推薦入学の学生へのオリエンテーション

目次

1 医療者の基本理念

2 医学生講義(PDF)

3 科学と宗教 脳機能と心(PDF)

4 医学生のための死生学(PDF)

5 医学生のための死生学

医療者の基本理念

1. 初めに

医学というのが科学的知識や経験に基づかなければ、呪いや祈祷師のレベルになってしまいますので、その学問的素養を身に付けるための能力は医学を学ぼうとする者に必須であることは当然です。
その能力を有しているかを選別するのが所謂入学試験ですが、医学を人のために応用する医療は、生きている人間を対象とするものですから、科学としての素養に加え相手の心に思いを馳せることが出来る心も不可欠となります。
この点で幸いなことは、東京女子医大では他大学に比べて誇ることの出来る「人間関係・ヒューマンリレイション」と呼ばれるカリキュウラムが学生教育の大きな柱の一つになっています。
皆さんは、学問的な能力に加え人間を相手にする医療を学ぶのに相応しい素質を持っているとの理由で、機械的な選別でなく推薦というルートで女子医大への入学を許された方々です。
私は、そのような背景を踏まえ、このオリエンテーションでは、医学部に入学して学ばなければならない科学的素養とは異なったもうひとつの大な側面である、一般教養(liberal arts)によって人間としての感性を磨くことの重要性をお話いたしましょう。

2. 医学部に入学した理由

皆さんはどんな動機で医学部に入学されましたか?最も多くの方は医者になるためと答えるでしょう。
特に皆さんの中にはご家族の方が医者であり、その仕事をする姿に憧れのようものを持たれて医学部を目指した方が少なくないと思います。
また人間の体は宇宙ほど複雑で神秘に満ちていますので、自然科学としての医学に学問的な興味を持って入学された方もおられるでしょうし、もっと広い目で人間の幸せと健康を守るという医療行政に携わりたいと思っている方も居るでしょう。
動機としてはあまり褒められたものではないのですが、成績が良いので最も難関の医学部へ行くことを進められたという人もいるようです。
そんな方でも医学に接して興味がわいてくる人は良いのですが、本当は数学とか物理などを勉強したかったのに何となく医学部はいってしまったというのは、本人のみならず国家的にも大きなマナスになります。
国家的ということは皆さん御存知かどうか、一人の医師を社会に送り出す為には数千万円の費用を要しており、皆さんの家族が支払う以上に公のお金が費やされているからです。
ですから是非皆さんに、単に大学に入れて嬉しいという気持ちを越えて、医学部に入学することの意義をもう一度自分なりに考えてみていただきたいのです。

3. なぜ医者になるか

ほとんどの人が医者になることを目的としていると思いますので、ではなぜ医者になろうと考えているのか聞いてみましょう。
代々医者の家系なので家業を継ぐために医者になります、という方も中にはいるでしょうが、当然のことながら最も多い答えは、病に苦しんでいる人のためになりたいという思いからでしょう。
それは人間が本質的に持っている相手を思う心(それを私は「あたたかい心」と呼んでいます。)に由来するもので医療の原点です。
勿論、科学としての医学・医療の学問的な面白さに引かれて、という動機も大切です。
私も若い研修医の時代には、知識や技術が日増しに向上することと、それに伴って患者さんを苦しめている病気の原因が、謎解きのように分かってくる面白さに夢中になった時期がありました。
しかしそれ以上に医療の面白さの中には、医者であるからこそ世の為・人の為になることが出来る、という社会から託された義務感に裏打ちされたやりがいがあります。
アメリカの場合は、医者は社会的評価が高いだけでなく実際に経済的にも恵まれた職業だから医学部に入る、と答える学生が少なくありません。
「武士は食わねど高楊枝」という言葉のように、良いことをしていれば貧しくても文句を言わない、という昔の日本の侍とは違って、アメリカの風土は良いものを良いと評価し、それが仕事の対価として経済的収入と考えるのですが、それが悪いわけではありません。
むしろ今の日本が、医療が社会から適正に評価されない風潮になってきて、自分の子供は医者にしない、と公言して憚らない医療者
が増えてきていることは問題ですね。

