピソードとして、増本がクリスマスイブに病棟当直であった時に何と20人以上の入院を受けたという。3人の入院でも夜中忙しいのに、その戦場のような修羅場が目に浮かぶ。流石の増本も、あまりの事態にchief residentにサポートを求めたところ、その答えが「Its your business. お前の仕事だろう」とうものであったという。増本がどのようにその非常時を乗り切ったのか詳細は知らないが、「ものすごく働く日本人がいる」という噂が、シカゴまで届いた理由が分かるようである。

北米留学(2):新生児専門医への道
増本は2年間の激務を乗り越え、1974年念願の新生児フェローのpositionをカナダ・ノバスコシア州にある名門ダルハウジー(Dalhousie)大学に勝ち得た。増本がその当時如何に希望とエネルギーに溢れていたかを物語るエピソードに、アメリカからカナダに移る前にマリーランド州の開業医の資格試験(全米のほとんどの州にも有効で、アメリカ永住権が無くとも受けられる数少ない州であった。)を受けにバルチモアにやって来たことがある。私も帰国前に取れる資格は取っておこうとその試験を受けようと思っていた。家内と子どもは思い出のシカゴに友人を訪ねており、引越し前のガランとした私のアパートに増本が来た。何と二人は試験勉強どころか、残っていたアルコール類を帰国前に空にしよう、と飲みながらの侃々諤諤の新生児談義で、連日の二日酔い状態で試験(2日間)を受けに行った。鉛筆のような消しゴムで間違っているものや不要のものを消去する手の込んだ臨床中心の問題が多かったが、小児科しかあまり知らない2人なのに奇跡的に合格したのである。もっとも、その肩書きが役立つ機会はその後も二人には全くなかったが、アメリカで人並みにやってきたという証と言うか誇りのようなものであった。
通常フェローとなると、肉体労働のレシデントやインターンとは大幅に異なり、兵士から将校になったような感じで、彼等を監督する立場となる。複数でオンコール体制をとるので、その勤務はレシデント時代と雲泥の差であり、漸く奴隷のように働いた時代の代償を手にする思いである。事実私も増本も、レシデントだけで帰ったら、勉強させてもらったといっても、あの労働の代価をフェローを経験して帰らなけらば腹の虫が収まらない、という思いであった。
ダルハウジー大学には増本が尊敬して止まないRobert Usher(モントリオールのMcGuire大学の新生児科医で卓越した臨床家として数々の歴史的業績を残している) の一の弟子Kenneth Scottが君臨していた。君臨していたという意味は、彼が大学の新生児医療だけでなく、ノバスコシア州全体の周産期医療を牛耳っていたのである。増本はダルハウジーにいた一年間で、彼からルチーンとは、周産期医療の地域化とは、等の基本概念を学び取った。Scottはノバスコシア州の周産期データーの分析から、なんと分娩数年間500以下の病院のお産を止めさせ、州全体の成績を向上させたが、その思想は増本が長崎に戻って自分がカバーする範囲をキチンと決めたことに生かされている。当時は1970年にグレゴリーによるCPAPとデレモスらによるベビーバードが新生児医療に導入され、有効な呼吸管理が新生児にも可能になってNICUが各地に作られ、そこに重症新生児を搬送するシステムが生まれてきたという、まさに近代新生児医療の黎明期であった。そこに身を置いた増本が、研究よりも臨床に没頭しスポンジが水を吸うように、多くの先端の知識と技術さらにそれを日本の新生児のために生かすノウハウを学び取っていた。
ダルハウジーでも良く働くだけでなく優秀さをみんなに認められていた増本であるが、希望した2年目のsenior fellowに残ることが出来なかったのは、不運な出来事からであった。ハイリスクの緊急帝王切開に増本がjunior fellowとして立ち合った際に、加湿してスタンバイしている閉鎖型保育器内で生まれてきた未熟児への挿管を行わなければならない、その時に保育器の壁が雲って良く見えないので手間取っていると、側に居た麻酔科の指導医が「代われ」といって挿管したのである。誰かに「壁を拭いてくれ」と怒鳴るか、代わろうとする麻酔科に「Its my job!」と怒鳴ればよかったのであるが、レスラーのような白人達に囲まれてた新入りの増本にそんなことを考える余裕無くなってしまったのは、同じような立場を何度も経験した私には痛いほど分かる。しかし、産科・麻酔科・外科の連中と新生児管理の主導権を巡って丁々発止とやり合う世界では、新生児側のボスであるScottにとって、それは容認出来ない出来事であった。彼は烈火のごとく怒って、以後増本は帝王切開に立ち合わせてもらえなかったのである。
しかしScottにしても、増本の新生児科医師としての有能さは高く買っていた。増本にとっても、カナダを離れて20年近く経っているがダルハウジーは新生児科医としての心の故郷であった。増本が末期がんであることを知って、私はフトScottにコンタクトしようと思い立った。彼等が共に働いたグレース産科病院に国際電話をして、Kenneth Scott教授を尋ねたところ、職場が代わったという返事であったが、私が彼を探している理由を話すと、何と電話を受けた女性が以前Scott教授の秘書をしていたのである。そして彼女は「私も増本のことは覚えている、Scott教授は必ず増本に手紙を出すはずだ。」と言って、彼の新しい住所を教えてくれた。私のエアメールにScottは直ぐ答え、増本が危篤との知らせを聞いて以下のような手紙を送っている。
May 10,1993    Dr. Tadashi Masumoto
「親愛なる尊敬する私の友人Tadashi: 10年前私はあなたのNICUのデータを送ってもらいましたが、その時はとても信じられない成績と思いました。しかし今目の前にある教科書に、日本の新生児死亡率は2.8と世界一であることが記載されています。私と一緒にグレース産科病院(ダルハウジー大学病院)で学んだことをもとに、貴方が日本の若い医師たちを指導したことが、その素晴らしい成績に寄与していることを考えると、私自身も誇らしい気持ちになります。貴方は多くの新生児の命を救うことによって、その子だけでなくその母親と家族に神の祝福を与えたのです。貴方の功績は世界中に知れ渡ることになるでしょう。貴方は私の心に永遠に生き続けます。敬愛するKenneth E. Scott, Dalhousie University」
その手紙は亡くなる直前の増本に届けられた。増本がScottの言葉を読み、万感の思いで己が人生を振り返ったことであろう。
増本は翌年West Ontario大学(日本から多くの新生児・周産期専門家が留学しているカナダの名門)に新生児のsenior fellowとして移り、1年間遺憾なくその能力を発揮してのびのびと働いた。増本はそこで、ほとんど自分のNICUのように細部まで目を通して管理していた経験が、帰国後の長崎中央病院のNICU管理のプロトタイプとなったようである。増本の知識と技術だけでなく、NICU全体の管理に彼の影響力が及んでいたことは、彼が退職する時に、看護婦達が「Tadashiが居なくなると赤ちゃんが亡くなる」と病院幹部に嘆願書を出したというエピソードからも想像出来るであろう。