4. 医学と医療と患者  

医学は学問であり、生命の起源の研究のように直接には医療に関係が無くとも、発見の喜びや真理に迫るやりがいがあるだけでなく、科学としての意味があります。
しかし、やはり医学はその成果をより良い医療に反映させることによって人類の幸せに貢献する役目が最大でしょう。言葉を代えれば、より良い
医療を行うためには医学が必要であり、医学研究は医療を介して患者さんに福音をもたらすものでなければなりません。
助けを求めている患者がいて、その患者に手を差し伸べるのが医療であり、その医療がより効果的に施されるために医学があるのです。
その順序を逆にして、新しい技術や薬が開発されたからと、学問的な興味だけでそれを直接患者さんに試してみるというということが行われてはいけません。
残念ながら、学問という名の下に、また医者という地位の驕り故に、研究的治療が安易に行われてきた歴史的誤りを忘れてはいけません。
医学研究の成果として医学博士の称号がありますますが、英語ではDoctor ofphilosophy(Ph.D)と呼ばれています。
philosophy とは哲学の意味であり、ある研究成果で出たというだけでなく、学問の最高峰である哲学博士に相応しい仕事をしたかを評価されますので、その認証試験に通ることを合格(pass)ではなく、自分の仕事の成果を誇り高く守った(defense)と言っています。
ですからやっつけ仕事のような論文で取れる日本の医学博士とは大違いで、外国では医学部の教授でもその称号を持っている者は一握りに過ぎません。
実は私は、他大学で講師になる時に博士号が必要だからと言われ、手元の医学論文を提出して取ったので、恥ずかしくて個人名のタイトルにPh.D と書いたことがありません。
研究に進まれる夢のある方は、是非胸を張ってPh.D を自分の名前の後に付けられるような仕事をしてください。

5. 社会における医療・医者の位置付け

医療は直接人の体にメスを加えたり、毒と考えられる薬を投与することが許され、さらに人の生と死を出生証明書や死亡診断の形で社会に認知させる役目を担うものですから、沢山ある職業の中でも数少ない真のprofessional と呼ばれるものです。
Professional の本来の意味は、単に知的職業に就いている専門家という意味を超えて、社会からある任務と共の一般社会を超越した権限(裁量権)が与えられている職業人のことです。
元々profess の語源は,みんなの前(pro-)で告白する(confess)であり、その託された職業を全うすることを神や公に誓う意味です。
プロ野球のプロは素人野球(amateur 未熟の意味)に対比してお金をもらう職業野球の意味であり、たとえが適切でないかも知れま
せんが、職業として売春をする者を素人と区別してプロと呼ぶように、本当の意味のprofessional ではありません。
イチローがどんなに素晴らしいプロ野球選手であっても、通常の社会の規範を離れた行動をすることは認められていないのです。
その意味で真の意味のprofessional と呼べる職業は、聖職者(個人の犯罪としての秘密を告白として聞いても警察に伝えることはしない)や裁判官(被告に死刑を宣告できる)に加え、医師であると言われているのです。
医者になろうとする者は、患者の殺生与奪の権限を社会からあたえあれている、このprofessional の言葉の重みを肝に銘じなければいけません。

6、医療におけるscience and art

医療者には病気の治療のみならず人々の健康を守る役目があります。WHOの健康の定義が、「健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。」とされているごとく、医療者は患者の霊的・社会的状態にも配慮しなければなりませんので、科学としての医学の知識を超えた一般教養も身に付けなければなりません。
一般教養は英語でLiberal Arts と呼ばれますが、それは自由(リベラル)市民に相応しい学問・学術の意味であり、論理学・修辞学・文法の文系三科目と天文学・幾何学・算術・音楽の理系4科目が含まれます。
多分皆さんは、全ての分野を学ばなければならないのか、と不安に思うかもしれません。勿論それらの分野の専門家となる必要はありませんが、患者という人間に直接対峙する医療においては、science and art と呼ばれるように、医学を学ぶと同時に、本を読
み・音楽を聴き・美術を鑑賞するという一般教養を身に付けることが良い医療をするために欠かせないのです。
始めに言いましたように、医療は科学ですので学問的な知識と経験に基づいて行われなければなりません。
それをevidence based medicine(EBM)と言い、臨床の場では、文献に載っているか、学問的に証明されているか、といった会話が日常になされます。しかし、同時に患者は宇宙全体ほど複雑な人間であり、各々がみんな異なった人生背景を持っていますので、各々の患者の生きてきた人生物語(narration)に配慮した対応をするのが人間的な医療で、それをnarrative based medicine と言います。
science and art と似ていますね。

7. 医の心とは

「医は仁術」という言葉を知っていると思いますが、「仁」とは「相手を思いやるあたたかい心」の意味で人間関係を作る土台なのです
「術」は技や知識を意味しますので、言い換えれば「医療は相手を思いやる技能の実践である」となるでしょう。「あたたかい心」とは、相手の痛みや苦しみを自分のことのように感じることが出来る心です。
私は周産期・新生児医療という母と子の医療から、「あたたかい心」を学びました。万葉集の中の「吾が子羽包め(はぐくめ)天の鶴群(たずむれ)」という歌に見るごとく、親鳥が我が子(卵)を羽の中に抱いて自分の体温であたためる姿が日本の子育ての語源です。人間の母親も子どもを抱きしめて母乳を与えることによって、子どもに「あたたかい心」を育んでいるのです。

8.医療における「あたたかい心」 ;連続と不連続の思想


 「あたたかい心」を学ぶもう一つのキーワードは、私たちはみんな繋がっている、ということを知る連続と不連続の思想です。
私たちの宇宙は137億年前に、一つの点から出来たと考えられています。
ですから、私たちはみんな宇宙の落とし子で仲間なのです。
また私たちの生命は、35億年前ほどに原始の海から生まれ、コアセルベートと呼ばれる単細胞から魚・爬虫類・哺乳類・人類と進化してきました(系統発生)ので、私たちのDNAとゾウリムシのDNAも共通の連続性があるのです。
同様に、一個の受精卵が分裂を繰り返し人間の体を創ってゆき(個体発生)、またやがて歳をとって老人になってゆくのですから、赤ちゃんから成人さらに成人から老人まで、全て連続しているのです。
私たちは、みんな異なった特性を持った一人の生命体であると同時に、ともに生きている仲間である、と心するのが、連続と不連続の思想です。自分と相手は違った存在でも、立場を代えれば、相手は自分であり自分は相手になりうることを知ることが、相手の痛みを自分の痛みと感じることの出来る「あたたかい心」が芽生えます。
言葉を超えて、相手が何をして欲しいのか、何を言いたいのか、に心を馳せるのが「あたたかい心」です。医療の現場では、患者は言いたいことも医療者に言えない弱い立場にあります。
金子みすずの詩「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」のように、見えないものを見る、聞こえない声を聴く心が、医療者に必要なのです。