国立長崎中央病院の増本(1):NICUのボス
 1976年増本はアメリカ小児科学会の周産期新生児専門医の資格を土産に国立長崎中央病院に戻り、恩師田崎啓介の期待に答えるべく4年間の研修で身に付けた知識と経験を基に自分にイメージする新生児医療を展開した。幸いなことに、増本が留守の間を優れた後輩である水田○○がシッカリと守っていたので、ゼロからのスターとではなく出来ている骨組みに新しい増本流を加える作業であった。水田○○は卓越した実践臨床家であるばかりでなく、珍しい事例が遭遇すると忙しい中にも関わらず、すぐさま文献にあたり最先端の知識をベースに治療にあたっていると、あまり人を褒めない増本が舌を巻いていた。その水田○○が、増本が帰るのを待っていたように、請われていた天草地区の小児医療の為に開業して大村を離れてると、いよいよ増本の独り舞台が始まった。
 長崎中央病院は前身が旧帝国海軍病院だったので月月火水木金金は伝統であり、長崎大学出身者を中心とした研修医師は、増本がかってアメリカのレジデント時代に経験したような容赦ない臨床教育を受けることとなった。彼らの多くにとって新生児は3ヶ月のローテートであるため、その短い間に学ぶこと(増本からすれば教えること)は山のようにあり、夜間にRDSの症例が入院すると、その病状の変化を理解させるために当直開けの者も全員集合であった。典型的な研修医の日常は、毎朝7時からルチーン検査(CBCや血液ガスは勿論、増本は水電解質に厳しかったので、電解質のみならず尿比重も)をしてデータをフローチャートに纏め、患者を評価して回診に備えると10時くらいから増本の回診が始まる。回診は昼過ぎまでにおよび厳しい質問がとぶが、それは「なぜそうなるのか。なぜこういう管理が必要なのか」と、その背景の病態生理を理解させる教育でもあった。レジデントが何かを反論すると、どの文献に書いてある? と質問され、さらにその文献が信頼に当たるものか、にまで議論が及び、さらに文献の読み方が教育された。後にも触れるが、増本は卓越した臨床教育者で、「誰かが言ったから、書いてあったから」という丸覚えの知識を批判し、必ずその理由・理屈を理解ることを大切にしていた。
このような治療方針などを決める臨床回診に教育回診を合わせた朝の長い回診に加え、夕方の当直医に申し送りをするサインアウト回診と、さたに信じ難いことに増本は夜中の12時頃にも回診をし、当直医とmidnight round と称して電解質や血液ガスの再チェックの確認に加え、研修医にミニレクチャーをしていた。それは増本の家が病院の直ぐ隣にあり、なんと病院との境の金網フェンスに彼専用の通り抜けする穴が開けてあり、自宅から5分も掛からないでNICUに来れるようになっていた。ことほど左様に増本の一日はNICUを中心に動いており、夕方の回診後に帰宅し、夕食後に一寝入りをし、12時に起きてNICU回診に行き、その後病棟でウイスキーをチビチビ飲みながら文献を読んだり(増本は新生児に関してはいつもup-to-dateの情報に触れる努力をしていた)論文を書いたりして、朝の4時頃にまた帰宅して一寝入りするという変則的な生活であった。増本がテニスなどの運動をする割りに、高血圧・痛風・糖尿とメタボのデパートの様だった理由が明らかであろう。
 増本はNICU運営において、ルチーンとポリシーの重要性を強調していた。ルチーンは、好むと好まざるに関わらず必ず全員が従わなければならない臨床上の約束事で、長崎国立のようにまだトレーニング途中の医師が臨床の中心の仕事をするところでは特に必要であった。有名な増本のルチーンは、点滴は必ず頭皮針で(今はもう手に入らないが、児に侵襲が少なく、固定が良く、漏れても直ぐ分かる、という利点があった)、2度失敗したら上司を呼ぶ、というものであった。増本のナンバーツーとなる七種啓行(1980-85年と増本の最も長い相棒であった)・高柳○・吉永宗義が来るまでは、研修医のすぐ上は増本本人であり、夜中に点滴のために呼ばれてサッと入れて無言で返って行くことも稀ならずあった。またポリシーとはシステム上の約束事で、新しい入院のみならず様態が変化して治療方針を変えるときは必ず上の者に報告し指示を確認することや、後に触れるregionalizationで決められた地域内からの搬送は必ず受けることなどである。増本をトップとした新生児医療チームのヒラキ−がキチンと出来ており、全ての報告は彼に上がることになっていたので、増本はNICUに誰が入院していてどんな治療を受けているかだけでなく、NICUにどんな薬があるか・どんな機器があるか、までも常時把握していた。例として、増本のNICUには25%以上のグルコースおよび10%以上の塩化ナトリウムのアンプルは置いていない。それはかって若いローテーターの誤使用があり、危険な薬剤と判断されたからであるという。正に増本にとっては自分の管理する増本のNICUであり、自分が知らないことが起こる事を容認出来なかったのである。それが独善であると批判することは簡単であろうが、3ヶ月単位で若い医師達がローテートして来るという長崎国立のNICUが置かれた環境を考えなければならない。増本には、最重症の児にも世界トップクラスの医療を提供するという責任と自負、さらに短い時間ながら増本の下に来る研修医に最善の教育を行うという強い意思、があった。 その貴真面目な増本が選んだシステムに合わせたライフスタイルが彼の健康を蝕んだであろうことは想像に難くないが、増本の親友を自認する仁志田博司の東京女子医大のNICUも、具体的な運営形態は異なっているがルチーンとポリシーを重視した基本的な思想は同じであり、また増本の薫陶を受けた池ノ上 克が作り上げた鹿児島市立病院NICUも同様であったと聞く。
 増本は長崎中央病院では確かに新生児のドン・独裁者であったが、それは権威主義でなく上記のように新生児という患者の為に何が一番良いかを常に考えていたからの姿であった。一番赤ちゃんに優しいのは一番上手な人がするのが良い、と言って憚らないので、3ヶ月しか廻らない研修医は臍カテーテルなどの機会はほとんど無かったが、婦長の「先生が居なくなったら困ります」の一言で、ナンバーツーのスタッフにバトンタッチするようになったという。また小児外科の小武康徳は、当時の田崎啓介小児科部長が新生児外科の症例は他院に搬送していたのを、ここで出来れば赤ちゃんにも母親のためにもなる、と増本が粘り強く説得を続けて頑固な部長を翻意させたエピソードを、「先生これから外科に回しますからよろしく」と嬉しそうに笑った増本の顔が忘れられない、と思い出録に残している。それも増本の何が赤ちゃんに一番良いかの思想に繋がるものであった。

国立長崎中央病院の増本(2):教育と地域医療への貢献
 増本は卓越した臨床家であったと同様に、その臨床教育は熱意だけでなく具体的事例に論理的な背景を加えて理解させる天性の才があった。NICUの成績には看護婦の能力が如何に重要かは言うまでもないが、国立長崎病院NICUにローテートしてくる研修医達が異口同音にナースに教えられた、助けられたと語っている。増本は、朝の回診の際に看護婦に10分間のショートレクチャーをしていた。看護婦は3交代に加え休みが入るので、同じ話を最低5−6回しなければ全員に伝わらない。飽きずに続ける増本の毎日の朝のショートレクチャーは、短いながら長い年月でどれだけ彼女達の血と成り肉と成ったことか計り知れない。
 研修医に対する増本の教育の熱意は人並み以上で、大学で行う長崎中央病院への研修医オリエンテーションで、勉強する気のない者は来るな、増本は言い切っていた。当然ながら増本のところに廻ってくる研修医全てが小児科や周産期に興味を持っているわけではない。さらに先輩達に「NICUに行くとたこ部屋のような生活だぞ」と脅かされ、実際それに似た生活を強いられながらも、ほとんどの研修医がNICUを去るときに名残惜しそうであったという。それは増本の後輩に対する教育への情熱であり、厳しいトレーニングながら彼等は増本の情熱に答えて学ぶことによって知識欲が満たされることの喜びを感じたからであると、増本の上司であった今村 甲(小児科部長)は評価している。増本は上の者が学会に行くのは下の者に新しい知識を伝えるためだ、と言い、学会のエッセンスを必ず教えてくれたので、新人時代に学会に行っても、今何が話題か知っていたので講演を聴いてもほとんどポイントを理解できたと高柳○は語っている。
 さらに増本は、病院全体の離島派遣医師教育の責任者として、日野原重明や牛場大蔵(日本医学教育初代会長)ら早々たるメンバーがtauterである歴史的な富士山麓の医学教育セミナー(病院長や学部長クラスが企業の幹部教育のように徹夜で与えられた項目の指導要綱や方法を作り上げて討論するスタイル)に参加し、直ぐにその才能を認められてtauterの一人に加えられている。新生児医療連会が、初期の頃大阪で類似したNICU幹部となる医師向けセミナーを増本を中心に2−3年シリーズで企画したことがあったが、大物の中川米造(故人)や新進気鋭の伴信太郎(現名古屋大学総合診療科教授)等をtauterに呼び画期的な教育セミナーを運営し、増本の教育者としての非凡な才に驚いたことを鮮明に記憶している。
その才能は長崎県の離島医療へのシステムつくりにも大いに生かされている。国立長崎病院は離島医療の親元的病院で、研修医の大半は将来、離島医療に従事する事を約束された初期研修医(スーパーローテイト)であった。増本は彼等の教育責任者として、離島医療には各科の専門性の高いトレーニングより一般内科・小児科・救急に加え、お産と小外科が出来る訓練を全員に行った。その効果は目覚しく、周産期医療だけ取り上げても、離島からの搬送が半減したのみならず、周産期・新生児死亡率が激減したのである。その成果は。増本自身がアメリカ小児科学会で発表し高い評価を受けた。田崎啓介が全国に先駆けて始めた新生児ヘリコプター搬送は離島医療の特性を物語るものである。しかし私もバルチモアで何度もヘリコプター搬送に乗り込んだが、ヘリコプターは風に弱いだけでなくエンジントラブルがあるとFixed wingsの飛行機が滑降して不時着が可能ななおに比べとストン落ちる危険を伴うところから、一回島にヘリで行くと当時のお金で2万5千円の特別手当が出たという。増本は若手を慮って自分が行くことが多かったというが、その手当ては皆の飲み代にしたという。
増本は極めてキッチリとした周産期・新生児医療の地域化regionalizationの理念を持っていた。それはノヴァスコシア州でScottが行っていた限られた医療資源の貞節な配分という考え方を下敷きにしたものであった。久留米で橋本武夫が、助けを求めるものは全て受ける、というポリシーで結果的には人口400万をカバーする世界一大きなNICUになって行った所謂ガリバー方式ではなく、国立病院という身動きの取りにくいシステムの中で、自分達がカバー出きる範囲(長崎県中部と離島)を決め、その範囲は必ず責任を持つという所謂とりで(砦)方式であった。勿論その砦の兵力が増強されれば、そのカバーするterritory(領土)を広げていくものである。初期に、国立長崎NICUには人工換気装置は一台しかなかったので、もし1000グラム以下の未熟児に使用すると、平均30日機械が独占されてしまい、その間にもう少し大きな助かるべき子どもが何人亡くなってしまうかを増本はキチンと計算していた。彼等の技術で助けることの出来る子どもを、そのような冷厳ともいえるシステム見殺しにすることは、増本にとても身を切られる想いであったことであろう。やがて、人工換気装置が2台3台と増えるに連れ、国立長崎の超低出生体重児の生存率は我国のトップクラスとなったのである。