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医学生のための死生学

はじめに

医療において患者の死はまぬがれない。一時的に治療が成功しても、必ず最後は死を迎えなければならないことを考えれば、医学は死を学ばなくては成り立たない。しかしながら、これまで医学教育の中で病気を治すことは学んでも、死に付いて学ぶ機会は少なかった。このことは、末期癌の国立千葉病院精神神経科西川喜作医師の「自分は医師ながら死についてほとんど学んだことが無かったが、もし生きながらえることが出来たら死についての医学書を書きたい」との言葉に触発されて、柳田邦男が「死の医学への序章」(新潮社、1990年)を上梓したエピソードからも読み取れる。
 死生学(Bio-Thanatology)とは死とその対極にある生を対象とした学問であり、Thanatology(死学:死についての学問)のThanatos(ギリシャ神話の死の神)と、Biology (生物学)のbiosis(生命・生活力)を語源としている。これまでの医学は、生からその結果として死を考えることが主であったが、その逆に死から生(いのち・生命)とは何であろうか、を考える学問の重要性が認識されてきたところから、死生学が生まれた。
 死に関する教育は本学でも人間関係の枠内の生命倫理の一部に組み込まれているが、主に宗教的・哲学的・文学的観点から論じられている。医療者にとって、そのような人文学的素養も必要であるが、それに加え科学者としての生物学的な面から生と死を考え理解することも大切であるところから、本講義は「生命とはなにか・死とは何か・物質と生命体の違いは何か」を切り口に、生物の死がその進化の過程で起こった遺伝子の交換に伴って必然的に発生したことを、系統発生と個体発生の観点から論ずる。さらに死の持つ意味の究極が、「一つ粒の麦地に落ちて」にあらわされるごとく、死によって多くの豊かさをもたらすという、共に生きるあたたかい心に通じるものであり、死を考えが生命倫理の根幹に繋がる重要性を持つことにも触れ、医療に携わる者の基礎的素養の糧としたい。

T 死とは

 一般的に医療においては、患者(人間)が社会的存在としての生理学的機能が停止すること(死の三徴候:呼吸停止・心拍停止・瞳孔反射消失)を意味し、その判定は死亡診断・死亡時間・死亡届などの社会機序を保つために、極めて重要な医師の任務である。しかしその時点でも、臓器や細胞のレベルでは生命活動は存続しているところから、死には人間としての機能停止とは異なった生物学的死のレベルがあることを、医学という科学を学ぶ者として理解しなければならない。
 さらに人間を対象とした医学を学ぶ者は、人間の死をその生物学的機能停止(生物としての死)のレベルだけでなく、まだ生体の機能は停止していないが人間としての機能が停止した状態に、脳死という新しい死の定義が導入されたことを理解しなければならない。人間としての機能とは何であろうか。人間とは単なる生き物としての人(homo sapiens)のレベルを超えた社会的存在であり、他人との心の交流がその要である。その心の交流は脳機能によるものであり、その不可逆的な機能停止を脳死という。脳死は、植物状態のように周囲とのコミュニケーションが途絶えた状態を越えて、積極的な医療を施しても短時間で死が免れない状態に限定されているが、それでも脳死という死の定義が導入されたのは、単に臓器移植という新しい医療の導入により副次的に作り出されたのではなく、人間の人間たる所以が高次脳機能による心であり、その機能が停止した時に人間は死の状態に陥った、と考えられるようになったからである。
 本講義では、あえて医学の生物学的観点に焦点を絞って死の現象を解説するが、医療に携わる医師としては、人間の死を対象とする人称から分類(表1)のように、社会人文学的な捉え方が不可欠である。特に実際の医療現場においては、患者家族に対する「二人称の死」の観点が重要であり、grief careなどを心して学ばなければならないことを付言する。