国立長崎中央病院の増本(3);産科医との共存と周産期医療への広がり
 三宅簾を除いて日本の新生児の大先輩の多くは、生まれた後の新生児の医療に没頭して周産期の概念は薄かったが、増本は新生児は産科医と共にでなければ良い仕事が出来ないことを北米の経験から深く学んできた。さらに当時の日本の大学小児科の多くが新生児のトレーニングを教育に組み込んでいないばかりが、新生児は産科のテリトリーと言って憚らない小児科教授が少なくなかった。某国立大学ではNICUを含めてまで産婦人科医が新生児管理を行っていたが、それは小児科が新生児を診なかったからであった。
国立長崎病院では、小児科だけでなく産婦人科の研修医も必ず新生児を廻るシステムになっていたが、それは離島医療研修教育という特殊性を越えて、増本の産科医も小児科医も共に新生児医療にある程度の素養がなければならないという哲学があったからであった。その結果、長崎県で産婦人科医携わっている医師でも、常識として新生児の特性や地域医療(搬送システム)の概念を理解しており、スムーズに産婦人科と新生児のコミュニケーションが取られていた。増本自身が国立長崎病院で産婦人科部長の久保田健二の知遇を受けていただけでなく地域の産婦人科施設の医師たちともツーカーの関係であったのは言うまでもないが、研修医達のみならず搬送された子供の母親にも、送ってくれた産科医に御礼を言うように、と話していた。その集大成が諫早で増本が開いた周産期カンファレンスで、搬送地域のほとんどの産科医が参加したと、その立案者であった七種啓行は懐かしく語っている。
 特筆すべきことは、日本最初の5つ子の成育に成功(1976年)して歴史的存在となった鹿児島市立病院周産期センターの中心として活躍した、共に産婦人科医であった池ノ上 克と関修一郎が国立長崎病院で増本にマンツーマンの新生児医療の手ほどきを受けたことである。池ノ上 克が増本を訪れたのは、5つ子が生まれる前の1970年であり、また増本もまだ北米の近代新生児を学ぶ前であった。その2人の邂逅は、各々の上司であった外西寿彦と田崎啓介が親しかったこともあるが、その後の我国の周産期新生児医療の歴史を振り返るとき、運命的なものを感じるのである。池ノ上 克は、米国流学を目指していた増本からECFMGやapplicationの方法などの話を聞いて感化を受け、1973年南カリフォルニア大学産婦人科に研修に出かけて最新周産期を学んで帰ってくるなり5つ子誕生に遭遇するのである。5つ子が切っ掛けとなり鹿児島市立病院に本格的な周産期センター(設立:1978年)が計画され、そのヒアリングとして5つ子養育の臨床アドバイスをした山内逸郎と池ノ上 克に新生児医療を指導した増本、それに何故か筆者の3人が呼ばれた。それは、増本が池ノ上克を介して外西寿彦に北米の最先端の周産期新生児医療を学んできた男だからと推挙してくれたからであった。まだ大学の研究員という不安定な地位しかなかった私にとって、増本が同席しているとはいえ、天下の山内逸郎と日本の周産期新生児医療の新しい扉を開く場に居合わせたことは、私のキャリアの中でも身が引き締まる光栄な経験であり、増本の友情に深く感謝している。
 関修一郎は鹿児島市立病院産婦人科の一年目として5つ子誕生に巡りあったところから、増本の下で新生児を学ぶことになった。1977年の新生児学会で、増本が「日本の周産期のホープです」と紹介された時のキラキラと光る関修一郎の眼差しを覚えている。増本はman-to-manで厳しく教育し、人に弱みを見せることの無い男であった関修一郎の病棟で寝泊りしていたベッドが涙で濡れていた、という逸話が残っている。後に関修一郎は厚生省(当時)の母子保健課課長補佐を2年間努めた時に、現在のNICU施設加算や全国レベルの周産期医療システムの基礎を作ったが、その思想的背景は正に増本から学んだものであった。

西南病院事件と増本の涙
 高知県にある県立西南病院は高知医科大学の関連病院であった。1986年相良裕輔(当時産婦人科教授)がそこで「これからの周産期医療について」の講演をし、新生児は1歳までは体外胎児だから産科が診る、と言った。その話を人づてに聞いた増本は、西南病院には日本で何人目かの600グラム台の超未熟児成育に成功した澤田 敬が小児科にいるのに、と学会の懇親会の雑談で話したのは当然の感想であろう。また1985年の新生児医療連絡会で澤田 敬が、高知医大では産婦人科がまだNICUを診ている、と報告したので、事務局長をしていた私がそれをニュースレターに書いた。それが「まだとは何事か、産婦人科が新生児を診るなというのか、澤田も増本も仁志田も何時でも首を飛ばせる、土下座して謝れ」と相良裕輔の逆鱗に触れた。増本は澤田 敬の大学の後輩であり、また同じ公務員であり、事を荒立てて澤田 敬が苦労するならば、と詫び状を書いた。私はその話は他所の国の笑話程度にしか受け取っていなかったので、増本が電話でその顛末を笑いながら話していたが、突然悔しいと泣き出したのである。増本が受けた新生児の医療さらに現在彼が働いている世界では有り得ない理不尽な出来事であり、それに甘んじなければならない慙愧の念からであった。
 その我々が冗談のように名づけた西南病院事件が切っ掛けとなり、故内藤達男を中心として新生児医療連絡会が生まれ、現在の我国の新生児医療の発展の基礎となったが、負けず嫌いな増本にとって、友人の為とはいえ意に反して詫び状を書いたことが、長い間心の傷になっていたようである。

愛媛県立中央病院のNICU立ち上げ
 何故増本が、大村湾を見下ろす豪邸(?)を建てて長崎に自分の描いた新生児医療を展開する、と豪語して憚らなかった夢をほぼ実現しながら、愛媛に移ったのであろうか。40歳後半となり体力が衰えて、国立長崎病院の厳しい勤務環境と不規則な生活の疲れがボディーブローのように効いてきた時に、郷里愛媛から要請があり、信頼に足りる吉永宗義に自分がこれまでしてきたことを託せる、と判断したからであろうと周囲は思っている。しかし私は、増本が故郷に錦を飾るとか生まれ故郷でユックリ余生を送る、などの考えはサラサラ無い。増本は、自分が熟知している人口100万余の愛媛県を舞台に、かってノバスコシア州でKenn Scottがしたように、理想の周産期新生児医療を展開する新しい夢に向かったのだ、と確信している。
 彼を招聘する大きな力となった徳丸 実(当時愛媛県小児科医会長)は、開業医ながら数少ない米国小児科専門医を持ち、個人の経験則で開業をしている日本の実地小児科医療を改善すべく、米国でアメリカ小児科学会(AAP)と肩を並べるほど大きな外来小児科学会(Ambulatory Pediatric Association)に倣って、日本外来小児科学会を立ち上げた傑物である。徳丸 実は、北米で鍛えられた増本の力量を評価しており、愛媛県立中央病院に周産期センター構想が持ち上がったとき、いの一番に増本の名前を挙げたのである。
 徳丸実らの熱意と、増本の故郷に展開する周産期新生児医療への夢が合致して、国立長崎では何度依頼しても出来なかった感染隔離病棟をはじめ、充実した設備を有する一回り大きい規模の周産期センターが構築された。スタッフも増本の要望に合わせて配備される事が決まっていた。しかし全国的な小児科不足に加え、人集めのようなドロドロした政治的なことが苦手な増本が、最も苦労したのはスタッフであった。残念ながら地元の愛媛医大小児科との関係も、長崎大学と増本のようにはいっていなかったようである。
しかし増本はそんな環境下でも、僅か3年という短い在籍期間に愛媛県の新生児死亡率を激減させただけでなく、彼がカナダで夢見た周産期新生児医療のregionalizationの基礎造ったのである。増本は「四国新生児(医療)研究会」を立ち上げ、その第1回に私を呼んでくれたが、新装のセンターを案内してくれる増本の顔は輝いていた。最も印象的だったのは、増本の部屋に張ってある幾つもの赤い頭の虫ピンが刺さっている愛媛の地図で、それは周産期センターへ搬送があった施設であった。その赤い頭の虫ピンが全県に広がるのが増本の夢であり、興奮すると口を尖らせて話す彼は、人生で遣り甲斐のある仕事に遭遇した男の姿であった。
残念ながら増本の病が明らかとなると、先行きの不透明なところに行く若手も益々少なくなった。その苦しい状態を見かねて、私は限られた女子医大NICUのスタッフの中から、伊藤智子を四国出身ということで因果を含めて送り出した。その伊藤智子が語る、オペ後の抗がん剤治療をしながらも病身を押してNICUに留まり、なんと自らも当直までしたという、増本の臨床医かとしてまた管理者としての晩年の生き様は、言語を絶する壮絶なものであったという。その増本が命を掛けた愛媛県の周産期新生児医療システムは、国方徹也を経て梶原眞人に引き継がれている。

新生児医療への貢献
増本の最大の功績は、既に述べた如く長崎と愛媛でその地区の母と子の医療を守るregionalizationのモデルを我々に示してくれたことであり、またNICU運営にはルチーンとポリシーが重要性であるという増本イズムを彼の下で研修した医師に叩き込み、彼等が各地でキチンとした新生児医療を展開していることである。
学問的には、水バランスに大きな興味を持っていて幾つかの仕事をしており、研究会などで当時の大御所山内逸郎と丁々発止のやり取りをしたことが印象的であった。今から考えれば私も増本も初期はアメリカ流の水分投与を行っており、後に岡山流のドライサイドの管理に主旨代えをしている。しかし、その学問的な裏づけが出たのは、1987年に女子医大の高橋尚人が不感蒸散量を測定してからである。実は、増本は亡くなる前に未熟児新生児学会の会長に内定していた。以前にも何度か名前が挙がったが、山内逸郎の「増本は新生児感染症にクロラムフェニコを使う(増本は50mg/Kgまでなら副作用は無い、という学問的根拠をもっていた)など、まだ春秋が定まっていない(評価が定まっていない、という意味)」とのコメントで先送りになっていたが、その山内逸郎も増本の地域医療への貢献を高く買っており、愛媛に移る時に彼を会長にノミネートしたが、増本の病状がそれを許さなかった。親友の一人としてだけでなく、学会としても慙愧に耐えないことであった。
増本には確かに原著は少ないが、多くの臨床上の貴重なコメントを総説の形や学会での発言で発表していたのは、故内藤達男に似ている。かくいう私も、臨床上の必要性から胎児発育やGBSなどあちこち調べるので、自分の研究専門を持っていないことを悩んでいた。ある時、増本にその話をしたところ、「私は臨床で気になることを調べたいと思っても第一線では忙しくてとても出来ない。大学にいるあなたの様な人が私の疑問に答える仕事をしてくれるのを望んでいるのだ」と発破をかけられ、目から鱗の思いで我が道を進むことが出来たことを、心から感謝している。

私達が冗談のように西南病院事件と呼んでいる出来事の詳細は、既に澤田 敬が新生児医療連絡会20周年記念誌に載せているが、この時に増本がながした涙が、新生児医療連絡会誕生の切っ掛けになったことを知るものは少ない。増本が、西南病院の澤田のおかれた立場に配慮して、不条理な出来事と知りながら涙ながらに詫び状を書いたことを聞いた内藤は、小児科の中でも日陰者であった新生児を志す仲間が、産科との小児科のhegemony (覇権主義)の狭間で揉みくちゃになる姿を見て、盛岡で行われた新生児未熟児学会の折に有志に声を掛けたのである。国立小児病院で産科から送られてくる新生児を受けいれ、産婦人科に感謝される立場にあった内藤には信じがたいことであった。私も増本が電話でその顛末を笑いながら話していた途中に、突然「悔しい」と泣き出したことを鮮明に記憶している。我国の近代新生児医療が誕生する歴史の中の意味深いエピソードであった。

増本 義という男
 冒頭にも述べた如く、増本は「義(ただす)」の名前の如く、正直を絵に書いたような男であった。それに加え、もうひとつの「義」の意味の如く義理に固い男で、共に働く仲間(増本は、何かあるとチームワークという言葉よりこの言葉が好きで、「仲間だろう」と言っていた)を大切にしていた。鬼のように厳しい指導者でありながら、増本家の庭でのスタッフ達とのバーベキューは恒例で、また奥さんが夜10時過ぎるとみんなの分の夜食を持ってきてくれるように、職場と生活が一体になっているような家族的な雰囲気があった。九州新生児研究会と称する集まりも、勉強もさることながらワイルドな宴会が有名で、私も何度か出席しては人前に出せない姿を爆写されているが、その中心人物の一人があの真面目な増本であった。
 もう一つの性格は負けず嫌いであり、勉強も多分その乗りで他人の後塵を拝することを心良しとしなかったので医学部卒業の成績がトップクラスになったのであろう。増本は家族や病院の仲間と良くテニスをしていたが、楽しむだけでなくラインすれすれのボールがアウトかセーフかに拘るタイプであった。仲間とのソフトボールでも、自分がピッチャーをする、と主張したり子どものようであった。その負けず嫌い加えて凝り性で、囲碁を始めるとNHKの囲碁講座を録画したり次々と本を購入して勉強したり、なんと金魚を飼ったら「金魚の飼い方入門」を、猫を飼ったら「猫の飼い方入門」を購入して一々勉強していたという。猫と言えば、増本家には一家の主のようなペルシャ猫が君臨していて、その頃の増本の一番の関心事は、どうしたらその猫に気に入られるかであったという。
 長男の健一は女子医大NICUで働く新生児科医となっているが、高校生の時分から医師としての心得や哲学について語ってくれたことや、24時間365日on dutyのような生活あったが、時間を見つけては一緒にテニスをしたり、大きな声で歌(童謡、流行歌、アニメの主題歌などジャンルは問わず)を歌いながらドライブをしたりと、家族との時間も大切にしてくれたと回想している。
 几帳面な増本はキチンと定期検診を受けていたのに、たまたま愛媛に移るドタバタで一回だけ健診を飛ばした。「俺はまだ50歳なのに、残念だ」と呟く様に言った増本の言葉は、お見舞いというよりは新しいセンターを見学に来た何人かの仲間の記憶に重く残されている。その時に癌が見つかっていれば、という増本の思いであったろうが、見た目には淡々と事実を受け止め、新天地で理想の周産期センターとregionalizationを構成する仕事に向かっていた。クリスチャンの増本であるが、なぜ俺が、という思いと乗り越えられない信仰の壁がある、と正直に牧師に語っていた。しかし最後はその壁を越え 新しい世界に入ったように、苦しい息の中で周囲の人々の手を握りながら、声にならないような声で、「ありがとう」を繰り返していたという。

増本 義への個人的オマージュ
 増本は私にとって日本の新生児医療の世界で闘う戦友であると同時に、心の拠り所となる親友であった。親友とは、ことさら言葉にしなくとも・年に一度しか会えなくとも、会った瞬間から相手が今どんな気持ちにあるかを分かり合える友である。私たちは何と多くの会話を交わしたことか。しかしその殆どは新生児医療と新生児学に関することで、個人的なことはごく僅かであった。増本がこれからという夢の途中の、50歳という若さで世を去る無念は、私自身の無念であった。
       「苦しくも夢を追いつつ共に生きし 君が無念は我が無念なり」
 私は1993年4月18日、窓から松山城が見える病室に増本を見舞った。私たちはいつもの電話の会話のように、アメリカでの苦労話や我国の新生児医療の行く末などを淡々と話し合った。末期癌に蝕まれた身体と、家族や遣り残した仕事を思えば、どれほど心が乱れるであろうに、一筋の涙を見せながらも、あの爽やかな笑みは何を意味するのであろう。短い人生ながら、燃えるような志を持って新生児医療に生きてきた、密度の濃い人生の節目節目を、じぶんを褒めるように思い出したからであろうか。
       「我の手を握りて語る2時間は 25年の凝縮の時」
       「懐かしく初めて会いし時を語る 君が笑顔に一筋の涙」
 私は増本から、なんと多くのことを学び大いに啓発され、そして何度明日の日本の新生児意医療を憂えて火の出るような議論をしたことか。その私が増本に言える別れの言葉は、「ありがとう、そしてごくろうさん、あなたの志は多くの教え子と仲間の胸に根付いています。その意味であなたは行き続けています。安心してお休み下さい。心をこめてさようなら」であった。
       「ひたむきに生きし君ゆえ言の葉は 残り者の胸を貫く」
       「幼子に命をかけし君の顔(おも)に たたかいの果ての安らぎを見る」
 私は増本と同時代を生きたことを、共に新生児医療に青春を傾けたことを、そして増本という男を友に持つ事ができた幸せを胸に、残された僅かな人生を増本の言葉をレフレーンながら生きて行く。