U 生命とは

 生命(体))は生物学的な言葉であり、「いのち」は社会的存在である生き物(人間)の共に生きようとする姿を表現する人文学的意味合いの言葉である。例えば、「生命現象」といえばDNAが蛋白を作り出すこと等に用いられるが、「いのち現象」とは言わないように、障害を持ちながら健気に生きる子どもの姿を「いのちの輝き」と表現しても「生命の輝き」とは言わない。本項では、科学としての死生学を論じるので、命は生命(体)の意味に特化して解説する。
 生命体は、極めて複雑で人知を超えた存在であると承知しながらも、物質の集合体であり、表2の様な特徴を有する。 しかし、それだけでなく生命体は他の物質と違った何かを有しており、福岡伸一は著書「生物と無生物のあいだ」の中で、「共に物質であるが、貝殻には小石に無い生命を感じるのは、貝殻には動的な秩序がもたらす美しさを感じ取ることが出きるからである」、と述べている。
 生命体はある秩序を持って存在するが、今ある物は前の物と絶えず入れ替わっている動的平衡状態(ルドルフ・シェーンハイマーの言葉)にある。それは、川は変わらないように見えるが、水は絶えず入れ替わっている状態に例えられる。生命体は、細胞のレベルで古いものが死に新しいものが絶えず生まれているのであり、それは生命体がエントロピー(entropy)最大の法則(熱力学の第二法則)に抗して存在し続けている秘密なのである。エントロピーとは 物質の属性の一つであり、ギリシャ語で「変換」を意味する。物質を構成する分子は自由に動きまわっており次第に拡散するところから、全ての物質は秩序ある状態から無秩序(カオス)に向かう運命にある。生命体が地球上に誕生してから37億年の間そのシステムを保っているのは、生と死を繰り返すことによってエントロピー最大の法則から逃れているからである。すなわち、生命体は次の生命体に遺伝情報を残して死ぬ運命にあることが、いかに大切か理解できるであろう。

V 生命の発生:物質から生命体へ  

 我々の祖先ともいえる最初の生命体は、原始の海の中で分子進化と呼ばれる過程を経て、メタンなどからアミノ酸さらにRNA型核酸(情報物質であると同時に触媒能を持つ生命の起源物質)が生まれ、さらにより安定なDNA型の単細胞に進化したと考えられている。そのコアセルベート呼ばれる単細胞が多細胞生命体となり、より複雑な生物に進化して現在の我々となった過程を系統発生という。
 それに対し、一個の受精卵が新生児となる過程を個体発生というが、それは子宮内で270日ほどの間に、我々の祖先が辿った37億年の系統発生(バクテリア-−魚――爬虫類――哺乳類――人間)の過程を繰り返すことであり、固体発生は系統発生の速やかな繰り返し(Ernst Haeckelの言葉)といわれる。一個の受精卵(単細胞)が多細胞となり、組織さらに臓器となって哺乳動物の様な複雑な生命体となると、単細胞時代とは異なり各細胞集団(臓器など)がお互いに協力して各々の役割を果たし、生命体としてのhomeostasisを保つ必要が生じる。それは正に一個の生体そのものが、人間社会に類似したシステムである、とも言えよう。