増本 義(ますもと ただし)略歴
1943年 愛媛県松山市に生まれる
1964年 洗礼
1962年 愛媛県大洲高校卒業
1968年 長崎大学医学部卒業
  同年  国立大村病院(現国立病院機構長崎医療センター)小児科勤務
1972年 米国ジャージー市立病院小児科レシデント
1974年 カナダダルハウジー大学病院新生児でフェロー
1975年 カナダウエストオンタリオ大学病院新生児フェロー
(米国小児科専門医・米国新生児周産期専門医・米国開業資格を獲得)
1976年 国立長崎中央病院小児科(現国立病院機構長崎医療センター)復職
     (NICU設立・新生児部長)
1990年 愛媛県立中央病院周産期センター新生児部長(副センター長)
1993年 母子保健文化賞
   同年 6月24日 昇天(享年 50歳)

  役職
長崎大学医学部非常勤講師
熊本大学医学部非常勤講師
日本新生児学会評議員
日本未熟児新生児学会評議会員
日本周産期学会幹事

参考資料
巻頭言「先輩と後輩」、今村 甲、長崎県小児科会会報 19:1−2.2003
Little Usher 増本 義 先生、追悼文集(七種啓行 編)、1994
追悼――新生児学を愛した増本 義君を偲ぶーー、よさん会有志(中村欽光 編)、1994
追悼 増本 義先生 NICU 6(8)、1993
「我国の新生児の隠れた歴史の断章」(増本 義の思い出)、仁志田博司、赤ちゃん成育ネットワーク ニュースレター、2010/12, No. 11 : 6-9
仁志田博司:関修一郎を追悼する、新生児医療連絡会News Letter 55(2008年12月)、4−5
増本 義:愛媛県新生児医療の現状と問題点(愛媛県周産期センター開設1周年に当たって)、
愛媛県医師会報、644:56−64,1992

以下の方々に御協力いただきましたことを心から感謝いたします。(順不同)

七種啓行・吉永宗義・福田雅文・高柳
鮫島  金子  池ノ上 克
伊藤智子
増本秀子・増本健一・


新生児医療への貢献
増本の最大の功績は、既に述べた如く長崎と愛媛でその地区の母と子の医療を守るregionalizationのモデルを我々に示してくれたことであり、またNICU運営にはルチーンとポリシーが重要性であるという増本イズムを彼の下で研修した医師に叩き込み、彼等が各地でキチンとした新生児医療を展開していることである。
学問的には、水バランスに大きな興味を持っていて幾つかの仕事をしており、研究会などで当時の大御所山内逸郎と丁々発止のやり取りをしたことが印象的であった。今から考えれば私も増本も初期はアメリカ流の水分投与を行っており、後に岡山流のドライサイドの管理に主旨代えをしている。しかし、その学問的な裏づけが出たのは、1987年に女子医大の高橋尚人が不感蒸散量を測定してからである。実は、増本は亡くなる前に未熟児新生児学会の会長に内定していた。以前にも何度か名前が挙がったが、山内逸郎の「増本は新生児感染症にクロラムフェニコを使う(増本は50mg/Kgまでなら副作用は無い、という学問的根拠をもっていた)など、まだ春秋が定まっていない(評価が定まっていない、という意味)」とのコメントで先送りになっていたが、その山内逸郎も増本の地域医療への貢献を高く買っており、愛媛に移る時に彼を会長にノミネートしたが、増本の病状がそれを許さなかった。親友の一人としてだけでなく、学会としても慙愧に耐えないことであった。
増本には確かに原著は少ないが、多くの臨床上の貴重なコメントを総説の形や学会での発言で発表していたのは、故内藤達男に似ている。かくいう私も、臨床上の必要性から胎児発育やGBSなどあちこち調べるので、自分の研究専門を持っていないことを悩んでいた。ある時、増本にその話をしたところ、「私は臨床で気になることを調べたいと思っても第一線では忙しくてとても出来ない。大学にいるあなたの様な人が私の疑問に答える仕事をしてくれるのを望んでいるのだ」と発破をかけられ、目から鱗の思いで我が道を進むことが出来たことを、心から感謝している。

 

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13 長谷川良人「新生児仲間にエールを送り続けた出版人」

はじめに
長谷川良人前社長(以後長谷川、他の方も敬称略)の忘れられない思い出は、最初から新生児仲間とのエピソードであった。 まだ新生児の世界で駆け出しであった私が、内藤達男・橋本武夫・池ノ上克という錚々たるメンバーに混じってメヂィカの講演会に呼ばれた打ち上げの宴席は、長谷川一家の行きつけの寿司屋であった。現社長の素美夫人が宝塚のスターのように見えたことと、私たちの周りを駆け回っていた子供たちの姿を記憶しているが、その輪の中で内藤は、あまり飲めない酒と好評であったプログラムのプランナーとしての高揚した気分で、何度も「良いなー、良いなー」と歌うように言っていた。その数日後私は長谷川から妙な電話を受けた。「内藤先生があんな素晴らしい時間をもらった上、お金をもらうのは云々、と謝金を送り返して来たのですが、どうしましょう」というものであった。同じ電話をもらった橋本は黙って謝金を送り返したというが、4人のこどもを抱え大学の安月給でその日暮のような生活をしている私には、砂漠でオアシスのようなお金であったこともあり、言葉に窮している間に、長谷川は「それでは依頼した会社と先生方の「間合い」が亡くなりますから」と言って、ことを収めた。「間合い」という絶妙な言葉。間違いなく長谷川はその実年齢の差を超え、はるかに私たちより大人であった。

長谷川良人のメヂィカ出版と我国の新生児医療
 長谷川がメヂィカ出版を立ち上げ経緯は、東京での仕事に行く詰まりを感じ、出版事業が不毛の地といわれていた大阪で新天地を開く夢があったからと聞く。 その心行きは、彼のエッセイにある、大阪空港に降り立った時のスーツケースをストンと床においた描写、に鮮明に表れている。偶々行きつけのスナックで同席した飲み仲間が、長谷川の問わず語りの医療関係の出版事業の夢物語のような構想に資金援助を申し出たのも、長谷川の話には人を引きつける何かがあったからに他ならない。
 メヂィカ出版は創業時のラマーズ法全盛時代に、自らもラマーズ法で出産した乳呑み児をおんぶして素美夫人が受付をして全国を行脚した大好評であったセミナー事業から、長谷川の周産期・新生児さらに看護師や助産師に焦点を絞った出版社経営の才能で、瞬く間に業界のトップに踊りでたが、その成功は単に長谷川の起業家としての感や才能に優れていただけでなく、彼の広い人間性と深い教養がその根底にあったからであった。事実、講演者として共にセミナーを企画した尾島信夫(当時聖母病院院長)や竹村蕎(当時大阪府立母子保健総合医療センター院長)等は、「セミナー会場では、地方から夜行列車で早朝に到着する助産婦や看護師などの、「学びたい」という気持ちにあふれる姿に触れて感銘を受けた」、と述べているが,それは長谷川を支えていた医療出版界に身を置く者としての真摯な思いが、無言のうちに人々に伝わるからであった。
 長谷川は かけだしの医療関係の出版社としての苦労も味わっている。当初の企画を担当した藤本裕弘の最初の仕事が、「妊婦のためのお産情報」という産科病院ガイドであった。それはギルドの様な産科業界の内情を晒すような本になると取られ、その世界のドンからストップはがかかり、企画は中止となった。長谷川の真骨頂は、その非条理に悲憤慷慨する藤本に、「少しの間死んだふりをしよう」のセリフを言って、いったん矛を収めさせたが、需要者の妊婦にとって大切な情報である限り、必ず必要になるという信念を持ち続けたことであった。
メジカが同様な日本の医療界の狭小な縄張り争いのとばっちりを受けたエピソードには、少しながら私も関係したが、それはペリネータル誌の北里大学訪問記をめぐるものであった。北里産婦人科の島田信彦教授はお産の名人として有名であっただけでなく新生児の本も出していたところから、メジカの記者が島田に取材したのは当然であった。しかし、産科だけの取材による当時我国最先端であったNICUも含めた記事を見た小児科の坂上正道教授は、烈火のごとく怒って私を呼びつけ、メジカに抗議しろ、と命令したのである。島田教授とは親密であり、坂上正道や私の名前がない以外に内容に大きな間違いがあるわけでもないのに、と思いながらも、新生児の部門をもう一度取材してくれるように連絡すると、早速当時の素美副社長が坂上正道教授に丁重な詫びを入れ、再度取材した記事が程なく掲載され、一件落着した。確かに産科と小児科が新生児をめぐるテリトリー争いをしていた時代背景があり、小児科学会会長を歴任した坂上正道は北里大学小児科こそそのシンボルたらんと喧伝していたところから、起こるべきして起った出来事であった。           
もう一つのエピソードは、メヂィカの医療雑誌の座談会の記事に、ある製品にたいするアメリカの医者の歯に布を着せぬコメントが載せられたことに対し、メヂィカにとっては広告などの大切な客筋である某製薬会社からのクレームを受けた時であった。その時の長谷川の社長としての裁断は、「編集内部にプライドがあるなら、このクライアントを失うことになってもしかたない」というものであった。学問的に間違っていない事柄を、利害の横槍で左右されることに応じることは企業倫理に抵触することを、長谷川はプライドがあるならば、という言葉で社員達に教えたのである。硬骨漢・長谷川の面目躍如たる一面であった。
 1981年創刊の雑誌「ペリネイタルケア」の第一号の巻頭言に、長谷川が尊敬する坂元正一(当時東大産婦人科教授)が、「道は私達の歩いた後にできる、母子像の中に愛の祈りを込めて、」と長谷川の思いそのものの言葉を寄せている。長谷川自らが「ペリネイタルケア」はメヂィカの原点であると言っているごとく、坂元が「ペリネイタルケア」の為にエッチングで描いた母子像のリトグラフィーは今も社長室の壁を飾っている。
1987年に、新生児に特化した我国最初の民間雑誌として「NICU(後にネオナイタルケアに改名)」が創刊された時のことを、私は忘れられない。内藤達男の死が大きな引鉄となり1985年に新生児医療連絡会が発足した頃、長谷川からNICUという名前の雑誌刊行の相談を受けた。ようやくNICUの名前が違和感なく人々の口の端にのぼるようになったとはいえ、新生児医療はまだまだ小児科の中でもマイナーな取り扱いであり、NICUと称する施設を有するのは大学病院でもまだ僅かであった。私は、「まだ我が国では社会的認知を受けていない分野であり、とても営業的に成功するとはおもえない」と答えたが、長谷川の反応は、「勿論直ぐに営業ベールになるとは思いませんが、新生児科医師としてのidentityを求めている先生方にエールを送りたいのです。」というものであった。長谷川は、明治維新のような勃興期の新生児医療に企業家としての夢を託する思いより、母と子の医療に身を没して苦闘している若者達に、自分が苦しみながら歩んできた生き様を投影して、心の中から手を差し出してくれていたのである。それを感じた私が、長谷川の手を握ったのは当然のしぐさであり、創刊号巻頭に「独立した新生児専門の雑誌ができることは、新生児に携わる者にとって市民権を与えられたような思いである」と寄稿した。その後メヂィカは、新生児医療連会の事務局を引き受けてくれ、正に日本の新生児医療に携わる者のホームグラウンドのような役目を担ってくれたのである。
長谷川をめぐる個人的なエピソードがあるが、日本の近代新生児の黎明期に共に夢を追った親友、増本義が志半ばで病に倒れた時、長谷川は本誌に載せた追悼文に、長谷川はそれと知らずに増本の兄・増本瞭と行きつけの店で親しくしていたと書いている。2人は増本義が共通の親しい男であることに気付き、一度揃って杯を酌み交わす約束をしたが、それは増本義の思わぬ急逝で実現することはなかった。私の新生児科医として人生は、増本義をおいては語れない親友であったところから、「新生児医療に生きた人々」のシリーズの最後には増本義、と決めていたので、その後に長谷川の生き様を取り上げることは考えてなかった。しかしバーのカウンターでなく、本文上で3人の名前が揃ったことは、私にとって巧まざる不思議な縁(えにし)に思えるのである。

長谷川良人の来し方
長谷川の背筋を伸ばした端正な立ち振る舞いは、戊辰の役の頃の北海道松前藩の武将にまで辿れる名門の末裔であることを物語っている。曽祖父は医者であり、長谷川の幼い記憶にある奥の書斎で端然とすわっている祖父は山形で銀行を起こしている。その家を継いだ父を、長谷川は白皙(色白)の二枚目で立派な印象を人に与える明治の知識人であったと描写しているが、自分の父親を誇りに思うように語れる者はどれだけいるであろうか。辛口の物言いの長谷川が、どれほど父親と己の血筋の先達に畏敬の念を抱いていたかが伺われる。
長谷川は東京の麻布霞町で生まれ、文字どうりの裕福な山の手育ちであったが戦争が全てを変えた。東京大空襲では母と妹と逃げ惑い、全てが焼け野原になり国会議事堂が直ぐ側に見えるようになったという。幼い兄と妹をはじめ多くの友達を失い、慕っていた学校の先生が特攻隊で死に向かう経験など、12歳で終戦を迎えるまでは死と隣り合わせの少年時代だったと語っている。長谷川の娘は終戦記念日の8月15日生まれであるが、終戦の頃には三八式銃を背負って行軍していてグラマンに襲われたという。親はどこまで子どもを守れるかという思いを、「秋は悲しい、私は戦争で多くの死を体験して来た、子どもを失った人もそれぞれの戦争を体験している、あの煙雨の中で多くの人が死んだ、その雨の向こうに叫びたい、おおーい子供達を頼むぞと」、と長谷川は書いている。
青山学院大学を卒業後、伊豆諸島南端の兄島に小学校教員として働き、戦災孤児も混じった子ども達に手回しの蓄音機で音楽を聞かせたりした体験や、十代の頃にやはり戦災孤児たちと田舎の禅寺で過ごした生活は、長谷川の繊細な感性に大きな影響を与え、被害者である子供を慈しむ心を育んだようである。
 長谷川はある文学賞候補になったという経歴が示すように、物書きになるのが夢であった。初期の頃のペリネータルケアやネオネータルケアの記事の隙間を埋める「うめくさ」のほとんどは、長谷川が書いていた。一年に100冊の本を読むことを自らに荷していたと言っていたが、むべなるかな、である。長谷川の読書によって培われた博覧強記は、出版業界や看護医療の世界の留まらない広い教養を培い、社員達が長谷川を仕事を離れても人生の先達として敬愛していたことがうなづける。

長谷川良人とゴルフ
長谷川は冗談のように、1年ゴルフ100ラウンドを目標としている、と言っていたが、あながち冗談ではなく、会社が順風になってからはそのくらいは廻っていたかもしれない。その最良のパートナーが橋本武夫であった。橋本は、医者としては数えるほどしかいないシングルどころかパープレイヤーであるが、長谷川もそれに負けない腕であったという。土砂降りの雨の中を2人は黙々と18ホールを廻り、ロッカールームに入ってから「廻ったね」と笑いあったというエピソードからも、彼等にとってゴルフは、遊びの域を超えた何か(例えば各々の生き様のロールプレイ)であった。
橋本は私的な電話をほとんどしない男で、私の記憶にある数少ない橋本の個人的な話題の電話の一つが、「アルバトロスをしたよ」であった。私が、アルバトロスはホールインワンなどとは比べものにならないほど、奇跡的な出来事であることを実感したのは、あの橋本が電話をしてきたからであった。もう一度は、長谷川の死を告げるものであった。「先生、長谷川社長が亡くなったよ」の一言で後は無言であり、私が何か取り留めの無いことを言って電話が切れたが、それは私が長谷川の死去を知った第一報であった。長谷川は橋本にとって、アルバトロスではないが、他人には分かりえない特別な存在であったことが伺える。