W 細胞の死の過程とApoptosis〔細胞のプログラムされた死〕の意味

 細胞の死にはnecrosis(壊死)とapoptosis(プログラム死)がある。壊死は低酸素状態や毒物などによる強制的な死であり、サイトカインなどによる炎症反応が起こり瘢痕などを残す。apoptosisは、ギリシャ語の「花びらや木の葉が自然に散る」の意味の如く、DNAに書き込まれた命令でDNAそのものが分断され、内部から機能停止してアポトーシス体と呼ばれる細胞断片に分かれ、やがて回りの細胞に粛々と処理され、その痕跡も残さない。
 Apoptosisの意味は、個体発生の過程で系統発生の生命進化の記憶を繰り返し、材木から仏像を削り出すように不必要な部分の細胞を取り除く作業である。例えば、手の指が出来る過程では、指の間にあった水かきの様な不要な部分がApoptosisで取り除かれる。
 根源的には、単細胞の進化の限界から生命体は多細胞となる道を選んだ時点で、古い細胞が死に新しい細胞に置き換わる運命となり、前の物と絶えず入れ替わっていく動的平衡状態によって、エントロピー最大の法則から逃れる生命体の特性を勝ち得たのである。
 また 更なる進化の為に生命同士が遺伝情報(DNA,染色体)を交換(Sex)し、その結果として新しい遺伝情報を持った生命体が誕生するが、そのより新しい進化した生命体(子孫)を増殖させる為には、古い生命体(親)はApoptosisによって新しい生命体に置き換わらなければならない。
 このように生まれた瞬間から死に向かう運命を持ったのは体細胞であり、その細胞寿命を胎児から取った繊維芽細胞の分裂停止回数でみると、平均50回(Leonard Hayflickの法則)である。しかし生殖細胞やES細胞(embryonic stem cell:胚性幹細胞)はapoptosisが起こらないので生き続けることが可能であり、近年開発されたiPS細胞(induced pluripotent stem cells:人工多機能細胞)も同様な能力を有している。またapoptosisによる細胞死が起こらない状態は癌細胞であり、その意味でも死は重要な意味を持つことが理解できるであろう。
 前述の体細胞の分裂回数を制御している機序に、テロメア(Telomere:ギリシャ語で末端)と呼ばれる染色体端にあるDNAの特殊な機能が知られている。テロメアは細胞分裂の際に、染色体両端がお互いに着いてしまい機能できなくなるのを防ぐ作用があるが、分裂毎にだんだんとテロメアが短くなりテロメアが無くなると染色体が機能しなくなり、生命体に死をもたらす。それは回数券が段々少なくなるようなもので、ロウソクの長さが寿命を決めるというおとぎ話を思い出す。一方、生殖細胞はテロメラーゼ(テロメアを活性化する酵素)の作用が高く、何度分裂してもテロメアが短くならないのでapoptosisが起こらない。癌細胞も同様な機序で細胞分裂を続けてしまう。
 またP53(遺伝子)と呼ばれる遺伝子は、障害されたDNAにapoptosisを誘発する。それは、紫外線やフリーラジカル(高濃度酸素などによる自由電子)で傷害された細胞を取り除苦役目を持っているので、P53が働かないと細胞が癌化するリスクが高まる。この様に良い新しいDNAが生き残るために、機能の落ちた古いDNAを消し去ることも、生物の死の持つ生命進化論的意義がある。

X 生と死の連続性

 一般的に細胞の死は、そのエネルギー代謝が止まっている状態(生きているはその反対)と言える。しかしアルテミアと呼ばれる原始生物は、絶対零度近くに凍結状態から条件を戻すと常温で孵化したものと同じ生命体となるところから、エネルギー活動が無く死んでいると同じ状態から生命活動再開可能な生命体と物質の中間の物が存在することが知られている。それ故、エネルギーを与えられると生命となりうる、ある特殊な物質構造が原子3次構造として保存されている物質(エネルギー活動が無いのでその状態では生物とは言えない)は、生物と物質の狭間であるばかりでなく、生と死の狭間にいると言える。この様に生物科学の最先端では、生と死さらに生物と物質を分けること出来ない。構造だけ残った状態は死(物質)であるがエネルギーを与えると生(生物)となる、「死んだ状態で生きている」生命体が存在するところから、新たな死の定義が必要となった。
 脳死の議論においても、体は温かく心臓は動いているのに、新しい死(ネオモート)の概念が導入された。人間が生きているというコンセプトの中で脳を特別なものとした理由は、相手に思いを馳せる「心」が社会的生き物である人間の人間たる由縁であり、「心」は高次脳機能の現れであるところから、その機能の停止を人間の死と定義したのである。さらに、臓器移植医療が進歩し、脳死を人間の死とすることにより臓器移植の幅が広がる理由で、倫理的・法的に脳死がとして社会通念に組み込まれた。このように脳死は、これまで述べてきた生物学的な死の定義とは異なった観点からつくられたものであることを理解すると同時に、生と死は連続であることを受け入れながら、その連続を生と死の不連続に分ける判断を、医療者及び医学者は行わなければならないのである。