長谷川良人の赤ちゃんと生きる夢
長谷川はクリスチャンなので、聖書の「こどもたちへ、神は己ににせて人を創られた」を、彼のエッセイ集の巻頭に載せたことは腑に落ちるが、長谷川は本質的に子ども、特に赤ちゃん、が好きであった。なぜそうなのかは不明であるが、長谷川が育まれた家庭環境と彼のやさしさの感性に秘密があると思っている。彼の言葉の中に何と多くの、湧き出るような子どもへの想いが溢れていることか。
長谷川は、「だっこが一番だ」といって、その抱いた胸と腕にかかる確かな赤ちゃんの重みと温かみを慈しむように、頑なほど子どもを抱いて歩いていた。5ヶ月のわが子を海外旅行に連れて行ったときもそうであったという。長谷川は乳母車やおんぶさえも、子どもと同じ目線で風景が見られなければ共通の思い出は作れない、と言って憚らなかった。子どもとの肌と肌の温もりも、長谷川にとっては、人生の中で子育てが出来るという至福の短い時間に秘められた宝、のように思っているようであった。
共稼ぎの長谷川夫妻は当然のことながら子どもを保育施設に預けていたが、ある時たまたまその子ども達の送迎バスを見た近所の人の、何気ない「まるで魚みたいにまとめて運ばれているわ」という言葉を耳にした長谷川は、多分夫婦にとって人生で最も忙しい時であったろうに、自分達で子どもの送り迎えの出来るところに代えたという。長谷川の詩人の感性は、「魚のように」という言葉が胸に刺さったのであろうが、それ以上に、彼の子育ての理念がそうさせたのであろう。同様に、長谷川には駅前保育場の言葉は、まるで駅前駐輪場のように大人の功利主義で子どもを物のように置いてゆく感覚で悲しい、と述べている。私は長谷川のこども目線に、小児科医として思わず襟を正す思い出であった。
まだ長谷川が社会人の駆け出しとして経済的にも大変だった頃に、娘に何としても雛人形を買ってあげたいと思い、朝食のサンドイッチを半分残して昼飯にするという節約をして、その目的を達したという。 それはとても小さい小さい人形であったと、さり気なく書いているが、私はその小文を呼んで、思わず涙ぐんでしまった。こどもを思う親の気持ちは皆同じであるとしても、長谷川のそこに流れているあたたかさが特別であるのは何なのであろうか。事実の表現を超えて伝わるもの、それが心なのであろう。 長谷川の好きな宮沢賢治が、子どもを銀河鉄道に乗せて夢の世界に連れて行ったように、「赤ちゃんがいるのは楽しい、明るい、赤ちゃんが笑っている、手をふっている」、「跳び箱が飛べなくてもいいじゃないか、学校が嫌いでもいいじゃないか、大人の論理を押し付けなくても、子どもは子どもののびのびした世界があってもいいじゃないか」、「洒落た有名店に、躾の出来ていない子ども入店お断り、と張り紙があるなんて子どもが嫌いな人がいるのだ。自分も子どもだったくせに」、「子どもは初めての道を行く旅人なんだから、その道を通ったことのある大人は教えて上げなければ」、というような長谷川のさり気ない文章には、100万ボルトの子どもへの思いの電気が流れているのだ。
 
 末尾に
これまで2年間余、「新生児医療に生きた人々」と題して12人の先達を取り上げたが、いずれも私と個人的な接点があったとことから、私の視点から捉えた姿であったことは避けられなかった。日を改めて一冊に纏まる機会があるならば、読者の方々からの改めるべきところや書き加えるべきところのご指摘を賜れば、可能な限りより良いものにと手を加える所存である。
今回の長谷川良人前メヂィカ出版社長は、実際に新生児医療に携わる医療人ではないが、ご一読頂いたように、私たち新生児の仲間に心からのエールを送ってくれた戦友のような方であった。それは、新生児・周産期医療に特化した出版会社の長としての義務感だけでなく、私たち新生児仲間が母と子に情熱を傾ける姿に、共感してくださったからである。振り返れば、メヂィカ出版の35年の歴史は、正に日本の新生児医療の歴史と重なりあっって、ここまでは共に発展した来たことにある感慨を覚える。
長谷川良人前社長を描いた本稿で、亡くなられた方を取り上げたこのシリーズをひとまず終え、年が改まってからは再び微力を振り絞って、我国の新生児医療の歴史を違った観点から描いてみようと考えている。重ねてこれまでのご厚情に感謝し、さらに今後のご支援を賜る次第である。

参考
子どもたちと彼編集委員会:子どもたちと彼――内藤達男先生追悼文集――(非売品)
長谷川良人:子どものいる風景――いま、むかしーー、メヂィカ出版、2001
メヂィカのめ 31号(社長追悼号)、メヂィカ出版、2001

 

項を終わるに当たり御協力いただきました、増本瞭・橋本武夫両氏、並びに長谷川素美社長はじめ宮本明子・門松・宮脇その他のメヂィカ出版の社員の方々にお礼を申し添えさせていただきます。

 

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14 4Mary Avery教授「日本の新生児医療に慈愛の眼差しを向け続けた世界的小児科医Mary Avery教授を偲ふ」