Y 生物学的死の人間社会に及ぶす意味

 堅苦しい学問的な死の話の最後に、死は生物の最も重要かつ共に生きるあたたかさの根源であることを述べる。 体細胞が apoptosisのプログラムを持って古い細胞が新しい細胞に代わることは、生命体がエンテロピー増大という自然界の呪縛から逃れ生き続ける知恵であると同時に、古い遺伝情報が新しい遺伝情報に入れ替わることによる進化の秘密の鍵ともなっている。その過程で、生物は遺伝子(DNA)の基本情報を37億年の間子孫に綿々と伝えてきたのである。すなわち私達人間のDNAの遺伝情報も原始生命体と共通であり、その意味ですべての生命体は繋がっている仲間なのである。
 さらに進化の過程で、単に細胞内の遺伝情報のランダムな入れ替えのレベルから、雌雄の性に分かれてお互いの遺伝情報が混じりあうセックスの行為が、より有効に進化のプロセスを促進させるとことから、オスがメスを、メスがオスを選び求める生き物の行動の深い意味が理解できるであろう。 さらに、セックスによって子孫に新しい遺伝情報を渡した後に、古い遺伝情報を持った親は消えて行くことによって新しい遺伝の活躍の場を広げるところから、セックスはその背後に死の影を宿し、親が死に子が生き残っている自然の哲理が理解出来るであろう。
 その典型例の一つが、鮭が自分の故郷の川に戻り、そこでメスが産卵し雄が精子を放出して新しい生命(子孫)を生み出し、その後にオスもメスもその生を終える姿である。それは、新しい遺伝情報を持った次世代に命のバトンをわたす生物の進化の営みであると同時に、美しい親子のドラマでもある。それは根源的には、すべての生命の生と死の輪廻であり、聖書の「一粒の麦地に落ちて、死ななければ一粒の麦のまま、死ねば豊かな実りをもたらす」の言葉の表れである。その意味で、生物の死は命の炎が消えるという運命の意味を越えて、新しい生命の誕生の繋がる大切な現象であり、その死に方(例えば若くして事故で亡くなるなど)を悲しむことがあっても、死そのものは素晴らしいものと考えなければならない。 図表  死生学 表1:対象とする人称からの死の分類    一人称の死:自分の死
   二人称の死:愛する人、家族の死
   三人称の死:他人の死、社会一般の死 表2:生命体の生物学的特徴
   1)その生命体を同じ状態に保つ(恒常性・自己保存)
   2)同じものをつくり出す(生殖・自己複製)
   3)外界に適応して変化してゆく(進化・自律性) 文献
   *柳田邦男:死の医学への序章、新潮社、1990年
   *福岡伸一:生物と無生物のあいだ、講談社、2007 「死生学(Bio-Thanatology)概論」
   仁志田博司  hnsilkroad@gmail.com
講義キーワード(学習項目)
   死生学(Bio-Thanatology)
   死の三徴候、動的平衡状態、エントロピー(entropy)
   apoptosis(プログラム死)、Hayflickの法則、二人称の死 前提となる知識
   *生物学的生命とは、について説明できる
   *生命(生物学的)といのち(観念的)の違いについて説明できる
   *固体発生は系統発生の速やかな繰り返し、の意味について
   *necrosis(壊死)とapoptosis(プログラム死)の違いについて説明できる
   *生と死の連続性の連続性について説明できる 配布する図表
   表1:対象とする人称からの死の分類
   一人称の死:自分の死
   二人称の死:愛する人、家族の死
   三人称の死:他人の死、社会一般の死 表2:生命体の生物学的特徴
   1)その生命体を同じ状態に保つ(恒常性・自己保存)
   2)同じものをつくり出す(生殖・自己複製)
   3)外界に適応して変化してゆく(進化・自律性) 文献
   *柳田邦男:死の医学への序章、新潮社、1990年
   *福岡伸一:生物と無生物のあいだ、講談社、2007

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