はじめに
RDSの原因がサーファタント欠乏であることの発見など、様々な業績で新生児学の歴史の一ページを飾ったMary Ellen Avery 教授(以後Avery 教授)が2011年12月4日に享年84歳の生涯をとじられました。 Avery 教授はアメリカで最も著名な小児科医であり新生児科医であるばかりでなく、日本の新生児学の進歩にも大きな影響を与えたところから、心からの哀悼の意を表するとともに、わが国との関わりを中心に追悼の文章を献じます。
Avery教授の栄誉
Avery 教授は1927年Maryland州で事業家と教師を両親として生まれ、1942年にMassachusetts州のWheaton College(女子大)で化学の学位を取った後、1952年Johns Hopkins大学医学部に入学しました。卒業後同大学の小児科レジデントを経て、Harvard 大学小児科の新生児フェローを終了し、1960年に母校Johns Hopkinsのassistant professor(1965年associate professor)として戻り、そこで小児呼吸部門の主任及び新生児主任として働いている時に、後述するRDSの原因が肺surfactant欠乏であることを示す歴史的仕事をしています。1969年には、カナダのMcGill 大学の小児科教授及びMontreal小児病院院長として赴任し、その後1974年に再びHarvard大学に小児科教授及び小児病院院長として戻り、1985年に退官しましたが、Thomas Morgan Rotch (1849-1914:アメリカ最初の小児科教授の名称) Professorの称号を受けています。そのような冠名は終身教授を意味するもので、Harvard大学の名誉教授に中でも数少ない栄誉なのです。(写真1)
Avery 教授は名門Harvard 大学医学部全体で最初の女性chairmanとなり、また米国で最初の女性の小児病院院長となっています。さらにAvery 教授は、Society for Pediatric Research (1972-1973)及びAmerican Pediatric Society (1990-1991)の最初の女性のpresidentとなり、また2004年にAmerican Association for the Advancement of Science 及び2003年にNational Academy of ScienceのPresidentに小児科医として初めて選出されています。また1991年には、時のBush(senior)大統領からWhite Houseで新生児医療の貢献に対しNational Medal of Scienceを授与されていますが、この栄誉も小児科医としてはアメリカで最初のものです。(写真2) このようにAvery 教授は、アメリカにおける女性医師の地位の向上のみならず小児科医の社会的評価を高める歴史的な役割を果たした女性なのです。
Avery教授の新生児医療への貢献
Avery 教授は未熟児におけるRDSの病態と肺サーファクタントの仕事で有名ですが、その他に新生児でもっとも頻度の高い呼吸障害の一つが、肺胞水の吸収遅延によるものであることを示し一過性多呼吸症と命名したのもAvery 教授であり(Avery ME: Transient Tachypnea of newborn, Am J Dis Child 111:380,1966)、また「The lung and its disorders in the newborn infant, Saunders Co」は新生児の呼吸器疾患の歴史的名著として知られています。 
しかしAvery 教授の仕事は単に呼吸器系の範疇を超え、母親に母乳栄養を進める重要性を指摘している論文(The First Drink Reconsidered:J of Pediatrics  68:1008-1010, 1966)を発表しているように新生児医療全般に広い学識と経験を持っており、多くの優れた新生児科医を育てています。その背景には、Avery 教授の恩師であるCLEMENT  SMITH (1901-1988 ,The physiology of the newborn infantの著者でアメリカの新生児学の開祖と呼ばれています)の「自分は新生児科医でなくすべての赤ちゃんの小児科医である」という姿勢の薫陶を受けているからです。
また世界的な新生児医療の教科書として知られているAvery's Diseases of the Newborn は、これまでアメリカで唯一の新生児に特化した教科書であったAlexander J. Schaffer のDiseases of the Newborn を継承したもので、現在も新生児医療のバイブルとして編者がH. William Taeusch, Jr.さらにRoberta A. Ballard等に引き継がれて第9版となっています。
Avery教授の新生児医療との出会い
Avery 教授に小児科さらには新生児への関心を与えたのは、ペンシルバニア州のAvery 教授の実家の近所に居を住んでいたJohns Hopkins大学出身の小児科医Emily Bacon(1881−1972)でした。Emily BaconWoman's Medical College of Pennsylvaniaの小児科教授であり、その仕事場である新生児室に案内されて未熟児を見たことが、化学を学ぶ学生であったAvery 教授の将来の方向を決めるエピソードとなったと言われています。
Avery 教授が肺・呼吸器系に興味を持っようになったのもドラマチックで、Johns Hopkins大学卒業と同時に肺結核と診断されたことでした。なんと若いAvery 教授は、薬と身の回りの物だけを持ってヨーロッパに行き、12時間の安静と新鮮な空気を吸う散歩の自己流の治療法で3か月を過ごし、病に打ち勝って帰国したのです。その経験がAvery 教授に一生の仕事として肺・呼吸器系に向かう動機を与えたのです。
新生児と肺への興味のコンビネーションから、Avery 教授は多くの未熟児の命を奪うRDSを研究テーマとしました。臨床観察から呼吸不全となる原因は肺そのものにあると考えていたAvery 教授は、John Clements(恩師のClement Smithとは別人)が肺サーファクタントと呼ばれる物質を発見したということを聞き、早速に彼に会いに行き肺サーファクタントがRDSの病因に関係することを確信しました。さらなる偶然は、John Clementsの指導を受けながら肺浮腫を引き起こす化学物質の研究をしていたJero Meadが、Clement Smithの新生児フェロー(1957-1959)としてAvery教授が働いていたハーバート大学の公衆衛生学部の生理学部門にいることを知り、Jero Meadを誘ってRDSで亡くなった未熟児の肺から取り出した液体の表面張力の測定する共同研究を開始しました。それからわずか1年余の1958年に、二人はRDSで亡くなった未熟児の肺には肺サーファクタントが欠損していることを証明し、RDSの病因を突き止めたのです。日本の藤原教授が、世界に先駆けてRDSに対する肺サーファクタント補充療法に成功し、多くの未熟児の命を救うことが可能になったのは、まさにこのAvery教授の功績に端を発するものでした。
我国の新生児医療とのかかわり
Avery教授と日本の新生児医療とのかかわりは、1975年名古屋市大の小川次郎教授が当時の新生児の指導的立場にある方々とアメリカに視察旅行にいた時にハーバード大学にAvery教授を訪ね、お互いに好印象を持ち、同じ新生児仲間としての絆をつくりあげたことが、その後の日本とAvery教授の交流の始まりといえましょう。さらに1981年小川雄之亮名市大助教授(当時)をリーダーとした最先端の新生児医療施設を訪問する視察団が、ハーバード大学にAvery教授を訪ねた際、まだ発展途上国であった日本からの新生児科医のグループに真摯に向かい合いって歓迎し、多くの新しい知見を与えてくれたことは、参加した若手の医師たちにとっては忘れがたい印象を与えています。その後Avery教授は、両小川教授をbig Ogawaとyoung Ogawaと呼び、特に小川雄之亮教授とは、Mel(Avery教授)とJohn(小川雄之助教授)、と愛称で呼び合う仲となりました。
Avery教授は何度か来日していますが、その中で1979年に東北の秋田の地に藤原助教授(当時)を個人的に訪ねたことは、重要な意味がありました。藤原教授が行った肺サーファクタント補充療法は、誰もが驚くほどの臨床成果をあげているにもかかわらず、当時はキチンとしたコントロール研究が行われていないことや、日本という世界の中ではローカルな地区の出来事であること等から、欧米からは正当に認知されていませんでした。Avery教授は肺サーファクタント補充療法の成功を自らの目で確認して、アメリカにその事実を持ち帰って藤原教授の功績を高く評価する喧伝してくれたのです。そのことにより、ようやく西欧諸国においても肺サーファクタント補充療法が広く普及することとなったのです。このことは、Avery教授の、「日本で行われようがアメリカでおこなわれようが、良いものは良い、それで未熟児が助かるなら早くみんなもそれを習うべきであり、研究は子どもの命をすくために行うのだ」という、医師としての明快な理念につながるものでした。
Avery教授は2002年11月の第46回日本未熟児新生児学会(後藤彰子会長)の特別講演[The Story of Neonatology: Personal Perspectives] に来日していますが、あのニューヨークの貿易センターテロ(September 11)の直後にも関わらず、Avery教授は疲労困憊になりながらも何としても日本に行くと駆けつけてくれた、と後藤彰子会長が感激していました。Avery教授は、後藤彰子会長が日本の新生児医療を代表する女性医師であることに近親感を持ち、さらに偶々学会最後の日(12月1日)に愛子様が誕生されたことも重なり、雅子様さまがHarvard大学に留学されていたことなどの話が弾んだのです。
筆者とAvery教授
個人的なAvery教授との最初の出会いは、筆者が5年間のアメリカ留学を終え帰国する1974年にモントリオール小児病院を訪ねた時でした。院長職の上にHarvard大学に移る直前の忙しいスケジュールの中の短い時間ながら、日本で新生児に人工換気療法を導入するならどんなレスピレータが良いか、などと今から考えると汗顔ものの質問に、ベビーバードが最適であろう、と真面目に答えてくれました。それは私がAvery教授と同じJohns Hopkinsのフェローだったことよりも、発展途上国の日本に役立つことがあれば、という思いがあったことは間違いないのです。Avery教授は、長い間UNESCOの役員としてアジアやアフリカの途上国をサポートしておられました。
もう一つ,私の新生児科医師として生涯忘れることのできないAvery教授の思い出は、1998年のHot Topics in Neonatology で「Micropremie, Japanese Experience」の招聘講演の座長をしてくれた時のエピソードです。Hot Topics in Neonatologyの講演は、すべて選ばれたテーマを最先端の演者によるものですので、研究者でもない私が演者に選ばれた理由は私個人の業績ではなく、日本の新生児死亡率が世界最低となったからでした。特に出生体重500グラム以下の未熟児をMicropremieと名付けて日本のデータを示せ、というLucy教授からの講演の招聘があったとき、冗談か意地悪か、と思ったほどでしたが、幸い新生児医療連絡会会員の協力で250名余のMicropremieのデータが集まり、それを基に日本の超低出生体重児の成績全体が、諸外国より優れていることを示すことが出来ました。その好成績の背景には、非侵襲的な細やかな管理・高湿度の閉鎖型保育器での少ない初期水分投与・母乳を中心とした早期経腸管栄養・serial CRP検査による早期感染症対策・permissive hypercapnea & hypoxemia, 等の日本流の新生児医療があることに触れたことが、Avery教授の共感を得ることが出来たようで、演壇を降りようとする私を呼び止め「You gave us the answer.」と握手しれくれたのです。勿論このYouは、私個人ではなく日本の新生児医療全体を意味するものであったことは言うまでもないのですが、Avery教授が世界中からの1500人余の新生児科医の前でそう言ってくれたことは、正に日本の新生児医療が世界の認知を受けた、と思わずな涙ぐんでしまいました。そのことを心からV Avery教授に感謝しています。
最後のAvery教授と思い出は、2007年のHot Topics Conferenceの時でした。Avery教授の長い間の親友であり、そのカンファレンスのorganizerのJerald Lucy 教授が、Alzheimer になったAvery教授の最後の公の場への出席の機会として、Avery教授の80歳を祝う会の名目で親しかった友人たちを招いた食事会を、カンファレンスの最後の日にLucy 教授が会員となっているCosmos clubにセットしたのです。そこはワシントンで一番の名門private clubで、何人かの日本の新生児科医がHot Topics Conferenceの折にLucy 教授に招待され、世界のトップクラスの新生児科医と歓談する稀有なる機会をもった所であり、後藤彰子先生もここでAvery教授に会って特別講演を依頼したのです。両小川教授が亡くなられているところから筆者と田村正徳教授が招待されました。Avery教授と長年仕事をしてきた錚々たる20人ほどのゲストの中に日本からの私達2人が加わったことは、日本に愛着を持っていたAvery教授をよく知るLucy教授等の配慮を感じるものでした。
おわりに
最後に、Avery教授の積年に渡るわが国の新生児医療に対する母親の慈愛のようなあたたかい眼差しに心から感謝すると共に、Avery教授が蒔かれた種子がわが国のみならず世界中で育ってゆくことを念じるものであります。

項を終わるにあたり、貴重な情報を提供いただきました後藤彰子・黒柳充男・千葉力・福田清一の各先生に感謝いたします。また些事ながら、私事にわたる記載が多くを占めた不手際をご容赦ねがいます。

参考資料:

  • Mary Ellen Avery: The story of neonatology: --personal perspectives--:日本未熟児新生児学会誌、14:13−16,2002
  • 黒柳充男:最近の米国・カナダにおける新生児医療(海外見聞記)、周産期医学、12:119−128,1981

* Avery ME & Mead J: Surfactant properties in relation to atelectasis and hyaline membrane disease. Am J Dis Child  97:517  , 1959
* Fujiwara T, et al: Artificial surfactant therapy in hyaline membrane disease. Lancet 1: 55, 1980
* 諏訪邦夫:医学を変えた発見の物語(Retrospectroscope 、Insights into Medical Discovery: Julius H Comroe Jr、1977),中外医学社、1998、 「時代に先行し過ぎた発見と未熟肺の話(第3部:未熟肺との闘い)、pp337−374」

 

   

Mary Ellen Avery 教授の写真はここ

 

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